雪印集団食中毒事件とは?「私は寝てないんだ」不祥事の原因・その後

2000年に発生した雪印の集団食中毒事件は、被害者が15,000人余りにも及び、戦後の日本で最悪の食中毒事件となりました。平成の時代に入って10年余りが経過した時代になぜこのような事件が勃発委したのでしょうか。当時の状況を振り返って考えてみます。

雪印集団食中毒事件とは?「私は寝てないんだ」不祥事の原因・その後のイメージ

目次

  1. 1雪印集団食中毒事件とは
  2. 2雪印集団食中毒事件の経緯について
  3. 3社長の会見で大問題に発展
  4. 4なぜ雪印はこのような食中毒事件を起こしたのか?
  5. 5その後稼働再開も食中毒によって信頼は失墜
  6. 6雪印は過去にも食中毒事件を発生させていた
  7. 7雪印集団食中毒事件の影響とその後
  8. 8雪印集団食中毒事件を風化させてはいけない

雪印集団食中毒事件とは

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雪印集団食中毒事件とは、2000年6月に発生した集団食中毒事件です。

雪印乳業の大阪工場で製造された乳製品をスーパーなどで購入し、口にした多く消費者が下痢や嘔吐などの症状を訴えたことから事件が発覚しました。

幸いにもこの食中毒で死者は出ませんでしたが、被害者の数は最終的に15,000人あまりに達し、日本における戦後最悪の集団食中毒事件となってしまいました。乳製品ということで、被害者の中には1歳未満の幼児も含まれていました。

最終的には当時の雪印乳業の社長石川哲郎氏が、事件の責任を取って辞任に追い込まれるという結末に至りました。

雪印乳業大阪工場で製造された低脂肪乳などを飲んだ約1万3千人が2000年6月以降、下痢などの症状を訴え、飲み残し製品から黄色ブドウ球菌の毒素エンテロトキシンが検出された。

雪印集団食中毒事件の経緯について

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食中毒の被害届が続々と出される

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雪印の乳製品を飲んで下痢や嘔吐などの症状を発したという被害届が最初に出されたのは2000年6月27日でした。

翌日の28日になっても同じ内容の届け出が拡大し、翌29日に雪印は会見を開いて自社の商品を購入した人からの食中毒の被害届が出ていることを公表。

そして6月30日に大阪市は問題となった乳製品の回収命令を出しました。ちなみに問題となった乳製品は「低脂肪乳」でした。

問題の低脂肪乳は6月23日~28日大阪工場製造分

この食中毒の原因となった低脂肪乳は、雪印乳業の大阪工場が最初の被害届が出された6月27日の直前の6月23日~28日にかけて製造されたものだと分かりました。

食中毒を引き起こす要因となった毒素残存脱脂粉乳が大阪工場に入荷されたのが6月20日で、これを使用して低脂肪乳を製造した結果、大規模な集団食中毒事件を起こすに至りました。

ちなみに大阪工場は今回の食中毒事件の3か後の9月末に閉鎖されました。工場があった場所は、現在のJR大阪環状線の京橋駅の北側付近でした。

3か月前の停電が今回の食中毒事件の要因に

今回の食中毒事件の低脂肪乳が製造された時期は事件発覚の約1週間前ですが、もとは3月31日に北海道にある雪印乳業大樹工場で発生した約3時間の停電が大きな要因になっていることが事件後の調査で分かりました。

低脂肪乳の原料に使われる脱脂粉乳の製造過程において、停電で各工程が停止。停電が解消された後、各工程で滞留したものを取り除いて菌の増殖などを防いで製造再開という流れが当たり前だということは生産に携わっていない素人でもわかることです。

しかしこの時、雪印の大樹工場では、本来は処分しなけらばならない原料を再利用して低脂肪乳の原料となる脱脂粉乳を製造してしまいました。

その結果、対象の低脂肪乳を購入した消費者が下痢や嘔吐などの食中毒症状を発症するに至りました。

なお、北海道にあるこの大樹工場は食中毒事件から約20年が経過した現在も稼働しています。

事件公表後について

6月29日に雪印乳業が会見を開いて食中毒事件を公表した後、マスコミはこの事件を連日のように報道しました。

7月に入ると大阪市が大阪工場の立ち入り検査を実施。そして7月2日に大阪府立公衆衛生研究所は低脂肪乳から黄色ブドウ球菌のエンテロトキシンA型を検出したと発表しました。

大阪市はこの結果を受け、このエンテロトキシンA型が今回の食中毒事件を引き起こした原因物質として断定し、大阪工場を営業禁止にしました。

その後警察も動きます。大阪府警察署が業務上過失傷害の疑いで捜査を開始しました。

こうなりますと経営陣も責任を取らざるを得なくなり、7月6日に当時に雪印乳業の社長だった石川哲郎氏は事件の責任を取って辞任を表明しました。

社長の会見で大問題に発展

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「私は寝てないんだ」という問題発言

この雪印の集団食中毒事件を語る際に必ず出てくるのが、事件発覚当時社長だった石川哲郎氏の「私は寝てないんだ」発言です。

これは事件公表の記者会見を行った後、記者にもみくちゃにされながらエレベーターに向かう石川社長が記者に対して「質問はあと10分」と通告したことに端を発した騒動です。

その場から逃げ出そうとする社長に「なぜあと10分と時間を区切るんですか?」と記者が突っ込むと、「そんなこと言ったって私は寝てないんだ」と石川社長が発言しました。

大バッシングを受けた雪印の対応のまずさ

この「私は寝てないんだ」発言はとても大事件を起こした企業の社長の発言とは思えません。

従ってこの発言をマスコミが報道した途端、雪印と石川社長は世間から大バッシングを浴びることとなりました。

この集団食中毒事件では死者は出ていないとはいえ、被害者の人数が15,000人規模にまでなった大事件の記者会見ですので、このような無責任な発言を世間やマスコミが許すはずもありません。

また、この時代はまだ現在ほど「企業のコンプライアンス」ということも言われていなかった時代で、雪印社内に危機管理体制がまったく構築されていなかったことも浮き彫りになりました。

記者会見時のマスコミへの対応の拙さがそれを物語っています。

なお、食中毒の発生以降の対応もすべて後手に回り、このことも世間に悪い印象を与えたことは否めません。

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なぜ雪印はこのような食中毒事件を起こしたのか?

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雪印の品質管理体制の甘さ

雪印乳業が犯したこの食中毒事件は、きちんと衛生管理がされていて製造されてさえすれば起こるはずのない事象です。

各家庭に例えてみますと、停電で冷蔵庫が機能しなくなり、それが原因で腐ってしまった食材があったとします。この場合、この食材を使って料理など絶対にしません。

しかしこの時の雪印は、その腐った食材を使って料理をしたのと同じです。

品質的に怪しいものは絶対に世の中に出してはならないという品質管理の基本が徹底されていなかったということがこの事件で明確に露呈することとなりました。

品質管理に関する基本的な知識にも乏しかった工場

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この事件の全貌が明らかになっていくにつれ、食品の生産に携わったことのないわれわれ人が驚愕する事実が続々と報道によって明らかにされました。

のちの調査で問題を引き起こした脱脂粉乳の細菌数が雪印の安全基準を上回っていたことも明らかになりましたが、これについても製造現場では加熱すれば問題はない判断していました。

しかしこれが実はとんでもない誤解で、細菌から発生した毒素は加熱しても毒性消えないのが正しい答えです。つまり、雪印の工場の従業員は、このような品質管理に必要な基本的な知識を持たないまま日々の作業に従事していました。

この結果、世間の多くの人が「食の安全管理とはこの程度のものなのか」と驚いたと同時に、大きな不安に駆られることにもなりました。

雪印には工場が停電した際のマニュアルもなし

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今回の事件の直接的な要因はこの問題が世間に明るみになる3か月前の3月31日に大樹工場で発生した停電です。約3時間停電で止まってしまった製造ラインに残った原材料を使って脱脂粉乳を製造したことが原因です。

ちなみにこの停電ですが、めったに起こるものではありません。しかし、過去に1度もないというほど珍しいものではないはず。しかし雪印には停電になった際の製造、品質管理のマニュアルがありませんでした。

つまり、停電になってしまった場合、残として製造工程上にある原材料の使用の可否は、都度現場の一存で場当たり的に対応していたということが推測されます。

よくよく考えれば恐ろしい話ですが、この当時の雪印はこれが当たり前だったのでしょうか?

当時は業界の品質管理は完ぺきと言われていた

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ちなみにこの当時、雪印が集団食中毒事件を起こすまでは、乳業業界の衛生管理は他のどの業界よりも優れていると言われていました。

雪印は1998年1月に厚生省の定めるHAPPの基準である総合衛生管理製造過程の承認を最初に取得したのが、雪印乳業をはじめとする乳業関係の大手企業でした。

ちなみにこのHACCPを取得しようと、各乳業企業は、工場の生産ラインの作業手順のマニュアル化を図りました。

このマニュアルは非常に詳細まで記載されていたため、そのち密さから乳牛業界の品質管理体制は完ぺきと思われていました。

マニュアルは想定外の事態に対応できず

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しかしマニュアルというものは諸刃の剣です。

同じ作業手順が繰り返される場合はマニュアルの手順どおり進めていれば問題は起きませんが、今回の食中毒を引き起こす要因となった工場の停電など、イレギュラーの事態が起こってしまうとどう処理していいか現場の担当者は判断がつかなくなってしまいます。

日々の作業はマニュアルに縛られて遂行しているため、マニュアルどおりに業務を行うことのについては優秀でも想定外の事象が発生した場合の判断力が身につかないことになります。

結果、今回の大規模食中毒事件にかかわる大きな判断ミスを工場の現場は犯してしまいました。

会社全体でこのようなマニュアル頼みの体制がベストか?マニュアルの弱みまで想定していたか?となるとはなはだ疑問が残ります。

企業として油断もあったか?

HAPPCを取得し、「これでうちの会社の品質管理は世間から認められて絶対安心」という油断が社長、経営陣、さらには現場の従業員にまで意識が浸透していたようにも推測されれます。

完ぺきなマニュアルを作っても現場に携わる作業員が使いこなせるものでないとマニュアルの意味はありません

しかしこの事件が発生するまでは雪印の社内にそういった認識もなく、危機感も欠如していたと思われます。

その後稼働再開も食中毒によって信頼は失墜

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一応の区切りは年末に行われた

食中毒事件の責任を取って7月6日に石川社長は辞任しましたが、それで事態が収束したかというとそんな簡単なものではありませんでした。

その後、騒動に一端の区切りが打たれるまでに約半年間の日時を要します。雪印乳業が今回の事件の最終報告を発表したのが年末の12月22日で、この日で一応の区切りはついた形です。

「人の噂も75日」と言われるように雪印乳業が食中毒の最終報告を公表した年末はすでに世間の関心は別のところに移っているようでしたが、実際に被害にあってしまった方にとっては雪印の事件後の対応についても非常に注目していました。

工場の操業停止から操業再開へ

この食中毒事件は雪印乳業の大阪工場が引き起こしたものですが、「雪印のほかの工場は大丈夫なのか」という疑問を当然ながら多くの人が持つようになります。

結果、雪印乳業は7月11日に当時全国で稼働していた21の工場での乳製品の生産を停止しました。

その後、国が雪印乳業の全国の各工場へ立ち入り検査を行い、7月末から順次工場の稼働再開の許可を出しました。これにより、雪印は倒産という最悪の事態は免れ、失った信頼を取り戻す道が開かれることとなりました。

雪印商品の信頼は失墜

我ながら執念深さに呆れるが、雪印メグミルク商品未だに買わない(^ω^)
他よりちょっと安いんだけどね、でも選ばない。
集団食中毒事件の時の社長の逆切れ「寝てないんだよ!」発言が強烈すぎてな(^ω^)
KIRINはそこまではならんやろうけど(^ω^)どうなるのかなお今後
— 🦐かぴ腹させ子🐗 (@KDnan0umi_2q) 2018年4月30日

8月のお盆明けには大阪市が今回の集団食中毒事件の原因を、雪印乳業大樹工場で4月10日に製造した脱脂粉乳と特定。その中から出てきた黄色ブドウ球菌の毒素であるエンテロトキシンAが食中毒を引き起こしたことがこの時点で確定しました。

6月29日の社長の記者会見以降、全国の雪印工場の立ち入り検査などが行われ、8月のお盆明けになって食中毒の原因が特定されたということで、雪印としてはこの教訓を生かして再建に進むこととなりました。

ただし、いったん失った雪印に対する世間の反応は冷たく、この発表により、雪印乳製品の販売停止が広がりました。

信頼は構築するのは年数がかかるが、失うのは一瞬と言われます。この時の雪印の信頼の低下は、まさにこの言葉を地で行く結果となってしまいました。

2000年に集団食中毒事件、2002年に子会社による牛肉偽装事件を引き起こした雪印乳業は、解体と再編を経て2011年に雪印メグミルクとなったが、2016年には『雪印乳業史 第七巻』を刊行。雪印乳業としての最後の社史では、実に110ページ以上にわたって2つの事件を振り返っている。

組織体制やマニュアルの見直しも実施

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この事件の後,当然ながら雪印乳業は停電の際の対策なども含むた改善や、抜本的な組織の改革に取り組みます。

それまで複雑なっていた社内組織を大きく見直し、品質管理体制の向上のために社長直轄部署となる商品安全管理室も設置しました。

また、総合衛生管理製造過程(HACCP)の承認を受けた全国の工場に今回の食中毒事件の要因になった脱脂粉乳の毒素検査の義務付けも行いました。

また、雪印だけでなく業界もこの1件で動き、日本乳業協会は品質保証と危機管理マニュアルをまとめ,業界内への周知徹底を図って再発防止への取り組みも実施しました。

2000 年6月27 日、雪印乳業大阪工場(大阪市都島区)で製造された「雪印低脂肪乳」を飲んだ子どもが、嘔吐や下痢などの症状を呈したとして、大阪市保健所に食中毒の疑いが通報された。被害者1万3000 人〜1万4000 人ともいわれる前代未聞の食中毒事件の始まりだった。

雪印は過去にも食中毒事件を発生させていた

失敗百選

当時の教訓は生かされず

実は雪印乳業は、2000年の集団食中毒事件を起こす前にも食中毒事件を起こしていました。

それは1955年に起こした「雪印八雲工場脱脂粉乳食中毒事件」です。

2000年に集団食中毒事件を発生させた際にはこの1955年の事件のことはあまり報道されませんでした(年数が経過し過ぎだったからか?)

しかし1955年の事件も停電による原材料管理の不徹底が要因で食中毒事件を起こしており、45年経った2000年にまたほぼ同じ要因で食中毒事件を発生させてしまったということで、当時の教訓は全く生かされていなかったということが言えます。

ちなみに1955年の事件当時の雪印の社長佐藤貢氏は、「品質で失った信頼は品質で取り戻す」と全社員に通達をしていましたが、残念ながら時間の経過とともに雪印社内ではその理念は風化してしまっていたというのが実態です。

1955年(昭和30年)に東京都で発生した集団食中毒事件である。原因は、学校給食に供された雪印乳業(現:雪印メグミルク)製の脱脂粉乳であった。東京都内の学校給食で、輸入品の脱脂粉乳を日本産品に切り替えた日に発生した事件であり、日本産の乳製品の信頼性を一時的に損なう事件となった。

これは1955年(昭和30年)3月、八雲工場食中毒事件発生後に、当時雪印乳業株式会社の社長であった故 佐藤 貢が、「品質で失った信頼は品質で取り戻す」ことを誓い、全社員に対して発した言葉である。

雪印集団食中毒事件の影響とその後

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大手企業に対する安全神話の崩壊

この事件が起こるまでは消費者であるわれわれの中にも、「名の知れた有名企業の商品ならば安全」という単純な認識があったことも事実です。

従って細かいことにこだわらず、有名ブランドということだけで商品を購入していた人も多かったです。

しかしそういった漠然とした安全神話がこの事件でひっくり返されました。

「われわれはいったい何を信じて商品を買ったらいいのか?」と消費者の多くが悩みはじめたのもこの頃です。

時は昭和から流れて平成に突入していましたが、昭和の大量消費時代から企業体質を転換しなければならないということもこの事件を機に聞かれるようになりました。

マニュアルの怖さも指摘

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昭和の時代は作れば作るだけ売れた時代で、作業効率や低コスト生産といったことは二の次といった風潮がありました。要するに「作れ作れ」といったムードが漂っていました。

しかし時代は昭和から平成にかわり、社会背景も変化していくにつれて生産において重視する点も徐々に変化していきました。

作業の効率化を行ううえで効果的なのはマニュアル化です。毎日行うルーチン作業の場合、マニュアルを作っておけば万が一担当者が急遽欠勤しても変わりのものが代行して作業ができる強みもあります。

しかしマニュアルを重視しすぎると消費者の安全がおろそかになるという危険性があるという一面も今回の食中毒事件を通じて痛感させられました。

雪印は翌年に牛肉偽装事件も起こしている

雪印乳業の集団食中毒の事件後、親会社の不祥事ということで雪印グループの製品が全て撤去になるなどの事態も起こりました。

こうなりますと当然雪印グループ全体の経営も悪化します。

そしてそれに追い打ちをかけるかのように翌2001年にはグループ会社の雪印食品が起こした牛肉偽装問題が表面化しました。

これによって雪印グループは消費者の信頼をさらになくし、グループ全体の解体と再編を余儀なくされました。これが原因で、スポンサーになっていたテレビ番組が放送終了になるなど、各方面へ影響は広がっていきました。

雪印グループの統廃合

雪印グループは、2000年の集団食中毒事件とその後の牛肉偽装事件により、統廃合を余儀なくされました(雪印食品は廃業、雪印乳業は市乳部門を分割して日本ミルクコミュニティを創設)。

さらにその後も乳価の高騰などの影響で2009年に雪印乳業と日本ミルクコミュニティが経営統合を発表し、雪印メグミルク株式会社が設立されました。

石川社長の現在

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「私は寝てないんだ」発言で一時話題の人となった当日雪印乳業の石川社長ですが、現在は現役を引退し、隠居生活を送っています。

事件からすでに20年近くが経過し、人々の記憶からも消えつつあるこの事件ですが、石川元社長としても思い出したくない事件であることは間違いありません。

従って、本人の中では「もう済んだこと」となっている可能性が高いです。

石川氏はその後、辞任。出身校である小樽商科大学のOB会長を務めた後、今は隠居生活を送っている。最近の食品偽装事件の対応は、石川氏の目にどう映ったのか。自宅を訪ねると言葉少なにこう語った。
「もう過去のことです。いまは元気で過ごしています。もう済んだことなので申し上げることはありません」

雪印集団食中毒事件を風化させてはいけない

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雪印の集団食中毒事件が発生してもうすぐ20年が経過します。

この事件を機に乳牛業界だけでなく、他の食品業界も品質管理体制の見直しを行って今日に至っています。

雪印の事件では幸いにも死者は出ていませんが、この時の教訓を先々まで生かしていかないと再発は絶対にないとも言えません。

従って会社を挙げて全力で食の安全の意識を持ち続けることが雪印の使命だと言えます。

1955年の事件の教訓を生かせなかった反省も企業としては重く受け止めておかねばなりません。

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