宮城事件の概要・畑中少佐や半藤一利などの関連人物・その後

真珠湾攻撃や広島や長崎の原爆は誰しもが知る事実として認識されています。では、日本はどのようにして太平洋戦争を終結させたのでしょう。1945年8月15日、日本が連合国に降伏をした日におきた「宮城事件」を知ることで、日本の戦争終結の歴史を知ることができるでしょう。

宮城事件の概要・畑中少佐や半藤一利などの関連人物・その後のイメージ

目次

  1. 1「日本のいちばん長い日」で描かれた宮城事件
  2. 2宮城事件の概要
  3. 3宮城事件の鎮圧
  4. 4なぜ宮城事件はおこったのか?
  5. 5宮城事件に関連した人物たち
  6. 6宮城事件の首謀者たち
  7. 7徹底抗戦を主張した人物たち
  8. 8戦争終結へ向けて動いた人物たち
  9. 9宮城事件関連者のその後
  10. 10宮城事件のその後
  11. 11宮城事件を詳しく語る本
  12. 12宮城事件が学ばせてくれること

「日本のいちばん長い日」で描かれた宮城事件

<あのころ>太平洋戦争が終結 ラジオで玉音放送 - 写真ニュース 47NEWS(よんななニュース)

「日本のいちばん長い日」という映画が1967年に公開されたのはご存知でしょうか。また、この映画は2015年にはリメイクもされているのですが、こちらは記憶に新しいのではないでしょうか。「日本のいちばん長い日」という映画では、太平洋戦争で日本が敗戦を決する前夜に何があったのかが細かく描かれています。

宮城事件とは?

敗戦色濃くなった大日本帝国が、本土決戦を行って徹底的に抗戦するか、「アメリカ」「イギリス」「中国」の3か国による連合国に降伏するかを決しなければならなかった日本政府や軍部の人物たちの心情が映しだされた「日本のいちばん長い日」は「宮城事件」という実際にあった事件を基に描かれています。

記憶に新しい2015年に公開された「日本のいちばん長い日」で、俳優の松坂桃季さんが演じたのが畑中健二という人物でした。陸軍省に勤める数人の将校たちが中心となって起こした事件があります。これが俗に言う「宮城事件」です。

陸軍省の若い青年将校たちが考えた「兵力使用計画」と呼ばれたクーデター計画である「宮城事件」は、東部軍と近衛第一師団を使って皇居を占領し、鈴木首相を含む政府の要人を捕らえて戒厳令をしくことで、国体護持を連合国に認めさせるという計画でした。

宮城事件の概要

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宮城事件はいつおきた?

昭和天皇が日本国民に対して、日本が太平洋戦争に敗戦して連合国に無条件降伏する旨を伝えるために放送した「大東亜戦争終結ノ詔書」という玉音放送は「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」という一節で有名です。

この玉音放送は、8月14日の23時30分から録音されました。録音を終えて宮内からでてきたNHKの録音技師と、下村宏情報局総裁が捕えられて監禁されることから「宮城事件」は始まります。

つまり「宮城事件」が動き出したのは、戦争終結の日である8月15日の前日、8月14日の深夜からでした。畑中少佐を始め、若い数名の将校たちの真直ぐに日本を思う気持ちが「宮城事件」を走り出させたといえるでしょう。

森赳近衛師団長の殺害

「宮城事件」に命を賭した人物もたくさんいますが、事件に関わり殺害された人物もいます。それが、近衛第一師団長で宮城(皇居)の警備にあたっていた森赳近衛師団長でした。森近衛師団長は、義理の弟の白石通教中佐と会談中に、畑中少佐や井田中佐、椎崎中佐たちの強制的な訪問を受けます。

クーデターである「宮城事件」への参加を迫られた森近衛師団長は、否定的な態度を示していましたが「明治神宮を参拝後に決断する」と言って約束を交わし即断を避けました。これに腹を立てた畑中少佐は一旦退席するものの、同行していた航空士官学校の上原重太郎大尉と陸軍通信学校の窪田兼三少佐を引き連れて、再び森近衛師団長の部屋に戻りました。

後の窪田少佐の証言によると、畑中少佐は黙ったまま拳銃を森近衛師団長に向けて発砲し、これにあわせるように、上原大尉が刀で師団長の肩口を斬りつけたそうです。森近衛師団長はクーデターへの参加を拒否したことにより、窪田少佐に首をはねられた白石中佐とともに「宮城事件」の犠牲者となりました。

宮中を占拠

2人の殺害後、「宮城事件」は宮中の占拠へと向かいます。畑中少佐は師団命令を偽造し、近衛歩兵第二連隊を使って宮城を占領しました。また、昭和天皇の玉音放送を阻止するために放送会館へは近衛歩兵第一連隊を差し向けました。

森近衛師団長や後述する阿南陸軍相、田中東部軍司令官にクーデター計画への参加をことごとく断られていた畑中少佐たちは、大規模なクーデター計画が無理と悟って、昭和天皇の玉音放送を阻止する目的へとシフトチェンジしていきます。

見つからなかった玉音盤

宮内省では、連絡手段を封じるために電話線を切断され、警備する警察も武装解除されていました。宮中を占拠していた古賀秀正少佐をはじめとして、北村信一大尉や佐藤好弘大尉たちは昭和天皇の放送が録音された玉音盤を探し回りました。

しかし、既に徳川義寛侍従の手によって皇后宮職事務室へと移されていて「宮城事件」の首謀者たちが玉音盤を手にすることはありませんでした。

宮城事件の鎮圧

Nijubashi - 千代田区、皇居の写真 - トリップアドバイザー

8月15日の明け方午前4時頃になると、宮中を占拠していた近衛第二師団連隊に外部から電話連絡がつながります。これにより、森師団長が殺害された事実を芳賀豊次郎連隊長が知ることとなり、師団命令が畑中少佐らの偽造によるものだという事実も伝えられました。

師団命令が偽造であることが分かったことで、連隊を率いていた芳賀連隊長は畑中少佐らに宮中からの即刻の退去を求めました。こうしてクーデター計画であった「宮城事件」が徐々に崩れ出すことになります。

鎮圧までの経過

8月15日午前5時頃には、東部軍(日本が本土決戦の為に温存していた軍隊)の田中静壱司令官が自ら近衛第一師団連隊の元へ向かいます。連隊を指揮していた渡辺多粮連隊長は、田中司令官から師団命令が偽造であることを知らされて部隊の展開を中止しました。この時、連隊長と共にいた石原貞吉近衛師団参謀は「宮城事件」への関連から身柄を確保されています。

その後、田中司令官は芳賀連隊長の元にも向かいました。午後6時過ぎには連隊長に兵士の撤収を命じています。近衛師団の撤収に成功した田中司令官は、宮内省や御文庫へもその足で「宮城事件」の鎮圧を伝えました。

畑中少佐は、放送会館で決起の放送を行おうとしていましたが、東部軍からの電話連絡によって宮内での計画の失敗を知り放送も断念しました。

宮城事件の鎮圧後

最後まで諦めなかった「宮城事件」の首謀者である畑中少佐と椎崎二郎中佐は、宮中の近辺で決起を煽るビラを撒きました。その後2人は、二重橋と坂下門の間にある松林に正座し自決します。これは、玉音放送が始まる直前の午前11時頃の出来事でした。

また、師団参謀であった古賀秀正は玉音放送の放送中に、亡くなった森師団長の遺体の前で自決しています。古賀参謀については「宮城事件」に積極的に参加していたのではないという説もあります。

そして正午には、国歌である君が代が流された後に昭和天皇の「大東亜戦争終結ノ詔書」が無事に放送されて、日本の降伏は全国民に知らされることとなりました。

なぜ宮城事件はおこったのか?

皇居外苑 - 千代田区、皇居外苑の写真 - トリップアドバイザー

「宮城事件」の首謀者の1人とされている畑中陸軍少佐は当時33歳でした。若い将校たちを大規模なクーデター計画である「宮城事件」へと駆り立てた理由は一体なんだったのでしょう。

宮城事件までの出来事

「宮城事件」をおこした陸軍将校たちが不満に思っていたのは、太平洋戦争における日本の降伏でした。日本国が戦争に負けるということは、連合国によって全ての日本軍は解体されてなくなってしまうということです。

自分たちが所属する陸軍という組織が解体されるということに、大きな不安を感じて動揺したのは畑中少佐ら「宮城事件」をおこした者たちに限ったことではなく、多くの将校に衝撃を与えていました。

アメリカをはじめとする連合国に隷属国にされるという危機感から、日本の未来を思う若者が徹底抗戦への道を切り開こうと行動したのが「宮城事件」というクーデター未遂事件だったといえるでしょう。では、「宮城事件」がおきた背景に何があったのかご紹介していきましょう。

日本の降伏とポツダム宣言

戦争終結の少し前の7月26日に、ポツダム宣言は米英中の3国首脳によって発せられていました。また日本政府内でも、8月の広島、長崎への原爆投下やソビエトの参戦により、敗北は避けられないと考える者が増えていました。

8月9日には、最高戦争指導会議が宮中で開かれ、時の首相である鈴木貫太郎や米内光政海軍大臣、東郷茂徳外務大臣、阿南惟幾陸軍大臣、梅津美治郎参謀総長らが参加しました。この会議では、条件をつけての降伏を主張する者が多数でました。

これを受けて10日午前0時には、御前会議(天皇臨席で特に重要とされる国策を決める会議)が開かれます。鈴木首相から「聖断」の要請を受けることになった昭和天皇は、東郷外務大臣の出した降伏案に賛成することになりました。

日本の降伏宣言であり、後に若い将校を「宮城事件」へと向かわせる理由となったポツダム宣言の受諾は、このようにして連日連夜話し合われた結果として決定されました。

日本軍内部の動揺

条件付きのポツダム宣言の受諾決定を知らされた陸軍では、多くの将校から反発がおきました。多数の若い将校たちは徹底抗戦を主張していたからです。また、ポツダム宣言の内容には「全日本軍の無条件降伏」という項目がありました。組織存亡の危機に陥った日本軍は陸軍省で会議を開きました。

この会議では、降伏を阻止するために陸軍大臣である阿南惟幾が辞任をして、内閣の総辞職を行うべきだという意見も出ました。これに対して阿南陸軍相は、「不服な者はまずこの阿南を斬れ」と一喝し陸軍の反発を抑えています。

連合国の回答

8月12日にサンフランシスコ放送がポツダム宣言への回答文を放送しました。日本政府は降伏するにあたっての条件として国体護持の要請をしていました。これに対して連合国軍は「天皇と日本政府の国家統治権限は、連合国の最高司令官に従う」と回答しました。

この「従う」といった部分は英語で「subject to」と放送されましたが、外務省では「制限の下に置かれる」と訳すことで、降伏することに対しての反発心が膨らまないようにしましたが、陸軍では「隷属するものとする」と訳しました。

陸軍が訳した「隷属するもの」という意味では、天皇の地位は保証されないのではないかといった疑問を持つものは多く、陸軍では戦争続行を支持するものが多数を占めました。

ポツダム宣言受諾への賛否

連合国の回答を受けて開かれた皇族会議では、多くの出席者が降伏に賛成しました。しかし、同日の閣議や翌日の最高戦争指導会議では、相対する意見が多数出たことで議論は紛糾しました。

閣議内でポツダム宣言受諾に反対したのは、阿南陸相、松阪広政司法大臣、安倍源基内務大臣の3人でした。阿南陸相は、一方では陸軍の徹底抗戦へ向かう反発心を抑えようとし、一方では陸軍の意思をしっかりと主張していました。

議論は、翌日の最高戦争指導会議でもまとまりませんでしたが、同日15時の閣議にてついに回答を受諾することが決定されました。

連合国の回答に納得のいかなかった者

阿南陸相の元にはすぐに6名の将校が面会に来ました。その6名とは畑中少佐、椎崎中佐、軍事課長荒尾興功大佐、同課員稲葉正夫中佐、同課員井田正孝中佐、軍務課員竹下正彦中佐であり、後に「宮城事件」をおこす若い将校たちでした。

青年将校が宮城事件へと向かった理由

阿南陸相の元に訪れた青年将校たちは、阿南陸相にクーデター計画である「宮城事件」への賛同を求めました。ポツダム宣言の内容や連合国の回答に対して信用ができず、不満や不安を持った若い将校たちは、降伏する日本の将来を悲観して行動に移ったといえるでしょう。自分たちが国を護るために、陸軍のトップである阿南陸相に直訴してでも行動しようと決起したわけです。

宮城事件に関連した人物たち

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畑中少佐ら首謀者はもちろんのことですが、「宮城事件」に関わった多くの人物の言動が語られています。太平洋戦争の「終結」という大きな時代の転換期に、どのような行動をした人物がいるのでしょうか。少し詳しくご紹介していきましょう。

宮城事件の首謀者たち

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畑中健二少佐

1912年3月28日生まれで、事件当時33歳の畑中少佐は京都の出身です。「宮城事件」首謀者として最も語られることが多い人物であり、玉音放送直前に自決したことでも有名です。

遺書も残していて「敵のために自分も日本国も一旦中断させられるが、再び護国の鬼となって生きる」といった意味のことが記されており、国を護るという強い思いを感じることができます。

また、「宮城事件」という大きな事件をおこした人物ですが、実際は純朴で物静かな印象があり、後輩を励ますような優しい一面もあったと証言する声もあり、1965年の「日本のいちばん長い日」では、狂気に満ちたキャラクターで描かれていましたが、2015年のリメイク版ではそういった一面も描かれています。

椎崎二郎中佐

1911年9月20日 生まれで畑中少佐と同じく「宮城事件」当時は33歳です。和歌山県の出身で、太平洋戦争では南支那方面軍の参謀を歴任するなどして、陸軍中佐にまで進級する優秀な人物でした。「宮城事件」の失敗後には、「至誠通神」と記した遺書を残して畑中とともに自決しています。

井田正孝中佐

1912年10月5日 岐阜県に生まれ、「宮城事件」当時は32歳でした。畑中少佐とは東大教授の平泉澄の直門として親交を深めています。

「宮城事件」失敗後は自決するつもりでいましたが、見張りの将校の制止により断念しています。終戦の後には、在日米軍司令部戦史課にて働くことになり、電通に入社しました。電通では総務部長を務めて実業家としても有名な人物です。

竹下正彦中佐

1908年11月15日生まれで「宮城事件」当時は36歳でした。井田中佐と同じく東大教授の平泉澄の直門として畑中少佐との親交を深めています。「宮城事件」においてのクーデター計画「兵力使用計画」を発案した人物であるとされています。阿南陸相とは義理の兄弟であったために、一度はクーデターの決起を諦めていました。

しかし、部下である畑中と椎崎の2人から徹底抗戦を説かれて「宮城事件」に参加し、クーデター計画を成功させるために、阿南陸相を説得しようと陸相官邸に出向きました。そこで竹下中佐は阿南陸相の自決を見届けることになってしまいます。

終戦後には陸上自衛隊に入り、第4師団長や陸上自衛隊幹部学校長などを歴任して活躍しました。

徹底抗戦を主張した人物たち

上原重太郎大尉

「宮城事件」参加時には航空士官学校にいた上原大尉は、畑中少佐が森近衛師団長にむけて発砲した後に軍刀を用いて斬りつけ、殺害した人物として知られています。上原大尉は「宮城事件」後も同志を募るなどして日本の徹底抗戦を主張していましたが、森近衛師団長を殺害した罪により出頭の命令を受けると、8月19日に航空神社にて自決しました。

佐々木武雄大尉

佐々木大尉は「宮城事件」首謀者である畑中少佐とつながりがあった人物です。畑中少佐から日本が降伏するという情報を聞いた佐々木大尉は、有志とともに「国民神風隊」なるものを編成して日本の降伏反対を訴えました。「宮城事件」がおこった8月15日にはこの「国民神風隊」も武装決起して官邸内に突撃をかけています。

鈴木首相が官邸に居ないことを知ると、官邸に火をつけてから首相の自宅へ向かいました。首相を捕縛することはできませんでしたが、鈴木邸にも火をつけ、さらに枢密院議長の平沼邸も焼き討ちしました。

「宮城事件」後は逃亡して隠れた生活を行い、しばらくすると大山量士と名乗って再び社会に現れました。その後は亜細亜友之会というアジアからの留学生や就学生を支援する財団法人の認可を受けて、事務局長や理事長として広く公益事業に携わっています。

戦争終結へ向けて動いた人物たち

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昭和天皇

早くから日本国民の身を案じて、戦争終結を望んでいたという証言が残っています。「宮城事件」をおこした青年将校たちの話を聞くと、自ら話をして彼らを諭そうと語った逸話も残っており、日本の為に戦った軍人の気持ちも含む全ての日本国民の気持ちを案じて、玉音放送を録音したと考えられます。

阿南惟幾陸軍大臣

1887年2月21日生まれで「宮城事件」当時は58歳でした。1945年4月に陸軍大臣に任命され、戦争終結時の日本陸軍のトップとして知られています。

ポツダム宣言の受諾には最後まで否定的で、戦争継続や本土決戦を主張していました。しかし、昭和天皇の聖断により日本の降伏が決まると、終戦の詔書に同意し、後は戦争終結のために力を注ぎました。

「宮城事件」をおこした畑中少佐や義弟である竹下中佐から、クーデター計画への参加を求められた際には、梅津美治郎参謀総長の参加を条件としました。梅津がこれを断ったために、阿南陸相も同様に計画への参加を断っています。

その後、阿南陸相は8月15日の早朝に自決しています。ポツダム宣言を受諾して連合国に降伏する道しか残されていないことも理解しており、同時に陸軍将校たちの日本国を思い徹底抗戦を主張する気持ちも理解していた阿南陸相は、複雑な立場で「宮城事件」があった夜を過ごした人物だといえるでしょう。

田中静壱東部軍司令官

1887年10月1日生まれで「宮城事件」当時57歳でした。田中司令官は「宮城事件」を計画していた畑中少佐が説得に訪れた際も一喝して部屋を追い出したり、クーデター計画の収束に大活躍しました。

自らの足で宮中に出向いて「宮城事件」をおこした将校たちを捕縛することで、事態を収束して「宮城事件」を鎮圧した人物でもあります。この活躍は、昭和天皇から拝謁を賜るほどのものでした。しかし、終戦に伴っておきた最後の反乱である「川口放送所占拠事件」を収束した後に司令官自室で自決する道を選んでいます。

中村天風

「玉音放送録音盤秘話」という話で知られている人物で、「宮城事件」の際に皇居に居合わせたとされています。五一五事件や二二六事件ほどに報道されていなかった「宮城事件」を世に知ってもらいたいとして詳しく話したものが「玉音放送録音盤秘話」になります。

「玉音放送録音盤秘話」の内容は、宮内で昭和天皇の玉音放送が録音された録音盤を探す近衛師団参謀とのやりとりや、田中東部軍司令官とのやりとりが鮮明に語られています。当時の宮内を知る者の証言としてとても貴重な話だといえるでしょう。

半藤一利

(6) 改正せず、広めよう 「守る」から戦争始まる  作家の半藤一利さん : 47トピックス - 47NEWS(よんななニュース)

1930年生まれの半藤氏は、昭和天皇の「大東亜戦争終結ノ詔書」が放送された時には15歳でした。1953年に文藝春秋新社に入社して終戦を振り返る座談会を企画した半藤氏は、座談会での話を聞いていて「日本がどのようにして負けたのかを誰も知らない」と感じました。

これは、後の世のためにしっかりと残しておかなければいけないことだと感じた半藤氏は、改めて取材を行いました。そうして出版されたのが映画にもなった「日本のいちばん長い日」です。

半藤氏は、徹底した取材によって「宮城事件」を細かく記録し、終戦当時の軍部の腐敗を明らかにしています。また戦争の責任は軍部のみにあらず、日本国民全員の責任であったという趣旨も記載しています。

宮城事件関連者のその後

正面入り口すぐ - 台東区、上野恩賜公園 (上野公園)の写真 - トリップアドバイザー

「宮城事件」の首謀者である畑中少佐や椎崎中佐のその後は先述したとおりですが、その他の関連した人物は日本の敗戦後どうしたのでしょうか。少しご紹介していきましょう。

石原貞吉少佐

近衛第一師団参謀であった石原少佐は、「宮城事件」と同一の8月15日に発生した「水戸教導航空通信師団事件」の中の1つの事件である上野公園占拠事件に巻き込まれています。事件をおこした部隊の指揮官である岡島哲少佐の説得を依頼され、現地に赴いた石原少佐は、8月19日に説得に応じる気のない林慶紀少尉に射殺されることとなってしまいました。

稲葉正夫中佐

「宮城事件」に関与したとされる稲葉中佐は、日本の敗戦後に防衛庁の戦史編纂官を勤めています。また、防衛研究所で研究員としても活躍しました。稲葉は、戦後の学会の歴史観を形成した人物として有名です。

このように「宮城事件」に関係した将校たちは、敗戦後の混乱ゆえに裁判にかけられるようなことはなく刑事責任も問われないままでした。よって、後に各分野で活躍した人物も少なくありませんでした。

宮城事件のその後

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大規模なクーデターを企てた「宮城事件」以後、他にも日本の降伏に納得しない者たちが徹底抗戦を主張しておこした事件がありました。

先に記載した佐々木武雄が率いる「国民神風隊」が、首相官邸や鈴木首相宅を焼き払った事件に始まり、8月24日に収束した川口放送所占拠事件までが、一連の日本降伏に抵抗する事件だといえるでしょう。

厚木航空隊事件

厚木航空隊事件は「宮城事件」と同じ1945年8月15日におきた事件で、厚木海軍飛行場で小園安名大佐が起こした事件です。目的も畑中少佐らと同様で、太平洋戦争における日本の敗戦を受け入れることができずに徹底抗戦を主張しておこした事件でした。

小園大佐は第302海軍航空隊に所属していましたが、「302空」は降伏しないと宣言して各地で徹底抗戦を呼びかけて回りました。上官の説得にも応じようとしなかった小園大佐でしたが、マラリアに感染して病院に運ばれたことで監視下に置かれました。

第302海軍航空隊は菅原英雄中佐によって武装を解除され、8月21日には事件は収束しました。この事件で小園大佐を含む青年将校以下69名は、横浜刑務所に収監されましたが、翌年の11月には、主犯とされる小園大佐以外の関係者は赦免され、小園大佐の禁固刑も減刑されました。

愛宕山事件

愛宕山事件も「宮城事件」と同じ1945年8月15日におきた事件です。東京都の港区にある愛宕山で日本の陸海軍ではなく、右翼団体構成員がおこした立て篭り事件です。しかし目的は「宮城事件」と同様に日本の降伏に反対したものであり、徹底抗戦を主張するものでした。

右翼団体である「尊攘同志会」の飯島与志雄を中心とした12人が、日本刀や拳銃で武装して愛宕山に立て篭りました。警視庁は、約70名もの警官を動員して飯島らが篭城する愛宕山を囲みましたが、飯島らは説得には応じませんでいた。

そのため、8月22日には警察が突入することになりました。飯島らは手榴弾で自決したために12人中10人は死亡し、2人のみ警察に捕えられました。

松江騒擾事件

松江騒擾事件は1945年8月24日におきた事件です。島根県にある松江市において「皇国義勇軍」と名のる数十人の男女が武装蜂起しました。彼らは、島根県の主要な施設を手分けして襲撃し、民間人にも1名の犠牲者を出しています。

松江騒擾事件は、愛宕山事件に呼応しておきた事件であり、当時25歳という若者の岡崎功が中心となっておこした事件です。島根県庁の焼き討ちや新聞社や発電所の一部機能も破壊しています。また、島根県知事の暗殺も目論んでいましたが、これは失敗に終わっています。

彼らは島根県内の施設を襲撃した後に放送局に集まり、決起を呼びかける放送をしようと試みましたが、放送局を包囲した警察と軍隊によって鎮圧されました。島根県庁を焼き討ちした際に、民間人1人が殺害されたことや、その被害の大きさから島根県民に大きなショックを与えました。

川口放送所占拠事件

川口放送所占拠事件は、埼玉県にあるNHK川口放送所や鳩ヶ谷放送所が占拠された事件で、「宮城事件」にも関連した窪田少佐がおこした事件として知られています。

「宮城事件」では、日本の降伏を撤回することに失敗した窪田少佐でしたが、事件後も徹底抗戦を決起するために有志を募っていました。そうした行動中に当時20歳であった本田八朗中尉に出会います。

窪田少佐は、放送所を占拠して全国民に徹底抗戦の決起を呼びかける計画を立てて、本田中尉に協力を求めました。

演習を名目として、自分が所属する部隊を動かすことに成功した本田中尉は、窪田少佐と合流して徒歩で川口放送所へと向かいました。8月24日の早朝には川口放送所を占拠し、その後本田中尉は少し離れたところにある鳩ヶ谷放送所を占拠しました。

こうしておこった川口放送所占拠事件ですが、「宮城事件」からの若い将校たちの国に対する思いがつながっておきた事件だといえるでしょう。

川口放送局占拠事件の鎮圧

放送所員から事態の報告を受けた田中静壱東部軍司令官は、関東配電社に連絡して放送所への送電を停めるように指示しました。

窪田少佐と本田中尉は川口放送所で再び合流し、放送を行うように放送所員に迫っていましたが、午後2時頃に東部憲兵司令部所属の藤野中佐以下5名が放送所に説得に訪れると、これに応じて会談しました。

藤野中佐から送電が止まっていることを知らされた窪田少佐は、計画が失敗したことを悟って投降しました。その後、田中司令官も到着して全員を前に訓示を行い、川口放送所占拠事件は鎮圧されました。

この事件後、窪田少佐と本田中尉は事情聴取を受けますが、逮捕されることはなく解放されています。窪田少佐に至っては、2001年の9月にNHK放送博物館でインタビューにも応じ、当時の詳細を証言しています。

宮城事件を詳しく語る本

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「宮城事件」を語るうえで必ず出てくる書籍は、やはり半藤一利著作の「日本のいちばん長い日」でしょう。半藤氏が調査に調査を重ねて執筆したこの書籍をはじめとして、ここではより深く「宮城事件」を知ることができる書籍をご紹介します。

「決定版日本のいちばん長い日」半藤一利著

半藤一利著作の「日本のいちばん長い日」には1965年出版の「日本のいちばん長い日--運命の八月十五日」と1995年出版の「決定版日本のいちばん長い日」があります。

決定版の方には調査を重ねることで得た新たな事実が追加されており、より詳しい「宮城事件の」内容を知ることができます。8月15日の24時間で繰り広げられた当時の陸軍を中心とした人物たちの物語が事細かく描かれています。「宮城事件」の全容を知るには外すことのできない書籍だといえるでしょう。

「近衛師団参謀終戦秘史」森下智著

https://www.amazon.co.jp/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%B8%AB%E5%9B%A3%E5%8F%82%E8%AC%80%E7%B5%82%E6%88%A6%E7%A7%98%E5%8F%B2-%E7%AC%AC%E4%BA%94%E7%89%88-%E6%A3%AE%E4%B8%8B%E6%99%BA/dp/4990811402

「近衛師団参謀終戦秘史本書」は「宮城事件」について、近衛師団参謀であった古賀秀正と石原貞吉の視点から描いた書籍です。石原参謀が関連した「水戸教導航空通信師団事件」についても書かれており、「日本のいちばん長い日」とは別の切り口から「宮城事件」を再検証しています。

「宮城事件」の首謀者が畑中少佐をはじめとする陸軍将校ではなく、近衛師団参謀だったという憶測のもとに「近衛師団参謀終戦秘史本書」のストーリーは綴られています。まだまだ調査が完全に行われたとは言えない「宮城事件」の新たな解釈として価値のある書籍です。

また、森下智著作の書籍には「川口放送所占拠事件秘史」という書籍もあり、前述したように「宮城事件」の関連人物である窪田少佐がおこした事件が詳しく描かれています。川口放送所占拠事件と「宮城事件」は目的も同じですから、この書籍は「宮城事件」を知る上でも非常に参考になるといえるでしょう。

「一死、大罪を諭す 陸軍大臣阿南惟幾」角田房子著

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「宮城事件」を当時の日本陸軍のトップである阿南惟幾陸軍大臣の視点から切り取った作品です。畑中少佐や井田中佐の上官にあたり、鈴木首相や昭和天皇とも会議を共にして、日本の未来について議論した人物が見た「宮城事件」の内容や、最終的に自決を選んだ阿南陸軍大臣の心情が描かれています。

最高戦争指導会議や閣議においては、最後まで徹底抗戦を主張して日本の降伏案を否定した思いと、陸軍士官たちが昭和天皇の聖断後も、ポツダム宣言の受諾に異を唱えた際に一喝した時の思いはいかなるものだったのかを知ることができる書籍です。

「日本のいちばん醜い日」鬼塚英昭著

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2007年に発行された「日本のいちばん醜い日」は「宮城事件」について書かれた本の中でも比較的新しい書籍です。森赳近衛師団長が惨殺された理由を探ることから「宮城事件」にメスを入れ、「宮城事件」は偽装クーデターだったのではないかという仮説を立てて語られます。

膨大な資料を参考にして「宮城事件」の背景にあるものに探っていく「日本のいちばん醜い日」は「宮城事件」を新しい捉え方で見た書籍です。

「雄誥-大東亜戦争の精神と宮城事件」西内雅著・岩田正孝著

著作者である岩田正孝とは「宮城事件」の主要な関連人物である井田正孝のことです。西内雅とは、陸軍省に所属していた人物で兵務局思想班長を務めていました。

著者の2人も「宮城事件」に関わった人物として知られていますが、その他にも事件当時に陸軍に所属していた人物の資料がまとめてあり、日本敗戦の前夜にあった議論や事件を十分に説明してくれる書籍といえます。

少しご紹介すると、この書籍の鍵となって語られているのは、ポツダム宣言の受諾に対する連合国の回答が、天皇の存在を守るという確約が無かったことです。天皇を守ることができないかもしれない降伏の道を選ぶことは、間違いではないかといった疑念が、当時の陸軍士官のを迷わせたという趣旨の記載があります。

また、畑中少佐ら「宮城事件」をおこした将校たちは、昭和天皇に考え直してもらって徹底抗戦の道を切り開こうという思いで行動していたということも描かれています。

さらに付け加えておくと「宮城事件」自体の記載だけではなく、「宮城事件」をおこした人物が事件後にどのように考えているか、事件自体や日本の敗戦についてはどのように考えているのかといったことまで、隠すことなく書かれている貴重な書籍だといえるでしょう。

「ある近衛大隊長の手記-終戦秘話」北畠暢男著

近衛師団大隊長であった北畠暢男隊長の実際に経験した話を記載した書籍です。「宮城事件」が実際におこる以前に、徹底抗戦を主張する人物と昭和天皇の聖断を守る人物とで揺れる陸軍の内情が描かれている貴重な書籍といえるでしょう。

宮城事件が学ばせてくれること

重要文化材旧近衛師団司令部庁舎が美術館です。 - 千代田区、東京国立近代美術館工芸館の写真 - トリップアドバイザー

「宮城事件」がおこった1945年当時に近衛師団に所属しておられ、2017年現在も存命の方がおられます。「宮城事件」において偽の命令書を疑うことなく、昭和天皇の玉音盤を探し回ったことが、実は、天皇の意に背くことであったということが「慙愧に堪えない」と語っておられる方がいます。

戦時中の日本は国民一丸となって国を思い、国を護っていたわけです。日本国の象徴である存在が当時の天皇である昭和天皇だったわけですから、自分が天皇の意志に背いてしまったことは非常に辛い出来事だったことが想像できます。

では「宮城事件」の首謀者であった若い将校たちは、なぜ天皇の意に背くようなことをしたのでしょう。彼らに天皇の意に背く意志はあったのでしょうか。

日本の未来を心配していた青年たち

「宮城事件」というクーデター未遂事件をおこし、森師団長や白石中佐といった犠牲者も出し、自らの命も散らした陸軍将校たちを動かしたものは、前述した近衛師団に所属しておられた方と同じ日本の未来を思う気持ちだったと想像できます。

太平洋戦争に敗れ、連合国に無条件降伏する日本に不安を感じ、国や天皇を護るためには自分達が行動しなくてはならないといった強い思いは、彼らを突き動かすには十分な理由です。

国を思う若者

最近では選挙の投票率の低下も懸念されているほど、若い世代の政治ばなれが顕著になっています。現代の若者は、日本の未来を諦めつつあるのではないでしょうか。

「宮城事件」がおきた1945年8月には若い青年将校だけでなく、陸軍大臣や当時の首相、東部軍司令官などの40代、50代の人物たちも国を護るため、国の未来を護るために命を賭しています。

そうした強い思いの上に日本の歴史は成り立っていて、その歴史の上に我々もいるのだということを考えさせられる事件こそが「宮城事件」だといえるでしょう。

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