【練馬一家5人殺害事件】事件の真相|朝倉幸治郎や長女のその後

1983年に練馬区にある白井家が長女を除き惨殺された練馬一家5人殺害事件。遺体をミンチにしてトイレに流したという情報もあり、残忍な犯行だったと言われています。このまとめでは、犯人の朝倉幸次郎や事件の真相や複雑な背景についてまとめていきます。

【練馬一家5人殺害事件】事件の真相|朝倉幸治郎や長女のその後のイメージ

目次

  1. 1練馬一家5人殺害事件とは?
  2. 2練馬一家5人殺害事件の詳細
  3. 3練馬一家5人殺害事件犯人・朝倉幸治郎について
  4. 4練馬一家5人殺害事件の背景や動機
  5. 5朝倉幸次郎の裁判の行方
  6. 6練馬一家5人殺害事件の生存者のその後
  7. 7練馬一家5人殺害事件が遺したもの

練馬一家5人殺害事件とは?

練馬一家5人殺害事件とは、1983年に発生し犯人である朝倉幸治郎が死刑となった、バラバラ殺人事件です。事件名が示すとおりに、東京都の練馬区大泉学園六丁目で発生しており、子供含めた一家5人が殺害されています。

しかし練馬一家5人殺害事件の詳細な内容を知った人は一部で残忍な犯行にもかかわらず、犯人である朝倉幸治郎に同情の声を向けたりと、背景も非常に複雑なものでした。

このまとめではそんな練馬一家5人殺害事件について、まとめています。

【事件No.233】「練馬一家5人殺害事件」
1983年6月27日に東京都練馬区大泉学園町で起こったバラバラ殺人事件。不動産競売の取引をめぐるトラブルから、幼い子供を含む一家5人が殺害された。犯人は遺体をノコギリで切断し解体、電動肉挽き機にかけてミンチ状にし、トイレに流した。
— 渋井拓也@戦後事件研究 (@shibui_takuya) 2019年3月18日

「幼児を含む子供3人とその両親を惨殺した上に犯行を隠蔽する目的で遺体を切断するなど、人間性感情の一片も見られない冷酷・残酷・非道な犯行内容に酌量の余地はなく、凶暴な性格は矯正不可能だ」

練馬一家5人殺害事件の詳細

被害者がミンチにされたという噂もある練馬一家5人殺害事件。朝倉幸治郎による犯行の手口は非情かつ残忍でした。この項では犯人である朝倉幸治郎が練馬一家5人殺害事件を時系列で見ていきます。

朝倉幸治郎が練馬一家5人殺害事件を計画

練馬一家5人殺害事件が起きたのは1983年6月27日、白井明さん宅を朝倉幸治郎が訪れたところから事件は始まります。元々の動機は白井明さんが朝倉幸治郎の物件からの立ち退き要請に応じなかったのが拗れていたことですが、この詳細は後述します。

いくら言っても立ち退かない白井明さんとその家族にしびれを切らした朝倉幸治郎は、6月27日に白井明さん家族を殺害することを計画。1ヶ月も前から完全犯罪計画を立て準備を整えた後、同日2時45分頃に事件現場となる白井邸に向かいました。

立ち退きに応じない白井家・痺れを切らす朝倉幸治郎

応対したのは白井明さんの妻である白井幸子さん。「主人がいないので私にはわからない」と、白井明の立ち退きの要求をかわそうとしますが、これも過去何度も使われていた逃げ言葉で、この日も変わらないやり取りが繰り返されていました。

立ち退きの要望を無視して奥へと白井幸子さんは引っ込みます。しかしこの日はいつもと違い、白井幸子さんの背中を追って住居に侵入。「もう話し合う余地はない」とし、バッグに仕込んであった金槌を取り出します。

白井幸子さんが朝倉幸治郎に殺害される

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追いすがって金槌を振り上げた朝倉幸治郎は、迷いなく白井幸子さんに金槌を振り下ろします。朝倉幸治郎は呻きながら逃げようとする白井幸子さんに追いすがり、襟首を掴み何度も何度も金槌を振り下ろし、ダイニングルームで殺害へと到りました。

この時に次男である正利ちゃんがダイニングルームに入ってきて、大声で泣き出します。

子供が次々とが朝倉幸治郎に殺害される

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亡くなった幸子さんの母親の胸に両手をかけて泣いている正利ちゃん。しかしむ上にも朝倉幸治郎のハンマーが振り下ろされ、すぐに幸子さんの後を追うことになりました。朝倉幸治郎は冷酷に「泣き声が外に漏れてはまずいから」殺害したようです。

そして居間には恐怖の余りに動けなくなっている三女の昌子ちゃんが立ちすくんでおり、また金槌で殴打。倒れ込んだ首に手をかけ昌子ちゃんも殺害します。

更にこの後に、15時に帰ってきた次女の朋子ちゃんも首を絞めて殺害し、4人の遺体は浴槽に隠されることとなりました。

朝倉幸治郎は家主の白井明の殺害へ

4人の殺害後、朝倉幸治郎は一度、変えのジャージに着替え車に戻り、白井明さんの殺害に向けて準備を整え、再び白井邸へ趣き白井明さんの帰りを待ちます。この時に準備した凶器は"まさかり"でした。

白井明さんはその日同僚と飲んでいて21時に帰宅し、揉み合いや争いになることもなくあっさりとまさかりで殺害され、浴槽へと隠されることになりました。既に家族4人を殺害しており、朝倉幸治郎の決意は固まっているため、口論になることもなかったようです。

朝倉幸治郎の遺体処理が冷静すぎる

音が漏れることを恐れた朝倉幸治郎は、遺体処理をするため少し時間をずらずことを計画。決行は翌日6月28日の午前4時半、持ってきたのは解体用の道具と電動肉挽き機でした。

朝倉幸治郎は白井明さんの遺体を解体。内臓は電動肉挽き機にかけてミンチ状にし、トイレに流したそうです。練馬一家5人殺害事件においてよく遺体がミンチにされたと言っている話を見ますが、ミンチにしたのは正確には内臓だけだったようですね。

朝倉幸治郎は逮捕へ疲れを感じ休息へ

白井明さんの遺体の解体を終えた時は既に朝の6時過ぎ。次の解体を始めようとしましたが人の気配を感じて中断。再開しようとすると疲れを感じてきたため、この状況の中で自分の体を洗い横になって一休みし、2時間ほど休息をとったそうです。

しかし午前9時頃に、連絡が取れないと白井幸子さんの母親から連絡を受け、隣人である主婦が白井邸を訪ねます。この主婦に気付いた朝倉幸治郎は「この家の人達は昨夜引っ越した」と、主婦に伝えました。

この時の応答を隣人の主婦が幸子さんの母親に伝えたことから、朝倉幸治郎への逮捕と繋がります。

朝倉幸治郎は練馬一家殺害容疑で逮捕へ

この時、長女(名前非公開)は林間学校に行っており、このタイミングで引っ越すことは有り得ないと不信感をつのらせた幸子さんの母親は警察に通報。家の権利の件もあって「白井家が監禁されているのでは」と、危機感を感じたそうです。

こうして6月28日0時40分、白井邸を訪れた警察により朝倉幸治郎は確保されます。裏口から逃げようとした所を取り押さえられ、観念したのか殺害を自供して緊急逮捕となりました。

練馬一家5人殺害事件が起きた当日の流れは以上です。この練馬一家5人殺害事件において唯一の生き残りは、林間学校に行っていた長女だけでした。一部、修学旅行で調べられているようですが、正確には林間学校ですので正しておきます。

練馬一家5人殺害事件犯人・朝倉幸治郎について

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残虐に、しかし冷酷に冷静に淡々と一家を殺す計画を立て、幸運にも難を流れた長女以外を殺害した朝倉幸治郎。逮捕時も「自分は正常です。一貫して心境に変化はありません」と冷静に語っていて、その恨みは深かったとされています。

この項では練馬一家5人殺害事件を引き起こした朝倉幸治郎に人物像について調べてまとめていきます。

朝倉幸治郎の生い立ちについて

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朝倉幸治郎は1935年、秋田県秋田市に生を受けます。幼少期や学生時代の情報は少ないですが、高校生時代にボクシング部に所属していたという情報があり、練馬一家5人殺害事件に置いても、この経験は白井明さんを殺す際に役に立ったと言われています。

高校卒業後は日本大学法学部へ進学していますが、元来、朝倉幸治郎は頭が良いほうではなかったらしく、父親が手を回して裏口入学をさせたんだとか。父親の情報は殆どありませんが、手を回せることからそれなりに恵まれた家柄だった事が伺えますね。

大学時代は勉強についていくことがかなり厳しかったらしく、なんとか卒業した後は父親の経営する会社に就職しています。

朝倉幸治郎は殺人未遂の前科持ちだった

練馬一家5人殺害事件前に朝倉幸治郎は一つの殺人未遂を起しています。

朝倉幸治郎を支えてくれた父親は1959年に逝去していますが、存命の頃から兄弟で遺産争いをしていたそうで、争いが絶えなかったそうです。また父親が逝去した前後に結婚もしました。

逝去後も兄弟間での醜い遺産争いは続いていて、1961年に遂に朝倉幸治郎は実弟に対して殺人未遂を起します。未遂ではありましたが、実弟はこの時の傷が原因で左目を失明。朝倉幸治郎は逮捕され、懲役3年の判決を受けることとなりました。

朝倉幸治郎は出所後は人生をやり直す

実弟の殺人未遂により懲役3年に服した後、出所後に朝倉幸治郎は東京へと引っ越します。妻と子供も離婚せずに待ってくれていたようで、この時に朝倉幸治郎は妻や子供のためにと一念発起。

人生を初めからやり直そうと不動産鑑定所に就職し、後に不動産鑑定士の資格を取得し1976年に独立しています。以降は練馬一家5人殺害事件が起きる1983年まで目立ったことは起こしていません。

朝倉幸治郎の性格や評判は?

「カッとすると何をするかわからない男」と言われていたようで、実際に実弟に対し殺人未遂を起した背景もあることから、それは間違いないでしょう。

しかし出所後に東京に引っ越してからは「挨拶を欠かさないし腰の低い人」。友人からは「筋を通さないと気がすまない」とも言われています。このことから、頭に血が上らない限りは温厚な人物だったのかもしれませんね。

練馬一家5人殺害事件の背景や動機

練馬一家5人殺害事件に至るまでに、朝倉幸治郎は白井家と白井家の母方の家系である和田家に追い詰められていたと言われており、今でも同情する声が多いです。この項ではそんな朝倉幸治郎が殺害に足る動機や背景についてまとめていきます。

朝倉幸治郎が資産を担保に競売物件を購入

1976年に独立してから7年後の1983年の2月。朝倉幸治郎が練馬区の競売物件であった白井邸を転売するために1億600万円で落札しています。この時支払った資金は自身の資産をほぼ全て担保に入れて、銀行から1億4500万円の融資を受けた上で購入したものでした。

登記上は朝倉幸治郎の物件となった白井家。同年4月13日に朝倉幸治郎は不動産屋と契約を取り付け、1億2950万円で売却する契約を成立させいます。この差額は2300万円であり、白井家の立ち退き料を考えても充分に黒字が出る数字でした。

白井幸子の父親が曲者だった?

朝倉幸治郎が競売で購入し、転売を目論んだ物件は元々は白井幸子の父親である和田の所有物件でした。和田はこの物件を借金のカタに競売にかけられていて、それを朝倉幸治郎が買った形になります。

しかしこの和田という人物は不動産交渉においては朝倉幸治郎よりも二枚も三枚も上手でした。この物件に自身の娘と娘の旦那・子供を住まわせていたのも和田の作戦だったと言われています。

仮に住人が正当な権利なく居座っていたとしても不動産取引においては「長期間にわたって居住していた住人に立ち退いてもらうためには半年程度の猶予期間に加えて『適正な立ち退き料・代替家屋の提供などの交渉が必要』という常識」があり、Aはこれを知らなかったことにより窮地に陥ることとなった[5]。

白井家の誠意がない対応・進まない交渉


和田の指示により何かと理由をつけて立ち退かない白井家。遂には朝倉幸治郎は明け渡しの裁判を起します。しかし白井明は「裁判を取りやめれば引っ越しする」と朝倉幸治郎に交渉したため、結局裁判は取り下げることに。

しかし裁判を取り下げても白井家は引っ越しの準備すらしておらず、結局の所はこれも時間稼ぎの作戦であった事は判明しています。また、裏で手を引いている和田の指示によりこの時の立ち退き料は3000万円を要求していたとも言われていて、朝倉幸治郎が赤字を抱える数値でした。

追い詰められた朝倉幸治郎は殺意を抱く

朝倉幸治郎は不動産屋と契約した際に、明け渡し期限を6月30日に設定しています。しかし期限内に立ち退きが成立し、不動産屋に引き渡せなければ違約金3000万円を払う上に売買の交渉は決裂。資産を担保に入れて億の金を用意した朝倉幸治郎にとって、交渉の決裂は破滅も同然でした。

しかしここまで述べたとおりに裏で手を引く和田によって、交渉は前に進まず、白井家は誠意のない対応を続けているこの状況。追い詰められた朝倉幸治郎は「一家を殺すしかない」と、決意を抱くこととなりました。

ここまでが練馬一家5人殺害事件に至る背景と朝倉幸治郎の動機となります。

朝倉幸次郎の裁判の行方

練馬一家5人殺害事件で逮捕された朝倉幸治郎。一家5人を殺害した上で事前に計画建てて準備をしていたこともあり、事情はどうであれ悪質でした。そして朝倉幸治郎は事件から13年後に1996年に死刑判決となり、その5年後の2001年に死刑が執行されています。

この項では朝倉幸治郎の裁判の行方から終わりまでをまとめていきます。

朝倉幸治郎の供述内容について

朝倉幸治郎は逮捕後、練馬一家5人殺害事件の取り調べで以下のように供述しています。

「前日に押し入ってからは何も食べず、外にも出ないで被害者の死体の処理をしていた。主人(賃借人男性)は骨を粉々にしてやりたいぐらいに思っていたが、女・子供については気が咎める」
「被害者5人の死体は28日夜までに解体して富士山麓の樹海に捨てるつもりだった。30日まで1,2日間犯行が発覚せず、被害者宅が無人であればその間に売却先に引き渡すことができると思った」

朝倉幸治郎はこのように、悪びれることもなく冷静に語っています。マンションを一ヶ月前からアジトとして借りていたこともあり、「計画的犯行の疑いが強い」とし、朝倉幸治郎は練馬一家5人殺害事件において殺人・死体損壊の容疑で検察庁に送検されることとなります。

朝倉幸治郎は死刑判決へ

朝倉幸治郎は裁判で電動肉挽き機を含めて、50点以上の犯行用道具を練馬一家5人殺害事件に向けて用意しており、更に車を運転するためにペーパードライバーの状態から教習所に通うくらいの執念を見せていました。

この背景から警察が訴えた「練馬一家5人殺害事件は計画的犯行だった」こと裁判所にも認められることとなりました。

いくら同情できる事情があったとしても、練馬一家5人殺害事件に関しては「残忍」で人としての情を感じられる行いではありません。それは誰の目から見ても明らかでしょう。

この結果、朝倉幸治郎は第一審で死刑判決となります。弁護人は朝倉幸治郎の事情から「心神喪失」を盾に控訴しましたが、最期まで死刑判決は覆せずに、1996年に練馬一家5人殺害事件の主犯・朝倉幸治郎の死刑が確定しました。事件から13年後の決着でした。

朝倉幸次郎の最期や遺言は?

2001年まで服役し同年に死刑が執行されていますが、朝倉幸治郎の晩年の様子は多くは語られていません。裁判中にすべての罪を認め「大変申し訳無いことをした」と謝罪はしています。

しかし死刑執行前の獄中で特別何かをしたとか、練馬一家5人殺害事件を悔いていたとか、そういったエピソードは存在していません。

練馬一家5人殺害事件の生存者のその後

林間学校に偶然行っていて、練馬一家5人殺害事件から唯一生き残った長女ですが、事件当時は「家族全員交通事故に遭って亡くなった」と親戚から聞かされていたそうです。弟にお土産として持って帰ろうと、貸切バスの中で貰ったゼリー菓子を後生大事に、食べずに持っていたんだとか。

1996年に最高裁で死刑が確定した頃には既に結婚していて母親になっているそうですが、育児に忙しいため最高裁の判決は傍聴していなかったと言われています。亡くなった兄妹の分まで幸せな家庭を築くことを切に願いたいものですね。

また、練馬一家5人殺害事件唯一の生存者である長女は、被害者となった白井家の中で唯一名前が判明していません。

練馬一家5人殺害事件現場のその後

練馬一家5人殺害事件が起きた白井邸は今は取り壊され、更地になった上で家を建て、土地と家をセットで売られています。和田がそうしたかどうかはハッキリしていませんが、既に完売していて、今も練馬一家5人殺害事件現場には誰かが住んでいる形となります。

こういった殺人現場や事故物件でよく聞かれる心霊現象などの噂は今のところはありません。

練馬一家5人殺害事件の社会への影響

練馬一家5人殺害事件が発生するの背景に、白井夫妻及び裏で手を引いていた和田の行動が朝倉幸治郎の殺意に結びついたことは間違いありません朝倉幸治郎の浅はかな売買も原因ではあるのですが、朝倉幸治郎の後がない弱みに付け込んで交渉を長引かせていたのもまた事実です。

朝倉幸治郎が引き起こした練馬一家5人殺害事件は到底許されるものではありませんが、決して同情の声も少なくありませんでした。

現在でこそ事件の真相が明らかになり、ネットなどを通じて一般にも知られたこともあり犯人側に同情の声も寄せられているが、 事件発生当時は猟奇殺人と不動産トラブルという点だけがセンセーショナルに報じられ世間一般のバッシングに晒され、 また不動産トラブルということで不動産関係者の中には肩身の狭い思いを当時感じた人もいたそうである。

練馬一家5人殺害事件が遺したもの

同情的に見られている意見も確かにあり、裏で手を引いていた和田は何の制裁も受けていないのも事実です。そう言った面も含めて朝倉幸治郎への同情的な声は多いことも心情的には理解はできます。

しかし、この練馬一家5人殺害事件の「『人倫の大道』を根本から蹂躙した罪科はあまりにも重く死刑をもって臨むほかない」と裁判所でも断じられており、白井夫妻の子供を含めてその手にかけた事実は到底許されるものではありません。

同情は結構ですが、朝倉幸治郎が引き起こした練馬一家5人殺害事件は、いくら怨嗟が積もっていても絶対に引き起こしてはならないものだと語り継いでいきたいところですね。

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