飯塚事件は冤罪なのか|警察が死刑執行を急いだのはなぜ?真犯人は?

平成4年2月20日に発生した飯塚事件にて、冤罪の可能性を抱えたまま、強硬に死刑執行されこの世を去った久間三千年氏。事件に渦巻く数々の不正と冤罪を立証すべく戦ってきた関係者たちの怒りは今も収まらない。飯塚事件の闇に迫りながら徹底的に真実を紐解いていきます。

飯塚事件は冤罪なのか|警察が死刑執行を急いだのはなぜ?真犯人は?のイメージ

目次

  1. 1飯塚事件の概要
  2. 2飯塚事件時系列~事件発生から容疑者確保まで
  3. 3飯塚事件時系列~裁判の流れ
  4. 4飯塚事件の久間三千年氏とは
  5. 5「なぜ急いだ?」死刑執行後に発覚した驚愕の新事実
  6. 6「第二の足利事件」臭い物に蓋をした?
  7. 7やはり飯塚事件は冤罪だった可能性あり
  8. 8飯塚事件「AB型」の真犯人の行方
  9. 9久間三千年「冤罪」訴え続けた家族と支援者たちの今

飯塚事件の概要

平成4年2月20日の朝、登校途中だった福岡県飯塚市潤野小1年の女児2名(当時7歳)が行方不明になり翌21日、現朝倉市の国道崖下の雑木林で遺体となって発見されました。

事件から1カ月後の3月20日、県警は近所に住む久間三千年氏を参考人とし毛髪と指紋の任意提出を要求。DNA鑑定の結果、久間三千年氏と犯人のDNA型はほぼ一致したと発表しましたが何故か逮捕に至りませんでした。

しかし県警は、それから2年経過した平成6年9月23日に女児の衣類に付着していた繊維片が、久間三千年氏の所有する車のシートの繊維片と一致したことを理由に、飯塚事件の容疑者として久間三千年氏を死体遺棄容疑で逮捕、そして起訴したのでした。

48年ぶりに再審が決定された「袴田事件」。その直後の3月31日に、死刑執行してしまった裁判の再審請求が棄却されている。いわゆる「飯塚事件」だ。この事件について、「無実の人を処刑してしまったのではないか?」との疑問が持たれている。

飯塚事件時系列~事件発生から容疑者確保まで

【西日本新聞】

平成4年2月20日~女児2名行方不明


昭和63年に飯塚で発生した同種の事件「松野愛子ちゃん失踪事件」から4年後の平成4年2月20日の朝、登校途中だった潤野小1年の女児2名(当時7歳)が行方不明になりました。

63年に失踪し、未だ未解決の「松野愛子ちゃん事件」、この女児も飯塚事件の被害女児と同じ潤野小学校に通う生徒だったのです。
 

1992年2月20日、福岡県飯塚市で小学1年の女児2人=ともに当時(7)=が行方不明になり、翌21日に同県甘木市(現朝倉市)の山中で遺体が見つかった。

平成4年2月21日~不明女児2名の遺体発見

【西日本新聞】

失踪した翌日、現朝倉市(甘木市)の国道脇の雑木林で女児二人の遺体が発見されました。遺体を発見した団体職員の男性が用を足そうと車から降りた際、崖下にマネキンのような物があると警察に通報。同日午後の9時頃、甘木署にて2人の女児の両親が確認し発表に至りました。

遺体が発見された国道322号線の通称八丁峠には、誰が置いたかは不明ですが画像のように、飯塚事件発生後にふたり並んだお地蔵さまが現在も置かれています。そこには手製の看板があり「平成4年に遭難された七歳の二人の少女を祀ります」と記されているそうです。

 1992年2月21日。ここで前日から行方不明だった飯塚市立潤野小1年の女児2人が遺体で発見された。「わが子とあまり年が違わない幼子が2人も。犯人への憎しみが湧いた」。県警捜査1課から駆け付けた元特捜班長(74)は振り返る。 以来、粉雪が舞い込む甘木署の武道場に泊まり込んでの捜査が続いた。「警察官人生でも忘れられない事件」。現場を通るたび、冥福を祈り、手を合わせる。

平成4年2月22日~遺留品発見

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遺体発見から翌々日の22日に数キロ離れた国道沿いの崖下から被害女児の物と思われる遺留品が見つかりました。ふたりのランドセルと靴下など着衣の一部が遺体と同様、道路から投げ捨てられた状態で遺棄されていたのでした。
 

 潤野小PTA役員だった長崎陽子さん(70)の心にも、深い傷が残る。2日間にわたった捜索活動に加わった。同21日夕。校長室のテレビで遺体発見のニュースが流れると、部屋にいた皆が泣き崩れた。あれから26年。被害女児より1歳年長の四女は34歳になった。2人が最後に目撃された小学校近くの水田は住宅地に変わった。「事件を知らない住民も増えた。事件の風化を感じることもある」

平成4年2月25日~久間氏宅で事情聴取

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警察は近くの明星寺団地に住んでいた久間三千年氏(当時56歳)の自宅でアリバイの事情聴取を行っていました。

昭和63年に発生した「飯塚・松野愛子ちゃん事件」にて、不明女児が弟とふたりで失踪直前に久間三千年氏の自宅に立ち寄っていた事から、県警はこの事件にも関わりがあるのではないかと捜査の目を向けていたのでした。

当時、町内会長だった久間三千年氏が飯塚事件発生後、難航する捜査に協力を申し出て「明星寺団地の住民全員から毛髪を提供させよう」という提案をした事が結果、捜査撹乱をさせる目的だったと捉えられてしまったのです。

捜査本部は事件発生から5日後の2月25日には、被害者と同じ校区に住む無職男性久間三千年(当時54歳)宅を訪問し、事件当日のアリバイなどを事情聴取している。

平成4年3月9日~目撃者T証人の員面調書作成

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飯塚事件発生当日、遺体遺棄現場付近だった八丁峠の山道を時速25キロから30キロの低速走行中に不審な車両を目撃したというT証人。

このT証人は山道でほんの数秒間のすれ違いだったのにもかかわらず、車両の細部や車両のそばにいた人物まで詳細に記憶していたそうでした。しかし、この証言内容に大きな違和感を覚えた弁護団は、員面調書の信ぴょう性を確認するため、日本大学心理学教室・厳島行雄教授に行動心理学を依頼。

計75人の被験者に対し、目撃場所と同じ八丁峠で厳島教授により行動心理学調査が実施されたのですが、この結果が後に物議を醸し出す事になっていくのです。

現場は急なカーブが続く下り坂で、不審な車と男が見えるのは10秒程度。確かに、T証言ほど多くの細かい特徴を記憶する余裕はない。不審車両の場所から約15m先には急な左カーブが迫る。車を運転していた目撃者は、「時速25~30kmで不審車両を通り過ぎながら振り返り、後輪がダブルタイヤであることを確認した」という

平成4年6月15・19日~科警研DNA鑑定書作成

科警研は6月15日に、被害女児の遺体周辺から採取された血痕の血液型とDNA型(MCT118型・HLADQα型)をもとに科警研鑑定書を作成。

そして4日後の19日には、久間三千年氏の毛髪で科警研鑑定書を作成。このふたつの鑑定書結果から久間三千年氏の犯行が濃厚と論理つけられたのでした。

平成6年9月23日~死体遺棄容疑で逮捕される

飯塚事件発生から2年が経過した平成6年9月23日、女児の衣類に付いていた繊維片と久間三千年氏が所有していた車のシート繊維の鑑定を平成6年1月末から科警研や繊維メーカーの東レ・ユニチカに依頼していた県警。

県警は、鑑定結果から繊維片の一致したことに併せ、逮捕前に作成していた科警研鑑定書と全ての証拠が出揃ったタイミングで逮捕したようでした。

久間三千年氏は、その後も死体遺棄容疑で逮捕され、同年10月14日には誘拐・殺人で再逮捕。そして1月15日に起訴された久間三千年氏は、67日間に及ぶ過酷な取り調べだったのにも関わらず一切自白をしなかったそうでした。

久間元死刑囚は事件から二年七カ月後に逮捕された。「一切やっていない」。ただの一度も自白しなかった。
出典: https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201812/C... |

飯塚事件時系列~裁判の流れ

飯塚事件の判決はすべて死刑判決だった


平成6年9月から福岡地裁で始まった飯塚事件の裁判。平成11年9月~福岡地裁・平成13年10月~福岡高裁、そして平成18年9月の最高裁、どれも死刑判決でした。

後に、久間三千年氏の主任弁護人だった岩田努弁護士は、「久間さんの死刑執行を知ったとき、しまったというか自分たちの怠慢で久間さんを殺させてしまったというか、早く再審請求していたら・・・」と語っていたとの事でした。

「再審請求を急いでいたら、死刑を執行されずに済んだのではなかったのか?」と後悔の念でしばらく立ち上がれなかったとか。そして平成13年6月をもって飯塚事件の再審請求審は終了する事となったのです。
 

確定判決は、元死刑囚が92年2月、飯塚市で女児2人(いずれも当時7歳)を誘拐して殺害し、遺体を山中に遺棄したと認定した。元死刑囚は一貫して無罪を主張したが、一審・福岡地裁が99年に死刑を言い渡し、06年に確定。死刑は08年に執行された。

一審福岡地裁は「犯人であることは合理的な疑いを超えて認定できる」と死刑を言い渡した。当時は画期的とされたものの、精度が低く、後に足利事件などの冤罪(えんざい)につながった旧式のDNA型鑑定も判決を支えた。〇六年十月、刑は最高裁で確定した。
出典: https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201812/C... |

当時、死刑は確定から執行まで五、六年かかるのが一般的で、約二年で執行されるのは予想外だった。DNA型鑑定に誤りがあることを示そうと、再審請求に必要な新証拠を探している最中だった。
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平成20年10月28日~久間氏の死刑が執行された

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最高裁で死刑判決が出てから、わずか2年後の平成20年10月28日に突然、死刑執行を命じられた久間三千年氏(当時70歳)でした。

平成20年10月8日に死刑判決が確定してから冤罪の可能性があるのにも関わらず、それから10日目という執行スピードに関係者は驚きを隠せなかったのでした。再審請求準備中の異例な刑執行に加え、そのタイミングというのが東京高裁が「足利事件のDNA型再鑑定」を認めて間もなくのことだったからなおさらです。

実は、足利事件の再鑑定を受け、責任追及されることを恐れた当時の麻生内閣と森英介法相、そして法務官僚と警察官僚たちが、隠蔽のために死刑執行を言い渡したのでは?と囁かれていたのでした。

再審請求の準備を焦る弁護人をなだめるように、「私はやってないから、必ず罪は晴れます」。しかし、この面会から三十九日後、久間三千年(くまみちとし)死刑囚の刑は想定外の早さで執行された。七十歳だった。
出典: https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201812/C... |

DNA型鑑定結果について「犯人が1人ならDNA型は一致するが、単独犯との前提が証明されておらず証明力は弱い」と指摘し、数々の状況証拠も「単独では犯人と断定できない」とした。その上で「証拠を総合評価すれば合理的疑いを超えて犯人と認定できる」として死刑を言い渡した

死後再審を進めている飯塚事件弁護団主任弁護人の岩田務弁護士は「2008年9月に久間さんに会いに行ったとき、再審請求の話をしたらとても喜んでいた。その1カ月後に執行とは......」と言葉を詰まらせた。

【足利事件とは?】冤罪事件の詳細・菅家さんの現在|真犯人は誰? - 事件情報ならShiritaGirl

平成21年10月~福岡地裁再審請求またもや棄却

「死刑執行 目を曇らせた」毎日新聞

飯塚事件の容疑者・久間三千年氏の妻が夫の遺志を引き継ぎ、平成21年10月に福岡地裁に対し再審請求しましたが棄却されてしまいました。

この再審請求の際、弁護団は地裁に久間三千年氏の肌着から採取した上皮組織や、電気カミソリ内に付着していた髭を、足利事件のDNA鑑定を行った筑波大学の本田教授へ鑑定依頼していたのでした。

本田教授の鑑定は、先に行われた科警研の鑑定結果を完全に覆し、「18-30型」という全く違う鑑定結果に。本田教授が真犯人は別にいる事を言及しても、検察は「科警研の鑑定は誤りではない、本田教授の独自の見解」とし、それを根拠に福岡地裁は妻からの再審請求を認めなかったのでした。


2008年に死刑が執行された久間三千年・元死刑囚(執行時70歳)の再審請求即時抗告審で、福岡高裁(岡田信裁判長)は6日、請求を棄却した福岡地裁決定(14年3月)を支持し、弁護側の即時抗告を棄却した。
 

科警研が行ったMCT118型DNA鑑定法により、被害女児2名の身体に付着していた血液から、久間三千年氏と一致するDNAが検出されたことが死刑判決の重要証拠になったとされました。

しかし、久間三千年氏と犯行を証明するための直接的証拠が存在していないのにもかかわらず、状況証拠のみだけで有罪認定が行われたことに弁護側と本田教授は難色を示しざるおえなかったのでした。

死刑判決において、再鑑定のための試料が残されておらず再鑑定を行う機会すら奪われ、飯塚事件の請求人を不利益に扱ったとし、到底容認出来る判決結果ではなかったのでした。これを冤罪と言わなければ、なんと言い表せばよいのでしょうか?


地検や県警は公判に備え、数々の証拠を積み上げた。主な証拠だけでも、(1)遺留品の発見現場近くで事件当日、元死刑囚の車と似た車両の目撃証言(2)元死刑囚の車の中から女児の1人と同じ血液型の血痕検出(3)女児の着衣から車の座席とほぼ同一の繊維片確認(4)遺体などから採取した犯人のものとされる血液と元死刑囚の毛髪のDNA型一致-をそろえていた。
 

飯塚事件の久間三千年氏とは

東京新聞

<真実有れば、自信を持って闘えるのが強み><冤罪を雪(そそ)ぐことができずに残りの生涯を屈辱に苦しんで生きることになったら、その方が辛(つら)いのです>
出典: https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201812/C... |

項目詳細
名前久間三千年(くま みちとし)逮捕時52歳
誕生年1938年生れ(推定)
職業元・公務員(39歳で市職員退職)
家族妻・息子

久間三千年氏の人となり「ザリガニのおじさん」


飯塚事件の容疑者だった久間三千年氏は、本当に心優しい人物だったようで、近所の子どもたちからも慕われていたとのことでした。

子どもたちにいろいろな遊びを教え「ザリガニのおじさん」と親しまれていました。自治会の活動にも尽力し、現在でも久間三千年氏の冤罪を晴らそうと地元の人々で結成されている「再審を支援する会」があるそうです。

その会を結成した人々というのが、まさに当時久間三千年氏と自治会活動を行ってきた仲間で「このような人物が犯人であるわけない」と久間三千年氏を知る誰もが飯塚事件は冤罪事件だと思っていたのでした。
 

冤罪に苦しんだ久間三千年氏とその家族

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久間三千年氏には当時、小学生だった息子さんと夫の代りに懸命に働く妻がいました。飯塚事件発生後も妻は地元を離れず、女手ひとつで息子さんを育てたそうでした。

公務員だった久間三千年氏は早期退職し、事件当時の52歳まで無職で働く妻の代りに「主父」業を担い、妻の給料と自身の年金で生活をしていたそうです。

久間三千年氏は、平日は毎日のように妻を職場まで送迎するのが日課で夫が無職であっても愛に満ちあふれた幸せなご家庭だったようでした。しかし飯塚事件発生により、家族の幸せは崩壊。その上突如、冤罪のまま死刑執行され夫や父を失ってしまったその苦痛は到底一言では語れるものではなかったのでしょう。

〈私たち家族の幸せは、日々のなかにあり、夫の優しさ、思いやりは、生活の中に満ちあふれていました。子供の成長に合わせて、軽自動車のワンボックスから普通車のワンボックスに替えて、運転席に3人で座って出かけるのが楽しみでした。

 私が一度は行ってみたいと思っていた富士山にも連れていってくれました。富士山に向かって走る高速道路でトンネルを抜けると目の前に現れる富士山は美しくて素晴らしいものでした。深く心に残っています〉

飯塚事件に関わっていた複数の捜査関係者は後に、このように語っていたそうでした。「彼は家族を守るために否認を貫いたんだろう」と。

しかし、既に死刑執行された久間三千年氏は、飯塚事件の真実を語り、訴え続かなければいけないと強く願いながらも、判決確定からわずか2年という速さで執行されてしまいました。

それは飯塚事件発生から16年8カ月後の事でした。その後、妻は記者に厳しい視線で「足利事件の事はよく分かりませんが、無実だと訴えた夫の言葉を取り上げてほしかった。死刑を執行されてしまった今では言いたい事も言えないでしょ?」と怒りをあらわにしていたそうでした。


久間元死刑囚が妻に宛てた手紙からは、自身の疑いを晴らしたい思いがにじむ。久間元死刑囚がこの言葉を妻に直接伝える機会は、もう訪れない。
出典: https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201812/C... | 
 

最後まで冤罪を訴え続けた久間三千年氏

徳田靖之弁護士と主任弁護士だった岩田務弁護士が、久間三千年氏が死刑執行される前に最後に面会した時の様子をこのように語っていました。

死刑確定から2年の月日がたっていた事から「早く再審請求をしないと死刑執行されてしまうのでは」と伝えたところ、久間三千年氏は自分で作ったという「死刑確定リスト」を弁護士に見せたそうでした。

そして「自分より先に死刑が確定して執行されてない人はこんなにいますから」と笑顔で「大丈夫ですよ」と言ったそうでした。しかし、その最後の面会から一カ月程して突如、久間三千年氏は冤罪である可能性を残したまま、死刑執行を言い渡され亡き人になってしまったのでした。

 2007年8月、久間元死刑囚は「真実は無実であり、これはなんら揺らぐことはない。私は無実の罪で捕らわれてから拘置所に14年収監されている。今年(2008年)の1月9日で70歳になった」と話していた。

https://www.nishinippon.co.jp

久間三千年氏・死刑執行間際まで訴えた冤罪
・私は無罪の罪で捕われてから拘置所に十四年間収容されている。今年の一月九日で70歳になった。本件は冤罪事件だけに重大な人権損害である。
・飯塚事件は明らかに冤罪
・真実は必ず再審にてこの暗闇を照らすであろうことを信じて疑わない


久間三千年氏は、最後の接見の際に弁護団に対し、飯塚事件の再審請求を強く願い、冤罪である事をずっと訴えていたと言うことでした。しかし国家は、これだけ無罪の裏付けがあったのにもかかわらず、冤罪だと主張してきた久間三千年氏や弁護人の声に最後まで耳を傾ける事はありませんでした。
 

「なぜ急いだ?」死刑執行後に発覚した驚愕の新事実

冤罪事件であることは厳島教授が証言してきた実験結果から明確だったことがお分かりになったでしょう。当初から久間三千年氏が犯人とし、警察によってシナリオが作られていたことは明確だったのでした。

これから、そんなシナリオを作り上げていった科警研や警察の失態や嘘の数々に迫っていきます。とくとご覧ください。

 被害女児2人のランドセルなどが遺棄された福岡県朝倉市・八丁峠の現場近くで事件発生の1992年2月20日、運転中に不審車両を見掛けたという男性の目撃証言の信用性については、当初の公判段階から争われてきた。再審請求後に検察側が証拠開示した捜査資料からは、車の特徴に関する証言が日を追って詳しくなっていった不自然な経緯も浮かび上がっている。

現場で目撃された車の証言


捜査資料から見る時系列
・平成4年2月20日~事件当日にT証人が久間氏の車を目撃した
・平成4年3月7日~捜査員が久間氏の車を確認する(この際に久間氏の車にはラインはなかったと捜査資料に記していた)
・平成4年3月9日~久間氏の車両を確認した捜査員が目撃者のT証人と一緒に調書を作成
 


日を追うごとに変化が出てきた飯塚事件の車両目撃情報。このT証人が初めに警察からの聞き取りを受けたのは、車両を目撃した平成4年2月20日から11日経ってからだったそうでした。

事件から11日後に「紺色のワゴン車」と答え、その2日後には「紺色のワゴン車・紺色のボンゴ・後輪はダブルタイヤだった」そして、その5日後には「紺色のワゴン車・紺色のボンゴ・後輪はダブルタイヤ・ガラスにフィルムが貼ってあった」と変化していったT証人の車両目撃証言。

日の経過とともに変わっていった証言に実験を行った厳島教授も、T証人の目撃証言自体が捜査官の誘導尋問であった可能性を示唆したのでした。
 


車両目撃情報の不可解な点
・捜査員が久間氏の車を事前に下見していたことが判明した
・事件当日、久間氏の車を目撃したT証言の矛盾
・弁護団が75人を対象に再現実験するも記憶していた人は75人中0だった
・最初に目撃したT証言が捜査員に誘導されていた可能性を示唆
・久間三千年氏の車にはラインはなかったが目撃者はラインの入った車を見たと証言
 

裁判所の全面開示勧告で、元死刑囚の車に関する「捜査結果」の一覧表が明らかに。目撃者の供述調書作成前の3月7日の欄には「捜査員現認」として「ラインはなかった」との記載があった。弁護団は「ラインの有無は県警が元死刑囚の車と目撃車両を一致させる大きな要素。検察側は最後まで捜査の経過を隠そうとしていた」と批判。

不審車両を見たとする男性の供述調書を作成した県警の当時の巡査部長が聴取の2日前に元死刑囚の車を「下見」したとされており、西日本新聞は元巡査部長らを取材。

弁護側は「下見の捜査報告書が存在し、証言の誘導を裏付ける記述がある可能性が高い」とし、開示勧告を求めるため福岡高裁に面談を申し入れる方針を固めた。


 

久間三千年氏を犯人に仕立て上げる狙い?


さらに驚くべき事が判明、そのキーポイントは、車両の「型式番号」でした。久間三千年氏の所有していたとされるマツダボンゴは、事件の発生した平成4年までモデルチェンジを行っていて全部で27種類の型式がありました。

しかし、捜査資料に記載されていた内容は、飯塚事件の犯人がまだ特定されていないのにも関わらず、27種類のうちの久間三千年氏所有の車両を含めた4形式だけに絞られていたのでした。このことから捜査員は、捜査のターゲットを初めから久間三千年氏に絞っていたのでは?と言われていました。
 

被害者の遺留品が見つかった山間部では、車で通りがかった男性が路肩に止まった車と男を目撃していた。タイヤのホイールキャップのラインや、窓ガラスの色つきフィルム、後輪のダブルタイヤ…。すれ違ったわずか数秒で十数個の特徴を言い当てた。証言はいずれも久間元死刑囚の車を指していた。
出典: https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201812/C... |

再審請求審の地裁決定は、県警の元警部補作成の捜査資料(92年10月15日付)に下見とみられる記載があることを踏まえ、元巡査部長が調書作成の2日前の同年3月7日時点で「(元死刑囚の)車の車種や特徴を把握していた可能性は相当高い」と認定している。

元巡査部長は取材に対し「死刑判決が出るような事件。誘導も何もない」と強く否定した。

警察の思いこみ捜査

【西日本新聞】


捜査員の思いこみの原点が、飯塚事件の4年前に発生した「飯塚・松野愛子ちゃん事件」だったというのは紛れもない事実だったのでしょう。その理由は、嫌疑がかけられていた数名の中に久間三千年氏がいたからでした。
 

「見込み捜査の下、元死刑囚の車を事前に確認し、その特徴に合う目撃供述を引き出すため捜査本部が下見を命じたのではないか」と推測する。

「思いこみ捜査」濃厚説
・飯塚事件の前に起こっていた松野愛子ちゃん事件への疑いがあった
・思いこみにより捜査員がT証言を誘導し、久間氏の犯行とする調書を作り上げていた
・愛子ちゃん事件での容疑者は複数いたがその中に久間氏も入っていたという事
・捜査員が久間三千年氏の車を事前に確認後、この捜査員がT証人に会って車の目撃調書を作っていた
・初めから久間三千年氏に的を絞りこんでいた

そして、T証人が捜査員の誘導により証言したというその根拠はここにありました。それは厳島教授が行動心理学実験を、2001年と2010年の2回計被験者75人に対し記憶の再現を実施したところ、T証人のような詳細な記憶を再現出来た被験者はひとりもいなかったということが分かったからでした。

目撃現場で同じ特徴のワゴン車と人物を配置して、なにも目的を知らされていない被験者に同じ山道を走ってもらってT証人と同じ証言が取れるのかという検証だったのです。

厳島教授の実験後に分かった新事実


厳島教授の指摘
・被験者の目撃した車に関する証言がどれも曖昧で非常に不正確だった
・記憶力抜群だったはずのT証人が、当初目撃現場までなかなか辿りつけず警察官を案内するのに時間を要した
・久間三千年氏の車には元々ラインがなかったが、ラインが入っていない車両を見て、わざわざ「車体にはラインが入ってなかった」と証言する不自然さ
・T証人が「車はトヨタやニッサンではなかった」というようにラインがないという事と同じく、そもそもなかったものを「ない」と証言する
 


それはT証人と共に警察が目撃調書を作成する以前に、すでに久間三千年氏の車を確認した警察官により調書が作成されていた事でした。つまり目撃情報は意図的に警察により作られていたのです。
 

「これらの証拠はいずれも単独では(元死刑囚を)犯人と断定できるものではないが、それぞれ独立した証拠によって、犯人であることが重層的に絞り込まれている」と結論付けた。

26年も昔の話だが、目撃者本人に尋ねた。「何も記憶がないし、話すことはありません」。本人をよく知る関係者は「善意の証言だったのに疑われ続けている。彼もある意味、事件の被害者ですよ」。それ以上は聞けなかった。

有罪の決め手・突如現れた血痕

有罪になってから1年半後の平成6年4月、突如、久間三千年氏の後部座席シートから検出されたという血痕。科捜研によると車のシートを繊維メーカーに出した際、繊維メーカーの研究者からの指摘で、初めて血液付着が見つかったと話したそうでした。

しかし、1年半後に偶発的に発見されたなどと言うのは、どう考えても後付けの説明であり血痕が存在していたなら当初の捜査段階ですぐにルミノール反応が出ていたはずなのでした。

難航する冤罪事件では、このような物的証拠が不可解な形で見つかって容疑者が検挙される事はよくありますが、検察がなぜ執拗に科警研鑑定に拘るのか?その理由が後に判明することになっていきます。

 〈平成四年九月二九日にルミノール検査をした筈の警察がシートの裏側に付着していたという血痕を平成六年四月まで発見できなかったのも不自然なら、その部位のシート表面から、ルミノール反応が全く出ていないのは、全く説明不能という外はない〉

科警研のずさんなDNA鑑定

なぜ?2年以上の間、久間三千年氏を逮捕しなかったのか、その理由に地検が身内だけの鑑定では不十分だとした事に重ね、科警研の鑑定に不信感を持っていた科捜研が、帝京大の石山教授に別途鑑定依頼をしていたというところにあったのでした。

弁護団が「科警研以外の鑑定があったはず」と検察を追求したことで初めて帝京大に別途依頼していた事実が分かり、隠し通せなくなった検察はしぶしぶ石山鑑定書を提示してきたそうでした。

そして弁護団が確認した結果、石山教授が行った鑑定書の内容は、先に実施した科警研の鑑定を一掃する結果だったのでした。以下、隠していた石山鑑定結果です。

DNA血液鑑定の疑惑
・足利事件とほぼ同時期に同じ鑑定士が同じ鑑定方法(MCT118法)を用いていたのにも関わらず、結果はDNA一致という結論に至ったこと
・平成4年3月久間氏のDNA鑑定を実施、その年の夏には証拠として法廷に提出されていた
・しかし、その後2年間逮捕せず、その間に警察は別の研究機関にDNA鑑定を依頼していた

足利事件の鑑定方法は飯塚事件と同じく、警察庁科学警察研究所(科警研)による「MCT118型」検査。鑑定が行われた時期もほぼ同じころで、犯罪捜査に導入された直後だった。

 飯塚事件で用いられたDNA鑑定は、2009年4月にDNA再鑑定によって冤罪が明らかとなった足利事件と同じMCT118鑑定だった。MCT118鑑定は、塩基配列部分を増幅させ、配列の繰り返しパターンを分析して個人を特定する鑑定法だ。両事件は、MCT118鑑定という鑑定法も鑑定時期も鑑定当時者である科学警察研究所(科警研)も共通している。

 科警研のDNA型鑑定はMCT118法。事件発生から約4カ月後の92年6月、被害者由来の血痕から久間元死刑囚の型が出た。「これで逮捕できる」。沸き立つ県警に福岡地検が待ったをかけた。「身内の鑑定は客観性が低い。外部機関でも鑑定を」。検察の信頼が厚い石山氏が選ばれた。

鑑定法鑑定人結果
MCT118法科警研久間三千年氏のDNA型と犯人のDNAが一致
HLADQα法科警研久間三千年氏のDNA型と犯人のDNA型が一致
ミトコンドリア法帝京大:石山鑑定久間三千年氏と同一のDNA型不検出
HLADQ法帝京大:石山鑑定久間三千年氏と同一のDNA型不検出


福岡県警が科警研の鑑定だけでは信ぴょう性に欠けるとし、帝京大の石山教授に別途依頼していなかったら、このような鑑定結果は得られる事もなかったのでした。久間三千年氏が冤罪だったという証明ともいえるべき最大の証拠だったのです。
 

「一番良い結果が得られたと思われる鑑定結果ですら、型を示すバンドはゆがんで鬼の面のようだ。私の研究室だったら、やり直しを命じるレベルです」

 科警研とは別に、飯塚事件のDNA鑑定を行った石山昱夫(いくお)・帝京大名誉教授(法医学)は「当時の科警研の鑑定はずさん。警察が持ってきた試料(血液)は、糸くずにほんの少しくっついた程度の微量。しかも緑に変色して腐っていた。ミトコンドリアのDNA鑑定をしたが、女児二人の型だけで、久間元死刑囚の型は検出できなかった。もともと試料は大量にあったのに、鑑定技術が未熟だから、科警研はムダに使い切った。こんな鑑定は通用しない」と法廷で証言した。

鑑定写真の改ざん①写真の明暗を調整しプリント


飯塚事件のDNA鑑定にはさらに信じがたい疑惑があったのでした。それは科警研が法廷に提出したDNA写真が改ざんされていた可能性があったからでした。

科警研による久間三千年氏のDNA型は「16-26型」とされていましたがこの電気泳動写真の16と26の位置にそのようなバンドが確認できなかったとの事でした。

バイオテクノロジーに詳しい専門家も「この写真にはそのようなものは写っていない」と判断し、科警研が元のネガフィルムを焼くときに、光量を落とし暗くして撮影したという疑惑が強まってきたのでした。
 


科警研の写真ねつ造疑惑を思わせた要因
・鑑定した久間氏のDNAとは関係のないエキストラバンド
・科警研が提示した久間氏の16というバンドは光量を下げた結果現れていたもの
・明らかに不適切な写真を何故証拠として提示したのか
・弁護団が証拠写真のネガフィルムを複写、PCで白黒反転したら全体的にバンドが鮮明に写っていた
・科警研は何故?わざわざそのような小細工をしてまで偽造写真を作ったのか
 

福岡県飯塚市で1992年、7歳の女児2人が殺害された「飯塚事件」の再審請求審で、死刑が執行された久間三千年元死刑囚(当時70)の弁護団は25日、被害者から採取した犯人とされるDNA型を撮影したネガフィルムを分析した結果、「久間元死刑囚とは一致しない、第三者のDNA型がみつかった」と発表した。

「DNA鑑定した元のネガフィルムを入手したところ、検察がネガの一部を切り取っていることがわかったのです。さらに通常より暗く現像してわかりにくくし、『久間氏の型と一致する』と強弁しました」


福岡地裁はこのことに対し「鑑定書を作成する上で必要なものを提示したに過ぎない」としていました。福岡地検が指す不必要なものとは一体なんだったのでしょうか。
 

鑑定写真の改ざん②写真の一部を切り取っていた

【西日本新聞】

科警研はネガフイルムから写真を現像するときに、真犯人の可能性のある非常に重要なバンドをフレームから外した、つまり切り取るという偽装工作まで行っていたようでした。

死刑判決回避が出来たであろう、偽装工作前の科警研鑑定書に手が加えられ、真犯人の有力な証拠だった「41-45型」のバンドをあえて分からないようにし、真犯人につながる重要なバンドをフレームから外した意味はやはり、どうしても久間三千年氏を犯人に仕立て上げないといけない理由があったとしか考えられなかったのでした。

弁護団が科警研のデータ解析を依頼した筑波大:本田教授の見解
・科警研の鑑定で抽出されたネガフィルムは鑑定書の写真データより広い範囲が写っていた。本田教授が解析したら写真に焼きつけられていない個所に久間三千年氏以外のDNAを確認した
・久間三千年氏以外のDNA型は真犯人の可能性があった事を示唆
・弁護団は科警研が意図的にカットし焼いたと考えていた

弁護団によると、ネガは福岡地裁が今年2月、警察庁科学警察研究所から取り寄せ、弁護団が複写。法医学の専門家に分析を依頼していた。

ネガには科警研が鑑定書に貼付した写真よりも広い範囲が写っており、鑑定書にはなかった部分に被害女児や久間元死刑囚ではない、第三者のDNA型を読み取ることができるという。

検察は「写真を貼る台紙の大きさに合わせて不要な部分を切り取っただけ」と反論。

血液型判定で分かった真犯人の血液型

2013年6月に科警研で行われた、飯塚事件の血液型鑑定にも不備があったようでした。遺体から見つかった血液型は被害女児と犯人の混合血液だったのでした。

科警研はこの結果から、犯人の血液型はB型と判定し、久間三千年氏もB型だったため一致したと発表。でも、筑波大の本田教授が当時の鑑定を確認したら、女児殺害犯が単独で行っていたとした場合、犯行に及んだ犯人の血液型はAB型以外考えられなかったそうでした。

なお、帝京大の石山教授が県警の依頼で鑑定を行った際に、久間三千年氏とも、ふたりの被害女児とも違う別人のDNAが検出されていたのでした。

「科警研」久間三千年氏の犯行と強引に結び付けた


事件前に亀頭炎を患っていた久間三千年氏でしたが「シンボル(陰茎)の皮がやぶけてパンツにくっついて歩けないほど血がにじんでいた」と証言をしていて「事件当時頃も、挿入できない状態で食事療法のためにセックスに対する興味もなかった」と一貫して訴えていました。

亀頭包皮炎は、激痛を伴う病気のため通常は膣への挿入など不可能で、そもそも幼児愛性癖がなかった久間三千年氏でした。結果、これも科警研による単なる「こじつけ」に過ぎないと批判があったのも事実だったのです。
 

弁護側は再審請求審で、確定判決の誤りを示す「新証拠」として、警察庁の鑑定結果を解析した本田克也・筑波大教授(法医学)の鑑定書を提出した。

福岡地裁の決定は、科警研の血液型検査に関する本田教授の分析を「再鑑定に基づかず、抽象的な推論に過ぎない」と一蹴。続いてDNA型鑑定については本田教授の分析を踏まえ、判定方法が異なればDNA型が一致しない可能性もあるとして、「当時の判定方法で一致したからといってただちに有罪の根拠にはできない」と述べた。

真犯人の血液型はAB型だった?
・少女A(血液型A型)に関する試料→A・Bの血液成分検出【結論:単独犯ならば犯人の血液型はB型かAB型のいずれかになる】
・少女O(血液型O型)に関する試料→A・B・O型血液成分検出【結論:被害者がO型なので、犯人の血液型はAB型になる】
・でも、少女Oの試料中A型に、少女Aの血液が混合していた可能性があった。その場合だと犯人の血液型はB型になる。科警研は少女Aの血液が少女Oの試料に混ざっていたという判断をして、犯人はB型と結論

飯塚事件のMCT118鑑定は、問題点が多い。分析の目盛りとなる123ラダーマーカーに欠陥がある、電気泳動像のバンドの幅が広く型の判定が容易にできない、現場で採取した試料と被告人から採取した試料を同時に電気泳動させていないなど、鑑定精度の信憑性が疑われる。また科警研は、鑑定試料を多量に消費し、再鑑定が不可能と主張したなど不可解な問題点が浮上した。

未熟だった科警研鑑定にメスが入った

弁護団から依頼されて鑑定を行った筑波大の本田教授によれば、少女Aと少女Oの試料から、単独犯ならば双方に共通する血液型がAB型になるため、真犯人の血液型は久間三千年氏のB型ではなくAB型だと説いたのでした。

また、科警研の言い分だった少女Aと少女Oの試料が混ざったという話も否定していたそうでした。その理由は少女Oの試料に少女Aの血液が混入する可能性がないからでした。

地検はこの本田教授の反論に「科警研の鑑定は誤りではなく、あくまでも本田教授独自の見解なだけ」と地検は明確な根拠もなく、ただ検察側の言い分に寄り添っていた形にしか見えなかったようでした。

科警研とは別に、飯塚事件のDNA鑑定を行った石山昱夫(いくお)・帝京大名誉教授(法医学)は「当時の科警研の鑑定はずさん。警察が持ってきた試料(血液)は、糸くずにほんの少しくっついた程度の微量。しかも緑に変色して腐っていた。ミトコンドリアのDNA鑑定をしたが、女児二人の型だけで、久間元死刑囚の型は検出できなかった。もともと試料は大量にあったのに、鑑定技術が未熟だから、科警研はムダに使い切った。こんな鑑定は通用しない」と法廷で証言した。

再審請求審での焦点はDNA型鑑定の信用性。この鑑定は、元受刑者が22年に再審無罪となった足利事件(平成2年発生)とほぼ同時期に、警察庁科学警察研究所が同じ「MCT118型」という検査法で実施。捜査導入後間もない時期の検査法で精度が低く、足利事件の再審無罪判決では証拠能力が否定されている。

「データの誤りだけは許せない。ここまで歪んだものを法廷に上げられるのか」
再審請求で弁護団が新証拠とする鑑定書を出した本田克也・筑波大学教授(法医学)は、捜査段階のDNA鑑定を非難した。
出典: https://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2017/11/20/antena-122/ |

科警研の信頼性はゼロだった

飯塚事件のDNA鑑定に使用した試料は、ゆうに100回は鑑定できる量と言われていましたが、鑑定技術が未熟だった科警研は、結果的に試料を全て使い果たしてしまったという本来ありえない話だったのでした。

また、裁判所に提出されていた鑑定データや画像についても、当時の科警研技官の「私物」とし、退職時に廃棄していたというのですから驚きです。そんな科警研のずさんな体勢の真相究明に、飯塚事件発生から27年経過した今も久間三千年氏の冤罪を晴らすため戦い続ける弁護団。

状況証拠の捏造・データの改ざんに続き、当時の技官がデータ廃棄、血液鑑定に重要な血液凝集反応写真の紛失というありえない失態に不信感は募るばかりです。

科警研の失態総まとめ
・状況証拠の捏造・目撃者T証人の誘導
・DNA血液型判定の捏造
・写真データの改ざん
・飯塚事件に関する門外不出であるデータや資料を廃棄していた
・血液鑑定に大変重要な血液凝集反応写真を紛失していた

「データは鑑定書作成後に廃棄した。実験ノートや写真は鑑定した技官の私物で退官時に処分された」

「第二の足利事件」臭い物に蓋をした?

2000年に入り、ほぼ同時期に科警研が同じ手法で行った足利事件のDNA鑑定への疑念視を受け、再鑑定が決まったという報道がなされて間もなく、飯塚事件の久間三千年氏の死刑が執行された意味は以下のことから推測できてくるでしょう。

研究者たちの主張さえも認めなかった司法。明確な根拠も証拠もなく、ただ検察側の主張のみを支持しているだけであり、検察側が利益になるように動いているとしか思えなかったのでした。

飯塚事件の弁護団は久間元死刑囚の執行について「足利事件が再審開始に大きく傾く中で、臭いものに蓋をしたのではないか」と疑いの目を向けている。

何故?足利事件再鑑定のタイミングでの死刑執行

飯塚事件の最大の謎。冤罪の可能性があったのにもかかわらず、なぜ?このタイミングで強行に死刑執行してしまったのだろうか。

冤罪だということを証明できたであろう確固たる証拠が存在しながら、どうして司法は冤罪だったかもしれない久間三千年氏を殺めてしまったのか?

弁護団は「科警研は自分たちの鑑定が正しいかどうかを第三者が検証する道を全部断っている。科学者の命ともいうべき再現性が保障されていない」と批判しました。「こんなことで一人の命が奪われたことに衝撃を覚える」と怒りをあらわにしていたのです。

「東の足利、西の飯塚」と鑑定の信用性に疑いが生じ、冤罪(えんざい)の可能性が指摘されていた。

死刑を強行執行した森法務大臣の疑念

死刑執行を命じた当時の森法務大臣は「十分慎重かつ適正な検討を加えた上で執行命令したのでございまして、時期とか間隔とかは一切意識にありません」と記者会見で経緯を説明していました。

しかし執行死刑前、森法務大臣は久間三千年氏が一貫して否認を続けている事から、刑執行を懸念していたそうでした。当時の大野恒太郎刑事局長に「大丈夫なのか?」と問いかけたところ、大野恒太郎刑事局長は「大丈夫です。サインをお願いします」と回答したことから刑執行に至ったそうでした。

何故そのように森法務大臣は懸念したのか?・・・このやりとりから大まかなあらすじが浮き彫りになってきたことは、皆さまにも察しが付くことでしょう

久間元死刑囚は、一貫して無実を訴え、再審請求を願っていた。死刑確定後2年という短期間の執行は、再審請求の機会を奪う非人道的な行為で断じて許せない。物的証拠の信頼性も脆弱そのもので、冤罪の可能性が極めて高い事件だ。

「当時の警察庁長官」石山教授への妥協案?

平成11年の一審判決では、石山鑑定の試料が少量だったことを根拠に、科警研鑑定の結果を優先し死刑判決の柱にしたのでした。

その後、足利事件と同じだった科警研の初期の「MCT118鑑定法」の精密の低さが露呈されたものの「他の状況証拠で高度な立証がなされていいる」と結論付けされました。

石山教授は、自身の鑑定により久間三千年氏が犯人ではないという積極的証拠を得ていることから、科学者として科警研への不信感が隠せなかったとのことでした。しかし、そのような石山教授のもとへ、ついに警察のトップまでもが直々にお願いしにいく事態にまで発展していったのです。

「先生の鑑定は非常に困る、妥協してほしい」


にわかに信じがたい事ですが、当時の警察庁長官が妥協案をお願いするため、直々に石山教授の元へやって来たそうでした。それは、久間三千年氏が逮捕される前の事だったとのことでした。

しかし、石山教授は、その妥協案を口実にさらに警察に主張をし続けたのでした。到底信じられない話のようですが紛れもなく事実だったのです。
 

石山氏は公表しないことを条件に当時の警察庁高官の実名を挙げ、その人物が訪ねてきたことを明かした。「『先生の鑑定は非常に困る。妥協してほしい』と言われた。元死刑囚の逮捕(94年9月)前だったと思う」。科警研鑑定と矛盾する理由を聞かれ「自分が調べた試料はごく少量で、元死刑囚の型が含まれていなかった可能性がある」と伝えたという。

突然の死刑執行の謎~黒ぬりされた資料

https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/391342/

このような黒塗りされた関係書類をもってしても正当な判断で行われた死刑執行だったといえるのでしょうか?疑念を持たれても仕方がなく、もはや「いい逃れ」は一切できない状態だったのは確かでした。

上記の森法務大臣の死刑執行を懸念した本当の理由、そして警察庁長官が石山教授へ投げかけた謎の囁き。数々のありえない偽造疑惑とこの腑に落ちない二つを併せると、おのずと点と線が繋がるのがおわかりになるでしょう。

その後、久間三千年氏の死刑執行を上申した大野恒太郎刑事局長は、順風満帆に出世を遂げ、現在、東京高裁の検事長まで上り詰め次期検事総長という日本司法行政トップの座も確実視されてるそうです。

村井敏邦・龍谷大法科大学院教授(刑事法)は「死刑執行の段階で、事件当時の鑑定法に問題があることは常識。科警研の研究結果も法務省は熟知していたはずだ。強硬に死刑執行した、国の責任は重い」と強調する。


 

やはり飯塚事件は冤罪だった可能性あり

このように腐敗した司法をこのまま野放しにしてもいいのか?冤罪の可能性があったのに久間三千年氏は真実を抱えたまま闇に葬られました。こんなことが許されていいのでしょうか?堕落しきった科警研体勢の犠牲になってしまったとさえ感じられる飯塚事件。

冤罪で苦しみ、再審請求さえも認めず、久間三千年氏の命を奪ってしまった国家。己たちの面子や利益を優先した国の責任は重く、死刑制度を揺るがすほど極めて重大な飯塚事件だったことには間違いなかったのでしょう。

村井敏邦・龍谷大法科大学院教授(刑事法)は「死刑執行の段階で、事件当時の鑑定法に問題があることは常識。科警研の研究結果も法務省は熟知していたはずだ。強硬に死刑執行した、国の責任は重い」と強調する。

真犯人はやはりAB型だった!


本田教授の見解は間違いないという事を証明する驚愕の事実が判明しました。実は、飯塚事件発生直後の福岡県警の科捜研ではAB型という結論が出ていたのでした。しかし、その後、科警研の鑑定でB型とされたそうでしたが、本田教授の指摘は正しかったことが明確になったのでした。
 

遺体から発見された血液は被害者と犯人の混合血液で、警察はこれをB型と断定。久間氏の血液型もB型だ。しかし、弁護団の鑑定ではAB型だという結果が出たのだ。

さらに本田教授は科警研の血液型検査を批判し、「確定審でB型とされた犯人はAB型で、B型の元死刑囚と異なる」と指摘。弁護団はこうした分析などを新証拠として提出した。

弁護団の依頼で科警研鑑定を分析した筑波大の本田克也教授は、科警研が鑑定写真ネガフィルムの一部をカットしていた点を「説明もなく切り取るのは隠蔽(いんぺい)。決定的に問題だ」と批判。

司法にもの申す!3名の研究者たちが真実を暴いた


飯塚事件の捜査にて、久間三千年氏の冤罪の可能性を引き出した3人の研究者たちの声をご覧下さい。今まで紹介してきた数々の捏造疑惑へのストーリーが集約された内容といえるのでしょう。
 


車両実験:厳山教授(飯塚弁護団依頼)
・45人中0という実験結果からT証言のような詳細な記憶の再現を出来た人はひとりもいない
・T証人の証言は、事後情報、つまり、目撃後に混入した情報が存在していた
・事前に警察から「ここが2女児誘拐殺害事件の遺留品発見現場です」と伝えられた事により、肯定的フィードバックがかかり、徐々に久間三千年氏所有の車に似た証言内容に変容した
・3月9日の員面調書ですでに久間三千年氏の車にボディラインがなかったことが分かっていた
・3月11日にT証言の車を運転していた久間三千年氏を見つけ、被疑者としてストーリーが出来あがった
・事後情報効果や肯定的フィードバックの存在が裏付けられた
 

「車で通りかかったわずかな時間で、これだけの特徴を把握・記憶し、証言するというのは無理があります。しかも『~がある』ではなく、『~がない』という証言は不自然。日本大学・心理学教室の厳島行雄教授が、同じ状況の現場を車で通ってもらった後に記憶を聞く実験を二度にわたって行いました。その結果、のべ75人の被験者の中には、そのように詳細な証言ができた人はいませんでした。警察による証言の誘導が疑われます。しかし、裁判所はこの実験も『心理学の知見を踏まえた十分な検討がない』と一蹴しました」

「1992年3月7日に警察官が久間氏の自宅を訪れ、『その車のボディにラインが入っていないことを確認した』という捜査報告書が出てきたのです。T証言の日付は同年3月9日。この証言をもとに久間氏の車を割り出したというのはウソだということがはっきりしました」

筑波大:本田教授(弁護団の依頼で科警研鑑定分析を実施)
・科警研の血液型鑑定は解離試験の手法において根本的なミスを犯している欠陥鑑定だったと明らかにした
・MCT118型鑑定を除いた新旧全証拠による総合評価をするべきと述べていた
・足利事件の再審を通じて明らかになったMCT118型鑑定の証拠能力論に踏み込む事から逃れようとしている
・MCT118型鑑定の証明力を確定判決当時よりも慎重に検討すべき状況に至っていると述べた
・科警研鑑定は完全に破綻していた

本田教授は、警察庁の鑑定結果を写したネガフィルムに「真犯人の可能性がある別人のDNA型が写っている」と分析。

捜査への導入後間もないDNA型鑑定が有罪認定の根拠の一つとなったが、同じ手法が使われた「足利事件」の再審では証拠能力が否定され、無罪判決が出ている。

帝京大:石山教授(福岡県警の依頼でDNA鑑定実施)
・科警研鑑定で検出されていた久間三千年氏のDNA型が石山鑑定で検出されていない
・科警研鑑定の矛盾した結果に憤りを隠せなかった石山教授
・再審請求即時口抗審で弁護側が石山鑑定を証拠として再評価するよう主張していた
・自分が調べたごくはごく少量で、元死刑囚の型が含まれていなかった可能性があると語ったという

主任弁護人の岩田務弁護士は「少量説は妥協を迫られた石山氏が警察に与えた口実。科警研鑑定の証拠能力が否定された現状では、石山鑑定は久間さんが犯人でない積極的な証拠になる」と主張する。石山氏は科学者としての立場で科警研への不信感を隠さなかった

福岡県警の依頼で実施された帝京大の石山〓夫(いくお)教授(当時)によるDNA型鑑定。警察庁科学警察研究所の鑑定では検出されていた久間元死刑囚の型が、石山鑑定では検出されなかった。この結果をどう見るべきなのか。石山氏に話を聞くと、矛盾した結果に捜査当局が困惑した事実が端的に浮かぶ。


3人の研究者たちの証言は、まさしく久間三千年氏が冤罪だった事を証明していたのでした。仮に冤罪だった事が永久に認められなかったとしても、事実は一つ、真実はひとつしかないのです。日本国中の人々が皆、久間三千年氏を冤罪被害者とし無罪である事を信じていることにはなんら変わりはありません。
 

「弁護団」飯塚事件の真相究明に終わりはない

弁護士ドットコム

日本の性犯罪事件の歴史上において「飯塚事件」は、足利事件に続く重大な冤罪事件でした。この飯塚事件では結果的に、警察・検察・裁判所でのあり得ない捏造や隠ぺい工作が暴露されることになりました。

冤罪のまま死刑執行を言い渡され、この世を去った久間三千年氏。「飯塚事件の犯人」のまま亡くなっていた無念は、私たちの想像を絶するものだったのかもしれません。

麻生政権が重大な危機を回避するため、冤罪者を強行に死刑執行したのであれば、断じて許されることではないのです。飯塚事件の真相を徹底的に追求し、久間三千年氏の無罪を勝ち取り、冤罪だったことを世に証明出来る日が来るまで弁護団たちは戦い続けるのでしょう。

再審請求が却下されてすぐ、弁護団は特別抗告した。無実の人を殺してしまった可能性の高いこの事件、このまま闇に葬らせてはならない。

福岡市と近くの方へ

飯塚事件から
死刑廃止を考える

10月13日 14時
日本キリスト教団西福岡教会

*10月10日は世界死刑廃止デー
(冤罪・再審請求の久間三千年さんは2008年処刑されてしまったが、家族・弁護団の最新勝ち取るための闘いは続いている) pic.twitter.com/3nFaz2Z4Kj
— BARANEKO (@BARANEKO0409) September 10, 2018

検察側推薦の鑑定人になることが多い大阪医科大の鈴木広一教授も「包み隠さず提示した上で、不都合な点はしっかりと説明すべきだった」と語った。


 

「冤罪被害者」久間三千年氏だけが見た地獄

画像 : 多すぎないか?日本の死刑冤罪。 - NAVER まとめ

足利事件の冤罪を証明した本田教授も、久間三千年氏が犯人でないという鑑定結果を明確にし、石山教授も久間三千年氏が飯塚事件の犯人ではないということを科学的に証明した両研究者でした。

冤罪だったであろう久間三千年氏は、やはり国家によって潰されたことは紛れもない事実だったのかもしれません。

足利事件と同種の事件だった飯塚事件、この事件の真相を知っているのは、ただひとり冤罪被害者となりこの世を去った久間三千年氏だけなのかもしれません。冤罪を訴えながら認められず、国家の隠ぺい工作のために命を奪われた久間三千年氏だけが見た壮絶な生き地獄だったと言っても過言ではないのでしょう。

弁護団関係者によると、久間は「相手が誰でも言うべきことは言う性格」だったという。それは、冒頭の手記からも窺える。久間は処刑の直前まで、警察による証拠捏造を強く訴えていたのだ。

疑わしきは罰せず。疑わしきは被告人の利益に。これは、人類が手にした刑事裁判の基本原則だ。刑事裁判は検察が挙証責任を負うが、被告人が不利な内容について被告人が合理的な疑いを提示できた場合は、被告人に有利に(検察に不利に)事実認定をする。刑事訴訟法336条は「被告事件が罪とならないとき、又は被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない」と定めている。

「足利事件」冤罪被害者だった菅家さんの今

冤罪にもかかわらず17年半の長きに渡り拘束され自由を奪われていた管家氏。佐藤正信裁判長に謝罪され、宇都宮地方検察庁が上訴権放棄を宇都宮地方裁判所に申し立て受理されたことにより無罪判決が即日確定しました。

「当時のDNA鑑定に証拠能力はなく、自白も虚偽であり管家氏が犯人でないことは誰の目にも明らか」とし無罪が決定。管家氏は再審公判を間近に控えた時、新聞の取材に応じ「しばらくは冤罪で苦しむ人を支える活動を優先させたい」と語ったそうでした。

自分のような悲劇が繰り返されないよう冤罪の語り部になっていきたいとも語った菅家氏。冤罪被害者に寄り添い、支える事ができるのは菅家氏以外いないのかもしれません。

足利事件を担当した佐藤博史弁護士は「再検証を担保しなければ科学の暴走は防げない」と日本の法整備の遅れを危ぶむ。

飯塚事件「AB型」の真犯人の行方

袴田事件や足利事件のような典型的な冤罪事件と対比して論じたくなる飯塚事件。冤罪人を強行に死刑執行し、後にさまざまな隠ぺい事実が判明した事件は、後にも先にもこの飯塚事件以外存在しないのでしょう。

科警研の誤った鑑定により無期懲役よりも重い死刑判決を下した司法当局のメンツを保つために「臭いものに蓋をした」だけのことだったのではなかったのでしょうか?早すぎる死刑執行に過ちを隠そうとしたことは見え見えで普通の状態ではなかったのです。

真犯人を取り逃がした国家の責任は重大で永久に責め続けられて当然なのでしょう。冤罪人に死刑執行までしてしまった取り返しのつかない事態を終息するすべはもうどこにもないのです。

AB型の犯人は現在も野放しのまま


その結果、本田教授や石山教授・厳島教授による真犯人説は封印され、飯塚事件は実質未解決のまま。そして「AB型」の真犯人は今もどこかで息を潜め生き抜いているという矛盾に、我々は司法に対しただ不信感という感情しか湧かないのでしょう。

AB型の血液を持つ真犯人の身代わりに冤罪だった久間三千年氏が極刑を言い渡されたこの事実はもう覆すことは出来ないのです。現在ものうのうとどこかで生きている真犯人。もしかしたらこの日本のどこかで同じ過ちを犯そうとし、狙われている女児がいるのかもしれません。
 

女児の捜索に加わった近所の男性(82)は「結局、何があったのかは誰にも分からん」
出典: https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201812/C... |

再審請求は刑の執行から一年後の〇九年に申し立てた。福岡地裁、福岡高裁とも再審開始を認めず、弁護団は今年二月、最高裁に特別抗告している。
出典: https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201812/C... |

久間三千年「冤罪」訴え続けた家族と支援者たちの今

一審から弁護人を務めてきた岩田務弁護士は、2018年2月最高裁に特別抗告、しかし「犯人であることは合理的な疑いを超えた高度の立証がされている」とし再審は尽く棄却。

弁護団は、「高裁決定は、鑑定や状況証拠の評価が判例に反している。最高裁できちんと判断してほしい」と悔しさを滲ませていました。

女児たちが通っていた潤野小学校は2018年春で廃校になり、当時女児の捜査に協力していた住人は「結局、この事件で何があったのか誰にも分からない」と語っていたそうでした。久間三千年氏の妻と息子は、今も夫との思い出の詰まった飯塚で静かに暮らしているそうです。

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