新潟少女監禁事件を徹底解説!佐藤宣行と佐野房子のその後と現在は?
新潟少女監禁事件は、当時9歳の少女を犯人の佐藤宣行が誘拐、監禁した事件です。少女が監禁された期間は約10年にも及ぶ上、多岐にわたる関連人物が関わる事件でもあります。本記事では新潟少女監禁事件の全容と要点についてみていきましょう。
目次
【新潟少女監禁事件】とは
※この事件には悲惨な内容が含まれますので、閲覧にはご注意ください。
新潟少女監禁事件とは、1990年の11月に当時9歳の少女が佐藤宣行被告によって誘拐された事件です。その後加害者宅から2000年の1月に発見されるまで、少女は約10年間も加害者によって監禁され続けました。
加害者と被害少女以外にも関連人物である加害者の母親、医療関係者、新潟県警も注目が集まった事件でもあります。とりわけ新潟少女監禁事件においては新潟県警の事件関連人物による杜撰な対応が、新潟少女監禁事件の発覚が大幅に遅れたのではという指摘もあるようです。
【新潟少女監禁事件】の経緯
新潟少女監禁事件が起きる約1年前、佐藤宣行被告には少女誘拐未遂で逮捕された経歴がありました。犯人に逮捕歴があるにも関わらず、なぜ新潟少女監禁事件の被害者は約10年もの間、誰にも知られることなく少女を監禁し続けることができたのでしょうか?
事件の1年前に誘拐未遂
佐藤宣行被告は、新潟少女監禁事件の1年前にも少女誘拐未遂事件を起こしています。この時は誘拐されそうになった少女の同級生が事件に気づき、教員に通報したため事なきを得ました。この時の被害者の少女は新潟少女監禁事件とは別人です。
通報を受けた教員により佐藤宣行被告は現行犯逮捕され、逮捕後に懲役1年、執行猶予3年の有罪判決を受けています。この時は初犯であったため、実刑判決とはなりませんでした。しかし、この事件で警察のとった行動が後々問題視されることになります。
本来であれば、佐藤宣行被告の名前が性犯罪前科者リストに掲載されるはずでした。しかし実際には、新潟少女監禁事件発覚後に判明するまで、犯人の名前がリストに掲載されないままになっていました。
被害者少女佐野房子を誘拐する
新潟県三条市の農道を1人で下校していた当時9歳の佐野房子さんに気づいた佐藤宣行被告は、少女を誘拐することを決意します。
被告は運転していた乗用車を少女の近くで停止させた後、刃渡りが約14cmのナイフで少女を脅し、車のトランクに押し込めました。その後、粘着テープで少女の両手首両膝を拘束、目隠しを行った上で自宅の一室に連れ込みます。
少女の監禁が約10年に渡った理由の一つは、前述した新潟県警による前科者リストの記載漏れでしょう。通常、強姦罪などを犯した性犯罪者は再犯率が高いことが知られており、新潟少女監禁事件のような場合には真っ先にリストの洗い出しが行われます。当時も新潟県警によって洗い出し捜査が行われていたはずです。
1年前に誘拐未遂で逮捕されたにも関わらず、佐藤宣行被告の名前が容疑者候補として捜査線上に上がらなかったのは、新潟県警の当時の杜撰な対応が招いたものといえるでしょう。
【新潟少女監禁事件】の犯人とは
新潟少女監禁事件の加害者である佐藤宣行被告は一人っ子で、両親に溺愛されていました。甘やかされた影響なのか非常に我儘で、少しでも気に入らないことがあると母親に暴行していたようです。
高校卒業後は地元企業に就職したものの、わずか3ヶ月で退職。その後は新潟少女監禁事件発覚により逮捕されるまで、約20年もの間引きこもり状態だったようです。
約10年の監禁生活
被害者の少女は新潟少女監禁事件の間、加害者男性の自室に約10年間も監禁されていました。少女はその間セミダブルのベッドの上で過ごすことを強要された上で、男性から日常的に暴力を振るわれてたようです。誘拐されてから救助されるまでの間、部屋からは1歩も外に出ることができませんでした。
被害者少女佐野房子に対する暴力
誘拐後自室に連れてこられた少女は、男性に「この部屋からは出られないぞ。ずっとここで暮らすんだ。約束を守らなかったらお前なんか要らなくなる。山に埋めてやる。海に浮かべる」と脅迫されます。
男性は、少女が命令に従わなかったり声を出したりした場合に暴行を加え、少女に肉体的な恐怖を日常的に与えていました。暴行の内容は、顔面を殴る、ナイフを突きつける、暴言を浴びせる、ある時期からはスタンガンを当てるなど。
数々の暴行と監禁当初は手足の拘束もされていたことが、少女から逃亡するという意欲をそぎ落としていきました。救出後に少女の語った「見えないガムテープで手足を縛られている感覚だった。生きるために部屋から出ないほうがいいと思った」という証言に、その心情が表れているのではないでしょうか。
被害者少女佐野房子の食事
監禁開始後しばらくは、少女には被告の母親が夜食として用意した弁当やコンビニ弁当が与えられていました。しかし監禁開始から6年ほど経過した1996年ごろ、少女の足にできたアザを男性が糖尿病の兆候と思い込み、食事量を1日1食にまで減らされることになります。
食事量の減少に伴い、少女の体調は栄養不足により悪化していきます。新潟少女監禁事件発覚時、救助された少女は著しい栄養失調に加えて骨粗鬆症や鉄欠乏性貧血、両下肢筋力の低下により歩行すら困難な状態でした。
被害者少女佐野房子への思い
少女に日常的に暴行をふるっていた犯人ですが、少女のことは友達と認識したようです。監禁中も少女に新聞やニュースを目にする機会を与え、男性自身が好きな話題で少女と語り合うことを好んでいました。「かけがえのない話し相手だった」という男性の供述も残っています。
男性側は少女に対して「対等に話ができた」と述べるように良好な関係を築けていたつもりのようです。しかし、少女側は反対に男性のことを「最低の人だ」と述べています。新潟少女監禁事件発覚後にこの少女の供述を聞いた後、男性は「自分はうまくやっていたと思っていたのに、実は恨まれていたんだとわかった」と残しています。
被害者少女佐野房子はストックホルム症候群?
このような監禁事件では、被害者自身が「ストックホルム症候群」に陥ってしまう可能性が高くなります。「ストックホルム症候群」とは加害者が全面的に悪いにも拘わらず、被害者が加害者に共感してしまい、加害者を擁護してしまう症状のことです。それでは、新潟少女監禁事件ではどうだったのでしょうか。
新潟少女監禁事件では約10年間もの間、少女は加害者の自室から一歩も外に出ることができませんでした。当時のマスコミ等から、被害者に愛情があったから少女は逃げなかったのでは、という発言も向けられたようです。
しかし実際は度重なる暴行で植え付けられた恐怖で縛られていたために、少女は逃げることができなかったのです。「けっして男と一緒にいたかったわけではありません」という少女の発言や、犯人の精神鑑定を行った医師の証言から、新潟少女監禁事件においては「ストックホルム症候群」の可能性が否定されています。
【新潟少女監禁事件】の発覚の経緯とは
新潟少女監禁事件発覚のきっかけは、エスカレートした男性の暴力について母親からの相談を受けた医療関係者等により、男性が強制的に保護されたことです。警察による捜査もむなしく、別件で男性の部屋へ侵入した彼らにより、事件が白昼の下に明らかになりました。
犯人佐藤宣行の家庭内暴力
男性は少女と同様、自分の母親に対してもまた、日常的に暴行を行っていたそうです。母親が甘やかすのをいいことに、まるで家政婦のように母親を扱い、テレビ番組の録画を間違えるなど自分の指示を違えた場合には、容赦なく暴行を行っていたそうです。
少女が監禁されていた時期には、男性の部屋がある2階に上がることを母親に許さず、少しでも階段に足をかけるだけでも暴力を振るっていました。
新潟少女監禁事件発覚間際、母親に対する暴行がことさら激化していました。母親からの相談を受け、医療関係者や市の職員は特別チームを結成、男性を強制的に保護する準備をすすめていたようです。新潟少女監禁事件には様々な関連人物が存在しますが、この特別チームが力づくとはいえ、男性の部屋に押し入ったことが少女救出に結び付きました。
動く毛布の中身
暴れる男性を取り押さえて病院に搬送した後、関係者たちは部屋の隅で毛布が蠢いている毛布に気づきます。チームの1人である市職員がハサミで毛布を切り開いてみると、中から異様に色白な少女が現れました。少女は男性と同じ病院に搬送され、病院で自分の実名や住所、電話番号などを答えたため、約10年も行方不明であった佐野房子さんであることが判明することになります。この時ようやく、新潟少女監禁事件が発覚したのです。
【新潟少女監禁事件】裁判の判決
新潟少女監禁事件で新潟地方検察庁が男性に起訴したのは、「未成年者略取誘拐」と「逮捕監禁致傷」。起訴事実に取り上げられたのは両下肢筋力低下と骨量減少など肉体的な障害で、PTSD(心的外傷後ストレス障害)については少女のプライバシー保護に考慮し除外されています。
犯人佐藤宣行の判決
新潟県地方裁判所で行われた新潟少女監禁事件では上記の「未成年者略取誘拐」と「逮捕監禁致傷」。加えて、少女に着用させるための衣類等の「窃盗罪」についても追訴訟されました。追訴訟については当時の逮捕監禁致傷罪の最高刑が10年であり、窃盗罪と併合させることで刑期を15年まで引き上げる目論見があったためです。
男性の精神状態については、簡易精神鑑定で「被告人は自己愛性人格障害および強迫神経障害で、分裂症は認められない(※1)」と診断されつつも、病的な潔癖症や母親が男性について精神科で相談した事実から「病的な一面がある」「精神状態は正常でなかった」とされました。
結審では「非人道的で、血の通った人間の行為とは思えない。極悪非道である」と男性の犯行内容について厳しく糾弾され、懲役15年を求刑。その後の高等裁判所、最高裁判所それぞれで有罪となりつつも、最終的に男性には懲役14年を求刑されることになります。
余談になりますが、新潟少女監禁事件後の2005年に改正刑法が施行されており、「逮捕監禁致傷」の懲役および禁錮の長期上限が5年間引き上げられています。
※1:佐藤宣行被告の精神症状について、病院収容直後に「分裂病質人格障害」「強迫性障害」「自己愛性人格障害」「小児性愛」と診断されていました(2000年時点)。精神疾患の名称については、2002年に大幅な名称変更が行われ、「分裂病(精神分裂症)」は「統合失調症」と変更されました。
医療刑務所へ移行
生活環境が劇的に変化したこともあり、男性は逮捕直後から精神的に衰弱していました。さらに、約3年間の公判中に男性の体重は徐々に減少するなど体調も悪化の一途をたどり、刑確定後の収監時には歩行介助が必要な状態となるほど。分裂病型精神障害(※2)と診断されていたこともあり、精神病に対して薬剤も処方されています。
また男性は、強迫性障害からくる極度の潔癖症のために刑務所内の食事を一切摂ることができず、所内では流動食のみしか口にできませんでした。そのような経緯から、服役中に障害者手帳を支給されていたそうです。
※2:2002年の精神病名の大幅な変更により、「分裂病質人格障害」は「統合失調質パーソナリティ障害(スキゾイドパーソナリティ障害)」という呼称に変更されています。名前は類似していますが「統合失調症」と「統合失調質パーソナリティ障害」は全く事なる障害です。
【新潟少女監禁事件】での警察の不祥事
新潟少女誘拐事件では約10年間も少女が監禁され続けましたが、警察の対応によってはもっと早期に解決できた可能性の高い事件でもあります。
前述のとおり、初動捜査の不備がありました。新潟少女誘拐事件以前に男性に前科があるにも関わらず、性犯罪前科者リストの不備のために男性が捜査対象から外されていました。
他にも発覚後の対応について、少女発見時の警察への出動要請の拒否、少女発見、保護時の発表内容の虚偽などが明らかにされています。また、そのような対応の原因は新潟県警本部長による局長の接待のためだったとして、事件関連人物の内、本部長と局長は後に依頼退職しています。
【新潟少女監禁事件】の関連人物
これまでの経緯をまとめると、新潟少女監禁事件では被害者と加害者である被告、被告の母親、警察関係者、医療関係者が関連人物として挙げることができます。それら関連人物たちのうち、特に被告の母親の行動や警察関係者の不祥事によって事態が悪化していきました。
【新潟少女監禁事件】の犯人佐藤宣行の現在とは
犯人の佐藤宣行被告は、2017年時点で既に出所しています。逮捕から出所までの期間に犯人の母親は既に他界していることもあり、出所後に佐藤宣行被告がどのような生活を送っているのかを窺い知ることはできません。
【新潟少女監禁事件】の被害者佐野房子の現在とは
新潟少女監禁事件で被害にあった佐野房子さんは、19歳で救出されました。救出後しばらくは監禁時と同じように毛布に包まって過ごし、実の父親を含めた男性全般に対してひどく怯えていたそうです。
当時こそ酷い状態であった佐野房子さんですが、それでも新潟少女監禁事件発覚から時間が経過するとともに普通の生活を送れるまでに回復されている様子です。
新潟少女誘拐事件について知るほど、様々な偶然が重なったことで少女の監禁状態が長期に渡ってしまったのではと考えてしまいます。既に判決がなされた事件であっても、もっと早くに少女を助けられたのではと考えていまいます。
新潟少女誘拐事件では未遂に終わったものも含めて少女が1人でいるところを狙われています。近年は少子化の影響で小学校の合併が進められ、集団での登下校が難しい場合もあるでしょう。
学童保育や車での送り迎えなど、児童を1人にさせないような仕組みは既にいくつかあるので、大人側が積極的に利用できるような社会的な仕組みもほしいところです。