香月弘美「胴体切断事故」が怖すぎる…【閲覧注意】宝塚での死亡事件

人気演目「春のおどり、花の中の子供たち」の上演中に、宝塚歌劇団員の香月弘美はセリのシャフトに衣装を巻き取られ、胴体切断により亡くなりました。この痛ましくも悲しい香月弘美「胴体切断事故」の詳細と原因などをまとめてみました。

香月弘美「胴体切断事故」が怖すぎる…【閲覧注意】宝塚での死亡事件のイメージ

目次

  1. 1香月弘美「胴体切断事故」とは?
  2. 2香月弘美の簡単な経歴
  3. 3宝塚の悲劇!香月弘美「胴体切断事故」の詳細
  4. 4香月弘美「胴体切断事故」のその後
  5. 5宝塚だけじゃない舞台事故の数々
  6. 6他にもいた最期が悲惨な有名人
  7. 7香月弘美の事故を繰り返さないために

香月弘美「胴体切断事故」とは?

1958年4月1日、昼の部の公演を無事に終え、「春のおどり、花の中の子供たち」の夜の部の公演が始まりました。

出番が終わり、香月弘美と相手役の松島三那子がセリに乗って奈落にはけようとしたところで、シャフトに衣装が絡まり、香月弘美の胴体が真っ二つに切断されてしまうという悲劇は起こりました。

香月弘美の簡単な経歴

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香月弘美の生い立ちや、どうして宝塚に入ったのかをまとめてみます。

供の頃から宝塚に憧れ

香月弘美は1936年8月21日、神奈川県藤沢市に生まれました。

子供の頃から日舞を習っており、湘南白百合学園小学部へ入学します。その後、中学部、高等部へ進みますが、同級生だった松島三那子に憧れ、高等部を中退して宝塚音楽学校への入学を果たします。

宝塚音楽学校とは宝塚歌劇団へ入団するための養成学校のことで、2年間で宝塚歌劇団員として必要な歌やダンスや礼儀作法などをみっちり学びます。先輩後輩の上下関係は厳しく、「清く 正しく 美しく」がモットーとなっています。

宝塚41期生

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香月弘美は宝塚41期生として、宝塚歌劇団員花組の一員としてスタートを切ります。

初舞台は1954年4月の「春の踊り」という演目で、同期生たちと一緒に初舞台を踏みました。

宝塚歌劇団に入団した時の成績は51人中17番目でしたが、子供の頃から日舞を習っていたこともあり、日舞とダンスの成績はトップクラスでした。

宝塚音楽学校を卒業した生徒は宝塚歌劇団の一員として入団し、同期と共に初舞台を踏みます。
初舞台生は、初舞台公演で口上とラインダンスを披露いたします。

宝塚の悲劇!香月弘美「胴体切断事故」の詳細

それでは宝塚史上他に類を見ない、悲惨な切断事故の詳細を見ていきましょう。

香月弘美最後の演目は『花の中のこどもたち』

3月26日から4月29日の日程で、1958年4月の宝塚歌劇団花組公演は始まりました。演目は「春のおどり、花の中の子供たち」です。あらすじの一部をご紹介しましょう。

主人公は昭男と和子の兄妹。ある時二人の元に、童話の国からの招待状が届いたところから物語は始まります。

童話の国で大歓迎を受けた兄妹たちは、童話の国の大切な宝物パーニヤの玉が無くなったことを知ります。

パーニヤの玉を探して兄妹たちが最初に訪れたのがトランプの国でした。トランプの国には自由が無く、キングとクイーンの逆鱗に触れた者は処刑されてしまうのです。

このトランプの国の住人で、処刑される恋人同士のうちの一人、ハートの7を演じたのが香月弘美でした。

実は代役だった?

実はこのハートの7役は、月組から応援として参加していた日夏有里でした。しかし日夏有里が風邪で体調を崩したことにより、3月31日の昼公演から、代役として指名されたのが香月弘美だったのです。

宝塚の公演で代役は珍しいことではありません。香月弘美は3月31日の昼公演、夜公演、そして4月1日の昼公演も事故無く乗り切ります。

相手役のハートの6を演じたのは、香月弘美が宝塚に入団するきっかけともなった、湘南白百合学園時代の同級生の松島三那子でした。

そして4月1日の夜の公演が始まります。

切断事故が起こるまで

松島美那子演じるハートの6と、香月弘美演じるハートの7は密かに愛しあっていましたが、やがてその恋はクイーンに知られることとなります。

キングとクイーンは二人を処刑することに決め、松島美那子と香月弘美は所定の位置に尽きます。2人の足元にはセリといって昇降装置が設置されており、奈落と呼ばれる舞台下へと2人を下ろしていく仕掛けです。

演者が処刑の命令を発したタイミングで、舞台裏の技術者がセリを下降させます。松島美奈子と香月弘美は舞台上でひしと抱き合い、苦悶の表情を浮かべながら奈落の底へと下りていきます。

2人の姿が観客たちの視界から消えたその瞬間、「ギャーーーッ!」という香月弘美の絶叫が、場内に響き渡りました。

香月弘美の胴体が真っ二つ!

当時の宝塚で使っていたセリは、両側にらせん状のシャフトが立っており、それが回転する力で上げ下げを行っていました。

セリが下がり始めた直後、この回転するシャフトに香月弘美のドレスが巻き込まれてしまったのです。

香月弘美は「やめて!」と叫びますが、その体はなすすべもなくシャフトに巻き込まれていきます。

ここで再び奈落の底に響き渡る香月弘美の絶叫。

ようやくシャフトの回転が止まった時には、香月弘美の体は胴体から真っ二つに引き裂かれていました。

事故を目撃した松島三那子

香月弘美の胴体が真っ二つに切断された時の状況を、セリで一緒に奈落まで下りた松島三那子の視点から、もう少し詳細に見ていきます。

香月弘美と抱き合いながらセリに乗っていた松島三那子ですが、次の出番までに早変わりで衣装チェンジをしなければならず、セリが下り始めてすぐにセリから飛び降りました。この時、香月弘美に向かって「おおきに」と声をかけています。

そのまま走り出した松島三那子の背中に、香月弘美の悲鳴が聞こえて慌てて振り返ると、シャフトにドレスの裾が巻き込まれた香月弘美を目撃します。

松島三那子は大声でセリを止めるように叫びますが、既に手遅れでした。

松島はこの日、飛び降りて三歩ぐらい走った時、背後で「ヤメテー」という叫びがしたのと同時にバリバリという音、何かが飛び散る音がしたのを聞いた。驚いて振り返ると、蝋細工の人形のように無表情な香月の顔と、衣装ドレスの赤い生地がセリのシャフトにからみついて回っているのがみえた。この間一秒程度であった。

香月弘美「胴体切断事故」の原因

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香月弘美のドレスには膨らみを持たせるために、腰、太もも、膝の辺りにスチールベルトが取り付けられていました。

最初にドレスの裾が巻き取られ、続けて下半身も引っ張られて、右足は骨折、左足は膝から下が粉砕骨折。そしてシャフトに絡みついた腰のスチールベルトが、香月弘美の胴体をゆっくりと振り絞るように締め付けていき、真っ二つに切断してしまったのです。

騒然とする劇場

香月弘美の悲鳴を聞いた観客たちは初め、演出の一部かと思いました。しかし奈落の底が騒然とし、宝塚歌劇団のメンバーが泣き出したり、取り乱したりする様子を見て、何かとんでもない事故が起こったことを察知しました。

公演はそこで中止されましたが、翌日には再開し「春のおどり、花の中の子供たち」の演目そのものは大好評のうちに幕を閉じました。

10名無しさん@花束いっぱい。2014/02/06(木) 23:34:10.10ID:+e33Y5eI>>11>>12
一番コエーのは公演が中止にならずに
次の日から何事もなく再開されたことだよ・・・
さすが歌劇団

香月弘美「胴体切断事故」のその後

ここからは香月弘美「胴体切断事故」のその後と、宝塚の関係者の証言などをまとめてみます。

宝塚歌劇団員の証言

香月弘美「胴体切断事故」が起こったセリの危険性を、以前から指摘する宝塚歌劇団員もいました。

宝塚の演者たちが乗るセリのスペースはタテが1メートル、ヨコが3メートルほどしかなく、すぐそばに剥きだしのシャフトが立っていたため、セリを使うたびにいつか衣装が巻き込まれるのはないかというものです。

一方、確かにセリは危険だったが、これまで事故は一度も起きていない。今回に限って事故が起こったのは、セリ以外に原因があるのでは?と疑問を呈した宝塚歌劇団の団員もいました。

宝塚歌劇団の責任は?

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香月弘美「胴体切断事故」に対して、宝塚歌劇団側の責任はどうなったのでしょうか?事故を管轄した労働基準監督署と宝塚警察署の見解をまとめてみました。

香月弘美の死亡は労働災害

香月弘美「胴体切断事故」は労災が認定され、幾つかの改善要求が兵庫労働局西宮労働基準監督署から出されました。

まず剥きだしになっているシャフトに安全装置を付ける、ドレスに取り付けるベルトはスチール製をやめて竹ひご製にする、セリの昇降スピードを遅くする、また、連夜の遅くまでの稽古による疲労も事故に繋がったと見て、深夜の稽古にも警告を出しました。

警察は宝塚歌劇団側の責任を指摘

事故を担当した兵庫県宝塚警察署は、宝塚歌劇団側に業務上過失致死罪などの刑事責任を問うべく捜査をしました。

事故の起こった日、セリの操作をした公演係長にどの程度の責任があるか、裾が3メートルにも広がるドレスを着たまま、狭いセリに乗ることの危険性を宝塚歌劇団側が認識していたかどうか、という点です。

しかしその後、事故の捜査がどうなったのか、詳細が報道されることはありませんでした。一説によれば、宝塚歌劇団の運営会社である阪急電鉄に過失致死罪を求刑し、罰金5万円の判決で終わったと言われています。

相手役だった松島三那子はどうなった?

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香月弘美と一緒にセリを降り、その最期の目撃者となった松島三那子は、事故直後激しく取り乱しました。

泣きわめきならが香月弘美の名を叫び、自分が死ねば良かったといったことを口走っていた松島三那子は、その後行方をくらましてしまいます。

関係者に付き添われて宝塚警察署に出頭したのは、4月4日の昼になってのことでした。警察へ話した内容によれば、松島三那子は途中でセリを降りたため、事故の詳細は目撃していません。

後年、松島三那子は自著「ヅカむすめのアメリカ日記」の中で、香月弘美の胴体切断事故に触れました。

本の中で、事故当時は宝塚歌劇団の関係者から、事故について口止めされ、しばらく身を隠すよう指示されていたことを暴露しています。

香月弘美の存在は抹消?

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香月弘美の亡骸は、宝塚歌劇団員たちの手によって美しく死に化粧が施された後で密葬が営まれ、両親の元へ返されました。

その後事故については、宝塚歌劇団はかん口令を敷き、まるで香月弘美の存在そのものを抹消するかのように、宝塚歌劇史からも抹消してしまいました。

香月弘美の胴体切断事故当時、実習生として公演に参加していた岸香織が、自著「虹色の記憶」で以下のように述べています。

旧宝塚大劇場実在時には、毎年4月1日に旧宝塚大劇場奈落一号セリの下に献花が行われて、公演中の宝塚歌劇団生徒達が追福を営んでいた。しかしその行事も、旧大劇場取り壊しと共に挙行中止になった。

今も慰霊碑を訪れる宝塚ファン

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旧宝塚大劇場の取り壊しに伴い、慰霊行事は中止されてしまいましたが、香月弘美の慰霊碑は移転されて今も宝塚ファンが花を手向ける姿が目撃されています。

また、この慰霊碑にはNHK連続テレビ小説「花子とアン」でも取り上げられた女流歌人、柳原白蓮の歌が刻まれています。

めになみだ こよいは月のなきものを 香ふさくらが うすあかりせり 白蓮

宝塚で囁かれる怪談の噂

香月弘美「胴体切断事故」の後、宝塚ではこんな怪談が囁かれるようになりました。

初舞台生が緊張しながら奈落で待機していると、後ろから頑張ってね、と声をかけられます。この時ありがとうございます、と答えるとその初舞台生はスターになるというものです。

香月弘美「胴体切断事故」の映画化

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多羅尾伴内とは脚本家の比佐芳武が創作した名探偵の名前で、リメイク作品も含めてこれまで10本以上も映画化され、大ヒットを収めたシリーズです。

1978年小林旭主演のリメイク作「多羅尾伴内」の作中劇でのシーンで、観客が見守る中、一人の女優がワイヤーで宙づりにされ、胴体を真っ二つに切断されるという、香月弘美「胴体切断事故」を連想させる事件が起こります。

宝塚だけじゃない舞台事故の数々

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香月弘美「胴体切断事故」ばかりではなく、舞台での事故は多数報告されています。

例えば1994年、新宿コマ劇場の照明係が高さ7メートルから転落し、首の骨を折って亡くなりました。また、2001年には北とぴあ・さくらホールでは、メンテナンス会社社員の3人が、セリと舞台に挟まれて亡くなっています。

続いて、死亡事故にこそ繋がりませんでしたが、演者が怪我をした事故をご紹介します。

市川染五郎(現10代目松本幸四郎)が奈落に転落

松本幸四郎オフィシャルサイト

2012年8月27日、国立劇場大劇場で公演中、舞台のセリから転落して大怪我を負いました。

病院に緊急搬送され、診断の結果、頭部の打撲と右手首の骨折により、休業を余儀なくされました。

事故の原因について詳しいことは公表されていませんが、松本幸四郎(当時は市川染五郎)の復帰会見で、自分のミスで落下してしまったことを謝罪しています。

その後心配された後遺症もなく、2018年からは10代目松本幸四郎を襲名し活躍中です。

唯月ふうかは眼窩底骨折

2016年8月16日、大阪・梅田芸術劇場で上演中のピーターパンの稽古中、高さ3メートルに宙づりされた状態から逆さまに落下し、左目の眼窩底吹き抜け骨折という怪我を負ってしまいます。

本来高さ1メートルのところで止めなければいけないところ、スタッフの操作ミスで床まで落下してしまったのです。

怪我の回復状況が心配されましたが、2016年10月5日には出演映画のイベントで、怪我からの回復ぶりをアピールしました。

他にもいた最期が悲惨な有名人

柳原尋美

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柳原尋美は元ハロプロの所属タレントであり、カントリー娘。の初代メンバーでした。カントリー娘。には、大リーガー田中将大の奥さんになった里田まいも所属していました。

1999年7月16日、北海道帯広市近くの村道で、柳原尋美自身が運転するパジェロの運転操作を誤り、車外に投げ出されてしまいます。その時運悪く横転したパジェロの下敷きになってしまい、救急車で病院へ搬送されましたがその日の夜、息を引き取りました。

享年19歳。7月23日はカントリー娘。のデビューシングル「二人の北海道」の発売日で、柳原尋美の訃報を知った多くのファンがその早すぎる死を悼みました。

保倉幸恵

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保倉幸恵は1960年代から70年代にかけて活躍したモデルです。

数多くの少女雑誌で活躍した後、NHKドラマ「黄色い涙」で本格的な女優活動を始めました。女優としても順調に活動していましたが、母親の重病を機にノイローゼとなり芸能活動を一時休止します。

1975年7月8日、保倉幸恵は電車に飛び込んで自殺します。その遺体は手足がバラバラになり、顔の見分けもつかないほど酷い状態でした。身元を特定するものを何も身につけていなかったため、7月10日になってようやく保倉幸恵と特定されました。

自殺の原因についてはノイローゼや母親の介護疲れと言われていますが、遺書も見つからず、本当の原因はわかっていません。

田宮二郎

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1957年にデビューした田宮二郎は、映画「悪名」「白い巨塔」などに出演し、人気スターとしての地位を確立していきます。

一時は映画会社の大映ともめて映画界を干されてしまいますが、地方のドサ回りや、クイズ番組の司会などを経てその人気を回復しました。

テレビドラマにも多数出演するようになりますが、多忙を極めるあまり、躁うつ病を発症してしまいます。

不安定な精神状態の中、ドラマ「白い巨塔」の田宮二郎役に没頭すると同時に、M資金詐欺と呼ばれる架空の投資詐欺にも手を出していました。

そして1978年12月28日、田宮二郎は自ら散弾銃の引き金を引き、自殺してしまうのです。

妻へ宛てた遺書には、感謝の言葉と共に、生きることの苦しみと死への恐怖が綴られ、病気で倒れたと思って諦めて欲しい、と書かれていた。 この田宮の自殺は、足の指で猟銃用の散弾銃の引金を操作して胸を撃ち抜いたその方法もあいまって、非常に大きな衝撃をもって報道された。

桃井望

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AV女優だった桃井望は、200本以上の作品に出演していました。

そんな桃井望の焼死体が、長野県の奈良井川河川敷で発見されたのは2002年10月12日の夜のことです。

遺体には数か所もの刺し傷があったことから、警察は当初、一緒に焼死体となって見つかった男性が無理心中を図ったと見ていました。

しかし男性の遺族はこれを不服とし、また男性の友人らも署名を集めて殺人として事件を捜査するよう要請しましたが、全て却下されています。

その後、保険金の支払いを拒否した保険会社相手に起こした訴訟では、事件は他殺と認定されました。

ヴィック・モロー

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最後に海外からも一人ご紹介します。

ハリウッド俳優のヴィック・モローは、アメリカの人気テレビシリーズ「コンバット!」の主役でトップスターの仲間入りを果たしました。

事故が起こったのは1982年、映画『トワイライトゾーン/超次元の体験』の撮影中です。突如ベトナム戦争の戦場に放り込まれた主人公が、ベトナム人の子役2人を抱きかかえ、戦場内を逃げ惑うというシーンの撮影中でした。

撮影用の爆風に煽られたヘリコプーターがバランスを崩して、ビック・モローと子役たちの傍に墜落し、激しく回転するヘリコプターのローターによって、ヴィック・モローと1人の子役の首を切り落としてしまったのです。

香月弘美の事故を繰り返さないために

香月弘美「胴体切断事故」にしても、他の舞台上の事故にしても、危険と分かった時点で改善していたら、あそこでもっと注意を払っていたら、など悔やまれる点を挙げていけばキリがありません。

残念ながら人間はミスをする生き物であり、どんなに気を付けていても100パーセントミスを無くすことはできません。

しかし、電車運行の際、車掌が指さし確認を行うのも、医療現場で患者の名前を必ず確認するのも、事故を未然に防ぐための対策です。

一つ一つはささやかな努力かもしれませんが、痛ましい事故を少しでも無くすためには、こうした日々の積み重ねが重要ではないでしょうか。

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