2021年11月29日公開
2021年11月29日更新
森永ヒ素ミルク事件の原因は?概要や被害者の当時の症状と後遺症
森永ヒ素ミルク事件は1955年に発覚し、130人以上の死亡者、約1万3千人の中毒患者・後遺症患者を生んでしまった今から60年以上前の食中毒事件です。森永ヒ素ミルク事件が発生した原因や経緯、森永や国の対応、患者などへの補償、再発防止策などについて紹介します。

目次
森永ヒ素ミルク事件の概要
森永ヒ素ミルク事件は1955年(昭和30年)、森永乳業が生産した粉ミルク「森永ドライミルク」にヒ素が混入し、それを飲んだ乳児がヒ素中毒になり西日本を中心に130名以上の死亡者、1万3千名もの中毒患者が出た事件です。
事件発覚当時は満足できる救済処置がとられなかったのですが、中毒の後遺症が14年後に発覚し被害者救済のためのさまざまな運動が再開され、15年後の1970年に初めて森永側がミルク中のヒ素化合物が原因であることを認めたという経緯があります。
中毒被害者のなかには今でも後遺症に苦しんでいて、2014年時点で約730名に障害症状が残っていて、事件発覚以降現在までに死亡した被害者の総数も1200名は超えると言われています。
事件の原因は?
森永ヒ素ミルク事件が起きた原因は粉ミルク中に混入したヒ素化合物ですが、どうしてヒ素が混入してしまったのでしょうか。森永では粉ミルクの溶解度を高める目的で、第二リン酸ソーダという化合物を添加することにし、試験段階では純度の高い試薬を使用していたのですが、生産に本格導入するときには純度の低い工業用の第二リン酸ソーダを使用してしまいました。 報道規制による隠ぺいも?森永ヒ素ミルク事件発覚当時の1955年、この事件はそれほど大きなインパクトはなく、十数年後に後遺症が発覚してから、それまで地道に活動してきた被害者の方々の運動を含めて大きく注目され再事件化されました。 森永ヒ素ミルク事件の犯人は?【8月24日】食の安全とは。森永ヒ素ミルク中毒事件を振り返る - NAVER まとめ 森永ヒ素ミルク事件の原因は、粉ミルクに混入したヒ素化合物です。この写真がその原材料です。ただ、このヒ素化合物を誰かが故意に混入させたということではないので、犯人に相当するような人物はいません。 森永ヒ素ミルク事件の裁判の判決・賠償金は?http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/morinaga-hiso-illustration.htm 事件発覚当時の判決・賠償金森永ヒ素ミルク事件が発覚した1955年(昭和30年)8月に、森永乳業徳島工場は「営業停止3カ月」の行政処分を受けることになります。この軽い処分には工場の過失が軽微と判断されたことと、工場に牛乳を納めている酪農業者への影響を考慮しての政治的な配慮があったようです。 後遺症発覚後の判決・賠償金1969年(昭和44年)、森永ヒ素ミルク事件は新たな展開を迎えることになります。「西沢委員会」で「森永ヒ素ミルク事件では後遺症は生じない」と宣言していたことをくつがえす調査結果を大阪大学の丸山教授が日本公衆衛生学会で発表、広島大学や岡山大学でも同様な報告があり、被害児の後遺症が明らかになったのです。 森永製品不売買運動も森永ヒ素ミルク事件発覚当初、森永乳業が「死者25万円、患者1万円の補償金」で終結宣言しようとしたのを契機に、森永乳業への怒りから消費者の森永製品の不買運動が全国各地で始まりました。当時、森永乳業は明治や雪印よりも大きなシェアを持っていましたが、裁判も長期化したこともあって企業イメージが損なわれてシェアを大きく落とす結果を招きました。 被害者の症状や後遺症は?森永ヒ素ミルク中毒の症状は?ヒ素は人間を含む動植物にとって必要な微量元素ですが、森永ヒ素ミルク事件の原因となった第二リン酸ソーダに含まれていた3価の無機ヒ素化合物になると強い毒性を示します。3価の無機ヒ素化合物による致死量は成人で100~300mgと言われています。料理で言う調味料一つまみの量です。 森永ヒ素ミルク中毒の後遺症は?森永ヒ素ミルク事件発覚から14年経過した1969年、大阪大学の丸山教授たちが被害児の追跡調査を行なったところ、67例中50例に何らかの異常が認められたことを公表、後遺症の疑いが濃厚になりました。その他の調査でも、森永ヒ素ミルク事件の被害児のなかに、脳性麻痺や知恵遅れなどで苦しむ人が多数いることが確認され、一旦終息していた森永ヒ素ミルク事件が再度注目を浴びることになったのです。 森永ヒ素ミルク事件のその後再発防止の対策は?森永ヒ素ミルク事件は食品への添加物に有毒な物質が混入していたものです。添加物そのものが安全であっても、その添加物に有害な物質が含まれる場合には危険なものになるという観点で、森永ヒ素ミルク事件後に食品衛生法の一部が改正されました。添加物の成分規格を定めた「添加物公定書」を作成する規定が設けられ、1960年(昭和35年)に「第1版添加物公定書」が作成されました。 森永ヒ素ミルク事件の現状は?森永ヒ素ミルク事件は1974年(昭和49年)、「森永ミルク中毒のこどもを守る会」が損害賠償請求の訴訟を終結することを決定して、発覚から19年で解決することになります。その年に、被害者の恒久的な救済を図るための財団法人「ひかり協会」が設立されて、今も安定的に救済事業が続けられています。 森永ヒ素ミルク事件の惨劇を二度と起こさないために森永ヒ素ミルク事件の原因や経緯をみてきましたが、今では信じられないような過失の他にメーカー寄りの第三者委員会や報道統制などによって後遺症などの被害が拡大してしまったと言えるでしょう。 編集部 この記事のライター Cherish編集部 人気の記事人気のあるまとめランキング
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