森永ヒ素ミルク事件の原因は?概要や被害者の当時の症状と後遺症

森永ヒ素ミルク事件は1955年に発覚し、130人以上の死亡者、約1万3千人の中毒患者・後遺症患者を生んでしまった今から60年以上前の食中毒事件です。森永ヒ素ミルク事件が発生した原因や経緯、森永や国の対応、患者などへの補償、再発防止策などについて紹介します。

森永ヒ素ミルク事件の原因は?概要や被害者の当時の症状と後遺症のイメージ

目次

  1. 1森永ヒ素ミルク事件の概要
  2. 2森永ヒ素ミルク事件の犯人は?
  3. 3森永ヒ素ミルク事件の裁判の判決・賠償金は?
  4. 4被害者の症状や後遺症は?
  5. 5森永ヒ素ミルク事件のその後
  6. 6森永ヒ素ミルク事件の惨劇を二度と起こさないために

森永ヒ素ミルク事件の概要

森永ヒ素ミルク事件は1955年(昭和30年)、森永乳業が生産した粉ミルク「森永ドライミルク」にヒ素が混入し、それを飲んだ乳児がヒ素中毒になり西日本を中心に130名以上の死亡者、1万3千名もの中毒患者が出た事件です。

事件発覚当時は満足できる救済処置がとられなかったのですが、中毒の後遺症が14年後に発覚し被害者救済のためのさまざまな運動が再開され、15年後の1970年に初めて森永側がミルク中のヒ素化合物が原因であることを認めたという経緯があります。

中毒被害者のなかには今でも後遺症に苦しんでいて、2014年時点で約730名に障害症状が残っていて、事件発覚以降現在までに死亡した被害者の総数も1200名は超えると言われています。

事件の原因は?

森永ヒ素ミルク事件が起きた原因は粉ミルク中に混入したヒ素化合物ですが、どうしてヒ素が混入してしまったのでしょうか。森永では粉ミルクの溶解度を高める目的で、第二リン酸ソーダという化合物を添加することにし、試験段階では純度の高い試薬を使用していたのですが、生産に本格導入するときには純度の低い工業用の第二リン酸ソーダを使用してしまいました。

工業用の第二リン酸ソーダは低純度のリン酸ソーダに多量のヒ素が混入しているのですが、当時の厚生省が「毒劇物取締法上のヒ素製剤には該当しない」という判断で、工業用として市場には流通していました。これがいくつかの企業を経て協和産業という販売店から毒性検査もしないで、食品工場である森永乳業徳島工場へ納入されてしまいます。

森永乳業では、この第二リン酸ソーダを検査もせずに粉ミルクの製造工程に使用してしまったため、ヒ素が混入するという事態になってしまったのです。森永側は信じられないことですが、「食品としての品質検査は必要ない」とも主張して消費者から大バッシングを受けています。

報道規制による隠ぺいも?

森永ヒ素ミルク事件発覚当時の1955年、この事件はそれほど大きなインパクトはなく、十数年後に後遺症が発覚してから、それまで地道に活動してきた被害者の方々の運動を含めて大きく注目され再事件化されました。

事件発覚当時には、森永側の責任は問われず因果関係を認めようともしないので、賠償どころか事件を闇に葬ろうとする動きもあったと言います。原因が粉ミルクへのヒ素混入であることは認めたのですが、納入業者の責任であって森永側に責任はないと主張していました。

これには、森永側と広告を一手に引き受けていた電通の報道規制に大きな影響があったと言われています。当時、主流メディアの新聞にとって森永や電通は大きなスポンサーなので、報道統制があったかもという可能性は否定できません。

被害者の声として森永の救済処置には感謝している、というような森永側に有利なポジティブキャンペーンをメディアを通じて展開し、世論の糾弾をそらしていたと言われています。

森永ヒ素ミルク事件の犯人は?

【8月24日】食の安全とは。森永ヒ素ミルク中毒事件を振り返る - NAVER まとめ

森永ヒ素ミルク事件の原因は、粉ミルクに混入したヒ素化合物です。この写真がその原材料です。ただ、このヒ素化合物を誰かが故意に混入させたということではないので、犯人に相当するような人物はいません。

罪ということでは過失ということになりますが、最も直接的な過失は森永乳業の生産体制になるでしょう。製造工程に使用する原材料や粉ミルク製品の成分検査、品質検査を確実に行なわずに製品として市場に出荷してしまったという罪です。

森永ヒ素ミルク事件の経緯から、森永乳業にヒ素化合物が混入している第二リン酸ソーダを納入した販売会社も責任の一端はあるでしょう。食品工場であることが明白なところに、成分検査もせずに工業用の薬剤を納入したという罪です。

さらにさかのぼれば、「毒劇物取締法上のヒ素製剤には該当しない」と判断して市場への流通を許容した当時の厚生省にも罪はあるでしょうし、薬害とか製造物責任などという認識に乏しかった当時の世の中そのものにも森永ヒ素ミルク事件の罪は及ぶことでしょう。

森永ヒ素ミルク事件の裁判の判決・賠償金は?

http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/morinaga-hiso-illustration.htm

事件発覚当時の判決・賠償金

森永ヒ素ミルク事件が発覚した1955年(昭和30年)8月に、森永乳業徳島工場は「営業停止3カ月」の行政処分を受けることになります。この軽い処分には工場の過失が軽微と判断されたことと、工場に牛乳を納めている酪農業者への影響を考慮しての政治的な配慮があったようです。

あまりにも軽い処分に被害者の怒りと批判が集中し、岡山県の被害者を中心に「岡山県森永ミルク被害者同盟」が結成されます。被害者同盟は「死者250万円、重症者100万円」の賠償要求書を提出しますが森永側が拒否したため、被害者は全国的に結束を強め「森永ミルク被害者同盟全国協議会」が9月に結成されることになります。

当時の厚生省は、ヒ素ミルク被害児の診断・治療基準や補償裁定のための第三者機関として学者中心の「西沢委員会」と弁護士などを中心とした「五人委員会」をつくり、それらの委員会の裁定として「死者25万円、患者1万円の補償金」が提示されることになります。

被害者同盟全国協議会は、今後精密検査を行なうことを条件にこの補償を受け入れ、森永側は補償金を現金書留で送付して終結を宣言します。その後、1963年(昭和38年)10月、徳島地裁から「森永ミルク事件における会社側の責任はない」という無罪判決が出て、一旦、森永ヒ素ミルク事件は終結します。

後遺症発覚後の判決・賠償金

1969年(昭和44年)、森永ヒ素ミルク事件は新たな展開を迎えることになります。「西沢委員会」で「森永ヒ素ミルク事件では後遺症は生じない」と宣言していたことをくつがえす調査結果を大阪大学の丸山教授が日本公衆衛生学会で発表、広島大学や岡山大学でも同様な報告があり、被害児の後遺症が明らかになったのです。

これを受けて、森永ヒ素ミルク事件の被害児の親たちは「森永ミルク中毒のこどもを守る会」を発足させ、厚生省と森永乳業を相手に民事訴訟などの運動を多くの専門家や世論の支持を受けて進めていきます。森永乳業はこの年の11月に、被害者に補償金15億円の拠出金と患者への恒久的救済を発表しますが、「守る会」はこれを不十分として受け取りを拒否します。

事件から19年後、1973年(昭和48年)11月、徳島地裁での差し戻し裁判で森永乳業の刑事責任が認められ、徳島工場の元工場長は無罪となったが、元製造課長に禁固3年の実刑判決が下されました。

12月には、「守る会」と森永乳業、厚生省との間で被害児の恒久救済実施が合意され、森永乳業が被害児の健康管理、治療、介護などのために30億円を拠出することになります。翌年5月に森永乳業が被害児の恒久救済を表明したことから、「守る会」は損害賠償請求の訴訟を終結することを決定、森永ヒ素ミルク事件は19年ぶりに解決することになったのです。

森永製品不売買運動も

森永ヒ素ミルク事件発覚当初、森永乳業が「死者25万円、患者1万円の補償金」で終結宣言しようとしたのを契機に、森永乳業への怒りから消費者の森永製品の不買運動が全国各地で始まりました。当時、森永乳業は明治や雪印よりも大きなシェアを持っていましたが、裁判も長期化したこともあって企業イメージが損なわれてシェアを大きく落とす結果を招きました。

不買運動だけでなく岡山を中心とする西日本では、森永製品の売り上げが見込めないこともあって、森永製品を一切扱わない商店も数多くでてきて不売運動にもつながっていきました。

シェアを落とし、消費者から厳しい糾弾を受けた森永乳業が責任を認め、被害者救済に全面的に協力をすることを表明した1974年、「守る会」が「不売買運動の取りやめ」を決定するまで20年弱の期間運動は続き、日本の不売買運動史上最大のものになったのです。

被害者の症状や後遺症は?

森永ヒ素ミルク中毒の症状は?

ヒ素は人間を含む動植物にとって必要な微量元素ですが、森永ヒ素ミルク事件の原因となった第二リン酸ソーダに含まれていた3価の無機ヒ素化合物になると強い毒性を示します。3価の無機ヒ素化合物による致死量は成人で100~300mgと言われています。料理で言う調味料一つまみの量です。

森永ヒ素ミルク事件では発熱、下痢、嘔吐、睡眠不良、咳などの症状から始まって皮疹、色素沈着、肝臓腫大が認められ、さらに腹部膨満、貧血などの中毒症状を示しました。中毒が進むと腹水や黄疸が出て、けいれん発作や脳症を思わす症例も表れ、森永ヒ素ミルク事件発覚時には事件発生後1年以内で130人以上の乳児たちが死亡しました。

これらの症状は、森永の粉ミルクの飲用を中止して治療を開始すると急速に回復していきました。学者中心の第三者機関「西沢委員会」が「後遺症は生じない」と宣言していたこともあって、中毒症状は終息するかにみえていました。

森永ヒ素ミルク中毒の後遺症は?

森永ヒ素ミルク事件発覚から14年経過した1969年、大阪大学の丸山教授たちが被害児の追跡調査を行なったところ、67例中50例に何らかの異常が認められたことを公表、後遺症の疑いが濃厚になりました。その他の調査でも、森永ヒ素ミルク事件の被害児のなかに、脳性麻痺や知恵遅れなどで苦しむ人が多数いることが確認され、一旦終息していた森永ヒ素ミルク事件が再度注目を浴びることになったのです。

森永ヒ素ミルク事件の後遺症の症状は、脳性麻痺、知的発達障害、てんかん、脳波異常、精神障害等の中枢神経系の異常が多いことに特徴があります。また、はっきりとした病状は特定できませんが、「頭が重い」、「イライラする」、「よく眠れない」などの自覚症状を訴える被害者が非常に多いことも特徴的です。

今でもこれらの後遺症に苦しんでいる被害者は多く、2014年時点で約730名に障害症状が残っていると言われています。補償や救済支援は当然のことですが、二度とこのような事件を起こさないようにする対策などが重要なことです。

森永ヒ素ミルク事件のその後

再発防止の対策は?

森永ヒ素ミルク事件は食品への添加物に有毒な物質が混入していたものです。添加物そのものが安全であっても、その添加物に有害な物質が含まれる場合には危険なものになるという観点で、森永ヒ素ミルク事件後に食品衛生法の一部が改正されました。添加物の成分規格を定めた「添加物公定書」を作成する規定が設けられ、1960年(昭和35年)に「第1版添加物公定書」が作成されました。

また、化合物などを取り扱う事業者には、健康や環境などへの悪影響がない物質を適切に管理する社会的な責任があります。化学物質の有害性などの情報を確実に伝達・提供することを事業者に義務付ける「化学品の性状や取扱いに関する情報の提供を規定する制度(化管法SDS制度)」が2001年(平成13年)から運用されています。

製品の欠陥や過失などによる損害賠償責任を規定した製造物責任法(PL法)が成立したのは1995年のことです。この法律の研究段階で、1972年(昭和47年)に発足した製造物責任研究会は、森永ヒ素ミルク事件、サリドマイド事件、カネミ油症事件、欠陥自動車などの社会的問題を背景にして立法化を研究していたものです。

森永ヒ素ミルク事件の現状は?

森永ヒ素ミルク事件は1974年(昭和49年)、「森永ミルク中毒のこどもを守る会」が損害賠償請求の訴訟を終結することを決定して、発覚から19年で解決することになります。その年に、被害者の恒久的な救済を図るための財団法人「ひかり協会」が設立されて、今も安定的に救済事業が続けられています。

「守る会」と国、森永乳業の三者及び「ひかり協会」は、その後も定期的に「三者会談」を開催して被害者の救済に必要な協議を実施しています。この救済事業は400名近くの専門家によって支えられていて、600名を超える被害者自身が救済事業協力員として被害者の健康づくりの呼びかけなどを行なっているのも大きな特徴になっています。

事件の発生元の森永乳業徳島工場は粉ミルクの製造を中止したうえで操業を続けていましたが、2011年9月に閉鎖されました。大きな禍根を残した森永ヒ素ミルク事件ですが、今も三者会談による救済事業によって後遺症被害者などの救済が続けられています。

森永ヒ素ミルク事件の惨劇を二度と起こさないために

森永ヒ素ミルク事件の原因や経緯をみてきましたが、今では信じられないような過失の他にメーカー寄りの第三者委員会や報道統制などによって後遺症などの被害が拡大してしまったと言えるでしょう。

現在は食品などに関する法律も整備されてきていますが、なによりも食品に関わっている人たちのモラルが重要です。森永ヒ素ミルク事件の原因となった工場の人や材料の販売会社の人、あるいは出荷に問題はないとした厚生省の人も、心の中では「これで良いのだろうか、大丈夫だろうか?」と一抹の不安があったのではないでしょうか。

森永ヒ素ミルク事件で有罪となった徳島工場の製造課長の判決は、危惧感説(きぐかんせつ)に基づくものでした。

危惧感説というのは「社会的に不相当な行為をした以上、何らかの危険があるかもしれないという漠然とした不安感・危惧感がありさえすれば過失犯は成立する」というものです。不安を感じるときには、関係者などに相談して英知を集めて対応するということが大切なことと言えるでしょう。

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