2021年07月01日公開
2021年07月01日更新
対馬丸事件の悲劇~戦争の犠牲となった子供たちの記録~
太平洋戦争中に沖縄を出港して疎開する子供たちが乗船する「対馬丸」が、米軍の攻撃で沈没した事件。沖縄の「対馬丸記念館」では、事件における子供たちの他多数の犠牲を出した戦争の悲惨さを今に伝えています。アニメ「対馬丸 さようなら沖縄」にも描かれています。
目次
- 1戦争中に起きた対馬丸事件ってどんな事件?
- 2対馬丸は戦争前に建造されていた老朽船
- 3戦争中対馬丸事件前後の沖縄を含む国内・国外情勢
- 4対馬丸の沖縄出港後から沈没までの流れ
- 5「戦争を忘れない」沖縄県那覇市にある対馬丸事件の記念館
- 6沖縄の地上戦だけではない戦争の酷さや悲しさ
- 7対馬丸事件を起こした潜水艦は戦争後も保存されている
- 8なぜ沖縄から長崎に向かう対馬丸を攻撃して沈没させたのか?
- 9対馬丸事件を題材にした小説は?
- 10沖縄地上戦だけじゃない。対馬丸事件を題材にしたアニメ
- 11対馬丸事件を題材にした戦争映画は?
- 12戦争体験とも言える対馬丸事件の生存者は?
- 13対馬丸事件に関する日本国内の見解
- 14対馬丸事件についてのアメリカ側の戦争責任はないの?
- 15対馬丸事件は戦争における沖縄戦の前哨戦
- 16まとめ:子供たちを同じような目にあわせてはいけない!
戦争中に起きた対馬丸事件ってどんな事件?
疎開船「対馬丸」
1914年就役の建造後30年たっていた6,754トンの貨物船
沖縄県が実施した疎開計画で、戦争末期の1944年(昭和19年)7月、サイパンの日本軍が全滅して、次の戦場は沖縄だという危険性が高まって日本政府が下した決定したものがあります。1944年8月21日「対馬丸」と僚船2隻、護衛の軍艦2隻と一緒に沖縄を出航しました。
対馬丸事件とは、那覇の沖合から追いかけてきた米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃で、翌8月22日、鹿児島県トカラ列島の悪石島(あくせきじま)沖で対馬丸が撃沈され、午後10時12分、子供たち780名が含まれた1,476名が犠牲となった事件です。
対馬丸の航路予想図
戦争末期、アメリカ海軍は暗号解読で日本軍の沖縄周辺での作戦行動を知っていたとされています。
黒煙をあげる対馬丸
潜水艦ボーフィン号の攻撃を受け炎上する対馬丸
対馬丸は戦争前に建造されていた老朽船
航行する対馬丸
日本郵船が所有する貨物船でしたが太平洋戦争開始後日本陸軍に徴傭されていた時期もありました。
対馬丸(つしままる)は、日本船籍の貨物船とし存在した船。全長は135.64 mで重量6754トン。 太平洋戦争中に、政府主導のもと子供たちを疎開中に米海軍の潜水艦の攻撃を受け沈没しました。アニメ「対馬丸 さようなら沖縄」にも描かれています。
戦争中対馬丸事件前後の沖縄を含む国内・国外情勢
サイパン島陥落から空襲そして沖縄戦へ
対馬丸事件の背景には、サイパン島陥落から米軍の狙いは次は沖縄だという可能性が高かったことがあります。
太平洋戦争末期の1944年7月7日、サイパンの日本軍が玉砕したことを受け、軍は「次は沖縄だ」と判断しました。政府は沖縄を含めた南西諸島の子供たちを含む女性やお年寄りを避難させる指示を出します。しかし、「勝つ」と言っている軍部の言葉と危険を感じていた県民の温度差が県民の疎開はなかなか進まない原因でもありました。
アニメ「対馬丸 さようなら沖縄」には小さな子供にもわかりやすように描写されています。
対馬丸の沖縄出港後から沈没までの流れ
対馬丸事件が発生するにいたった経緯を、出港までと事件前後、事件後の状況にわけて解説します。
戦争の悲惨さを物語る対馬丸事件の舞台となった船団
対馬丸を含む5隻の船団写真
「対馬丸」「和浦丸」「暁空丸」の他護衛艦の「駆逐艦 蓮」「砲艦 宇治」を含む5隻
昭和19年7月のサイパン島玉砕以降、米軍は日本の東北南部以南の全域を空襲可能になりました。子供たちの保護者は疎開に軍艦への乗船を希望していましたが、日本海軍には既にこれに従事させる軍艦の余裕はほとんどなく、貨物船に頼らざるを得ませんでした。
沖縄出港から対馬丸事件発生までの状況
対馬丸事件が起きた海域
対馬丸が撃沈されたとされる海域
8月20日18時35分、船団は気象条件の悪い中、長崎へ向けて出港します。「対馬丸」には子供たちの他、その保護者もあわせた1,661名(諸説あります)が乗っていました。まさにアニメの題名、文字通り「さようなら沖縄」となる船出です。
一方、アメリカ潜水艦「ボーフィン」 は7月16日にハワイのパールハーバーを出撃していて、奄美大島近海をはじめとした南西諸島で哨戒行動をしていました。
沖縄を出港してから船長と軍指導者との対立が発生
対馬丸の出港から事件海域まで
西沢船長の主張するジグザク航行をせず速度優先の船団航路
すでにアメリカ海軍は解読した暗号を元に船団の予定航路を想定して攻撃計画をたてていました。日付が変わったばかりの8月22日には「対馬丸」の船長室で、船長と軍の輸送指揮官との間で激しい議論がありました。
西沢船長は危険性を極力排除するためにジクザグコースを取る事を主張しましたが、到着の遅れなどを危険視する軍司令部との衝突で、結局「軍の命令」には逆らえず直線コースをとっています。
対馬丸攻撃開始から沈没までと西沢船長の行動
船長の不安が的中し発見される船団
ジグザク航行を主張する船長の不安が的中し、一度発見されるも逃げる事ができた。
午後10時9分、「ボーフィン」が打った魚雷計6本の中で、2本が「対馬丸にヒットしました。「対馬丸」は見張員が魚雷発射を確認し、ただちに反撃の砲撃にとりかかります。西沢船長が「取舵一杯、両舷全速前進」を指示しますが早くも沈み始めます。
西沢船長は「総員退船」を指示しましたが、子供たちのなかには梯子を踏みはずして下に転落するものもいました。脱出しても怖くて海に飛び降りることができなかった子供たちは、「対馬丸」乗組員の手によって海に放り投げられました。
救命胴衣を使いこなせず溺れた子供たちもいたり、煙突に子供をを背負った女性が何人かいたが煙突が崩れると海中に転落しました。「対馬丸」が大爆発を起こして沈むのは、魚雷命中からわずか11分後です。最終的に「対馬丸」乗組員は船長以下24名が「対馬丸」と運命をともにして、救助されたのはわすが136人でした。
事件当時の船団陣形
後方を守る形で航行する船団
対馬丸事件後の生存者の少なさが戦争の悲惨さを物語る
事件後遺体が漂着した島のひとつ奄美大島
奄美大島の宇検村には事件後、遺体の多くが漂着した。
被害者の遺体のほとんどは奄美大島・大島郡宇検村などに漂着しました。現地には被害者の死を悼む慰霊碑があります。生き残った人の多くは無人島に漂着したり、漁船に救出されました。この2隻の漁船に助けられたのは、わずかに118名でした。
「戦争を忘れない」沖縄県那覇市にある対馬丸事件の記念館
対馬丸事件の被害者の資料が展示されている記念館
事件の被害にあった児童の遺影や遺品などが展示されています。
対馬丸記念館には、犠牲になった子供たちが通っていた学校の教室が再現されていたり、子供たちの遺影や遺品、生存者のコメントといったものが展示されています。
対馬丸記念館に展示されている写真
展示されている犠牲者の写真ですが、展示されている写真は判明している犠牲者のうち、二割程度でしかありません。
長い年月を物語る疎開学童のランドセル
所々皮がはがれて古びてはいるものの、ランドセルは70年前の悲惨な沖縄戦の、前哨戦ともいえるこの事件を物語っています。対馬丸は深い海の底に沈んでもランドセルだけ残り、持ち主のいない沖縄に戻ってきたのです。
沖縄の地上戦だけではない戦争の酷さや悲しさ
対馬丸事件の経緯を記載しているプレート
対馬丸記念館は財団法人対馬丸記念会が運営していて犠牲となった子供たちの写真や遺品が展示されています。
記念館には、犠牲者の遺族や関係者の戦争に対する辛辣ななコメントが掲示されています。学童疎開の本当の目的は子供たちや住民の避難が目的ではなく、軍の食料確保や戦争継続の為の人的確保をして戦力の温存することであったこと。集まった子供たちはそんなことは知らずに本土にいけるとはしゃいでいたことなどがあげられます。
生存者の言葉も印象的で、苦労して疎開して戻ってきたら大切な家族が死んでいない、戦争を心から憎んだ、ともあります。アニメ「対馬丸 さようなら沖縄」にもその様子がしっかりと描かれています。
「疎開児の命いだきて沈みたる船深海に見出されけり 」海底から対馬丸が発見された事実をお知りになった天皇陛下がお詠みになった短歌も掲げられています。
対馬丸事件を起こした潜水艦は戦争後も保存されている
ボーフィンは1942年7月23日にメイン州キタリーのポーツマス海軍造船所で起工する。12月7日にジェーン・ガウェイン夫人によって進水し、艦長ジョセフ・H・ウィリングハム少佐(アナポリス1926年組)の指揮下、1943年5月1日に就役ました。
ハワイ真珠湾にあるボーフィン博物館
アメリカでは「真珠湾の復讐者」と呼ばれていたボーフィン号。現存する数少ない米潜水艦の一つで、船体は博物館となっています。
第6の哨戒で沖縄沖から追跡をして対馬丸事件が発生
1944年7月16日、ボーフィンは6度目の哨戒で南大東島に向けて航行中の静洋丸と報国丸を撃沈しています。8月19日には、沖縄島北西で609船団に接触し、浮上攻撃をかけましたが逃げられました。この船団は駆逐艦「梅」を除けば対馬丸事件が発生した時の船団で、第62師団を沖縄に輸送後、2日後の8月21日18時35分に沖縄を出航しています。
時期を同じくしてボーフィンは、久米島北方エリアを浮上航行しながら哨戒中でした。8月22日4時10分、レーダーにて目標を確認後目視できる距離まで近づきました。船団の護衛哨戒機を避けながら潜航しつつ観察を続けると、電波妨害をしていることが判明したので、ボーフィンは船団を重要なターゲットと判断します。
10時34分に浮上後は、再度レーダーで識別可能な距離で追跡を続けました。22時9分、ボーフィンは浮上した状態で艦首発射管から魚雷攻撃を行って、対馬丸には4、5番目の2発の魚雷が当たったと判定されていました。その後旋回したボーフィンはさらに艦尾発射管から魚雷攻撃をしています。
潜望鏡で確認できる距離まで移動したボーフィンは22時21分、対馬丸沈没を視認しています。
なぜ沖縄から長崎に向かう対馬丸を攻撃して沈没させたのか?
アメリカの日本に対する明確な通商破壊戦略がありました。海洋国家である日本の生命線を断つには、補給路を断って「戦力を」削ぐ事が最も確実だったからです。戦争末期、日本近海は日本海軍が制海権を失っていたので、アメリカの潜水艦がほぼ自由で航行できるような状態でした。
当時民間人が乗っている船を攻撃してはいけないという法律はありました。貨物船の船長や船員も把握はしていたと思いますが、潜水艦が新兵器だったこともあり適用されるどうかが曖昧でしたし、軍需船なのかただの貨物船なのかの判断が難しかったのは事実です。
ですから船舶の航行についてはかなり慎重になっていたと思います。敗戦続きで海上戦力を消耗していた日本軍には効果的な対抗手段がなくて、かなりの数の艦船が沈没させられました。対馬丸事件記念館にはありませんが、沈められた艦船の写真は今でもたくさん残っています。
アニメ「対馬丸 さようなら沖縄」には描かれていませんでしたが、戦争となれば加害者、被害者にかかわらず悲惨な結果しか残らないということなのでしょう。軍艦でなくても軍需物資を積んだ貨物船であれば、日本側だったとしても相手を攻撃していた可能性はまったくないとは言えません。
対馬丸事件を題材にした小説は?
対馬丸 (講談社文庫) 著者 大城 立裕
対馬丸 (講談社文庫) 著者 大城 立裕
昭和一九年八月、疎開する児童を乗せた対馬丸はアメリカ潜水艦の魚雷攻撃で沈没。国の命令で行われた疎開事業における最大の悲劇がなぜ起きたのかを伝えています。
事件記録と生存者の証言を2本の柱とする内容です。どちらかというと事件の詳細を伝える記録というよりは、ノンフィクションの色合いが入った小説という印象を持たれる人も多いかもしれません。アニメ「対馬丸 さようなら沖縄」のように一言一句事実と違わないように、というより戦争の悲惨さを伝えるという意味合いが強いでしょう。
海に沈んだ対馬丸―子どもたちの沖縄戦 (岩波ジュニア新書) 著者 早乙女愛
海に沈んだ対馬丸―子どもたちの沖縄戦 (岩波ジュニア新書) 著者 早乙女愛
1944年8月、沖縄から九州へ向かう疎開船の対馬丸は米潜水艦の攻撃で沈没。
過酷な漂流生活を余儀なくされた生存者の証言や写真などの残された記録を元に、当時の子どもたちにとっての戦争はいったい何だったのかを問う。
対馬丸に関する写真や資料は多数ありますけど、生存者の記述が一番生々しい。内容としては、全体的に戦争中の日本は、沖縄戦も含めて全部日本が悪い、という論調で書かれています。対馬丸沈没事故は「昔の沖縄の問題」では決してなく、生き残った人々は、生還したことの意味をしっかりと噛みしめて責任を果たすんだという「強い体験者」ではないでしょうか。
記念館の展示品もそうですが、残念ながら写真で残っているものは多くありません。しかし潜水艦からの攻撃前後よりも、漂流中の過酷な生死をさまよう戦いの様子が描かれていて、本当に証言者の言葉は重い、と感じられます。
沖縄地上戦だけじゃない。対馬丸事件を題材にしたアニメ
対馬丸 さようなら沖縄
戦争中の沖縄で子供たちに起きた悲惨な事件をベースにして、戦争反対をテーマに劇場用アニメとして「対馬丸 さようなら沖縄」は製作されています。沖縄での地上戦が現実味を帯びてきた昭和19年の沖縄では非戦闘員の本土疎開が決まっていました。
古い貨物船に不安な大人や旅行気分で無邪気にはしゃく子供たちとの対比が「対馬丸 さようなら沖縄」には特徴的に描写されています。そして予想通り潜水艦からの攻撃にひとたまりもなくすぐに沈没してしまいます。過酷な漂流生活のあと生き残った人に対する軍部の対応。
やわらかいタッチの絵柄ながらな内容は苛烈です。荒海に放り出され次々と命を落とす人々の描写が、実話を元にした物語なだけにより痛ましい。対馬丸事件の関連資料を展示してある記念館には写真や遺品が展示してあります。
記念館に展示してある写真などの資料とあわせて、わかりやすく事件の全貌を伝える名作ではないでしょうか。
対馬丸事件を題材にした戦争映画は?
対馬丸沈没65周年記念作品・映画『銀の鈴』
疎開目的で沖縄から九州へ向かう子供たちを乗せた対馬丸が沈没した事件のことは、今になってもなかなか伝わっていない、というのが現実です。生存者は「生き残ってからがまた本当の戦争だった」と語ります。戦時中は軍部からのかん口令で、この沈没事件について語ることは決して許されませんでした。
全国公開の前に、まず沖縄の対馬丸記念館で関係者へ初公開があり、それから那覇市の桜坂劇場と北中城村のあやかりの杜で一般公開の完成披露上映会が行われました。戦争の悲劇、忘れずに伝えたい、という願いが込められています。
「映画『銀の鈴』を観ていただくことで、戦争とはなんだったのか、ひとりでも多くの方に考えるきっかけになってもらえればと思います。」と監督は語っています。
戦争体験とも言える対馬丸事件の生存者は?
政府の資料や当時の文献から時代背景や事件の経緯はある程度把握することは可能です。しかし事件の当事者であり被害者でもある生存者の証言に勝るものはないでしょう。アニメ「対馬丸 さようなら沖縄」に出てきた当時の子供達。以下に一部引用引用させていただきます。
「対馬丸」生存者の平良啓子さん(80)
なぜ自分だけ生き残ったのか?と自問自答を続ける平良啓子さん(2015年7月17日現在80歳)
小さな頭が並び、あどけないまなざしが一心にこちらを見つめている。「あの夜」の話に耳を傾ける子どもたちを前にするといつも、暗い海にのみ込まれていったいくつもの幼い命を思い出さずにいられない。 太平洋戦争中の1944年8月22日、米軍の魚雷攻撃で沈没した学童疎開船「対馬丸」の生き残りとして、当時9歳だった平良啓子さん(80)=沖縄県大宜味村=は、60年以上、語り続けている。 「私があなたたちと同じ年頃だった時の話です。潮風が心地よい夜でした…」。長崎に向けて那覇を出発して2日目の午後10時すぎ。甲板で祖母の膝枕で休んでいた。「本土に行けば雪も電車も見られるかな」。祖母、兄と姉、いとこ、義姉と一緒に、修学旅行にでも行くような気分だった。
「対馬丸」生存者の久高将吉さん(84)
命ある限り語り続けていきたいと話す久高将吉さん(2017年6月23日現在84歳)
1944年8月22日の夜、米軍潜水艦の魚雷を受けて沈没した「対馬丸」。生存者の久高将吉さん(84)=沖縄県南城市つきしろ区=は「事件が風化しないうちに戦争を知らない世代に話しておきたい」と体験を語り継ぐ活動を始めた。11日につきしろ公民館であった平和講演会では区内外の約70人の聴衆を前に、初めて自身の体験を語った。 当時11歳の久高さんは疎開のため、父、母、兄の一家4人で宮崎に向かう途中で事件に遭遇した。魚雷が命中した船が沈みゆく中、父母と一緒にいかだにしがみついた。兄も隣のいかだにつかまっており「全員大丈夫だ」と思った。夜が明けると、そこら中にあったいかだは周囲に一つもなく、兄も行方知れずとなった。
引用元: https://headlines.yahoo.co.jp
対馬丸事件に関する日本国内の見解
サンフランシスコ平和条約の公布を示す文書
昭和天皇の署名と玉璽、当時の内閣総理大臣吉田茂の署名があります。
第二次世界大戦はもう半世紀以上も前に終わった戦争です。現在直接戦争を体験した人は少なくなりました。ですから現代日本にとって戦争は遠い存在だといえるかもしれませんが、国内外を問わず戦争被害にあって、その解決を求め続けている人々も多くいます。
そういう人たちの声に耳を傾けて、しっかりと私達一人ひとりが考えていかなければならない問題だとも言えます。1951年に連合国との間で結ばれた平和条約によって、戦時中に相互の国民が受けた損害に対する請求権は、それぞれに放棄されました。
したがって対馬丸撃沈は悲劇ではありましたが、アメリカ政府に対する謝罪や賠償請求は既に決着済みとなっているのが政府の見解です。
対馬丸事件についてのアメリカ側の戦争責任はないの?
厳密にいうと戦争では軍用船と民間船との間に明確な区別であったり基準はありません。もっと言えば現在は国際連合で「戦争」という定義もありません。ハーグ法という戦時における非戦闘員への攻撃を禁止する国際法令にアメリカも日本も批准していました。
そもそも何をもって軍需船と民間の貨物船を区別するのか、また潜水艦は当時新兵器であったため適用されるのかどうかという微妙なところでもありました。そのなかでも例外があり、病院船は船体に十字を書いて夜間も灯火管制なしで航行しています。
それでも捕虜や民間人の保護は大事だけれども戦争の遂行が第一との考え方があったのは確かです。事実対馬丸は軍需物資を積載して航行もしていた経緯もあり、事件当時も砲兵隊員も乗船していて報復攻撃を行おうとしました。
アメリカ軍側は軍需物資を日本に輸送する対馬丸を航空写真や暗号解読で察知していたので、事件発生時も対馬丸を軍用船として攻撃したものと考えられます。
対馬丸が軍需船であったのかどうか、というのは見解の相違があるので一概には言えないと思いますが、もし民間の貨物船が攻撃を免れていたのであれば、正式に事前通告していれば撃沈される可能性は少なくなっていたかもしれません。
戦争におけるルールを定めた国際法令(ハーグ法)
商船への攻撃を禁止しているハーグ法。当時新兵器であった潜水艦に適用されるのか、また軍事物資を積載している経緯のあった対馬丸を物資輸送船とするのか。
対馬丸事件は戦争における沖縄戦の前哨戦
対馬丸事件慰霊祭
2017年8月に行われた対馬丸事件慰霊祭
まとめ:子供たちを同じような目にあわせてはいけない!
前の戦争中に子供たちが乗った「対馬丸」が米軍の攻撃で沈んでから73年となる平成29年8月22日、生存者や遺族ら約450人が集まって慰霊祭がありました。参加者は平和のシンボルとされるチョウのオオゴマダラを放った。
「子供たちを同じような目にあわせてはいけない、大人一人一人がしっかり意識していかなくちゃいけない」と犠牲者を追悼した。「今でも死んだ子供たちの事を思い出す。戦争は絶対悪、と思いながら生きている」というのは生存者の声で、アニメ「対馬丸 さようなら沖縄」では、特に小さな子供達が戦争に巻き込まれて命を落とす姿が表現されています。
これからも、悲惨な戦争を2度と起こさないようにしていくのが大人の責任であると、強く感じます。