【ホテル日本閣殺人事件とは】女性死刑囚・小林カウの生い立ちと最期

戦後初の女性死刑執行者となった小林カウが起こした事件がこの「ホテル日本閣殺人事件」。この主犯である小林カウは「毒婦」の代表とされ、後にこの事件を題材に映画化までされました。このまとめではそんなホテル日本閣殺人事件の詳細や小林カウの生い立ちに迫ります。

【ホテル日本閣殺人事件とは】女性死刑囚・小林カウの生い立ちと最期のイメージ

目次

  1. 1ホテル日本閣殺人事件とは?
  2. 2ホテル日本閣殺人事件のあらすじ
  3. 3小林カウの生い立ちについて
  4. 4ホテル日本閣殺人事件以前の殺人"熊谷事件"
  5. 5小林カウの死刑執行と最期の言葉
  6. 6ホテル日本閣殺人事件のその後
  7. 7恋は人を狂わせる?

ホテル日本閣殺人事件とは?

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ホテル日本閣殺人事件とは、1961年に発覚した連続殺人事件であり、若い世代には聞き覚えのない方が多いのではないでしょうか?しかしこの事件は戦後初めて女性死刑囚となった小林カウが主犯であり、犯罪史に残る殺人事件の一つとなっています。

この事件の犯人である小林カウは、自分に害をなすものはたとえ共謀者でもあっても次々と殺害していった冷酷かつ非道な事件としても、事件を知る人にとっては語り草です。

この記事ではそんな小林カウの生い立ちと事件の概要についてまとめていきます。

【事件No.182】「ホテル日本閣殺人事件」
温泉旅館経営者夫婦と元夫の男女3人を殺害した女性を主犯とする1961年に発覚した連続殺人事件。主犯のKは日本で戦後初めて死刑を執行された女性死刑囚として知られる。 1966年、最高裁が上告を棄却し死刑確定、1970年に処刑された。
— 渋井拓也@戦後事件研究 (@shibui_takuya) 2019年3月17日

ホテル日本閣殺人事件のあらすじ

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戦後、日本で初めて死刑が執行された小林カウ。逮捕に至る事件のきっかけとなったのがこの日本閣殺人事件となります。

あらすじだけ纏めますと、1960年12月31日に栃木県塩原温泉郷にある夫婦経営の小さな旅館、ホテル日本閣のオーナーとオーナの妻が殺害された事件です。共犯者も存在していて、当時ホテル日本閣の雑用であった男を小林カウは利用しております。名前は大貫光吉。

これだけを見ると利権関係で内輪もめで起きた殺人に見えますが、この事件の全貌と共に小林カウは前の夫を殺害していたことも判明。利権と怨嗟で殺人を犯し続けた小林カウの全貌が明らかになっていくのでした。

次に、事件の詳細について触れていきます。

小林カウ・塩原温泉郷に目をつける


辛子漬けの製造卸を事業として営んでいた小林カウは1954年、商売先として目をつけ栃木県の塩原温泉郷に初めて足を運んだところから始まります。暫く商売のために滞在を続けましたが、商売が順調であったこととその風土から、小林カウは塩原温泉郷はいたく気に入り、ここでも本格的に商売をすることと決めたそうです。

この時は後の悲劇の舞台であるホテル日本閣とはまだ関わりはありません。

塩原温泉郷に本格参入

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磯バラが気に入り商人魂にも火がついた小林カウは1956年に、当時塩原温泉郷に存在していたホテル明賀屋の前の商店を借り、商売を始めます。この店名は「那珂屋物産店」といい、小林カウの塩原温泉郷の進出の足掛けとなったと言われています。

更に1年後の1957年に「那珂屋物産店」の隣の物件を買い取り、食堂「風味屋」を開き、姉夫婦に経営させます。結果としてこの事業はかなり順調で、小林カウの事業は大成功を収め資産も増え、経営者・小林カウとして順風満帆でした。

旅館経営に食指を伸ばす

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こうして商売人として成功した小林カウでしたが、更なる高みを見上げ続けていました。塩原温泉郷に「自分も温泉宿を持ちたい」といつしか思うように。元々小林カウには若い頃に女中奉公のキャリアがあり、旅館の女主人は夢であり自分に経歴に箔をつけるものとして、ずっと憧れていたそうです。

しかし塩原温泉は伝統ある温泉郷であり、新参である小林カウが割り込むようなスキはありませんでした。既に当時50歳であった小林カウは、自分の年齢も考えて夢への到達に焦りを覚えていたと言われています。

ホテル日本閣と接触へ


そんな焦りを覚えていた1958年、小林カウは塩原温泉郷の「ホテル日本閣」がかなりの安価で売りに出されていることを知ります。名前はかなり大層なのですが、実はこの旅館は塩原温泉郷にある旅館でも三流である小さな旅館であり、経営不振でありました。

この経営不振の状況から300万~400万円で売り出されるという噂があり、当時の資産で十分に手が出る金額であったことから、小林カウはホテル日本閣購入の交渉に入ります。しかしホテル日本閣の主人で後の被害者である生方鎌助は売る気などなく、あくまで経営不振から立ち入った噂であり、話は一度たち消えました。

ホテル日本閣オーナーと再度接触

トリップアドバイザー


しかし経営不振は続き、起死回生とばかりにホテル日本閣は1958年に新館の増築へ。しかし建築途中でお金が尽き、続けるにも取り壊すにもお金がかかるという状態になり、ホテル日本閣は事実上の詰みとなりました。

この時に生方鎌助は1958年にホテル日本閣の購入について交渉をかけてきた小林カウのことを思い出し、融資を持ちかけます。その条件は50万円の融資。この時、生方鎌助はこの50万円を「妻のウメに対する手切れ金」としています。また、小林カウに「50万円払ったら後釜に迎えてやる」とも約束します。

生方鎌助はこの時既に妻である生方ウメと冷え切っていたようで、実際に手切れ金を要求されていたようです。この後手切れ金を30万円に下げた所、生方ウメは50万円を譲らなかったという記録も残っています。

生方ウメの殺害へ


この時に小林カウは考えます。「きっと50万円を渡しても生方ウメは譲らないのでは?」と。こうなれば生方ウメに一銭を渡すのも惜しく、自分の夢への邪魔者である生方ウメの殺害を考えることとなりました。

翌1960年1月、ホテル日本閣の雑役であった大貫光吉を「2万円と自らの身体」を条件とし、生方ウメの殺害実行犯に命じます。

しかし中々チャンスが掴めず時間が過ぎた同年2月。今度はホテルに本格のオーナーでウメの夫である生方鎌助が「ウメは体が弱ってるから今夜にやってくれ」大貫光吉の背中を押します。なんとこの殺害計画は小林カウだけではなく生方鎌助も知っていたのです。

結果、この日の夜に生方ウメは大貫光吉により絞殺され、その遺体は旅館のボイラー室に埋められた後に、発覚を恐れた3人によって掘り起こさて、裏の森林に埋め直されることとなりました。

生方鎌助の裏切りと殺意


こうして、ホテル日本閣の後釜として迎えられたがように思えた小林カウ。しかし殺害後に小林カウがホテル日本閣の登記を確認しに行くと、自らが増築で200万円も融資したホテル日本閣の新館の名義が自分の名前になっておらず、それどころか競売にかけられる予定になっていました。

この時小林カウは生方鎌助に「裏切られた」と思ったようで、ウメ殺しの共犯であった大貫光吉に、生方鎌助殺害計画を持ちかけます。次の交渉条件は「ホテル日本閣」の亭主の座でした。只の雑用から亭主というサクセスストーリーに、大貫光吉は首を縦に振るしかありませんでした。

結果として1960年の大晦日に殺害計画が実行され、生方鎌助もこの二人に酔って殺害されることとなりました。

小林カウは逮捕へ


小林カウが関わった後に頻発したホテル日本閣殺人事件。更に最初の事件後は小林カウが表向きだけでもホテル日本閣の共同経営者になっていることから、地元ではこの旅館経営者の失踪事件は噂となり、新聞でもホテル日本閣のことが取り上げられるようになりました。

しかし1960年の2月20日、ホテル日本閣殺人事件の実行犯である大貫光吉が窃盗で逮捕され、ホテル日本閣事件の夫婦の殺害も自供。こうして事件の首謀として小林カウが逮捕され、事件は解決へと向かいました。

小林カウの生い立ちについて

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世にも恐ろしい、自らの夢とステータスのためにホテル日本閣を巡って殺人事件を起こした小林カウ。50代にして30代の容姿を持ち、共犯者を体で釣ったことから、中々の美貌の持ち主であったとも言われています。

この項ではそんな小林カウの生い立ちや人となりについてチェックしていきます。

小林カウの生まれや幼少期は?


小林カウの生まれは1908年、埼玉県大里郡玉井村(現・熊谷市)の農家の家に7人兄妹の5女として生を受けています。小林カウの生まれの家は集落では歴史がある家系でしたが、かなり貧乏な家庭でした。

当時としては珍しいことでもありませんが、小学校は4通った後に終えて5年ほど実家を手伝った後に、都会に憧れて上京。東京の旅館で女中奉公に出ました。この時に小林カウは東京で男を覚えたと言われています。

小林カウは結婚し子宝に恵まれる


上京して数年が経過し、小林カウは地元に戻って、1930年に新潟県柏崎市出身である小林秀之助という5歳年上の男性とお見合い結婚をすることとなりました。この小林秀之助はかなり体が弱い男性だったそうで、慢性胃腸病と慢性淋病を抱えており、東京で男を覚えた小林カウにとって物足りない男だったと言われています。

結婚後は夫婦で雑貨商を営み、子供は長女に恵まれました。長男も結婚してすぐに産まれていますが、産後に間もなく亡くなってしまったそうです。

小林カウは商売魂に目覚める


この後商売がうまく行かなくなり、夫婦は上京。戦争を挟み小林秀之助は体を壊してしまったため、再び熊谷に戻り、戦後の闇商売や内職として五家宝づくり、更には後の授業の成功につながった辛子漬けの製造卸売を始め、小林カウが実質的に家計を支えたと言われています。

そしてこの時に、ホテル日本閣殺人事件につながってしまった「商売魂」も小林カウに芽生えることとなってしまいました。
この後商売がうまく行かなくなり、夫婦は上京。戦争を挟み小林秀之助は体を壊してしまったため、再び熊谷に戻り、戦後の闇商売や内職として五家宝づくり、更には後の授業の成功につながった辛子漬けの製造卸売を始め、小林カウが実質的に家計を支えたと言われています。

そしてこの時に、ホテル日本閣殺人事件につながってしまった「商売魂」も小林カウに芽生えることとなってしまいました。

CHECK→五家宝とは?

wikipedia

五家宝(ごかぼう)とは、埼玉県で生産・販売されている和菓子の一つである。 おこし種を水飴などで固め棒状にした芯をきな粉に水飴などを混ぜた皮で巻き付け、さらにきな粉を表面にまぶしたものであり、青色のものは青大豆を用いて製造されている[1]。 埼玉県熊谷市の銘菓として知られ市内各地に取扱店舗があるほか、まれに公立小中学校の学校給食に出ることがある。草加市の草加煎餅・川越市の芋菓子と共に埼玉の三大銘菓とされており[2]、埼玉の音風景・かおり風景10選の一つ(かおり風景)にも認定されている[2]。熊谷市では「五嘉棒」の名で文政年間に熊谷で売り出され、その後「五嘉宝」「五箇宝」表記を経て、「五穀は家の宝である」という祈りを込めて現在の表記となったと紹介している[2]。

ホテル日本閣殺人事件以前の殺人"熊谷事件"


小林秀之助との夫婦関係に不満があった小林カウは、若い時代は常に性的に欲求不満だったと言われています。この項では特に小林カウとして有名な中村又一郎との愛人関係及び、それに関連する形で小林カウが起こした殺人事件についてまとめます。

小林カウと中村又一郎の出会い


戦後に闇物資を流通させ家業としていた小林カウと中村又一郎の家に、ある日、中村又一郎という巡査が小口帳簿を持ち訪問します。この時"闇物資"という後ろめたいものを流通させていたことから、小林カウは中村又一郎に手厚いおもてなしで出迎えます。このことがあって、小林カウと中村又一郎は親しくなりました。

当時は長女の婿として中村又一郎を迎えたいと考えましたが、そこは愛人関係をいくつか持ち、夫にも性的不満を抱えていた小林カウ。気がつけば娘の婿候補ではなく、自分自身の愛人としての中村又一郎との関係が成立していました。

小林カウは中村又一郎に恋をする


この爛れた二人の蜜月は続き、小林カウは逮捕後にも「中村又一郎で恋を知った」と豪語するほど。中村又一郎と一緒になりたいがために「夫に財産はいらないから別れたい」と交渉したり、中村又一郎のアドバイスで実家に逃げ出したりといろいろな手を尽くしましたが、それでも夫と別れることはありませんでした。

夫である林秀之助も小林カウの愛人については黙認していたという話もあります。

小林秀之助の殺害へ


どうしても別れてくれない小林秀之助に業を煮やした小林カウは、1952年、中村秀之助に夫の殺害計画を持ちかけられ青酸カリを渡され、毒殺へと走ります。しかし医師による診断は脳出血とされ、犯人が見つからないままに捜査は打ち切られました。

この事件の発覚はホテル日本閣で、再び小林カウに疑いの目が向けられるまで、真相は小林カウの胸で眠り続けることとなります。当然、発覚後に中村又一郎にも容疑がかけられることになりましたが、証拠不十分で無罪となっています。

ホテル日本閣殺人事件へ


夫を亡き者にした後は、小林カウは中村又一郎を家に引き入れ同棲を始めますが、殺害と同年の11月に素行不良で中村又一郎は懲戒免職へ。職を失った中村又一郎を養うために小林カウはますます商売に精を出すこととなりました。

しかしこの同棲生活は長く続かず、2年で終止符へ。中村又一郎は小林カウを捨て、若い女性と結婚へ。この時が後に小林カウが塩原温泉に進出した1954年であり、失恋をバネにさらに商売魂に火がついたと言われています。

小林カウの死刑執行と最期の言葉


逮捕後の小林カウはホテル日本閣の夫婦殺しは共犯である大貫光吉の自供からであり、前夫の秀之助殺しは「何者かの投書」により発覚しました。更には共犯者である大貫光吉もホテル日本閣に火をつけて、口封じに殺害予定だったと後に小林カウは証言しています。

この案件は徹底的に追求され、ホテル日本閣殺人事件の主犯の小林カウ及び実行犯である大貫光吉は、1966年7月に死刑を言い渡される形となりました。

しかし小林カウは取調官に「死刑だけはかんにんして」と媚びを振りまいていることと、判決までに証言が二転三転していることから、反省の様子が余り見られなかったとも言われています。

小林カウの最期の言葉は?


ホテル日本閣殺人事件が完全決着した死刑判決から4年後の1970年の6月。小林カウは死刑が執行され、61歳で人生の幕を閉じました。戦後で女性の初の死刑者という、不名誉な記録を残すこととなります。

最後の言葉は「思い残すことも言い残すこともありません」という潔いものだったそうです。

ホテル日本閣殺人事件のその後

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戦後初の女性死刑執行と、男関係で人生を狂わせたホテル日本閣殺人事件は当時の世論に衝撃を残し、後の昭和59年にこの事件をモデルとして「天国の駅」と言う題名で映画化もされています。この映画は吉永小百合さんが唯一汚れ役を演じた映画として、サユリストの中でも有名なんだとか。

『天国の駅 HEAVEN STATION』(てんごくのえき ヘヴン・ステーション)は、1984年の日本映画。吉永小百合主演、出目昌伸監督、早坂暁脚本。製作・東映東京撮影所、配給・東映。戦後初の女性死刑執行者となった「ホテル日本閣殺人事件」がモデルとなっている。

恋は人を狂わせる?


小林カウが狂ってしまったきっかけは中村又一郎との恋がきっかけでした。それまではただ夫に不満を持つ妻でした。

昔は今よりも自由に恋をできなかった時代で、小林カウ自身もお見合い結婚でした。そんな時代背景の中、戦後もたくましく家計を支え晩年にして恋を知り、自らの恋の成就のために夫を殺めたところから、目的のための殺人を躊躇しなくなったように思えます。

恋は人を狂わせるとはよく言ったものですし、創作でも現実でも痴情のもつれというものはよく取り上げられますが、このホテル日本閣殺人事件を思い出し、冷静に踏みとどまるようにしていきたいものですね。

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