五・一五事件とは?「話せばわかる」犬養毅暗殺事件|二・二六事件との違いは?

犬養毅首相を暗殺した「五・一五事件」は、「血盟団事件」の第二幕だった――。学校では詳しく教わらない昭和の大事件の真相を、当時の東京の様子や登場人物のくわしい解説、紛らわしい「二・二六事件」との違いの説明を交えて、わかりやすくまとめました。

五・一五事件とは?「話せばわかる」犬養毅暗殺事件|二・二六事件との違いは?のイメージ

目次

  1. 1犬養毅首相暗殺! 衝撃の「五・一五事件」
  2. 2「五・一五」はナゼ起きた――"軍縮"と昭和大恐慌
  3. 3日曜・夕方五時半の凶行――五・一五事件当日の詳細
  4. 4犯人グループに甘すぎた”世論”と「五・一五裁判」
  5. 5「五・一五事件」と「二・二六事件」との違いとは?
  6. 6「五・一五事件」の教訓――昔から変わらない日本人

犬養毅首相暗殺! 衝撃の「五・一五事件」

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1932年(昭和7年)5月15日午後5時27分。「風薫る五月」の半ば、日曜日の夕方に起こった海軍将校たちの反乱「五・一五事件」は、犬養毅首相の暗殺事件として広く知られています。

しかし、どうして犬養毅首相が暗殺されたのか、そして事件はその後どうなったのか、について、私たちは学校でくわしく教わりません。

「五・一五事件」とは何だったのか。どのようにして犬養毅首相は暗殺されたのか。そして、その後の日本の歴史にどのように影響したのか。多くの日本国民が実はよく知らない、この歴史的重大事件を、くわしく見ていきましょう。

「五・一五事件」とは――誰が何のために起こしたか

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「五・一五事件」は、一言でいえば一部の海軍将校たちによる反乱です。「ロンドン海軍軍縮会議」で英米の要求する水準まで軍備を縮小しようとしていた政府に、かねがね大いなる不満を抱いていたのです。

それと共に、彼ら若き海軍将校たちの目には、近代化する東京の繁栄ぶりと、昭和恐慌に困窮する故郷の人々とが同時に映っていました。政府の失策で日本経済はどん底まで冷え込み、地方部では各種輸出産品の取引量が例年の半分近くにまで減って、地方の人々の生活は厳しい状況に追い込まれていました。

決起を企んだ海軍将校たちは、元々は失政の責任者として若槻礼次郎前首相を襲う計画を持っていましたが、若槻前首相は辞職。そこで後を継いだ犬養毅首相を狙うことにしたのです。

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五・一五事件は「血盟団事件」の第二幕だった

しかし「五・一五事件」は突然起きたのではありません。むしろ、ある事件の続編として捉えるのが正しいと言えるでしょう。その事件とは1932年2月に起きた「血盟団事件」です。

1932年正月、宗教家・井上日召らによって暗殺テログループが組織され、元老・西園寺公望や外務大臣・幣原喜重郎、三井財閥の池田成彬ら政界・財界の大物を次々と抹殺して、天皇制のもとでの社会主義国家を作ろうと企てました。

そして、実際に大蔵大臣・井上準之助と、三井財閥総帥・団琢磨が暗殺されたのです。このグループはのちに警察によって「血盟団」と呼ばれるようになりました。

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血盟団の協力者に「五・一五事件」の海軍将校がいた

この暗殺計画は、すでに前年から協議されていました。ただし、西田税(にしだ みつぎ)ら陸軍出身の活動家からは時期尚早として協力を拒まれたため、海軍の活動家・古賀清志らの協力のもとで暗殺計画を実行に移したのです。

のちに「五・一五事件」で犬養毅首相暗殺を実行した海軍将校グループは、つまり「血盟団事件」の延長として「五・一五事件」を起こしたことになります。

「五・一五」はナゼ起きた――"軍縮"と昭和大恐慌

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「五・一五事件」はなぜ起きたのか――。この答えは、その前段階の事件である「血盟団事件」の動機を探ることでほとんど理解できると言っていいでしょう。ここでは、「血盟団」が「一人一殺」を掲げて政界・財界の大物を抹殺しようとした理由は何なのかを、さらにくわしく見ていくことにします。

関東大震災で生まれ変わった”モダン東京”

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1923年(大正12年)の関東大震災で甚大な被害を受けた東京は、後藤新平の指揮のもとで復興再開発事業が行われ、復興どころか、驚くべき発展を遂げました。

隅田川にかかる永代橋などの「隅田川十橋」、昭和通り、大正通り(現・靖国通り)、明治通りなどの主要道路、隅田公園などの震災復興公園、上下水道やガス等の生活インフラの整備など、現在の東京の基盤はこのとき作り上げられました。

この再開発の結果、東京は震災があったにもかかわらず人口が20%も増え、1920年に360万人だったものが1930年には540万人にまで膨れ上がりました。

経済・文化の中心として日本中の富が集まったが……

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銀座や新宿といった街では、大正時代から現れ始めたモボ(モダンボーイ)、モガ(モダンガール)と呼ばれる、欧米文化の最先端を取り入れた若い男女が文化の中心を担い、ファッションや文学、演劇、歌謡曲といったジャンルが、いっぺんに華やぎました。

このときの東京の若者の様子は、いまの若者とほとんど変わらないと言っていいでしょう。それぞれが自由に青春を謳歌し、好きな服を着て、友達と楽しい遊びに出かけていた時代。

まさか、「憲政の神様」と呼ばれた犬養毅が「五・一五事件」で殺されてしまうなど、誰も想像できなかったに違いありませんし、「えっ、犬養毅? 犬養毅って誰?」という若者もかなりいたのではないでしょうか。

しかし、そうした風潮は、田舎から出てきた一部の若者たちにとって、決して見過ごせるものではありませんでした。東京の富が地方にまわってこない現実と、そうした政治・経済を作り上げた明治期からの権力者たちを見て、格差を生む「欧米かぶれの資本主義」を憎む人たちが現れるようになりました。

失政で招かれた昭和大恐慌

1929年秋、アメリカ・ニューヨークのウォール街で、それまでの過剰生産・過剰投資が祟り、二度の株価大暴落が発生しました。

この影響はアメリカだけにとどまらず、アメリカと通商取引をするさまざまな国にまで及びました。特に日本では、濱口内閣が行った「金解禁」(紙幣をゴールドと交換できる制度に戻す)が災いし、国内の金保有量が激減。米や生糸の値段が半額近くにまで暴落し、地方経済に深刻なダメージを及ぼしました。

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当時、稀少であったはずの大学・専門学校卒業生のうち約3分の1が職がない状態であり、学士が職にありつけない明治以来の異変が生じて「大学は出たけれど」が流行語となった。1930年(昭和5年)の失業者は全国で250万人余と推定されており、このような未曽有の不況は「ルンペン時代」と称された。

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全国各地の農村では、困窮の果てに子女の人身売買が横行。銀座のモガたちの華やかな文化の裏で、悲惨な現実に苦しむ国民が大勢いたのです。

当時の大正義だった帝国主義をくじく「軍縮」

昭和恐慌の苦しみの中、国民に残されたかすかな希望の光は、日露戦争の勝利の記憶でした。日本は、戦えば強い――。203高地の激戦に勝利した日本陸軍、ロシア海軍を鮮やかに破ってみせた日本海軍の存在は、多くの日本国民にとって誇らしいものだったのです。

ところが、ロンドン海軍軍縮会議によって対英米比「7割」の海軍軍縮条約が結ばれようとしていました。恐慌の苦しみに追い打ちをかける不平等軍縮――

これに怒りを覚えた人々の中に、英米式の資本主義を打倒し、天皇を元首に据えた皇国社会主義を実現しようと考える人が現れました。

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犬養毅は"とばっちり"だった――血盟団の標的

井上日召の率いる「血盟団」は、皇国社会主義の建設のために、欧米かぶれの資本主義を作り上げた人々を「一人一殺」の原則で暗殺しようと企てました。

そして、1932年(昭和7年)2月9日、暗殺計画の第一弾として、「金解禁」で昭和恐慌を招いた井上準之助蔵相が暗殺されたのです。さらに翌3月5日、三井財閥の総帥・団琢磨が暗殺されました。

この2件の暗殺犯はいずれもその場で逮捕され、まもなく井上日召率いるテロ集団の存在が判明、井上を含む関係者14名が一斉に逮捕されました。

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犬養毅に恨みはないが、権力者を成敗したい

一斉逮捕によって寸断されたかのように見えた血盟団の計画を、その後も継続させようと考えるグループが存在していました。古賀清志ら、若き海軍将校グループです。

彼らにとって、犬養毅は恨むべき対象ではありませんでした。むしろ海軍軍縮に反対意見を述べ、天皇の統帥権まで持ち出して濱口内閣を追い込んだ人で、海軍にとっては功労者と言ってもいい存在でした。

しかし、古賀グループにとって大切なのは、それまで議会で権力を握ってきた人たちをすべて消し去り、自分たちの意のままになる政治家によって国家改造をすることでした。犬養毅首相も襲撃対象外ではなかったのです。

本当なら軍縮会議に出席し、その後の内閣を引き継いだ若槻礼次郎を暗殺したいところでしたが、彼はすでに辞職済み。そのため犬養毅内閣を打倒するテロを計画したのです。

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日曜・夕方五時半の凶行――五・一五事件当日の詳細

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「五・一五事件」による犬養毅首相暗殺の惨劇は、日曜日の夕方に実行されました。ここで、少し想像してみましょう。現代なら、日曜日の夕方といえば「笑点」や「サザエさん」が放送されている時間帯。休日もそろそろ終わりに近づき、世の中全体が徐々にまどろんでいく、どことなく静かなタイミングです。

そんなタイミングで起こった犬養毅首相暗殺の「五・一五事件」。事件当日、犬養毅襲撃隊は具体的にどのような行動をとったのか、くわしく見ていくことにしましょう。

三上卓の第一組が犬養毅を襲撃――「話せばわかる」

1932年(昭和7年)5月15日、午後5時27分。三上卓が率いる第一組が、犬養毅首相暗殺のために首相官邸に乗り込みました。このとき、犬養毅首相は騒動を聞きつけ、官邸内「日本館」の食堂にやって来ていました。三上隊は「日本館」洋室客間で警備の田中五郎巡査を銃撃し、食堂で犬養毅首相を発見しました。

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犬養毅首相は説得するため三上隊を和室に招く

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三上卓は、発見した犬養毅首相を即座に銃撃しようと試みますが、ピストルに弾丸が装てんされておらず失敗

犬養毅首相は、三上隊の姿を見て瞬時に「血盟団事件」の一連の流れを感じたのでしょう。彼らを説得するために、15畳敷きの和室客間に誘導し、床の間を背にしてテーブルに向って腰を下ろしました。

犬養毅首相にしてみれば、何よりもまず自分自身が「軍縮」路線に反対してきた人間である、という自負がありました。また、彼らの理想とする皇国社会主義では、国の生産力を確保する資源が決定的に不足しているので、遅かれ早かれ欧米諸国に倒されてしまうことも見えていました。

犬養毅「話せばわかる」と問答無用の狙撃の真実

「五・一五事件」では一般的に、犬養毅首相が「話せばわかる」と海軍将校を諭していたところを「問答無用!」と吐き捨て、狙撃におよんだ、と信じられてきました。

しかし実際には、犬養毅首相は家政婦にお茶のもてなしを命じたうえで、三上隊を和室応接間に連れていき、そこで持論を述べながら静かに将校らを説得しようと試みる中、三上隊の山岸宏が「問答無用、撃て! 撃て!」と叫び、発砲された、というのが真相のようです。

犬養毅首相の「話せばわかる」は、銃声に驚いて駆けつけた家政婦に、銃撃されて倒れた犬養毅首相は「いまの若いものをもう一度呼んで来い」「話せばわかる、話せばわかる」と呻き、それがいつの間にか「問答無用」の前に発せられた言葉として誤解されてきたのです。

古賀清志の第二組は、牧野内大臣を襲撃も空振り

古賀清志が率いる「五・一五事件」第二組は、第一組が犬養毅首相を襲撃する一方で、政界きっての大物である牧野伸顕内大臣の襲撃に向かいました。牧野伸顕は、「維新三傑」大久保利通の実子であり、明治期から昭和に至るまでの「藩閥政治」の象徴的人物として捉えられていたのです。

襲撃の時刻は、三上隊とほぼ同時刻の午後5時27分。内大臣官邸前にタクシーで乗り付けると、手榴弾で攻撃を開始。しかし、牧野内大臣はこのとき不在で事なきを得ました。

古賀隊は次に警視庁へと向かい、ピストルを乱射。しかしここでも要人暗殺とはならず、古賀隊はすぐに逃走してしまいました。

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第三組、第四組は手榴弾を投げ込むだけで終わる

「五・一五事件」第三組・中村義雄隊は午後5時30分ごろに立憲政友会本部に乗り込み、手榴弾を投げ込んで、建物の外壁が損傷。第四組・奥田秀夫(血盟団残党)は午後7時20分ごろ、三菱銀行本店に手榴弾を投げ込んで外壁が損傷。しかし、いずれも「血盟団」の「一人一殺」とはかけ離れた攻撃でした。

第一組・第二組・第三組の計18人は午後6時10分までにそれぞれ麹町の東京憲兵隊本部に駆け込み自首した。一方、警察では1万人を動員して徹夜で東京の警戒にあたった。

血盟団員・川崎長光が西田税を襲う

この他に、別動隊の農民決死隊7名が、午後7時ごろに東京府下6か所の変電所を攻撃しますが失敗。停電にも至らず、単に施設の一部を破壊しただけに終わりました。

また、血盟団員の川崎長光は、陸軍出身の活動家・西田税(にしだ みつぎ)が、かつて血盟団の計画を時期尚早として思いとどまるよう諫めたことを「裏切り」と解釈し、西田邸に赴いて、西田税にピストルで瀕死の重傷を負わせましたが、西田税はのちに回復しました。

「五・一五事件」はこのように、犬養毅首相の暗殺部隊の逸話が大々的に語られる一方で、犬養毅首相以外の部分ではきわめて小規模で効果のない反乱に終始していたのです。

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犯人グループに甘すぎた”世論”と「五・一五裁判」

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こうして、犬養毅首相を暗殺、警備の巡査が一名殉職し、西田税に瀕死の重傷を負わせた「五・一五事件」は終息しました。

海軍の反乱というより、海軍の中にいるごく一部の過激派将校が、血盟団の計画を引き継ぎ、血盟団事件の続編として起こしたのが「五・一五事件」の真相だったのです。

当初、新聞報道は「五・一五事件」の犯人グループを厳しく糾弾していましたが、やがて世論は奇妙な方向に転がり始めます。

嘆願書の山と小指の瓶詰――圧倒的な擁護世論

血盟団事件で暗殺された井上準之助蔵相、団琢磨・三井財閥総帥、そして五・一五事件で暗殺された犬養毅首相。彼らを死に至らしめた犯人グループは決して許されるべきものではありませんでしたが、彼らの動機の背景に、昭和恐慌と英米の言いなり外交があったことがわかると世論は同情論に傾きました

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犬養毅暗殺の協力者として大川周明なども検挙される

のちに拳銃の提供などの罪で、大川周明、橘孝三郎、本間憲一郎、頭山秀三らが検挙されました。しかし、この頃の世論はすでに「五・一五事件」に対して、たとえ犬養毅首相の暗殺という事実があったにせよ、擁護論がかなり勢いを増していました。

暴落した米や生糸などの価格、大量に発生した失業者といった日本の各地方の苦しみや、日露戦争ではっきり生まれた海軍に対する尊敬の念、そして赤穂浪士の「忠臣蔵」や幕末の志士らの歴史といった要素が、正義のために立ち上がった海軍将校とその仲間たち、というイメージをどんどん膨らませていったのです。

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犬養毅暗殺「五・一五事件」での死刑はゼロ

こうして「五・一五事件」の裁判は、当初、古賀清志らに死刑が求刑されるも、根強い擁護世論の影響で、最長でも15年の禁固刑が言い渡されるだけのものとなりました。

さらに1938年(昭和13年)には、大日本帝国憲法発布50周年祝典の恩赦として、三上卓や古賀清志らが出獄。首相暗殺という重大事件を起こしたにも関わらず、事件関係者全員が事件後6年以内に自由の身となりました。

当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いものとなった。このことが二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押ししたと言われ、二・二六事件の反乱将校たちは投降後も量刑について非常に楽観視していたことが二・二六将校の一人磯部浅一の獄中日記によって伺える。

「五・一五事件」犬養毅絶命で政党政治が終わる

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犬養毅首相を殺害した「五・一五事件」によって、日本の政党政治は終焉を迎えました。犬養毅首相絶命以降は、軍部優勢の政治情勢のもと、「挙国一致」をスローガンにすっかり力を失った内閣が一応存在している、という悲劇的な時代を迎えることになったのです。

国会議員でいたい、「大政翼賛会」や軍部には歯向かえない、という自己保身の塊のような政治家が国会の議席を占め、斎藤隆夫の行った「反軍演説」は民主主義の根本を問う勇気ある演説だったにも関わらず、まもなく斎藤隆夫は議席を失うことになるなど、機能停止の国会が終戦まで続いていったのです。

「五・一五事件」と「二・二六事件」との違いとは?

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ところで犬養毅首相を暗殺した「五・一五事件」は、1936年(昭和11年)の「二・二六事件」(高橋是清蔵相らを暗殺)と似たような名称であることから、よく混同されてしまいます

犬養毅首相暗殺事件として知られる「五・一五事件」と、高橋是清蔵相暗殺事件として知られる「二・二六事件」は、他にどのような点で違いがあるのか、簡単に整理しておきましょう。

「五・一五」は要人暗殺、「二・二六」は陸軍抗争

まずは、「五・一五事件」と「二・二六事件」の目的や規模、事件後の処罰などを一覧表で比べてみます。

  五・一五事件 二・二六事件
発生日 1932.5.15 1936.2.26~2.29
首謀者 海軍将校・古賀清志ら 陸軍将校・野中史郎ら
目的 藩閥政治要人の殺害 陸軍内抗争の勝利
規模 関係者含め30名程度 陸軍兵およそ1500名
暗殺被害者(要人) 犬養毅首相 高橋是清蔵相ら4名
事件後の処罰 最長で禁固15年 自決2名、死刑19名

「五・一五事件」の目的が、藩閥政治で欧米言いなりの資本主義政治を行ってきた政界・財界の要人暗殺の延長としての犬養毅暗殺だったのに対し、「二・二六事件」はまさしく軍事クーデターそのものでした。

「皇道派」と「統制派」の対立

「二・二六事件」は、帝国陸軍内に存在する二つの勢力の抗争が本質にあります。天皇親政理想とし、対ロシア戦争を第一にひたすら国防強化を推進したい「皇道派」と、合理主義政策・計画経済・急速な近代化のもと、拡大路線で中国大陸への進出を考える「統制派」が、長年、対立を続けていたのです。

統制派の中心人物であった永田鉄山によれば、陸軍には荒木貞夫と真崎を頭首とする「皇道派」があるのみで「統制派」なる派閥は存在しなかった、と主張している。

少数派勢力「皇道派」が天皇周辺の要人を襲った

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当時の日本外交・軍事戦略の情勢を見ると、世界各国が急速に近代化を遂げ、特に石油の実用化以降は飛行機の軍利用が国家の生命線ともいえる状態だったことから、石油・石炭・鉱物資源の確保が最重要課題であったことがわかります。

皇道派の戦略からは、この資源確保の道筋をつけることが難しく、皇道派は陸軍中央部を押さえることができていませんでした。「挙国一致内閣」のもと、事実上、軍の言いなりにならざるを得なかった当時の政府も、基本は満州国の支援とインドネシアの石油資源確保を第一としていました。

昭和天皇の側近を「君側の奸」と見なし、襲撃

皇道派の中に存在した一部の過激青年将校らは、「五・一五事件」と同様に、地方の疲弊に怒りを覚える者が多く存在したため、天皇の周辺に存在する政府要人を「君側の奸(くんそくのかん)」と見なし、彼らを襲って政府を占拠することで、天皇親政による皇道派政権を樹立しようと目論んだのです。

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独りよがりの天皇崇拝に昭和天皇は激怒

事件は、強引に駆り出された兵隊1400名以上を含めた大規模反乱軍が、岡田啓介首相をはじめとする政府要人を次々と襲撃し、帝都・東京を占拠する、という目的で実行されました。

事件鎮圧まで4日を要し、昭和天皇が激怒して容赦ない厳罰が下された大クーデター事件が「二・二六事件」なのです。

「五・一五事件」が血盟団事件の延長として発生し、たまたまそのとき首相に在位していた犬養毅を暗殺するに至ったのと対照的に、「二・二六事件」はもっと根深く、闇の深い部分が垣間見えるのです。

NAVER まとめ

27日 天皇は武官長に対し、自らが最も信頼する老臣を殺傷することは真綿にて我が首を絞めるに等しい行為である旨の御言葉を漏らされる。また、御自ら暴徒鎮定に当たる御意志をしばしば示される。

犬養毅暗殺「五・一五」よりはるかに厳しい結果に

「二・二六事件」は反乱軍の規模や殺害された要人の数、首謀者のに対する処罰と、どれをとっても犬養毅首相暗殺の「五・一五事件」よりも、はるかに大規模かつ厳しいものとなりました。

しかし、「二・二六事件」が起こってしまった背景には、犬養毅首相暗殺によって政党政治を終わらせてしまった「五・一五事件」の影響は小さくなく、首謀者たちもまさか死刑に処されることは無いだろうと甘く見積もっていたふしがあります。

「五・一五事件」で襲撃された陸軍出身の思想家・西田税や、国家改造計画を堂々と広めていた北一輝らも、「二・二六事件」で死刑宣告を受けました。

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「五・一五事件」の教訓――昔から変わらない日本人

"1932"で「戦(いくさ)になるよ五・一五」と語呂暗記をした人も多いと思われる「五・一五事件」。受験勉強の中で、犬養毅首相が暗殺された事件、とだけしか「五・一五事件」を学ばなかった人も多いことでしょう。

しかし「五・一五事件」を実際に詳しく見てみると、犬養毅暗殺だけではなく、その当時の世論というものが、一斉に同じ方向に傾きやすい日本人独特の性格を帯びていたこともお分かりいただけたのではないでしょうか。

「五・一五事件」に限った話ではありませんが、一時的な世論の過熱化によって後世に痛手を負わせた事例は多々あります。令和の時代を作り上げていく中で、大事な教訓としたいところですね。

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