2021年11月29日公開
2021年11月29日更新
東大ポポロ事件をわかりやすく解説!その後や周囲の意見
1952年、東京大学の演劇サークルであるポポロ劇団の演劇発表会の際にその場にいた私服警官が暴行を受けた「東大ポポロ事件」。この事件は憲法23条との関連で大きな話題を集めました。公務員試験でもよく取り上げられる東大ポポロ事件とはどのようなものだったのでしょうか
目次
東大ポポロ事件についてわかりやすく解説
公務員試験の専門科目で憲法の勉強をする人であれば必ずといっていいほど覚える最高裁の判例の1つに「東大ポポロ事件」というものがあります。憲法第23条の学問の自由だけでなく、大学の自治について勉強する際に避けて通ることのできない東大ポポロ事件ですが、一体どのような事件だったのでしょうか?
事件の概要はどんなものだった?
事件は1952年2月20日に東京大学の演劇系公認サークルであった「ポポロ劇団」の演劇上演会で起こったものです。上演された演劇の内容は、3年前の1949年に起きた松川事件(国鉄三大ミステリー事件の1つで、東北本線で起きた列車転覆事故。容疑者は最終的に無罪とされて真犯人が見つからず迷宮入り)をテーマにしたものでした。ちなみに大学から事前に上演会開催の許可はとってありました。
この上演会の際に、東大の近くにある本富士警察署の私服警官4名が観客の中にいるのを学生が発見しました。そして、暴行を加えたうえ、私服警官3名の警察手帳を没収し、謝罪文を書かせたというものです。
暴行を加えた犯人とは
私服警官に暴行を加えたとされる犯人は東大の学生でしたが、上演会の最中に私服警官がいるのを見つけた際に警察手帳の提示を求めました。
警察側や検察側の言い分としては、この警察手帳の提示を求められた際に警官の方が学生から暴行を受けたというもので、検察はこの際にあったとされる暴行行為を理由に「暴力行為等処罰に関する法律(暴力行為法)」違反で学生を起訴しました。
このために東大ポポロ事件として裁判所で審理がなされるに至ったわけです。
東大ポポロ事件が起こった要因や背景とは?
東大の公認サークル劇団の上映会がなぜ東大ポポロ事件という形に発展したのでしょうか?その原因は実は学生が私服警官から没収した警察手帳にありました。
というのは、警察手帳にメモされていた内容から、1950年7月ごろ(事件の2年ほど前)から私服警官が東大内部で学生の思想動向を調査していたことが明らかになったためです。
当時の日本は戦争の痛手から復興し、民主主義というものが浸透する一方、冷戦という国際情勢の中でアメリカ中心の資本主義陣営に属していたことから、警察は反政府色の強い労働運動や社会主義運動に警戒を強めていました。東大ポポロ事件の当時、劇団の上演会にいた私服警官が東大の学生の思想調査を行っていたことも当時の社会的背景を反映したものといえます。
司法による東大ポポロ事件の判決はどのようなものだった?
http://www.47news.jp/47topics/addon/index_43.html
東大内部の演劇団体の上演会の最中に起こった学生による私服警官への暴行や警察手帳没収という行為は、警察側が暴行を行ったとされる2人の学生を起訴したことで司法事件へと発展しました。
東大ポポロ事件は憲法23条にうたわれている学問の自由や、その学問研究の場である大学の自治、そしてそれに対する警察権力との対立が争点となり最高裁判所まで争われました。ここでは、各段階の裁判所(地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所)がどのような判決を下したかを通して、司法による判断がどのように推移したかを見ていきましょう。
事件の争点はどこにあった?
まずは、東大ポポロ事件の争点から見ていきましょう。
この事件で争点となったのは、憲法23条に定める学問の自由と、大学の自治、そしてそれらと警察の権力との衝突にまつわる点でした。
憲法23条では学問の自由について以下のように明記しています。
日本国憲法第23条:
学問の自由は、これを保障する。
実にシンプルに国民の学問研究の自由を保障する内容となっています。が、この条文だけだとあまりにも理解しにくいかもしれませんので、少し詳しい説明を付け加えます。
学問の自由規定が憲法に設けられている理由としては、戦前の大日本帝国憲法に学問の自由に関する規定がなかったために自由な学問が行われなかっただけでなく、時に国家権力による介入があり、結果として国家の暴走を許す一因になったことへの反省を踏まえたためです。
さて、憲法の解釈の際にこの学問の自由を制度的に保障する具体的な要素の1つに大学の自治というものがあります。つまり、大学のことは大学が自ら決めるというものですが、東大ポポロ事件では学生が私服警官に対してとった行為が大学の自治を守るための正当なものであったかどうかが主な争点となりました。
第一審での判決
以上を踏まえて、東大ポポロ事件にまつわる判例を見ていきましょう。なお、予備知識として日本の裁判のシステムについて見ておきますと、最初は地方裁判所で審議と判決が行われます。それで不服であれば1つ上の高等裁判所で審議と判決が行われ、それでもさらに不服があれば最高裁判所で審議と判決を求めることができる三審制をとっています。
さて、東大ポポロ事件の第一審は東京地方裁判所で行われ、その判決は1954年5月11日に出され、警官に暴行を加えたとされる学生を無罪とするものでした。その理由として、学生の行為は大学の自治を守る正当なものとみなされたためでした。
東京地方裁判所は、大学は「警察権力」や「政治的勢力の干渉、抑圧を受けてはならないという意味で自由でなければならない」という解釈で警察側(検察側)の訴えを退けたのです。
第二審(控訴審)の判決
東京地方裁判所の判決を不服とした検察側は、東京高等裁判所に控訴(高等裁判所に起訴すること)し、東大ポポロ事件の第二審が始まりました。
が、東京高等裁判所での第二審でも第一審と同じように学生側の無罪の判決(1956年5月8日)が下りました。
第二審の判決についても不服とした検察側は最高裁判所に上告(最高裁に起訴)しました。
最高裁の判例はどのようなものだった?
最高裁判所が下した東大ポポロ事件の最終的な判決は、それまでの判決を棄却するものでした。
最高裁はまず、憲法23条の大学の自治の主体を「研究者の組織である教授会や評議会」とし、大学の学生は「大学の自治と教授の有する学問の自由の効果として施設の利用が認められる営造物の利用者」にすぎないと解釈しました。つまり、大学の学生は大学の自治の主体ではなく、大学の施設やサービスの利用者とみなしたのです。
そして、ポポロ劇団の上演会が社会問題となっていた松川事件を題材としている以上、「実社会の政治的社会的活動」に相当するものとしました。そのうえで「公開の集会またはこれに準じるもの」として大学の学問の自由と自治の範囲外であるため、警察官がその場にいたことは大学の学問の自由と自治を犯すものではないと解釈されたのです。
東大ポポロ事件のその後はどうなった?
このように最高裁で一転して学生側の訴えが退けられた東大ポポロ事件は東京地方裁判所で再審議がされ、学生側の有罪が確定しました。なお、学生2人のうち1人が懲役6ヶ月、もう1人が懲役4ヶ月で、執行猶予は2人とも2年つきというものでした。
なお、学生側は控訴や上告もしましたが、いずれも棄却されています。
ちなみに2014年にも京都大学で私服警官が学内の過激派の情報収集を目的に無断で学内に立ち入ったということで、一部学生(過激派に所属)から暴行を受けるという事件が起きています。京大公安事件と呼ばれるこの事件は、その内容が東大ポポロ事件をほうふつとさせるものであったため、人によっては「京大ポポロ事件」とさえいわれるものでした。
東大ポポロ事件に対する批判や意見はどのようなもの?
当初、第一審と第二審で学生側が無罪であったものの、最高裁で検察側が勝訴してからは学生の有罪が確定した東大ポポロ事件ですが、事件から半世紀たった今でも批判意見は残っています。
主なものは2つで、判決について警察官が長期間にわたって(おおよそ2年ほど)当時の東大の学生の思想を秘密裏に情報収集していたことが考慮されていないという批判と、上演会自体が大学の許可を得たうえで開催されたものであり、その際の大学側の判断を尊重していないという批判です。
いずれも東大ポポロ事件が起こった際の背景にまつわる批判意見といえます。
東大ポポロ事件から見えた「学問の自由や大学の自治とは何か」という問題
http://weekly.ascii.jp/elem/000/000/197/197514/
1952年に起きた東大ポポロ事件について見てきましたが、いかがでしたか?
東大の公認演劇系サークルであったポポロ劇団の上演会に私服警官が調査を理由に観劇していたために学生から暴行を受けたことで事件へと発展した出来事ですが、同時に東大ポポロ事件は憲法のいう「学問の自由や大学の自治とは何か」という問題を突きつけることになりました。
そのため、公務員試験で憲法を受験する際にもこの問題は避けて通れないものの1つとなっていますので、特に公務員を受験するという人にはぜひともこの事件の背景やこの事件が突き付けた問題をよく理解していただきたいと思います。
また、大学という場所はとても自由にあふれていて、よほど過激なことになりさえしなければどんな学問を極めようと、どんな課外活動をしようと自由です。大学生の皆さんには有意義な大学生活を送って一生の宝にしてほしいものです。