2021年11月29日公開
2021年11月29日更新
【足利事件とは?】冤罪事件の詳細・菅家さんの現在|真犯人は誰?
日本初の本格的「DNA鑑定」は、冤罪事件を生んだ――。無実だった菅家利和さんの17年を失わせた幼女誘拐殺人「足利事件」を、当時のDNA鑑定の中身、再鑑定の結果、最後まで逮捕されなかった真犯人の情報なども含めて、詳細にまとめました。

目次
誰もが"宮崎勤"の再来を恐れた「足利事件」
平成元年(1989年)夏に発覚した「埼玉連続幼女誘拐殺人事件」をご存知のかたも多いことでしょう。わずか1年のあいだに4件の幼女殺人と1件の幼女わいせつ未遂を犯した「宮崎勤」の名は、いまでも異常性愛殺人鬼の代名詞として広く知られています。
その宮崎勤の逮捕から1年も経たない平成2年(1990年)5月、今度は栃木県足利市・渡良瀬川の河川敷で、当時4歳の女の子が他殺体となって発見されました。のちに冤罪事件としても注目を集めることになった「足利事件」です。
まずは「足利事件」がいったいどのような事件だったのか、詳しく見ていくことにしましょう。
足利事件(あしかがじけん)とは、1990年(平成2年)5月12日、栃木県足利市にあるパチンコ店の駐車場から女児が行方不明になり、翌13日朝、近くの渡良瀬川の河川敷で、女児の遺体が発見された、殺人・死体遺棄事件。 「足利事件」その日、何が起こったかぱくたそ-フリー素材 平成2年(1990年)5月12日午後7時ごろ、父親が足利市内のパチンコ店「ロッキー」で遊興中に、同店駐車場で一人で遊んでいた4歳女児が、突然、姿を消しました。 数々の目撃証言――「ルパン三世に似た男」足利事件発生時、女児を連れ立って歩く男の姿は、多くの人々に目撃されていました。5月中旬の夜7時すぎだったので、すでに辺りは薄暗かったものの、女児の赤いスカートがよく目立ったために、目撃者たちの記憶にはっきりと残っていたのです。 県警にとって三件目――渡良瀬川の「幼女誘拐殺人」NAVER まとめ 栃木県警は当初から焦りを感じていました。前年に逮捕された宮崎勤の一件で、世間は「幼女誘拐殺人」にナーバスになっていた時期。しかも、栃木県警はこの他に二件の「幼女殺人」を解決できていないままだったのです(他に群馬県でも、未解決事件が一件あった)。 未解決① 1979年8月、5歳女児昭和54年8月、足利市内の八雲神社境内で遊んでいた5歳女児が行方不明に。6日後、渡良瀬川近くで不審なリュックサックが発見され、中から行方不明の女児の全裸死体が見つかりました。 未解決② 1984年11月、5歳女児昭和59年11月、足利市内のパチンコ店で5歳女児が行方不明に。事件から1年半近くが経過した1986年3月、女児の自宅から1.7kmほど離れた地点で白骨化死体が発見されました。 未解決③(群馬) 1987年9月、8歳女児昭和62年9月、群馬県新田郡尾島町(現・太田市)で、子猫を抱いて尾島公園まで遊びに出かけた小2女児が、そのまま行方不明に。翌年11月、利根川河川敷で白骨死体の一部が発見されました。 なお、宮崎勤が昭和63年(1988年)2月に殺害した女児の両親あてに送った「今田勇子」名義の告白文の中で、群馬県の幼女殺人事件が触れられており、宮崎勤の関与が疑われましたが、立件されないまま平成14年(2002年)に公訴時効が成立しています。 捜査は急な”方針変更”、「菅家犯人説」ありきに足利事件発生から7か月経った平成2年(1990年)12月、栃木県警は突如として、目撃情報に基づく捜査を打ち切り、「子ども好きの独身男性」というプロファイリングに基づいた捜査に切り替えています。 菅家利和さんを逮捕――冤罪証明の戦いが始まったNAVER まとめ 平成2年(1990年)年末から、菅家さんの身辺調査を開始した栃木県警は、勤務先への聞き込みを実施。これがもとで、菅家さんは翌年3月、勤務先から解雇されてしまいます。 無期懲役判決、そして菅家さんの有罪確定へ菅家さんの自白は、渡良瀬川周辺で起こった過去2件の幼女殺人についても犯行を認めるものでしたが、検察は過去2件については嫌疑不十分として不起訴(自白のみで、DNA鑑定による具体的な証拠がなかった)。足利事件のみ「自白」と「DNA鑑定」を決め手に起訴処分としました。 DNA再鑑定の結果、冤罪が認定される足利事件は解決されたかのように思われましたが、菅家さんは自身の潔白を粘り強く訴え続け、のちに冤罪か否かを判断するためのDNA再鑑定が行われました。 年表① 菅家さんの有罪が確定されるまで
年表② 菅家さんが冤罪確定に至るまで
平成22年(2010年)3月26日、宇都宮地検が同日下された無罪判決への上訴権を放棄して、菅家さんの無罪が確定しました。逮捕されてから既に17年半の年月が経過していたのです。 冤罪被害者・菅家利和さんは、なぜ疑われたのか17年半もの長きにわたり、足利事件の冤罪被害で人生の自由を奪われた菅家利和さん。足利事件当時、菅家さんはどのような境遇にあったのか、そしてなぜ疑われてしまったのかを見ていきましょう。 菅家利和さんプロフィール
菅家利和さんは、昭和21年(1946年)生まれ。事件発生当時、幼稚園の送迎バス運転手をしていた頃は40代半ばに差し掛かっていました。一度の結婚歴はあるものの、当時は独身者として借家住まいをしていました。 菅家さんは、なぜ疑われたのかNAVER まとめ 菅家さんが警察からマークされた理由は、次の通りです。 足利事件の冤罪立証――DNA再鑑定足利事件の冤罪証明の決め手は「DNA再鑑定」でした。事件当時、実用化が決定されたばかりのDNA鑑定は、精度が決して高いものではなく、なおかつ鑑定手順も大変ずさんだった疑いがありました。 冤罪を生んだ未熟な「DNA鑑定」手順ぱくたそ-フリー素材 当時のDNA鑑定法は「MCT118法」と呼ばれます。その判定には人の目、つまり目視が必要であり、また古い試料では正確な判定が難しくなるという欠点がありました。 当時のDNA鑑定「MCT118法」とは?NAVER まとめ ヒトの細胞には23対(46本)の染色体が存在します。このうち、1番目の染色体(2本で一組。それぞれ両親から1本ずつ受け継がれる)のDNAの「MCT118」と呼ばれる部位では、特定の並び方をした16個の塩基が、何度も繰り返して現れます。 冤罪・足利事件のDNA再鑑定足利事件は冤罪なのか――。注目のDNA再鑑定は、検察側推薦の大阪医科大・鈴木廣一教授と、弁護人側推薦の筑波大・本田克也教授の二名によって行われました。鑑定方法は「STR法」と呼ばれるもので、短い塩基配列の繰り返しパターンを、多くの部位から調べて鑑定する方法でした。 「MCT118法」の過ちを認めたくない科警研ところが、足利事件の当初のDNA鑑定を実施した科学警察研究所(科警研)は、「MCT118」は当時としては最新の技術で、科警研の判定は間違いではなかった、という立場を取りました。
本田教授の再鑑定は、同じ「MCT118法」での鑑定を、目視ではなく最新のコンピュータを使用して実施。そこで得られた結果では、犯人のDNA型は「18-24型」、菅家さんのDNA型は「18-29型」で、科警研の導き出した「18-30型」とは、どちらも別人のものだったのです。 科警研の使用試料は、汚染されていた可能性が高い科警研は「MCT118法」でのDNA再鑑定を頑なに拒み、本田教授の鑑定も認めようとはしませんでした。その一方で、検察は当時の足利事件担当捜査員たちのDNA型や、被害女児の家族のDNA型も調べ始めました。 被害女児の衣服に、母親のDNA型が混ざったか被害者家族のDNA型も鑑定したところ、母親のDNA型が「30‐31型」と判りました。ちなみに被害女児のDNA型は「18-31型」。父親から18型、母親から31型を受け継いでいたということになります。 超えられない時効の壁――真犯人は野放しのままかつて週刊誌『FOCUS』記者時代に、「桶川ストーカー殺人事件」で警察よりも早く犯人の割り出しに成功し、被害者の告訴を警察がもみ消していたことまでスクープした実績のある清水潔記者(足利事件当時、日本テレビ報道局記者)は、いわば「調査報道」のエキスパートでした。 条件に合致する「ルパン」の特定渡良瀬川付近で起こっていた足利事件を含む複数の幼女誘拐殺人と、群馬県太田市で起こっていた幼女誘拐殺人は、「北関東連続幼女誘拐殺人事件」と呼ばれています。
「ルパン」似の男は実在したのちに、足利事件の犯人が「ルパン三世」に似ているという目撃証言があったことを知った清水記者は、リサーチした結果、浮上してきたある人物の若い頃の写真を入手。「ルパン」証言をした目撃者に確認し、その男こそ真犯人であるとの確信を得ます。 なぜ真犯人は逮捕されなかったかぱくたそ-フリー素材 清水記者の調査により、足利事件の真犯人はほとんど特定されていました。しかし、真犯人は逮捕されないまま公訴時効(犯罪完結時点から一定期間が経つと、起訴できない)を迎えました。 足利事件の公訴時効が延長されなかった背景ぱくたそ-フリー素材 足利事件の真犯人の逮捕に向けて、公訴時効の延長が検討されなかった理由は、主に次の二点でした。 「足利事件」の“真犯人”は今も野放し状態。なぜ、警察は捕まえないのか? - 社会 - ニュース https://t.co/4ZKeMGgoNp ここがおかしい! 警察捜査・3つの問題点wikipedia 足利事件の真犯人が逮捕されない理由の検証でも触れたように、警察庁にとっては、DNA鑑定実用化初期の二大事件(足利事件、飯塚事件)での鑑定失敗は、科警研の信用を失墜させかねない非常にデリケートな問題でした。 なぜ警察庁は未完成のDNA鑑定にこだわったか冤罪を引き起こした足利事件のDNA鑑定は、次の点があまりにも未熟で、とても実用段階にあるレベルではありませんでした。 DNA鑑定予算確保と足利事件写真の人物は、足利事件当時、警察庁刑事局長だった國松孝次・元警察庁長官です。のちに、「國松長官狙撃事件」とよばれる暗殺未遂事件の被害者になった人物で、DNA鑑定の導入に尽力した人としても知られています。 冤罪を引き起こした足利事件捜査の問題点冤罪によって菅家さんの17年を奪い、横山ゆかりちゃん失踪事件を新たに発生させてしまった足利事件では、警察の捜査に決して見過ごすことのできない重大な問題点がありました。 ①菅家さんを自白に追い込んだ横暴な取り調べNAVER まとめ 菅家さんを犯人と決めつけた栃木県警の取り調べは、あまりにも強引かつ横暴であったために、菅家さんの心を折り、取り調べの恐怖から逃れるための「虚偽自白」が生じてしまいました。 最初の目撃証言をした証言者たちの中の一人に対し、自宅を訪れ、「正直言ってアンタの証言が邪魔なんだ。消したいんだ」と目撃証言の撤回を迫り、証言を撤回させ調書も勘違いに書き換えた ②組織体制の保全を優先、足利事件の解決から逃げたNAVER まとめ DNA鑑定の失敗を認めれば、そのときの幹部たちは冤罪被害の責任を取らざるを得ません。しかし、だからと言って「警察の信用失墜」にはつながるわけではないのです。新しい人事によって、新体制で過ちを繰り返さなければ良いだけのことで、組織自体が瓦解することにはなりません。
③国家警察が存在しない――責任の所在が曖昧NAVER まとめ 日本には国家警察が存在しません。北海道警、京都府警、大阪府警、全国の県警、そして警視庁(東京都警察)があり、警察庁はその調整役に過ぎません。 冤罪・足利事件――菅家さんの失われた17年NAVER まとめ 足利事件で冤罪被害に遭った菅家利和さんは、逮捕当時45歳でした。それから29年、70代半ばに差し掛かった現在の菅家さんは、「社会運動家」として冤罪被害支援に精力的に取り組んでいます。 「187番」が刑務所内での呼び名平成12年(2000年)7月、最高裁で無期懲役刑が確定したのち、菅家さんは東京拘置所から千葉刑務所へと移送されました。 菅家さんを支えた人々の存在NAVER まとめ 刑務所では理不尽な冤罪被害によって孤独な戦いを強いられた菅家さんでしたが、「これは冤罪である」と声をあげる菅家さんを、長く支えてきた人々がいます。菅家さんは、そんな人々の支えがあったことで、最後まで戦い抜くことができたのです。 足利事件のような冤罪被害を減らすためにできること足利事件を知ることで、私たちはどのようにして冤罪被害が生まれるのか、その一端を垣間見ることができます。冤罪は、事件被害者やその家族、そして冤罪被害者とその家族をまとめて不幸にするだけでなく、真犯人が捕まらないまま時間が経ってしまうという一面もあります。 編集部 この記事のライター Cherish編集部 人気の記事人気のあるまとめランキング
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