2021年03月30日公開
2021年08月13日更新
【三菱銀行人質事件】怖すぎる事件詳細|犯人・梅川昭美の生い立ち
三菱銀行人質事件は、犯人梅川昭美が人質30人以上をたてにして籠城し、警官など4人を射殺した銀行人質強盗殺人事件です。1979年1月、42時間におよぶ事件でテレビでも生中継された凄惨な事件です。犯人梅川昭美の生い立ちなども含めて、事件の詳細を紹介します。
三菱銀行人質事件とは?
1979年、昭和54年1月26日午後2時30分、閉店間際の大阪市住吉区の三菱銀行北畠支店に、見るからに不審な男が一人入店します。黒いチロル帽を被り、黒のスーツに黒サングラス、白マスクをした男の名前は梅川昭美、史上稀に見る凄惨な事件の犯人です。
梅川昭美の目的は現金5000万円、強奪後すぐに逃走する計画でしたが、偶然のいたずらで30人以上を人質にする3日間にわたる立てこもり、警官2名、銀行員2名が射殺されるという残虐な銀行強盗・人質立てこもり殺人事件に発展してしまいます。
「三菱銀行人質事件」と称されているこの事件の概要をまず紹介しましょう。
1979年の銀行強盗・人質立てこもり殺人事件
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1979年の1月、今から40年ほど前に発生した衝撃的な3日間に及ぶ銀行強盗・人質立てこもり殺人事件で、テレビ各局も番組編成を変更して臨時の現場中継をライブで放映しました。リアルタイムでテレビ放送を観た人たちは、もう50歳過ぎの年配になっているはずです。
事件のあった大阪市住吉区万代東1丁目15番地の三菱銀行北畠支店は、高級住宅街の帝塚山にも近く、治安が悪いところではありません。一人の凶悪犯が住んでいたマンションが住吉区内だったことで、土地勘の良い近場のこの銀行が狙われたのでしょう。
犯人は札付きの悪・梅川昭美、人質は当初43人
犯人の梅川昭美は貧困な幼少期を過ごし、すさんだ生活から15歳の時には強盗殺人の罪で少年院送致されています。成人しても定職に就くことは無く、荒れた生活で借金がかさみ、この事件も借金返済のための銀行強盗が目的でした。
梅川昭美が銀行に押し入った時に銀行内にいたのは銀行員が34人、来客者が17人の計51人でした。梅川昭美が命じてシャッターを閉じた時に残った人質は43名で、8名は銀行内の安全な所に隠れたり銀行外に脱出することができました。
この銀行外へ脱出した人が付近を警ら中の警官に偶然にもすぐに出逢ったのが梅川昭美の誤算でした。想定よりも事件が早く発覚し、逃亡できずに立てこもることになってしまいます。
1月26日から28日まで42時間も立てこもり
梅川昭美が銀行に押し入ったのが1月26日午後2時30分、事件が解決し人質が解放されたのは1月28日の午前8時41分、実に約42時間に及ぶ立てこもり事件でした。
警察は600人以上の警官と100台以上の車両での警備体制をしき、SATの前身となる狙撃隊も配備しますが、梅川昭美はバリケードや人質を盾にしてなかなか隙を見せません。顔を洗う時も片手で、猟銃を手から離しません。
梅川昭美の疲れと油断を待つ持久戦の末の、42時間後の突入、狙撃になりました。
銀行員2名、警官2名が犠牲、梅川昭美を狙撃で終結
狙撃隊員7名の突入、計8発の銃撃によって、3発が頭、首、胸に命中し梅川昭美は床に崩れ落ちます。捜査員が一斉に突入し人質全員を確保救出して、長い42時間の惨劇が終わります。
この事件によって銀行員2名と警察官2名が射殺され犠牲になりました。人質のなかには負傷した人もいて、なによりも精神的に大きな傷を負ってその後つらいトラウマを背負うことになった人がほとんどでしょう。
大阪府警はこの事件解決のために、時間外手当や給食費、入院費など合わせて1億800万円の費用を要したと言われています。一人の凶暴な犯人のための犠牲は人命以外にも計りしれないものがあります。
三菱銀行人質事件の詳細な経緯
三菱銀行人質事件の経緯と、犯人梅川昭美や人質の動きなどを時系列に沿ってさらに詳しく紹介しましょう。添付したYoutubeは約1時間にわたって、人質だった人や警察の人の証言なども含めて事件の全貌がまとめられていますので、時間のある人には一見をおすすめします。
衝撃的な内容が含まれていますので【閲覧注意】が付けられています。この記事も心臓の弱い人など、心して読まれるようお願いします。
犯人梅川昭美の犯行動機は
zaimukeiri
犯人梅川昭美の目的は銀行強盗でした。銀行に押し入り、猟銃で2発天井に向けて発砲し、「10数える間に5千万円を出せ」と要求しています。
当時、梅川昭美は事業を失敗した負債やサラ金などの借入れなどで500万円の借金をかかえていました。借入先は8カ所以上にのぼります。とりあえず借金を返して楽な生活がしたかったのが、銀行に押し入った犯行動機です。
銀行立てこもり中の2日目、27日の午後にこの借金を返却しようと算段し、人質の銀行員の一人に500万円を持たせて配達させに行かせます。
26日、梅川昭美が銀行に押し入り最初の犠牲者が
1979年1月26日午後2時30分、梅川昭美が三菱銀行北畠支店の西側駐車場にダイハツ・シャルマンバンで乗り付けます。実はこの車は盗難車で、この車とは別に梅川昭美は計画的に逃走用として愛車のコスモを銀行から500m先の路上に停めてあります。
銀行内に入ると梅川昭美は、上下2連式12番口径の猟銃で天井に向けて2発発砲して威嚇し、5000万の現金をリュックサックに入れるように脅します。
その時、離れた所にいた萩尾係員が2階につながる非常電話で110番通報を要請しますが、それを見た梅川昭美が発砲、数10個の散弾が顔や首に命中して萩尾係員は死亡します。その散弾の破片などで男子行員と女子行員各1名が負傷しています。
警ら中の警察官と110番通報で駆け付けた警官も
午後2時32分、最初の犠牲者が出て混乱しているなか、男子行員と女子行員各1名と客の主婦1名、計3名が店外に脱出します。脱出した主婦は、丁度銀行の東側を自転車で通りかかった住吉警察署警ら係長楠本警部補と出会い、事件発生を伝えます。
午後2時35分、楠本警部補は銀行内に入り、銃を捨てろと叫び威嚇発砲しますが、梅川が猟銃を2発発砲、楠本警部補の顔と胸に命中、射殺してしまいます。
脱出した男子行員が喫茶店に110番通報を依頼、すぐに阿倍野警察署のパトカーで巡査と巡査長の2名が駆け付けますが、午後2時38分、前畠巡査が梅川に胸を撃たれ死亡します。巡査長のほうは防弾チョッキの着用で難を逃れたと言われています。
責任者の支店長を射殺、20分間に4人が犠牲に
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三菱銀行北畠支店には2階があり、支店長室や融資関連の部署などが入っています。3人を射殺した後、梅川昭美は行員に命じてシャッターを下ろさせ2階への階段や非常口などを机や椅子でふさぎバリケードを作らせます。
森岡支店長は銃声が響いてから1階に降りてきていました。梅川昭美の「責任者は誰だ」の問いかけに森岡支店長が前に進むと、「すぐ金を出さなかったお前の責任だ」と言って至近距離から猟銃を発射し、森岡支店長を射殺してしまいます。午後2時50分のことです。
事件発生から20分で4人が犠牲に。森岡支店長は9日前の1月17日に北畠支店に着任したばかりでした。運命のいたずらにしては残酷すぎる話です。
最年長の銀行員に発砲、耳をそぎ落とす
午後4時50分ごろ、最年長で比較的冷静沈着に行動していた竹内行員に対して、「生意気だ」と怒号し猟銃を発砲、重傷を負わせます。竹内行員は死んだふりをしますが、梅川は別の男性行員にとどめをさすよう命じます。
男性行員が「もう死んでいる」と言うと、梅川は、映画「ソドムの市」で死人の儀式を行なうシーンの話をした上で、「そんならそいつの耳を切り取ってこい。死んでるなら切れるだろ」とナイフを差し出して命令します。
死んだふりをしていた竹内行員は命じられた行員に「かまわん」と小声で言い、行員は小声で何度も「すみません」と泣きながら左耳を半分切除します。竹内行員は耳を切り取られる時に、声を上げないように必死で堪えた、と後日「人質の証言」で語っています。
女性銀行員を裸にして「肉の盾」に
その後、完全な籠城状態になった梅川昭美は、人質のなかの女性銀行員18人に「服を脱げ」と命令して全裸にさせます。
その時、ただ脱がせるだけではなく、ブラウス、ブラジャー、パンティに至るまで、ストリップのように、じりじりと楽しむように服の脱ぎ方の順番までも指示したと言われています。
自分は支店長席に座り、その前に全裸の女性銀行員を隙間なく座らせ、机の両横にも裸の女性銀行員を隙間なく立たせて「肉の盾」をつくります。午後6時ごろのことです。
事件はこう着、日付は1月27日へ
午後7時ごろ、サーロインステーキとワインが梅川昭美用として差し入れられます。梅川は差し入れは人質に毒見させてから食べるという用心深さを見せています。ちなみに、人質用の差し入れは日付が変わって1月27日の深夜になってからのことです。
警察も突入の機会をうかがっていましたが、梅川もスキを見せず事件はこう着し籠城は日付が変わって1月27日も続きます。
警察の対応と犯人を梅川昭美と特定するまで
警察は銀行の2階と3階に特別捜査本部を設置、銀行周辺には警官600人以上、車両100台以上が取り囲み、16日午後7時前には大阪府警の狙撃隊が2階で待機しています。シャッターに開けたのぞき穴から1階内部の様子をうかがいますが、突入のチャンスはなかなかありません。
警察はまだ犯人が梅川昭美であることを知りません。16日午後11時30分に岐阜県の多治見駅前で「大阪の銀行強盗に使われた車は自分が盗んだ」と供述する男が警察に連行されたことから、梅川昭美の名前が浮上します。この男は梅川の小学校の同級生でした。
17日午前0時45分、梅川の自宅マンションに梅川が不在であることを確認し、犯人を梅川と断定しました。
ラジオを要求、放送で身元が割れていることを知る
1月27日午前3時25分、梅川昭美は「10分以内にラジオを入れろ」と要求します。報道状況が知りたかったのでしょう。この事件はテレビで生中継されていましたが、40年前のこと、銀行の1階ロビーにテレビはありませんでした。
午前4時30分、4時55分、5時7分、6時、6時12分、再三にわたり梅川はラジオを催促しますが、警察がトランジスタラジオを差し入れたのは6時15分のことです。何のために警察がラジオの差し入れをジラしたかは解りません。
ラジオでの事件報道で、自分の名前がテルミとされているのに怒り、「俺の名前はアキヨシ言うんや。今度、名前を間違うたら人質を殺す」と激昂して捜査本部に電話します。
梅川昭美の母親が香川から駆け付け電話と手紙で説得
午前4時、警察は梅川昭美の母親が香川県に居ることを突き止め、午前10時20分、母親を乗せたヘリコプターが大阪の長居公園グラウンドに着陸します。
午後1時47分、捜査本部から梅川に「おふくろさんに代わる」と電話し、母親が「もしもし」と呼びかけたところで梅川は返事をせず電話を切ってしまいます。
午後2時58分、母親が書いた手紙が梅川に届けられます。梅川は「俺にはおふくろしかおらんのや。俺は子供の頃からおふくろと一緒に苦労したんや。おふくろは大好きや。一緒に暮らしたいんや」などと話しますが、事態が動くことはありません。
梅川昭美の借金返済の実行を銀行員に指示して解放
この母親の説得の合間に、梅川昭美は自身の借金を返済することを考え策をめぐらせます。自分が死んで借金が母親の負担になることを避けようという思いからの行動とも言われています。
梅川昭美は10カ所ほどの借金先に「これから銀行員に返済に行かせる」と電話を入れ、業務係の銀行員に金を持たせ午後2時45分に一旦解放します。業務係員はハイヤーで借金先を回り、午後10時ごろ銀行に戻ってきます。
解放された人質も
事件が発生して、シャッターを下げて籠城状態になった時の人質は43人でしたが、42時間の立てこもりを経て最終的に開放された人質は25人です。男性銀行員が7人、女性銀行員が18人で、人質のなかにお客はもういませんでした。
人質は42時間の間に段階的にお客を優先して解放されていました。基準は子供や体が弱っている人、妊娠している人、高齢者などが優先されました。
食料やお酒、栄養剤などの梅川昭美の差し入れ要求が応じられた時などに1人、2人と解放されました。最後に解放された人質は発熱していた40歳の女性銀行員で、17日の午後11時5分のことでした。
1月28日朝8時41分警察突入、梅川昭美を狙撃
日付が変わって1月28日、立てこもってから2度目の朝がやってきます。朝6時57分、握り飯や味噌汁、スパゲティ、メロンなどの差し入れがありました。
食後、猟銃を手から離し朝刊を両手に広げて読んでいた梅川昭美は、長時間にわたる籠城での疲れでウトウトとうな垂れます。このチャンスを警察は見逃さず、狙撃隊に突入合図を出します。午前8時42分のことです。
狙撃隊7人がバリケードの隙間から梅川昭美に突進、7、8mの距離から一斉射撃し、計8発のうち3発が頭と首、胸に命中、梅川は床に崩れ落ちました。
即死ではなく、その後大阪警察病院に搬送され、突入から9時間後の午後5時43分、脳波が停止し死亡が確認されました。
犯人梅川昭美の生い立ち
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42時間におよぶ人質立てこもりのうえ、4人を猟銃で射殺という残虐な事件を引き起こした梅川昭美は、享年30歳、どのような生い立ちで育ったのでしょうか。
毎日新聞が編集した「破滅ー梅川昭美の三十年」には、梅川の幼少期からの生い立ちや事件に至るまでの経緯などが詳細に著されています。この事件に関する書籍のなかではおすすめの一冊です。
極貧だった幼少期や少年院にも送られた犯人梅川昭美の生い立ちの一端を紹介しましょう。
極貧の幼少期を過ごし高校も窃盗逮捕で4カ月で退学
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梅川昭美は1948年、広島県佐伯郡小方村、現在の大竹市で生まれました。三菱レイヨンの社宅で生まれています。三菱銀行で事件を起こして射殺されたのはなにかの因縁でしょうか。
両親は梅川が小学校5年生の時に離婚、主に母親の元で暮らします。母は工場の炊事婦として朝から深夜まで働いて梅川を育てますが、次第に放任状態となって中学時代には喫煙、暴行などでの補導が度重なります。
中学を卒業して広島工業大学附属工業高等学校に進学します。しかし、ほとんどズル休みの生活が続き、バイクを盗んで逮捕されて入学わずか4ヶ月で退学処分になってしまいます。
地元で強盗殺人事件を起こし特別少年院送致に
高校を中退した梅川昭美は、アルバイトなどをしながら一人暮らしを始めます。1963年12月、15歳の時に、アパートの家賃や遊興費捻出のために強盗殺人事件を起こしています。
前にバイトしたことがある土建業者宅に侵入し、21歳の社長の義妹を刃先が折れるほどナイフでメッタ刺しにして殺害し現金や通帳などが入った金庫を奪います。逮捕され裁判で特別少年院へ1年半ほど送致収容されることになります。
三菱銀行人質事件は、凶悪な人間を野放しにするとどうなるかという教訓を含んでいます。梅川の父親は梅川が19歳の時に死んでいますが「はよう死なんと、いまにアイツにひどい目に遭わされるわ」と知人に言っていたといいます。
梅川の少年院行きを命じた広島家庭裁判所は、審判の最後に「少年の病質的人格はすでに根深く形成されていて、容易に矯正しえないものである。少年が今後、社会に出れば同様の多種の非行を繰り返し、再び犠牲者が出る可能性があると思料される。だが少年であるがゆえに処罰しえない」と補足した。
女性遍歴のなかには鳴海清の元愛人も
なんでもnews実況まとめ
少年院を出た梅川昭美は、大阪でバーテンやキャバレーの店員、借金の取り立てなどの仕事をしますが、遊び人なのでお金にはいつも不自由します。ただ、一匹狼の性格からかヤクザに入ることはなく、三菱銀行人質事件を起こすまで警察に逮捕されることはありませんでした。
梅川は女性とも何度か同棲していますが、嫉妬心が強くDVで女性を裸にして家の外に放り出すことが度々あったと言われています。その中には魔性の女と呼ばれた謎の女性も含まれています。
その女は当時15歳、山口組組長田岡一雄を銃撃したことで知られる鳴海清の愛人で、鳴海の死後、梅川の愛人になったと言われています。
山口組三代目を襲撃した「あの」ヒットマン鳴海清と三菱銀行立て籠もり事件で計4人を射殺した「あの」梅川昭美の2人と10代半ばで愛人となって、当時は「魔性の女」と週刊誌などで騒がれた女性が、いまも西成の飛田近くで吞み屋さんをしているらしい。一度行ってみたいのだが、いまだ願いは叶わず。
— 凛七星 いけずな歌詠み人 (@GPart2) April 17, 2018
事件の影響やその後
三菱銀行人質事件は梅川昭美の射殺、人質全員の解放で幕を閉じますが、この事件が社会に与えた影響や人質の人たちのその後はどのようなものでしょうか。
三菱銀行北畠支店は、事件が終結した翌日の1月29日から通常営業をして世間をビックリさせましたが、その時人質だった人たちも勤めていたのでしょうか。気になる疑問もあるのですが、事件の性格から事件のその後についての情報はあまりないのが実情です。
事件は映画「TATTOO<刺青>あり」にも
「TATTOO<刺青>あり」は梅川昭美を題材にして、事件から3年後の1982年に制作・公開された映画です。梅川の生い立ちから事件に至るまでの軌跡を描いています。
梅川役には宇崎竜童、魔性の女は関根恵子が演じています。関根恵子はこの映画の監督、高橋伴明と結婚して今は高橋恵子になっています。他にも、渡辺美佐子や植木等、原田芳雄、大杉漣、泉谷しげる、ポール牧、西川のりおなど個性的な役者が出演しています。
事件自体の描写は省略されていますが、梅川の育った時代や事件に至る背景がよく描かれていて、事件を知るには良い映画です。
Lenelyの感想・評価
漸く鑑賞できた本作は1979年に起きた実際の事件を題材にした作品だが、全編の作風が最高すぎる。
事件を題材にしたとはいえ、犯行のシーンはほとんど描かれてはおらず、人物における軌跡を冒頭で破滅していることを考慮した上で描かれている。わずかな希望や救いを与えることなく、ひたすらに「どでかいこと(破滅)」に突っ走る主人公の短い生涯を時に美化し、時に美化せず描く。
作品の中で、人物像が完全に浮き彫りに描かれているので犯行シーンは無くとも一切の物足りなさは無く、むしろ濃密な人間ドラマを観たという幸福感に満たされる。
犯罪者側と被害者側の人権を考慮しなくてはならない現代社会ではまず描くことはできない。
腐った現代の日本映画ではまず観ることのできないATG感無量最高傑作だ。
事件被害にあった人質などのその後
三菱銀行人質事件で被害にあった人質の人たちのその後の情報はほとんどありません。事件から40年近く経った今、テレビの「爆報!THEフライデー」などの番組で特集が組まれますが、女子行員のその後についての情報はありません。
耳をそぎ落とされた銀行員の竹内さんが、インタビューに答えて当時の様子を語っているのが印象的です。心に辛くて深い傷を負っていることでしょうから、そっとしてあげたほうが良いでしょう。幸せを祈るばかりです。
梅川から「生意気だ」と激高された竹内さんは、2メートルの至近距離から散弾銃で撃たれながらも九死に一生を得た。その後、梅川の指示を受けた同僚から左耳を削がれるという出来事も起こった。梅川には死んだと思わせていたので「切られるときに声を出したら同僚も殺されると思い、必死になってこらえた」と振り返り、いま同僚に思うことは「よう思い切って(耳を)やってくれたなと。おかげで助かったんやで」という。意識が朦朧とするなか、妻と子供4人に血で遺書をしたため、般若心経を唱えていたことも明かされた。
三菱銀行人質事件が残した教訓は
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この事件は、かつて少年の頃強盗殺人を犯している人物が猟銃を使用しての事件でしたが、少年法や銃刀法は直ぐには見直しされませんでした。それらはいくつかの事件を経て改正されていくことになります。
事件に投入された狙撃隊は、1977年の「日本赤軍ダッカ事件」を契機に組織され、その後SATとしてさまざまな事件に対応し、いかにして犠牲が無く迅速に事件を解決するかを命題にして訓練に励んでいます。
銀行では、狙撃専用の通路や窓を天井裏に作るなどの対策をしているところもありますし、非常時対策の訓練は欠かせません。
なにより、梅川昭美のような人間を作らせないことが重要ですが、教育や法規制を整えてもこれは難しいことでしょう。