515事件の概要・裁判の判決・きっかけと11本の指

昭和7年に起こった犬養首相暗殺事件が515事件です。世は昭和恐慌時代で、農村では生き抜く為に娘を売る家もあるほど貧困にあえいでいました。その事態をなんとかすべく海軍青年将校は首相を殺したと言われています。世論はこれを称賛し刑罰はとても軽い物となりました。

515事件の概要・裁判の判決・きっかけと11本の指のイメージ

目次

  1. 1515事件の概要を分かりやすく解説
  2. 2515事件の裁判
  3. 3515事件の関係者
  4. 4515事件のその後とは?
  5. 5515事件を元にした映画はあるのか
  6. 6515事件から学んだ事
  7. 7今問われる政治のあり方
  8. 8515事件は国民を守るため

515事件の概要を分かりやすく解説

教科書でならった515事件を分かりやすく解説します。515事件とはどんな事件なのか何故起こったのか、515事件後日本はどうなったのかを見ていきましょう。

そもそも515事件ってなに?

昭和7年(1932年)5月15日の夕刻に起きた反乱です。総理大臣官邸に武装した海軍青年将校たちが押し入り、当時の内閣総理大臣犬養毅を拳銃で殺害した事件です。

この日は日曜日で犬養首相は1日中官邸にいました。午後5時すぎ海軍青年将校たちは表門と裏門のふたてにわかれ午後5時27分頃官邸に侵入しました。この時官邸の警備にあたっていた警察官田中巡査に負傷を追わせています。

海軍青年将校たちが侵入した時刻、犬養首相は食堂におりそこへ実行犯の1人の三上が到着するとすぐさま拳銃の引き金を引きます。しかし、玉が入っておらず銃殺に失敗すると犬養首相は「話せばわかる」と三上を応接間に連れていきこれからの日本のあり方などを話して聞かせようとしました。

そこへ裏から侵入した黒岩隊が到着し、黒岩勇は迷わず犬養首相の腹部を撃ち抜きます。続いて三上が犬養首相の頭部を銃撃し直ちに撤退しました。

異変に気づいた女中が犬養首相を見つけた時には犬養首相はまだ息があり、「今の若者を呼んでこい。よく話して聞かせるから」と強い口調で語ったそうです。しかし、次第に衰弱し深夜息を引き取ります。

犬養首相は武力より言葉の力を信じていた政治家です。その信念は若い将校たちには届きませんでしたが、死ぬまで貫いた政治家としての姿勢は現在でも高く評価されています。

515事件のきっかけとは?

515事件のきっかけは3つあります。1つ目は昭和恐慌、2つ目は満州事変、3つ目は海軍軍縮条約です。この3つについて詳しくみていきましょう。

515事件のきっかけ1つ目~昭和恐慌~

昭和5年(1930年)から昭和6年(1931年)にかけて日本経済を危機的状況に陥れた、戦前の日本における最も深刻な恐慌の事を昭和恐慌といいます。

何故日本の経済が恐慌を迎えてしまったのか、それは昭和4年(1929年)の秋にアメリカが世界中を巻き込みながら起こした世界恐慌の煽りを受けた為です。

当時日本は第1次世界大戦により好景気を迎えていました。それに加えて金融引き締め策などにより3億の正貨が用意され昭和4年11月22日には翌年1月11日もって金解禁に踏み切ると大蔵省令を出していました。

しかし昭和4年10月にニューヨークのウォール街にて株が大暴落したことにより世界恐慌が始まってしまいます。アメリカで起きた世界恐慌が日本に到着したのは、日本が金解禁に踏み切った頃でしたから、日本経済は二重の痛手をおい一気に不景気が始まりました。

これのより民衆は貧困にあえぐこととなります。また、関東大凶作に見まわれ作物が売れず農村部の生活は成り立たなくなり、農民は年頃の娘を売る事で生きながらえていました。

この事態は農村出身者が多くいる軍の怒りをうみ、軍の政府への不満を高めていく事となり515事件を誘発してしまいます。

515事件のきっかけ2つ目~満州事変~

昭和6年(1931年)9月18日、関東軍によって満州鉄道の路線が爆破されます。関東軍はこの爆破を中華民の仕業として満州全土を占領していきます。昭和8年(1933年)5月31日のとうこ協定に至るまでの関東軍と中華民国との紛争が満州事変です。

実はこの時の軍事行動は陸軍の独断で行われていました。天皇陛下も政府も反対の意を示し軍事不拡大を命令していたのです。

軍がこのような行動を起こしたのには訳があります。日露戦争により手に入れた満州北部の土地にかなりの投資を行い日本人も多く移り住んでいましたが、1912年に建国された中華民国によって返還を求められ、その地に住む日本人は迫害を浮けていた事や、日本国内の不況を打破すべく大陸進出が必要であると信じていた事などが理由です。

しかし昭和時代は天皇陛下は神であり天皇陛下の命令はどんなことでも絶対でした。その天皇陛下の軍事不拡大の命に反した事は大権干犯に値するため陸相・参謀総長の辞職も検討されています。

参謀総長が辞職すれば後任を誰にするかの問題もあり、後任について軍の抵抗もあることを考え若槻首相は満州で起きた軍事について事後承諾という道をとります。

この事が政府の弱さをさらけ出す結果となり軍がより強気で政府に物を言うきっかけとなります。国内の不況を打破できない政府への不満も重なり、軍人によるクーデター515事件のきっかけにもなりました。

515事件のきっかけ3つ目~海軍軍縮条約~

第1次世界大戦後も戦勝国の連合国側は戦艦の増長をやめませんでした。イギリス・アメリカ・日本の三か国の艦隊建造競争はひどく、これに歯止めをかけるべくワシントン会議が開催されそれぞれの国の艦隊保有率の取りまとめが行われました。

この結果イギリス・アメリカ・日本の保有率は5:5:3となり、これに調印したことにより海軍の怒りを買うことになります。

この条約の中には建造中の戦艦はただちに破棄という項目があり、ワシントン会議開催までに完成していなかった「陸奥」が破棄と対象にあげられました。陸奥は超弩級戦艦で日本としては何としても死守すべく、東経110度より東に海軍基地や要塞を置かない事を条件とし受け入れられました。

結果的には最も利益を得たのは日本なのですが、海軍基地などの制約があったにも関わらず海軍には何も知らされていなかったことが、海軍の反発を強めた事は言うまでもありません。

海軍にも農村部出身者が多くいた為当時の政府にたいする不満も高く、それに加えて海軍軍縮条約を結ばれ堪忍袋の尾がきれ515事件へと発展します。

515事件は何故起こったのか。

昭和3年ニューヨークにて株が大暴落して世界恐慌が始まります。その翌年日本も大不況となり昭和恐慌が始まりました。昭和恐慌の真っ只中でロンドンでは海軍軍縮条約が結ばれ海軍軍人の政府にたいする不満が高まりました。

一方満州では中国国民党の妨害やソ連の暗躍により利権が脅かされ、昭和6年現状打破のため関東軍が満州事変を起こしました。我慢を続けてきた日本国民はこの行動に喝采を送りました。

同時期の日本国内は餓えに苦しむ民衆が増え農村部では娘を売る行為が日常化した背景から国家社会主義とも言うべき思想が蔓延します。貧困に喘ぐ国民がいる一方、大資本家が経済力搾取を行いこれを助長している政党政治を倒さなければいけないという思想です。

515事件が起こる2~3ヶ月前には血盟団による前蔵相・井上準之助、三井財閥の團琢磨殺害事件が起こります。これは民間人がテロを起こせば政府へ不満をもつ海軍青年将校たちも重い腰をあげ行動を開始するだろうと目論みがあったと言われています。

当初海軍青年将校たちは陸軍の方にも共に事を起こそうと提案していましたが、陸軍上層部がこれを阻止した為、海軍青年将校たちは自分たちだけで行動を起こす事になりました。

515事件は若い軍人による世直しであったのです。

515事件という名のクーデター

515事件事件を語る文献をみていると515事件をテロ行為とする見解とクーデターという見解が見受けられます。しかしテロとクーデターでは意味合いが異なります。

テロとクーデターの明確な違いは政権を求めるか否かではないでしょうか。テロは暴力的行為により考え方の主張を行い、多くの民衆が犠牲になります。クーデターとは暴力的行為により考え方の主張をするまでは同じですが、民衆が犠牲になることは少なく政府要人などが攻撃対象とされ最終目的は政権の奪回です。

では515事件を語る中でテロとクーデターという2つの言われ方をするのは何故なのか、それは515事件を単体事件とみるのか、歴史的背景と515事件前や同時期に起きた事件との関連性を見るからによって異なった見解になると言えるでしょう。

515事件は一見すると海軍青年将校たちが不況に喘ぐ国民を救うべく個人の意見で動いたテロと受け取れます。でも実は515事件が発生する少し前から国家社会主義思考をもつ者たちが計画していたとても規模の大きなクーデターなのです。

226事件と515事件の違いは何処に?

226事件と515事件は大義名分は似ています。どちらも軍人ご起こした事件で貧困に喘ぐ民衆の生活改善が目的です。しかし、軍人の所属して場所や当日の流れ、刑罰は全く異なるものです。

まず、515事件は海軍青年将校が起こした事件に対して226事件は陸軍青年将校が起こした事件です。また、515事件は志を同じくする者20数名での決行だったのに対して226事件は陸軍青年将校が軍隊を動かして起こした事件です。参加人数の規模がかなり違いますし、226事件は私的な事に公の軍を動かすというあってはならない事が起こっています。

そして、最も違う点は裁判結果です。515事件では、実行犯に対して同情や同調があり多くの民衆の嘆願書により515事件の主要人物3名に対してですら禁固13年~15年、その他に関しては禁固4年ととても軽い刑罰になっています。誰一人死刑判決を受けていません。

それに反して226事件では民衆の同情同調は得られず、天皇陛下の怒りを買ったこともあり主要人物十数名にたいして死刑判決が出ています。これは実行犯たちにとって大誤算であったと獄中にて語られたそうです。

226事件を起こす前に実行犯たちは捕まっても死刑判決はでないと思っていたと記録があります。この事件の4年前に起こった515事件の判例を参考にした考えでしたが、そんな事を考えて世直しを掲げても民意が掴めるはずもありません。

515事件の裁判

515事件に関わった海軍軍人は海軍刑法の反逆罪に問われ海軍軍法会議にかけられ、陸軍士官学校の本科生たちは陸軍刑法の反逆罪を問われ陸軍軍法会議にかけられ、民間人は爆発物取締罰則違反として東京地方裁判所でそれぞれ裁かれました。

当時の政党政治の腐敗に対する反発から515事件の実行犯たちの為の助命嘆願運動が起こり100万を越える署名が集まりました。

この裁判を担当した弁護士林逸郎は弁論を2つに絞り裁判官に訴えました。民意が515事件の犯人たちにあるのは嘆願書で明らかですから勝機はあったようです。

まず1つ目は支配階級の横暴を訴えます。民衆が知らなかった様々な汚職や癒着等を提示し政党政党の腐敗を暴露し、515事件は起こるべくして起こった世直しであるとしました。

2つ目はロンドン海軍軍縮条約への不満があったと訴えます。海軍に知らされる事なく結ばれた条約は遺憾であり政府が軍に口出すべきでないと訴えます。

こうした林弁護士の論弁と民衆の嘆願書、それともに送られてきた11本の指で515事件の判決は軽い物となり林弁護士は高く評価されました。

11本の指とは?

陸軍軍法会議に提出された35万7千余通の嘆願書と共に提出されたのは11本の切断された指でした。これは陸軍軍法会議にかけられた実行犯の人数と同じ数でした。

11本の指には民衆が515事件の犯人と同じ意思を持っている事が表れています。また、実行犯たちが法廷で餓鬼に苦しむ民衆のために泣いた事から民衆は更に同調しました。

民意に背いて極刑を課したり、求刑通りの8年を申し渡すと民衆の反乱が起きるのではないかと当時の判士長は危惧し、判決は一律禁固4年となります。

他にも515事件の裁判中は助命を訴え列車に飛び込み自殺をする女性がいたり、命に変えて515事件の犯人の命を救おうとする動きが活発でした。

515事件の犯人たちに下された判決とは

助命嘆願書や敏腕弁護士による弁護にて下された実際の判決は現代社会では考えられない程軽いものです。

まず海軍青年将校山岸宏、三上卓、黒岩勇ら3名は禁固13年~15年、陸軍士官学校本科生ら11名は禁固4年、民間人の橘孝三郎が無期懲役となっています。他にも515事件には農民決死隊が関わっていましたが彼らは特に裁かれたという記録はありません。

515事件の主犯格たちより重い無期懲役を課せられた橘孝三郎は、愛郷塾生を使い農民決死隊を作った事を逆手にとられ515事件の新の首謀者扱いをされた為です。

515事件からおよそ1年後新聞にて事件の全貌や判決等が公表されました。当時の新聞は515事件を農民労働者の為の人民改革と位置し、515事件の犯人たちを純真無垢なる憂国の志を持った者として記事で誉めちぎっています。

515事件の関係者

515事件の関係者といえば、加害者の海軍青年将校、陸軍士官学校本科生、愛郷塾講師橘孝三郎、愛郷塾塾生、被害者の犬養首相とその家族です。

彼らは皆自分たちの信念に基づき生きていました。515事件で見せた彼らの姿はほんの一部にすぎません。

被害者、犬養毅首相

1855年6月4日、庭瀬藩郷士の次男として誕生しましたが、犬養が2歳の時父親が他界し苦しい生活を送っていました。幼い頃から勉学にはげみ1876年に上京し慶応義塾に入学し、在学中に新聞記者として西南戦争を取材します。

1882年には立憲改進党に入党し政治家人生をスタートさせます。一見順風満帆にみえた政治家人生観ですが、1913年を境に辛辣をなめ小党を率いる時代もあります。それでも犬養が演説を行えば聞いている者の背筋が寒く成る程の迫力があったそうです。

犬養は政治家人生50年の中で様々な役職を勤めます。文部大臣を2回、逓信大臣2回、外務大臣内務大臣それぞれ1回勤めそれぞれの役職で活躍をみせます。犬養が内閣総理大臣に選ばれ決定的な事項は、満州事変です。

関東軍が独断で行った満州事変を中華民国との対話により解決しようとした姿勢が評価を得、内閣総理大臣へと登り詰めることができました。

犬養首相は言葉の力を信じ、武力ではなにも産み出さない事を知っていました。皮肉にも武力反対の姿勢が軍の反感をかい暗殺へと繋がります。

1932年5月15日、首相官邸に踏みいった海軍青年将校の手により76年の生涯を終えます。撃たれてもなお話して聞かせようとした信念の強さは現代にも語り継がれています。

犬養首相の家族

515事件が起こった後の言葉として安堵したという言葉があります。犬養首相には3人の子供がいましたが、515事件が起こってから大分たってから発表されています。

犬養首相の家族はいつか暗殺されることを危惧していたようです。515事件の事を家族は「なるべくしてなった」や「不謹慎かもしれませんが、やるべき事が終わって安堵感がありもう何も心配要らないのだと実感しています」という言葉が残されています。

当時の首相にどれ程敵が多く、家族が毎日不安で眠れぬ日々を過ごしていたことがよくわかるコメントです。起こるべくして起こったと理解を示せる程重圧があったようです。

また515事件の実行犯に対して愛国無罪の精神をよしとした国民の反感を恐れたとも言われています。

愛郷塾、橘孝三郎

1893年3月18日茨城県常磐村にて生を受けた農本主義思想家、政治運動家です。橘孝三郎の思想は農本主義思想で日本ファシズムに位置付けられています。

農業は国の基という考え方で近代化に意義唱えていました。その結果515事件において変電所爆破を試みます。電気は近代化を示す最も分かりやすい物です。これを爆破することで天皇陛下に忠誠心を表せると考えていました。

何故ならば橘始め日本ファシズムの考え事方には天皇家は稲の神様に感謝を示し稲の神様の治からを国民に分け与えるという考えを持っていたからです。

515事件において変電所爆破は彼らにとって忠誠心の他何者でもありませんでした。

血盟団とは

血盟団とは1932年2月~3月にかけて発生した連続政治家暗殺テロ事件の犯人グループです。勿論515事件にも関わっています。

僧侶の井上日召らを主導者とする右翼のグループですから、愛郷塾の橘孝三郎と思想もあい仲間になるのに時間はかかりませんでした。しかし、血盟団自体は「一人一殺」を掲げ井上準之助や團琢磨を暗殺したことにより、散り散りになりました。

古賀清志と中村義雄は3月31日に血盟団の残党を集めて橘孝三郎の愛郷塾を決起させ、更に陸軍士官学校の本の科生を引き込み数ヶ月後に515事件を起こします。

海軍青年将校~山岸宏中尉~

515事件の実行犯の一人、山岸宏中尉は実行犯のとりまとめ役でした。話せばわかると制する犬養首相に対して「問答無用、撃て」と指示したとあります。

総理官邸に押し入ったのは海軍青年将校4名と士官候補生5名でしたが、山岸はその中でも一番上の位でした。ですから直接撃った三上や黒岩は山岸の撃ての号令に体が反応したそうです。

515事件の裁判では禁固10年の判決が申し渡されましたが、昭和13年に仮釈放されています。

海軍青年将校~三上卓中尉~

1905年佐賀県に産まれた三上は佐賀中学を卒業後、海軍兵平学校に進みます。1926年に海軍兵平学校を卒業しそのまま海軍に入るのですが、1930年に「青年日本の歌」(昭和維新の歌)の作詞を手がけた事でも有名です。

この作詞から僅か2年後、1932年に515事件を起こします。三上は犬養首相の頭部を撃ち抜いた実行犯のため裁判では死刑を求刑されたものの判決は禁固15年でした。

判決から僅か5年後の1938年には仮釈放された直後に海軍省山本五十六次官に面会している意味は何なのか今なお研究されています。

515事件以降も思想を変えることはせず、政界にも留まっていましたが、第2次世界大戦の終戦を迎えた1946年公職追放を受けました。

海軍青年将校~黒岩勇少尉~

515事件で官邸にはふたてにわかれて突入しています。黒岩は裏から突入しましたので応接間を探し当てた時には山岸中尉、三上中尉が犬養首相と話してい所でした。しかし、犬養首相の話を遮り山岸中尉が撃ての号令をかけた為、山岸中尉の横を玉がすり抜ける形で犬養首相の腹部を撃ち抜きます。

黒岩は政府に対して無意味な戦争をし民衆を貧困に陥れた事を怒り、犬養首相に対して日本人を迫害している中華民と親好を深めていることに憤慨していました。日本を救うには政府を倒すしかないという強い信念と、上官からの号令で条件反射的に発砲したのです。

致命傷ではなかったですが、首相に対して発砲した為死刑を求刑されるものの、判決は禁固15年でした。黒岩もまた僅か5年で仮釈放となっています。

後継の首相は誰にするか

515事件で暗殺された犬養首相は「憲政の神様」と言われた大政治家です。加えて暗殺者は軍人と言うこともあり、後継者を誰にするかは難航を極めました。

総理大臣を推薦する立場の元老西園寺が興津から上京し、牧野内大臣の勤めもあり多忙を極めていました。その為これまで首相を経験した者たちから意見を聞くに留まりました。天皇陛下からは人格の立派な者、ファシズム思想の者は絶対反対という希望が言われていました。

何より犬養首相は軍縮条約に反対していた人物で言わば軍の味方とも言うべき発言を重ねてきた人物にも関わらず軍人によって暗殺されたのです。これにより軍を蔑ろにすると報復があるかもしれないという不安が政府に漂っていました。

その不安は的中し軍の発言力は日に日に強くなり西園寺は政党内閣を断念せざるおえなくなります。暴走する軍を押さえるために、元海軍大将で性格が穏健な斎藤実を推薦し、天皇もこれを了承しました。

斎藤実とは

1858年岩手県にて生を受けた斎藤は、海軍で大将となった後政界でも頭角を表します。海軍大臣を4回勤め、斎藤内閣では外務大臣文部大臣を兼任していました。他にも内大臣や朝鮮総督などの経験があり、彼の政治家としての能力の高さが伺えます。

当時としては珍しく採銅所内閣は2年あまり続きました。斎藤は若い頃から英国を得意としていて外交力もあり、正式な会議以外では通訳を必要としなかったそうです。国内外と上手く関係を築き内閣を運営していましたが、帝人事件により政府批判が高まり内閣総辞職をします。

内閣総辞職後に内大臣として宮使いをしますが、ほどなくして226事件がおき青年将校によって暗殺されます。

515事件のその後とは?

515事件の発生により日本国内はどのような変化を遂げたのでしょうか。若き青年将校たちが望むような誰しもが豊かで実娘を売り買いする日常を手放せたのでしょうか。

国民に与えた影響は

515事件の発生により国民は軍に対する信頼を高めたといっても過言ではありません。何故ならば大正期から政党政治家による汚職事件が後を絶ちませんでした。また、政党は貧困にあえぐ国民を省みず無意味な戦争を繰り返していたからです。

この時国民は完全に政党政治に絶望し軍や右翼により現状打破されることを期待しているところに起こったのが515事件です。つまり国民テロリストを求めていました。

その為515事件の実行犯たちに国民は非常に同情や同調を示し喝采を浴びせていました。515事件によって自分たちの生活は変わると信じていたようです。

515事件、メディアの反応は?

購買数を増やすために各種メディアはこぞって515事件を書きました。国民の関心が515事件に有りましたし、国民の同情を煽るように515事件の犯人たちを美化して伝えていました。

裁判は東京で行われていましたが、メディアが大きく取り上げる事で地方の民衆も裁判の行方を知る事が出来ました。しかし政府が515事件を取り上げる事を許可したのは事件から1年後でしたから、事実を素早く伝えるのではなく物語のように書くことになり、現在のメディアのあり方とはすこし異なる節を持っていました。

それでも515事件を取り上げる事で購買数は確実に増えたと言われています

国民生活はどうなった?

貧困にあえぎ暗い毎日を送っていた民衆にとって、政党政治を攻撃した海軍青年将校たちは光となりました。先の見えない毎日を照らした光の為に国民は声をあげ助命運動を展開します。

国民の経済的生活という意味では何ら変化は無かったのですが、生活の中に光が見えただけで精神的な面は強くなり明日への希望を持ったそうです。

515事件は国民がやりたくても出来なかった事を彼らがやってくれた訳です。そんな彼らの為に指を差し出す事くらい訳ありませんでした。515事件の裁判が始まると国民の主張は非論理的な物となります。

その一例が助命運動のための自殺です。国民が電車に飛び込んだから救われる保証はないのに、彼らの変わりとも言うように自らの命を絶って、彼らを救うよう訴えるやり方は異常だと言えます。

515事件の発生から判決がでるまでの国民生活はファシズムに犯されていたと言えます。

515事件を元にした映画はあるのか

現在515事件だけをもとにして作られた映画はあまりありません。大体が515事件と226事件を参考に作られています。また、515事件の判決が甘すぎた為におきたと言われる惨劇があるため、515事件を扱うのは226事件のきっかけを語るに必要なときにすこしさわる程度で留める映画を目にすることは多いです。それほど、515事件は日本にとってショッキングな出来事だったようです。

重臣と青年将校 陸軍流血史

1958年公開の「重臣と青年将校 陸軍流血史」は昭和初期の日本を舞台に軍人目線で政府や要人をみ、不況に耐えながら生活する民衆の為に発起する青年将校たちの戦いが絵がかかれています。

張作霖爆破事件に始まり515事件と226事件を織り混ぜながら当時の時代背景などがかかれています。若き青年将校たちは何を想い、何の為に戦ったのかが鮮明に表現され、日本は何故ファシズム的思考が蔓延したのか分かりやすく写し出されています。

この映画で515事件が描かれている場面は少ないですが、当時の青年将校たちの葛藤が上手く表現されていますし、実行犯からみた事件をしるには適材です。

動乱

高倉健さんと吉永小百合さんが初共演した作品で1980年公開されました。第1部「海峡を渡る愛」第2部「雪降りやまず」の構成で昭和史の起点となった515事件から226事件までの風雲急を告げる時を背景に寡黙な青年将校とその妻を描いた作品です。

不況の犠牲者となった民衆目線と正義を信じ世の中を変えようとする流れにのる軍人目線のシーンを織り混ぜながら、強く生きた国民の1つの姿が描かれています。

人を愛しただ平凡に生きることさえ難しかった時代に、お互いを想い尊重しながら夫婦の形を見つける愛の物語のため、515事件はさほど詳しく描かれてはいませんが、時代背景や当時の軍人のあり方をしるには適しています。

515事件から学んだ事

515事件は今では教科書ですこし習う程度ではっきりと理解している人が少ないのが現状です。歴史学者の中でも犬養首相は勘違いから殺されたという意見と正当な暗殺という意見がある程、515事件についての資料は少なく受け取りかたによって変わる歴史です。

確かに言えることは現代の日本はこうした暗殺事件はまずあり得ないと言うことです。では515事件を通して現代人は何を学んだのでしょうか。

515事件の反省を生かした法律

515事件では直接暗殺を実行した三上や黒岩でさえ極刑は免れ禁固刑になっています。こうした背景には、民衆の助命運動もあるのですがそれよりも裁判長の保身があったと言われています。

当時の民衆が軍人の方を持っていたので、世論を敵にまわせば自分が殺されかねないと身の危険を感じたという記述があるほど政党政治は衰退していました。

現代の法律は裁判員制度により謂わば多数決で判決が決まります。また、515事件等過去の事件を学び裁判員となった人の身の保証をするためランダムで秘密裏に決定され、判決が出るまで裁判員であることは極一部の人のみが知りえる事実としています。

また、いついかなる場合でも公平で政府を始め軍にも民衆にも流されない為に司法の独立を図りました。

515事件の反省から変わった軍

515事件をきっかけに軍の力が強くなり力こそ全てという日本が出来上がります。軍が政治を支配するようになり、第2次世界大戦が勃発し多大なる被害が出て今でも苦しむ国民がいます。

第2次世界大戦後、それまで日本国民とって神であった天皇陛下は人間であると宣言し軍隊を解散しました。自国が攻めらるた時には守る物が必要と言うことで自衛隊として保持していますが、自衛隊は決して侵略したり攻めたりすることはありません。

勿論軍の解体にはアメリカのGHQが深く関わっていますが、515事件をきっかけに崩壊した政党政治が続いていれば第2次世界大戦もなかったと言われています。

現代人からみれば自衛隊以外の軍は想像しにくいのですが、今まさに法律をかえ軍の保有を認めようとする政府になっています。

今問われる政治のあり方

515事件から80年を過ぎた現在、平和に慣れ過ぎた政治家や国民が溢れています。515事件を起こした青年将校たちが現代をみたときどう思うのか、第2、第3の暗殺が起こらないのか515事件を起点に考えて見ましょう。

515事件当時の政府と現代の政府

515事件当時は大正デモクラシーにより政党政治が始まったばかりでした。しかし、野党と言われる党は反対の為の反対をするという点においては現代と同じと言えます。

犬養首相もまた野党時代は軍縮条約に反対していたものの彼の思想としては軍縮には賛成で軍費を削り国民生活にまわすべきという考えをしていました。また、与党になったとたん手のひらを返して政府に反抗する軍人30名を排除しようとします。

コロコロと言うことを変えるのは、政治家としてあるまじき行為で軍は犬養首相を裏切り者として処刑したのが515事件です。

しかし、現代の政治家も言うことをコロコロと変えますが、暗殺を企てる者がいないのは国民自体が平和になれ青年と言われる年代は、戦争すら知らない世代であるが為だと指摘する評論家もいます。

現代人は暗殺するよりもネットを駆使して陥れネットを通じて意義を唱えますから、政治家が国民の意見を軽んじる節があるのは否めません。不況に苦しむという観点からいくと現代人も515事件当時と変わりはないと言えるでしょう。

515事件当時の国民生活と現代の国民生活

515事件当時と現代の国民生活を比較すると物質という面においては豊かになりました。しかし、凶作や天変地異という自然現象による生活困難度はさほど変わりません。

現在も台風直撃で不作続き野菜の高騰がありますし、海があれ魚も取れない状況です。また、515事件当時は貧富の差がはっきりし過ぎていた為人身売買が行われて目立つ結果になりましたが、現代は家単位でやらないだけで売春という形で人身売買は行われています。

また、政府は貧困層に目を向けることはなく税率の引き上げ等を行っていますので一般市民の生活は515事件当時とさほど変わらないと言えるでしょう。

515事件は国民を守るため

515事件は国民の生活改善が目的のクーデターです。軍人は大なり小なり規律に重んじ天皇陛下や国民を守る為に命をかけて戦いいます。515事件の実行犯たちもまた国民の生改善するため暗殺を犯しました。

されどそれは許すべき行為ではなかったのはのちの226事件がものがっています。それでも、現在において515事件を起こしたような愛国心溢れる若者が必要なのではないでしょうか。インターネットを通して抗議するのもいいでしょう。

貧しさに耐えるだけでなく民主主義国家ならば国民の意見に耳を傾けなければ515事件のような悲しい事件が起こるかもしれません。

訴えかたは確かに間違えましたが、当時はそれが正解であったと言えます。その事を肝に命じ政治家任せの日本ではなく民衆による政治行いましょう。

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