2021年10月05日公開
2021年10月05日更新
「おせんころがし」の由来、栗田源蔵殺人事件とは?現在は心霊スポットに…
1952年、栗田源蔵という男が起こした殺人事件は、おせんころがし殺人事件と呼ばれ、今でもその凄惨さが語り継がれています。舞台は千葉県鴨川市の観光地、そして心霊スポットとして名高いおせんころがしです。 おせんころがしを心霊スポットにまでした栗田源蔵の犯行とは。
目次
おせんころがし殺人事件とは
おせんころがし殺人事件とは、現在の千葉県鴨川市、当時の小湊町で1952(昭和27)年に起こった殺人事件の名称です。
犯人の名前は栗田源蔵。この事件は、当時世間を大いに騒がせました。
おせんころがし殺人事件の概要
事件は63歳の女性とその姪である24歳の女性が、千葉県の民家で殺害されているのが発見されたことで明るみに出ます。
逮捕されたのは当時26歳の栗田源蔵。この栗田源蔵を追求していくうちに、なんと5年間で8人もの人間を手にかけていたことが判明します。
「おせんころがし」について
「おせんころがし」とは、千葉県勝浦市から鴨川市にまたがる崖の名称です。全長は4kmと歩くと大人の足で約一時間かかる距離です。
昔は交通の難所として有名でしたが、現在ではおせんころがしトンネルと小湊トンネルで結ばれた国道ができていますので、問題は解消されています。
崖の中腹には当時使われていた小道が残っていますが、現在ではバリケードで閉ざされ入れません。
この場所にガードレールなどはありませんので、非常に危険な場所となっています。
おせんころがしへの行き方ですが、最寄り駅はJR外房線の行川アイランド駅から徒歩で10分ほどです。行き方に関しましては、後ほどくわしく説明いたします。
「おせんころがし」という物語の由来
「おせんころがし」という名称には、その由来となった物語があります。
その昔、おせんという娘が今の千葉県勝浦市に父親と住んでいたのですが、おせんは美しかったため、その一帯を治めていた豪族に目をつけられて、嫁ぐように強要されました。
しかし、おせんの父親はそれを拒みました。すると豪族は怒り、家来におせんの父親を簀巻にして崖から落とせと命じたのです。
おせんの父親は簀巻にされ、暗くなったら突き落とすために、崖の上で放置されていました。たまたまそこにおせんが通りかかり、父親を助けたのです。
おせんは父親を家に連れて帰り、そして自分が父親の身代わりとなるべく、崖の上で自ら簀巻になって豪族の家来を待ちました。
そして、何も知らない豪族の家来は、簀巻になったおせんを崖から突き落としたのです。
その翌朝、おせんのことを知った領民たちは嘆き悲しみ、お地蔵様を立てておせんを供養することになりました。
この一連の悲しい物語が、「おせんころがし」という名称の由来となったのです。
戦後のおせんころがし殺人事件:殺人犯・栗田源蔵について
おせんころがし殺人事件という残酷な事件を起こし、合計で8人もの罪のない人たちを残忍な方法で殺害した栗田源蔵という男は一体どのような男だったのでしょうか。
その理由は、生い立ちや置かれた状況などに由来するのかもしれません。
まずは、事件の犯人である栗田源蔵という男の人生を辿ってみます。
栗田源蔵の幼少期
1926年の11月3日、秋田県で栗田源蔵は生まれます。
家庭はひどく貧乏でした。それもそのはず、栗田源蔵は12人という大勢の兄弟の三男で、川漁師の父親は病弱で稼ぐことができず、母親が大黒柱として稼いでいたため放置された子供として育っていくことになったのです。
そのことが原因かは判然としませんが、栗田源蔵は小学校に入学しても夜尿症、つまりおねしょが直らず、それが災いしていじめに遭うことになります。
現在ではありえない話ですが、栗田源蔵は小学校を三年生で中退します。
その後、農家に奉公することになるのですが、ここでもおねしょが原因で嫌われることとなり、奉公先を追い出されます。
その後、なんと一年間の間に10回以上も奉公先を転々とすることになりました。
やはり、おねしょがその原因だったようです。
栗田源蔵の青年期
青年になった栗田源蔵は、19歳で徴兵されることになりますが、なんとそこでもおねしょが原因で、たった二ヶ月で除隊することになってしまうのです。
1945年という日本が逼迫していた時期におねしょで除隊するということは、よっぽどのものであったことが察せられます。
その後もずっと、栗田源蔵はおねしょに悩まされることになります。
夜尿症は栗田源蔵を歪める由来となっていきました。
終戦後の栗田源蔵
終戦後、栗田源蔵は北海道で炭鉱夫の仕事に就くことになるのですが、そこでの生活が栗田源蔵を一変させる原因や由来ともなっていきます。
それまでずっと内向的だった性格が、荒々しい男の職場で触発されることになり、栗田源蔵自身も荒々しい性格へと変貌していくのです。
そうして歪んだまま荒々しく成長した栗田源蔵は、1946年8月、職場の近くの農家から米を盗んでヤミ米として売りさばいた罪で逮捕されることになり、懲役1年6ヶ月の判決が下りました。
犯罪に手を染めていく栗田源蔵
1年間服役した栗田源蔵は仮出所しましたが、その後も傷害や窃盗、ヤミ米を売りさばくなどの犯罪を繰り返し、実刑判決が下ります。
すっかりアウトローとなっていた栗田源蔵はヤミ米の販売が生業となっており、どんどん売りさばいていました。
そして、当時のヤミ米を販売するブローカーの集団ともいうべき総武グループの中心的存在にまでなっていきます。
栗田源蔵の初めての殺人事件
そして1948年、栗田源蔵はついに殺人を犯すことになります。
ヤミ米のブローカーをやっていた時期に、栗田源蔵は当時17歳の女性と知り合い、結婚の約束までしていたのですが、その一方で17歳の女性の友人である20歳の女性とも関係を持ち、こちらの女性とも結婚の約束をしていました。
この三角関係というのもおこがましい二股状態が円満に続くわけもありません。
栗田源蔵は20歳の女性に結婚を迫られるようになり、ついにこの女性を殺害してしまいます。そしてその遺体を、現在の静岡県沼津市の海岸に埋めたのです。
殺人事件の被害者は二人に
栗田源蔵の犯行は止まりません。
20歳の女性を埋めた静岡県沼津市の海岸で、栗田源蔵は17歳の女性に20歳の女性の所在を尋ねられ、そして20歳の女性と別れるように迫られます。
すると源蔵は、20歳の女性を殺して埋めたことを告白します。驚いた17歳の女性が警察に知らせなければと逃げ出そうとしたところ、栗田源蔵は彼女を捕まえて「お前のことを可愛がってやるからな」と言いながら性交し、あげく手ぬぐいで絞殺します。
栗田源蔵はきちんとトドメを刺すために、女性の頭を石で幾度となく殴り、その遺体を20歳の女性と同じように海岸に埋めてしまいました。
はやぶさの源こと栗田源蔵
その後も、栗田源蔵は窃盗などを繰り返し「はやぶさの源」というあだ名までつけられることになります。
1950年には窃盗で懲役10ヶ月の実刑判決を受け、1951年に仮出所すると、今度は東北地方でしょうこりもなく泥棒生活を続けます。
そして栗田源蔵は、栃木県の小山町、現在の小山市に泥棒として乗り込むことになりました。
小山事件
1951年8月8日、栃木県の小山駅で下車した栗田源蔵は、酒を盗みそれを飲み、気分良く次の泥棒のターゲットを探しながら町を歩いていました。
その途中、ある家の窓を覗いてみると、中には蚊帳で寝ている乳児と24歳の女性がおり、その女性に劣情をもよおした栗田源蔵はズボンを脱いで侵入しました。
女性は当然そのことに気が付き、叫び声を上げて助けを求めましたが、栗田源蔵は女性を無理やり押さえつけ、首を締めながら強姦し、そのまま絞殺しました。
殺人事件を犯しただけでは飽き足らず
横にいた乳児には目もくれず、金目のものを回収した後、なんと栗田源蔵は死んだ女性を再び犯しました。屍姦です。
その後、鍋や釜を庭に埋めるという不可解な行動をとった栗田源蔵は、勝手口で排便しました。この行動は、当時の犯罪者の行動としてしばしば見られるものでした。
そしておせんころがし殺人事件へ
栗田源蔵はまたしても殺人を繰り返します。おせんころがしが心霊スポットとなった由来のひとつでもある事件が、ついに引き起こされるのです。
前回の殺人から2ヶ月後の10月10日、相も変わらず泥棒稼業の栗田源蔵は、ターゲットを探すため自転車で町を走っていました。
23時頃、千葉県の上総興津駅の待合室を通りかかった栗田源蔵は、子ども3人(長男、長女、次女)を連れた29歳の女性を見つけ、この時も劣情をもよおします。
送ってあげようと優しく声をかけて待合室から女性と子供たちを連れ出すと、栗田源蔵と女性、子ども3人は女性の目的地まで歩きはじめました。栗田源蔵は自分の自転車に長男を乗せ、女性は長女と手をつなぎ、次女を背負っていきました。
おせんころがしでの殺人
栗田源蔵のことですから、そのまま女性を目的地まで安全に送り届けるわけがありません。子どもが目の前にいるにも関わらず、女性に対していい身体をしているだの、やらせろだのとしつこく迫りますが、女性はここではダメとか後で家にもどったらとか、適当に受け流しました。
そのことが、栗田のフラストレーションを爆発させます。
1時頃、おせんころがしにさしかかったところで、栗田源蔵は「頭にきた」だの「やらせないなら皆殺しだ」などと叫び、自転車を止めて女性に襲いかかりました。
子どもが泣き叫ぶと、栗田はまず長男の頭を石で何度も殴打し、その上その身体を抱え上げておせんころがしの崖の上から放り投げました。
驚いた長女が母親にしがみつくと、栗田源蔵は長女を引きずり、さんざん殴ったあとで崖から突き落としました。
女性が恐れおののき、なんでもするから助けてくれと懇願すると、栗田源蔵はそのまま女性を押し倒して強姦し、布で首を締め、行為が終わると崖から突き落としました。
それで犯行は止まらず、寝ていた次女を殴り崖から落とすと、最後に自転車のランプを持って崖を下り、崖の中腹に倒れていた女性、長男、次女を石で殴って完全に息の根を止めました。
この時、長女だけは草むらに身を潜めていたため、栗田源蔵に殺されることなく命拾いしました。
止まらない栗田源蔵の殺人事件
栗田源蔵の殺人は止まりません。
おせんころがし殺人事件の翌年1月、現在の千葉県千葉市花見川区で、栗田源蔵はまたある家に侵入して盗みを働きました。
そこで栗田源蔵は、その家に着物がたくさんあることを知ってしまい、1月13日の夜、再び同じ家に侵入しました。物音で目を覚ましたその家の主婦である24歳の女性が騒いだため、栗田源蔵は女性の首をタオルで絞殺します。その叔母も物音に気がついて騒いだため、今度は腹部を出刃包丁で刺し殺害しました。
栗田源蔵が殺人を犯しただけで済むわけもなく、すでに死んでいる24歳の女性を屍姦し、その場を後にしました。
殺人事件後の栗田源蔵
千葉県での殺人事件の後、栗田源蔵は妹夫婦の住む家に寄宿しており、布団で寝ているところを警察に逮捕されました。
この頃には千葉県で本人による盗難事件が多発していたため、はやぶさの源の名は警察でもよく知られており、様々な罪状で全国指名手配されていました。
殺人事件の解決まで
栗田源蔵は、警察の地道な捜査によって逮捕されました。
千葉県での事件で、二人の遺体には布団と毛布がかけられていました。また、着物が数点紛失していることから、泥棒が目的だったことがわかります。
そして侵入口が、迷路のような路地にある勝手口からだったため、この付近の地理に詳しい者の犯行と推理されました。
ちょうど事件が起きた頃は、栗田源治がはやぶさの源として名をはせていたため、警察は栗田源蔵の行方を探しました。
そして、1月16日、妹夫婦と同居していた栗田源蔵を逮捕するに至ります。
逮捕時、妹夫婦の家で布団にくるまっていた栗田源蔵ですが、その布団には血がついており、また血のついた包丁も同時発見されました。
これらを調べた結果、なんと栗田源蔵が寝ていた布団は、殺された24歳の女性のものだということがわかったのです。
おせんころがし殺人事件の判決
栗田源蔵は犯行を否認しましたが、17日、警察は真犯人であると断定して逮捕にいたりました。
逮捕後、栗田源蔵は高熱を出して倒れたのですが、警察は初めて人を殺した為だろうと考えていました。
この事件で、8月13日、栗田源蔵には死刑判決が下りました。それだけでなく、これまで犯した殺人事件も次々と追求され殺害を自供し、翌年の12月21日に2つ目の死刑判決が下ることになります。
一人の人間が、二度も死刑判決を受けるという現在では考えられない事態になりました。
拘禁された栗田源蔵
拘置所に入れられた栗田源蔵ですが、ここでも傍若無人な振る舞いで、看守たちに多大な迷惑をかけます。しかもこの頃でも夜尿症は引きずったままで、度々おねしょを繰り返していました。
そんな栗田源蔵でしたが、年があけて1954年には体調不良などを訴えはじめます。
ガラスを割って自傷行為を繰り返したりと、拘禁によるノイローゼの症状を見せ始めました。
翌年にはその症状はさらに悪化していき、ついに栗田源蔵はプロテスタントの洗礼を受けることになりました。
おせんころがし殺人事件の呪いか
プロテスタントの洗礼を受けた栗田源蔵は、牧師に対して奇妙なことを言い始めます。
「おせんころがしで殺した女性が、子どもを連れて夢の中に現れて泣く」と言い出したのです。
これまでさんざん人を殺してきた栗田源蔵が、突然そのようなことを言い出したのは奇妙なことです。
現在心霊スポットとして有名なおせんころがしですが、もしかしたらこの時点で、この場所に女性と子供の怨念の霊が現れ、すでに心霊現象は始まっていたのかもしれません。
この一件は、おせんころがしが心霊スポットと言われるようになる由来のひとつと言われています。
栗田源蔵の死刑執行
栗田源蔵は死刑執行を免れるため、再審や抗告の申し立てを繰り返しましたが、結局最後には申し立てを取り消し、1959年、33歳で死刑が執行されました。
死刑制度の論争と栗田源蔵
栗田源蔵の死後、死刑を存続させるか廃止させるかの議論において国会で討論がなされた時、例に挙がったのは栗田源蔵でした。
法務省は栗田源蔵のような極悪人が世の中にいる以上、淘汰する他にない犯罪者もいるのだと主張し、今日でも死刑は存続しています。
現在のおせんころがし
現在、千葉県鴨川市から勝浦市にまたがるおせんころがしは、千葉県の中でも有数の心霊スポットとして有名になっています。
おせんころがしの近くのおせんころがしトンネルもまた同じく、心霊スポットと言われています。
おせんの伝説、そして栗田源蔵の殺人事件、その上ここは自殺の名所としても知られており、心霊スポットになるには十分すぎる程の理由や由来が揃っています。
おせんころがしでの心霊現象
おせんころがしでの有名な心霊現象は、心霊写真や謎の体調不良に見舞われるという話が多いです。また、おせんころがしトンネルでも同様のことが言われています。心霊スポットになるにはおせんの逸話だけでも十分だった場所に、栗田源蔵の殺人事件、そして自殺、それらの要素が絡み合い、心霊現象を引き起こしているのでしょう。
もしかしたら自殺と思われていることも、自殺などではなく、心霊現象のひとつだったのかもしれません。
おせんころがしへの行き方
おせんころがしは千葉県に実際にある心霊スポットです。ここまでの記事を読んで、おせんころがしまでの行き方を知りたくなってしまった物好きな方のために、行き方の説明をさせていただきます。
まずは、国道が走っているおせんころがしトンネルまでの行き方をご説明します。
車でのおせんころがしトンネルへの行き方
東京方面からおせんころがしへ向かう場合の行き方をご説明します。
まずはアクアラインに乗り、そのまま圏央道に入ります。圏央道を市原鶴舞インターで降りたら、国道297号線を南下して県道82号線に入ります。県道82号線をそのまましばらく道なりに進み、途中道が二股に分かれたところで左の県道177号線に入り突き当りまで進みます。突き当りが国道128号線ですので、そこを右折。しばらく進むと行川アイランド駅があり、それを通り過ぎるとおせんころがしトンネルに到着します。
東京方面からおせんころがしへ向かう場合の行き方をご説明します。
まずはアクアラインに乗り、そのまま圏央道に入ります。圏央道を市原鶴舞インターで降りたら、国道297号線を南下して県道82号線に入ります。県道82号線をそのまましばらく道なりに進み、途中道が二股に分かれたところで左の県道177号線に入り突き当りまで進みます。突き当りが国道128号線ですので、そこを右折。しばらく進むと行川アイランド駅があり、それを通り過ぎるとおせんころがしトンネルに到着します。
また、館林自動車道をご利用の場合は、市原インターで降りた後、国道297号線を南下し、原田の交差点を右折して国道409号線に、少し進んだら左折して県道81号線に入りそのまましばらく道なりに走ります。
そのまま直進で県道32号線に入ったら、上総中野駅を過ぎるまで道なりです。
上総中野駅を過ぎたところで右折し県道177号線に入ったら、突き当りまで道なりに。突き当りを左折して県道82号線に入り、途中右折して県道177号線に入ります。興津交差点で右に入り、国道128号線を道なりに進めば、おせんころがしトンネルに到着します。
電車でのおせんころがしトンネルへの行き方
おせんころがしトンネルの最寄り駅は外房線の行川アイランドです。
東京駅を起点とした行き方は、総武線で千葉駅まで行き、千葉駅で外房線に乗り換えて行川アイランド駅まで行くか、京葉線で蘇我まで行き、そこから行川アイランドに行くのが便利です。
行川アイランド駅からおせんころがしへの行き方
行川アイランド駅から国道128号線を左に曲がり、おせんころがしトンネルの手前にある道を左に曲がり、道なりに進むと、途中ホテル行川へ続く道があり、それを横目に道なりに行けば、おせんころがしの由来となった孝女お仙之碑があります。
突然海が開けるように現れます。おせんころがしの崖は冗談ではなく、本当に危険な場所ですので、くれぐれもご注意ください。
まとめ:おせんころがしの悲劇
千葉県に実在する心霊スポット、おせんころがしの由来や、そこで起きた悲劇、栗田源蔵という男、そして行き方までご紹介いたしましたが、いかがでしたでしょうか。
もし、おせんころがしに行ってみたいと思い立った方は、周辺で体調不良やおかしな気配を感じたら、そのまま素通りしておせんころがしトンネルに入り、大沢に抜けましょう。
おせんころがしでは確かに悲劇が起こっています。
そして、悲劇の新たな1ページが増えないことを祈っております。