「新潟少女監禁事件」佐藤宣行のその後と被害者少女・佐野房子の現在

「新潟少女監禁事件」新潟の佐藤宣行に誘拐され、9年2カ月監禁された佐野房子が救出されてから17年。ずさんな警察の対応が生んだ悲劇、9歳の幼い少女が過ごした地獄と孤独な引きこもり男の闇……事件から17年、佐藤宣行の出所、関係者のその後と、被害少女の現在は?

「新潟少女監禁事件」佐藤宣行のその後と被害者少女・佐野房子の現在のイメージ

目次

  1. 1「新潟少女監禁事件」1990年11月13日、幼い被害者少女・佐野房子を襲った犯人・佐藤宣行の狂気
  2. 2「新潟少女監禁事件」2000年1月28日、犯人・佐藤宣行という地獄からの生還した被害者少女・佐野房子
  3. 3「新潟少女監禁事件」犯人・佐藤宣行、懲役1年・執行猶予3年判決直後の犯行
  4. 4「新潟少女監禁事件」捜査で不備多数、次々発覚した不祥事。犯人・佐藤宣行の監禁行為を見逃した警察のずさんな対応
  5. 5「お前はもう家には帰れない」「声を出したら殺す」被害者少女・佐野房子の希望を奪った犯人・佐藤宣行の脅迫
  6. 6「新潟少女監禁事件」幼い被害者少女・佐野房子を蹂躙した暴力、犯人・佐藤宣行のスタンガンと毛布の暗闇
  7. 7「新潟少女監禁事件」犯人・佐藤宣行、我慢を知らない溺愛された幼少時代
  8. 8「息子に怯えていた」は免罪符にならない、犯人・佐藤宣行のひきこもり犯罪を許してしまった、過保護親の罪
  9. 9新潟少女監禁事件についてさらに詳しく
  10. 10「同じ世代の友達として…」犯人・佐藤宣行が幼い被害者少女・佐野房子に求めたもの
  11. 11「新潟少女監禁事件」犯人・佐藤宣行と被害者少女・佐野房子の、監禁生活の終焉
  12. 12誘拐された被害者少女・佐野房子の第一声「気持ちの整理がつかない」、犯人・佐藤宣行の元から解放された瞬間
  13. 13「新潟少女監禁事件」誘拐から9年2カ月に渡る監禁。変わり果てて帰ってきた、被害者少女・佐野房子
  14. 14「新潟少女監禁事件」あと少し発見が遅れていたら命はなかっただろう、被害者少女・佐野房子
  15. 15もっと早く踏み込めなかったのか?遅すぎた母親のSOSと「強制入院」の決定
  16. 16「新潟少女監禁事件」異例の判決、犯人・佐藤宣行に「法律の許される範囲で一番重い罪の法定刑を」
  17. 17「新潟少女監禁事件」犯人・佐藤宣行への情状酌量に対する、被害者少女・佐野房子の父の絶望と叫び
  18. 18「新潟少女監禁事件」から17年、佐野房子のその後と現在
  19. 19「新潟少女監禁事件」刑務所に収監され服役し、現在は出所している、犯人・佐藤宣行
  20. 20出所した「新潟少女監禁事件」犯人・佐藤宣行の現在
  21. 21最後に……「新潟少女監禁事件」を考える

「新潟少女監禁事件」1990年11月13日、幼い被害者少女・佐野房子を襲った犯人・佐藤宣行の狂気

「可愛かったから誘拐した」犯人・佐藤宣行が被害者・佐野房子に突きつけたナイフが切り裂いた、幼い被害者少女と家族のつながり

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誘拐事件、その後に現在出版されている書籍1

「新潟少女監禁事件」の犯人・佐藤宣行(当時27歳)に誘拐監禁された被害者少女・佐野房子は、事件当時、たった9歳だった。
 佐藤宣行が佐野房子を攫(さら)ったのはたまたまに過ぎなかった。
 あの日、幼い少女への性的欲求を高ぶらせていた佐藤宣行は、標的を求めて車で新潟県柏崎市内を徘徊していた。
 目を皿のようにしてうろつく佐藤宣行のそばを、ランドセルを背負った佐野房子が歩いていた。佐藤宣行は佐野房子を一目で気に入り、周囲に一目が無いのを確認すると彼女を車で一旦追い越して進路を塞ぐと、戸惑う佐野房子に刃渡り約14cmのサバイバルナイフを突きつけ脅すと、車のトランクに押し込んで自宅へと連れ去った。
 佐野房子に突きつけたナイフは佐藤宣行が護身用として常時携帯していたものだった。
 そして当時9歳だった佐野房子はそのまま家に帰る事は無く、家族の元へとようやく帰ったのはそれから9年と2カ月後だった……。

「新潟少女監禁事件」2000年1月28日、犯人・佐藤宣行という地獄からの生還した被害者少女・佐野房子

幼いまま誘拐された被害者少女・佐野房子が、犯人・佐藤宣行に誘拐監禁されていた9年2カ月

 誘拐され姿を消してしまった被害者少女・佐野房子が親元に帰ってくるまでに要した9年2カ月という時間は、日数に直すと3364日。
 9歳の少女が19歳になるまでのこの期間、新潟柏崎市の一角にある一軒家の2階にある、佐藤宣行の狭い部屋の中で佐野房子は飼われ続けた。

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誘拐事件、その後に現在出版されている書籍2

「新潟少女監禁事件」犯人・佐藤宣行、懲役1年・執行猶予3年判決直後の犯行

「新潟少女監禁事件」以前から佐藤宣行は“少女”を狙い続けていた

 佐野房子が佐藤宣行に略取・誘拐たった1年半前の1989年6月に、佐藤宣行は小学4年生(10)の少女へのわいせつ行為・暴行未遂を起こしていた。
 この時は被害を受けた少女の通っていた小学校の生徒からの目撃証言や、教師などの関係者を総動員で現行犯逮捕する事が出来、起訴されることになる。
 刑事裁判の判決は、懲役1年・執行猶予3年だったが、佐藤宣行がそんな事で懲りるはずもなく標的を探し続け、そして佐野房子の遭遇へと至った。

執行猶予中の犯人・佐藤宣行の監督を何故母親に任せたのか?

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 1989年10月5日に上記の件で判決が出た際、裁判所の出した指示は保護観察処分ではなく、再犯の可能性は低いとして、執行猶予中の監督・指導は母親に任されてしまった。
 何をもって再犯性が低いとしたのかは不明だが、ここでちゃんと罰して保護観察に処していれば佐野房子が被害者になる未来は大幅に減っていたと考えざる得ない。

「新潟少女監禁事件」捜査で不備多数、次々発覚した不祥事。犯人・佐藤宣行の監禁行為を見逃した警察のずさんな対応

漏れてしまった前歴者リスト

「新潟少女監禁事件」が起きてすぐに警察では対策本部が作られ、佐野房子捜索が行われた。
 性犯罪前科者の洗い出しはもちろん、、ヘリコプターを使って街の上空から、大人数での山狩り、業務用コンテナの中まで監禁場所になりそうな場所をしらみつぶしにする草の根を分けた捜索が行われ、その様子は各マスコミでも大々的に報道された。
 しかし佐野房子が見つかる様子はみられなかった。
 それもそのはずだったかもしれない。
 真っ先に着手したであろう性犯罪前科者の洗い出しに使った、肝心の前歴者リストから、直近で少女への性犯罪未遂を起こしていた佐藤宣行の名前が抜けていたのだから……。
 しかもその致命的なミスが発覚したのは、監禁されていた佐野房子が佐藤宣行の部屋から救出されてからだった。
 初動の時にリストに佐藤宣行の名前がちゃんと載っていたら、佐野房子が9年2カ月も監禁・虐待される地獄を見ずに済んだかもしれない。
 警察はこの件に関しても会見を開いて謝罪したが、すべては後の祭。
 佐野房子の9年2カ月の地獄が無かった事にはならない。

「お前はもう家には帰れない」「声を出したら殺す」被害者少女・佐野房子の希望を奪った犯人・佐藤宣行の脅迫

一回700発、9年2カ月で1000回。「新潟少女監禁事件」で犯人・佐藤宣行が被害者少女・佐野房子に加えた暴行と暴虐…

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誘拐事件、その後に「新潟少女監禁事件」をモデルにした作品。いつ規制されるかわからないが、現在のところ視聴可能

 事件の日、佐藤宣行は家に帰して欲しいと懇願する佐野房子の顔を殴打し、一緒に暮らす事を強いた。
 その後も常にナイフと拳を突きつけて脅迫し、逃げる意思を奪い続けた。
 9年2カ月の間に加えた暴行回数は1000回はあったと供述しているが、少しでも気に入らない事があれば佐野房子をすぐに殴り、お仕置きとされる暴行の際に軽くて700回殴っていたというのだから実際はこんなものでは済まなかったのだろう。
 犯人の供述というものは往々にして無駄な足掻きをするので過小報告されている可能性が高い。
 恐らくこれは一日当たりどのぐらい暴行を加えていたかを単純計算したものと思われるが、一回当たりの暴行の内容から考えると少なすぎるようにも感じる。
 佐藤宣行は佐野房子と暮らし続けるための調教手段としてこのように壮絶な暴力を用いたが、声を出させないようにしたのはこの所業を母親に知られるのを恐れていたからだ。
 自分のやっている行いが許されない犯罪行為だと自覚はしていたが、それを我慢する気はなかったようだ。

「新潟少女監禁事件」幼い被害者少女・佐野房子を蹂躙した暴力、犯人・佐藤宣行のスタンガンと毛布の暗闇

狭い部屋の中で繰り広げられた地獄。エスカレートした佐野房子への加虐調教による人間性の喪失、加速した佐藤宣行の精神崩壊

 暴力による支配は人の精神(こころ)を壊す。
 それは佐藤宣行と佐野房子の関係においてもそうであった。
 佐藤宣行によって所有物扱いを受けていた佐野房子は、解離性同一障害を起こして逃れられぬ苦痛からの逃避するようになっていった。
 それと並行するように佐藤宣行の加虐行動もエスカレートしていったと思われる。暴力による支配という物理的な干渉で佐野房子をそばに置いてはいるものの、彼女の心は手に入らないのは、欲しい物は全て手に入れないと気が済まないワガママな佐藤宣行にとって相当なストレスではだったのではなかろうか?
 同時に、佐藤宣行はこれだけ好き勝手しながらも、世間や同居している母親に佐野房子を監禁しているというのが露見するのを神経質なまでに恐れていた。
 恐らく監禁生活の途中から佐野房子の存在がバレてはいけない気持ちと、思い通りにならない佐野房子への苛立ちのどっちが本来の気持ちだったか、佐野房子を何のために誘拐し監禁していたのか、佐藤宣行自身も判らなくなってしまったのではなかろうか。

 佐藤宣行が佐野房子への暴行は、激しい鉄拳制裁や脅迫的な言葉に加えてスタンガンを用いるようになっていった。
 佐野房子が自分の思い通りにいかない時、声を漏らしてしまった時、ルールを破ったと判断した時、佐野房子のその小さな体に、軽くて700回に及ぶ殴打と「スタンガンの刑」と称してスタンガンの電撃を食らわせた。
 スタンガンの電圧は大きいものだと100万ボルトを超えるとされるが、それを受けた際に佐野房子が悲鳴を漏らすと、お仕置きはやり直しになり、声を出さなくなるまで繰り返されたという。
 佐野房子はその激しい加虐がせめて、少しでも早く終わるように自分の腕や毛布を噛んで声を押し殺したそうだ。
 抵抗や戸惑いの素振りを見せても佐藤宣行は激昂して顔を殴ったため、佐野房子は失明を恐れて自分の頬を殴るように差し出す事もあったようだ。

「新潟少女監禁事件」犯人・佐藤宣行、我慢を知らない溺愛された幼少時代

小さな王様佐藤宣行と、溺愛し尽くす年老いた父親と母親という奴隷

 佐藤宣行は、タクシー運転手をしていた父が63歳、母が36歳の時に生まれた子供だった。
 遅くに生まれた一人息子だったせいか父親も母親も佐藤宣行を「ボクちゃん」と呼んで、目に入れても痛くないほどの溺愛をした。
 欲しがった物は全て与えられ、佐藤宣行が小学校に上がった際には、一軒家を購入して10畳もある自室を与えられた。
 何をしても叱られたり怒られる事も無かったようで、佐藤家の小さな王様として歪んだ自尊心を増長させていった。
 そんな家庭環境で育った佐藤宣行が学校や同世代の子供達と上手くコミュニケーション取れるはずも無く、常にトラブルを起こし、それに対する両親の対応は今風に言えばモンスターペアレントである。

「息子に怯えていた」は免罪符にならない、犯人・佐藤宣行のひきこもり犯罪を許してしまった、過保護親の罪

「年老いた父親は恥ずかしい」佐藤宣行からの理不尽に無抵抗のまま最終的に家を追い出された父親

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家庭内暴力のイメージ。家庭内暴力に対する罰則は現在緩いと感じる。刑務所に収監されてもすぐ出所してしまう。

 両親から溺愛されて育っていた佐藤宣行だったが、ある時から父親を毛嫌いするようになった。
 キッカケは同級生から、「父親がおじいちゃんみたい」とからかわれたせいだった。
 それ以来、佐藤宣行は頑として父親の存在を認めずゴミ虫のように扱い暴力を振るう事も増えていった。
 父親はそんな息子に対して一切叱ったり怒ったりする素振りは見せず、機嫌を直してもらおうと御機嫌を取り続けたが、佐藤宣行は態度を改めることなく、父親自身も仕打ちに耐えられず、失意のまま自分で建てた一軒家から追い出されるように出て行く事となった。
 そのまま父親は家に戻る機会はなく、一人で寂しく死んでいった。

家に佐藤宣行と残された母親と、母親が強いられた佐藤宣行への献身

 父親が佐藤宣行に追い出された頃、母親も佐藤宣行からの暴力に精神的に疲弊しており、彼女も息子の元から逃げ出すつもりだった。
 しかしそうなると自力で生活する事もする気のない佐藤宣行の世話をする存在が居なくなるため、出て行こうとする母親に対して仏壇に火をつけて「出て行ったら家を燃やす」と脅迫して引き留めた。
 仏壇に火を付けられてすっかり震え上がってしまった母親は逃げる気を無くして佐藤宣行の元に残る事にした。
 それ以降父親の助けもなく、一人で佐藤宣行の暴力に耐えながら世話をして行かなければならなくなった。
 だが、そんな生活に耐えられるはずも無く、その内に日中は外で時間を潰すようになっていく。
 しかしそうだったとしても佐藤宣行の父親と母親に同情する気にはなれない。
 そういう化け物のような人間を教育もしつけもせず過保護に甘やかして育てたのは、紛れもないこの両親達なのだから。

新潟少女監禁事件についてさらに詳しく

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新潟少女監禁事件の概要・関連人物と行動・その後について、さらに詳しく知りたい方は、下のリンクからどうぞ。

新潟少女監禁事件の概要・関連人物と行動・その後 - オトナ向け情報ならShiritaGirl

「同じ世代の友達として…」犯人・佐藤宣行が幼い被害者少女・佐野房子に求めたもの

犯人・佐藤宣行が被害者少女・佐野房子を誘拐してなお埋められなかった孤独

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 年老いた父と高齢出産をした母親に異常ともいえる溺愛されて育った佐藤宣行は、社会性を身に付ける事が出来ず、学校や会社では常に孤立していた。
 ペドフィリア犯罪に走りがちなのは、力や権威に弱く自分に自信がない人間が多いとされる。
 同年代以上の女性に相手にもされずしてもらう勇気も無い。その結果自分より圧倒的に弱い少女にストレスの発散先を求めてしまう傾向にあるようだ。
 他人と上手く交流できないだけで、他人の人肌を求める欲求は人並みにあったらしい佐藤宣行は、攫(さら)ってきた佐野房子に自分(佐藤宣行)を同世代の異性として見る事を強制し、佐藤宣行を年上とみなすような「おじさん」などとウッカリ呼称しようものなら、激昂して佐野房子に長時間の折檻を加えたという。

犯人・佐藤宣行が被害者少女・佐野房子に与えた数学と車と競馬の知識

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 佐藤宣行が佐野房子に対し虐待る一方、一緒に暮らす中で友達のように趣味の話をしたり友達のように会話したがったようだ。
 自分が好きな競馬やF1など会話をよくしていたらしい。
 更に同世代の友人としての佐野房子を求める上で「子供のままでは困る」と考え、佐藤宣行なりの教育を佐野房子に施していたと逮捕後に供述している。
 基本的にテレビは教育に悪いので禁止とし、ラジオを聴かせたり本を与えた。
 勉強は数学をよく教えていたようだ。
「因数分解なんかは世の中では役に立たないけど、比例式は覚えた方が良いので教えました」と語っており、保護された佐野房子の知識レベルは、監禁されていた割にそんなに低くない印象を受けたと関係者は語った。

「新潟少女監禁事件」疲れ果てた母親の悲痛な訴えにようやく重たい腰を上げた行政と病院

 佐藤宣行による佐野房子への虐待はスタンガン等を用いたより残虐なものになっていったが、それだけにとどまらず母親に対しての暴力もエスカレートして、母親にもスタンガンを使うようになった。
 齢70を超える母親へ手加減無しに殴る蹴るを繰り返し、佐藤宣行の気が済まなければ殴っている間母親がトイレに行く事も許さなかった。
 そしてついに耐え切れなくなった母親は、佐藤宣行への薬を出している病院に息子に暴力を受けていてこれ以上は持たないと訴えた。
 その様子に今まで弱腰だった病院側も「このままでは母親の命も危ない」と判断し、ようやく覚悟を決めて佐藤宣行を措置入院(強制入院)させる方向で動き始めた。

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「新潟少女監禁事件」犯人・佐藤宣行と被害者少女・佐野房子の、監禁生活の終焉

病院と保健所の共同戦線、打ち崩された佐藤宣行の“聖域”と誘拐の事実を知らなかった母親

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措置入院のイメージ。なお、犯罪者が精神鑑定で一般の刑務所への収監が厳しいと判断された場合、警察病院に入る。病状によっては改善するまである意味出所はない…

 1990年1月28日、医療保護入院措置の実施のため、医療関係者、保健所職員、市職員など7名が被疑者宅を訪れた。
 暴れて逃げる可能性も考慮して家の前に2人待機させて、5人で佐藤宣行の居る2階の増築部分に踏み入った。
 もう何年も母親が一歩も足を踏み入れていないとされる部屋に入って精神保健指定医が「お母さんの依頼で診察に参りました」と告げると、ベッドで寝ていた佐藤宣行が気が付いて「なんで入ってくるんだ!」と激高した。
 それに対して指定医が法律の説明と、「あなたは入院が必要であると認定されました」と伝えたところ暴れて手が付けられなかったため、最終的に鎮静剤を打って大人しくさせた。

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誘拐された被害者少女・佐野房子の第一声「気持ちの整理がつかない」、犯人・佐藤宣行の元から解放された瞬間

ベッドの下にあった蠢く毛布の中身

 佐藤宣行を大人しくさせた後に、部屋のベッドの下に何か気配がする事に気が付いた市職員の一人が覗いてみると、蠢く毛布を発見した。
 急いで毛布を切り裂いて中を見ると、短く髪の毛を切り込まれた佐野房子が出てきた。
 監禁の発覚を恐れた佐藤宣行が髪の毛一本毛布から出すなと命じていたためだった。
 青ざめつつ少女に名前を尋ねると、弱々しい声で「気持ちの整理がつかない」とだけ言った。
 佐藤宣行の母親にも、少女の素性を知らないか訊ねたが、「知りません。顔を見たこともない」と答えた。
 この場では名前も素性も聞き出せず、緊急搬送するために車に乗せるのを優先した。
 以下はWikipediaから抜粋。

関係者の注意は騒動の間にも動いていた様子があった毛布の塊に向けられた。市職員が毛布をハサミで切り開くと、中から異様に色白な短髪の少女が現れた。市職員は「あなたは誰ですか。話をしてください」、「名前は?どこから来たの」などと問い掛けたが、少女は口ごもり「気持ちの整理が付かないから」と話した。要領を得ないため指定医が階下にいた男の母親を呼び出し、「この女性は誰か」と訊ねたが、母親は「知りません。顔を見たこともない」と答えた。指定医は少女に「一緒にいた(被疑者)さんは入院することになったので、ここにはいつ帰ってくるか分かりません。あなたはどうしますか」と訊ねると、少女は母親に向けて「ここにいても、いいですか」と訊ねた。母親は了承したが、市職員らが「そういう問題じゃないでしょ。家の人に連絡しないとだめよ」とたしなめると、少女は「私の家は、もうないかもしれない」と話した[25]。また、母親の裁判での供述によると、母親が「あなたのお家はどこ?」と訊ねると、少女は「ここかもね」と答えたとされる[26]。

「新潟少女監禁事件」誘拐から9年2カ月に渡る監禁。変わり果てて帰ってきた、被害者少女・佐野房子

「私の家はもうないかも」……佐野房子の複雑な心境

出典: http://democracynow.jp

虐待被害者のイメージ。子供への虐待やいたずらで服役すると、他の囚人から相当嫌われていじめられるらしく、出所するまで二重の意味で地獄を味わうようだ。

 車の中で根気強く事情を聞き出そうと質問したが、佐野房子ははぐらかすばかりで具体的な事は何も答えず、仕方なしに警察へ「身元不明の少女を保護した」と通報したが、あろう事か「そちらで住所、氏名をきいてくれ。そんなことまで押しつけないでくれ。もし家出人なら保護する」と答えて切ってしまった。
 仕方なしに改めて佐野房子に名前を尋ねるとようやく自分の名前を答えた。
 以下はWikipediaから抜粋。

病院へ向かう車中で病院職員が少女に改めて名前をたずねると、自身の名前と住所、生年月日、両親の名前などを答えた。その情報に覚えがあった職員は三条市で行方不明となった少女に思い当たり、病院到着後に少女から聞いた番号へ電話を掛けたが、呼び出し音が鳴ったものの誰も出なかった。職員は次いで柏崎署に連絡を取り、「家にいた女の人の名前が分かりました。三条で行方不明になった少女だと名乗っている。少女は『十年前に連れてこられて一歩も外に出ていない』と話している。少女の家に電話をしたが出なかった。いま病院にいるので、すぐ来てください」と要請した[27]。これを受け、柏崎署から刑事課の捜査員3名が病院へ急行、少女を伴って再び柏崎署に戻ったのち指紋の照合が行われ、発見された少女が三条市で行方不明になった少女と同一人物であることが確認された[27]。同日夜には三条市から少女の母親が駆けつけ、9年2カ月ぶりの再会を果たした[27]。

「新潟少女監禁事件」あと少し発見が遅れていたら命はなかっただろう、被害者少女・佐野房子

激しい衰弱に骨粗しょう症、被害者少女・佐野房子の悲惨で危険な容態

 病院で健康状態を調べたところ、すっかり身体が衰弱しており、栄養失調からくる骨粗しょう症も発症していた。
 9年2カ月間、監禁されたまま運動もほとんどしていなかったため、一人で立ち上がることもままならなかった。
 佐藤宣行は監禁している佐野房子に余り食事を与えていなかった。
 最初は母親が用意した重箱詰めの夜食を食事を分けて与えていたが、佐野房子の足にあざが出来ているのを見つけると、高タンパク由来の糖尿病を危惧して、食事を1日1回に減らした。
 そして今までベッドから降りるのを禁止していたのを止めて床に足を下ろすのを許したが、そんなことでどうにかなるはずも無かった。
 なおそれまではベッドの上でする屈伸運動が佐野房子に許された唯一の運動だった。

 佐野房子は病院に運ばれてそのまま入院する事になったが、病院でスポーツドリンクを与えられて「今までの人生の中で一番おいしかった。」と言った。
 今までは何を与えられても味すら感じる心の余裕はなかっただろうし、ろくな食事を食べていなかったのだろう。

もっと早く踏み込めなかったのか?遅すぎた母親のSOSと「強制入院」の決定

「新潟少女監禁事件」佐野房子誘拐以前から繰り返していた、犯人・佐藤宣行の精神科通院と入退院とその後の悲劇

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 佐藤宣行は「新潟少女監禁事件」以前より精神的に不安定で、精神科への通院や入退院を繰り返していた。
 毎日念入りに車の洗浄を繰り返すほどの潔癖症だった父親の影響が大きいと言われているが、少年期には不潔恐怖を発症し、学校や他人に不潔感を感じて不登校の一因にもなっていた。
 一回就職した後も、通勤中に立小便をした飛沫が作業服かかったことを理由に帰宅し、そのまま仕事に行ったり行かなかったりを繰り返し、結局そのまま辞めてしまい二度と働く事は無かった。
 父親を追い出して直後、出て行こうとする母親を引き留めるために家への放火未遂をした際、恐ろしくなった母親が病院に連れて行って行ったところ「強迫神経症」と診断され即日入院。その後もそういった入退院を繰り返していたようだ。
 この時点で行政や医療機関などから、しかるべき救いの手が差し伸ばされていたらと思うと非常に歯がゆい気持ちになる。

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「新潟少女監禁事件」異例の判決、犯人・佐藤宣行に「法律の許される範囲で一番重い罪の法定刑を」

「新潟少女監禁事件」誘拐から9年2カ月=3364日の重み、その後の判決

 佐藤宣行の起訴の際に一番論点になったのは、“懲役を何年にすべきなのか?”と言う事だろう。
 検察は可能な限り罪状を並べて求刑を試みた。
 併合罪の適用を狙って、被害者少女の佐野房子の下着を調達するためにホームセンターで万引きした罪を追起訴し、逮捕監禁致傷罪は懲役10年が最高刑であるため、これが適用されれば被告人の量刑は15年まで引き上げられる計算だった。
 一方佐藤宣行の弁護側は、佐藤宣行の精神状態や、佐野房子への接し方に関し虐待だけを加えていたわけではない等を理由に反論を試みたが、最終的に退けられ、懲役14年とした。
 以下はWikipediaより、2002年1月22日に開かれた判決公判からの抜粋。

判決文では、未成年者略取と逮捕監禁致傷の両件について「動機・態様は極めて悪質で、その発生した被害結果などはあまりにも重大であり、刑法が構成要件として想定する犯行のなかでも、最悪の所為」とし、また窃盗については「監禁の犯行を継続し、その犯行に資するがために敢行されたもので、その動機および様態などは相当に悪質であって、未成年者略取および逮捕監禁致傷の犯状を、いっそう悪化させている」と指摘。14年という量刑について「逮捕監禁致傷の法定刑の範囲内では、とうてい適性妥当な量刑はできないものと思料し、同罪の刑に、法定の併合罪加重をした刑期の範囲内で、被告人を主文の刑に処することにした」と説明された

「新潟少女監禁事件」犯人・佐藤宣行への情状酌量に対する、被害者少女・佐野房子の父の絶望と叫び

「時間が埋まらない」犯人・佐藤宣行に奪われた9年2カ月に引き裂かれた父と娘の絆のその後は

出典: http://himalab.com

 佐藤宣行に対する懲役14年の求刑に対し、弁護側が懲役11年への減刑を求めた際、佐野房子の父親が悲痛な叫びを上げた。
 佐藤宣行から解放されて帰宅した佐野房子は精神(こころ)に受けた傷から見知らぬ人や男性を怖がるようになり、それは実の父親に対しても例外ではなく怯えて仕方がないため、せっかく戻ってきたのに親として触れる事も出来ない、「引き離されていた9年2カ月の時間が埋まらない」と証言した。
 検察側も奪われた9年2カ月という時間に対し求刑11年では割に合わないと反論した。

 帰宅して間もない佐野房子はすぐには解放された現実に馴染めず、監禁されていた時のように毛布に包まって過ごしていた。
 競馬や車の話題の本やラジオもよく聴いていたようだった。

「新潟少女監禁事件」から17年、佐野房子のその後と現在

その後、家族の元に帰ったその後、緩やかでも回復に向かう佐野房子の現在

 誘拐されてから9年2カ月間、佐藤宣行の部屋で地獄のような監禁生活を送っていた保護から2年近く後、2001年12月1日に新潟日報が報じた記事では、佐野房子は成人式に無事出席した様子などが伝えられた。
 その後も車の免許を取得したり、家族と新潟スタジアムへサッカー観戦したりと徐々に人生を取り戻しているうぴだった。
 何にも囚われることなく自分で運転する車に乗った気持ちはどんなに爽快だっただろう?
 今年で恐らく37歳くらいになるはずだが、家族で幸せに暮らしていると思いたい。

「新潟少女監禁事件」刑務所に収監され服役し、現在は出所している、犯人・佐藤宣行

刑務所で「お母さん、お母さん」と泣き叫ぶ佐藤宣行

 好き勝手し放題だった自分の城を追われて実刑を受けた佐藤宣行はその後、刑務所に収監され「お母さん、お母さん」と引き離された母親を恋しがっていた模様。
 さんざんわがままを言い、暴言や暴行を加えておいて、いざ一人になると泣いて縋ろうとするのは随分都合が良いものだと思う。
 母親は佐藤宣行に求められて競馬新聞を差し入れに面会していたようだったが、その後認知症を発症して養護施設に入所してしまい、2003年頃より面会していないようだ。
 生きていても母親は年齢90歳前後、佐藤宣行が出所しても彼の面倒は到底見れないだろう。

出所した「新潟少女監禁事件」犯人・佐藤宣行の現在

その後、懲役14年を終えて出所、現在行方知れずに……

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あまり長く刑務所にいると、出所後の生活が不安で出所したがらない場合がある。

 求刑通りに14年の刑期を終えた佐藤宣行は、残念ながらもう出所して野に放たれている。
 刑務所にいる間に障碍者手帳を取得しているので、働けずとも最悪生活保護が取得できると思われるので、出所後の生活はそんなに困っていない事が予想されるが、今どこで暮らしているかなど行方までは――ようとして知れない。
 もう2度と少女をその毒牙にかけない事だけを望むばかりである。

最後に……「新潟少女監禁事件」を考える

リアルな少女監禁にロマンは無い。

出典: https://imi.matomeyo.me

 このページに辿り着いた男性諸氏の方々の中には、少女を監禁するのを題材にした淫靡な作品を好まれる方もいらっしゃると思いますが、その欲求は絶対に作り話の中から出さないでください。
 実際の監禁事件には高尚な会話をしたり、心を通わせる余裕も無く、ただただ暴力の連鎖があるのみです。
 佐藤宣行もその御多分に漏れず、軽い気持ちで誘拐したであろう佐野房子を支配し続けようとするのに必死で、正常な判断も持てずに更なる精神崩壊をさせました。
 加害者と被害者が過ごす内に被害者がストレスを無意識に軽減させようと加害者にシンパシーを持つ「ストックホルム症候群」に陥る事もあるようですが、そのほとんどが救出されると目が醒めてしまいます。
 加害者と被害者はどこまで行っても加害者と被害者であり、その関係に救いは一切ありません。
 そこにはただただ深くて暗い地獄が広がっているだけなのです。
 改めて生還した佐野房子さんの現在が幸福である事を祈ります。

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