石川院長はどんな人?宇都宮病院事件の概要・その後の法改正

宇都宮病院事件をご存知でしょうか?考えられないようなひどい事件です。精神科病院内で看護職員たちによるリンチで患者が殺されました。しかし、そのことが明るみに出たのは約1年後のことです。事件はどのような背景で起こり、その後どうなったのかを詳細にみています。

石川院長はどんな人?宇都宮病院事件の概要・その後の法改正のイメージ

目次

  1. 1石川院長はどんな人・宇都宮病院事件の概要・その後の法改正
  2. 2宇都宮病院事件の概要
  3. 3宇都宮病院事件が起こった背景
  4. 4宇都宮病院はどのような病院だったのか
  5. 5宇都宮病院事件のその後
  6. 6石川院長とはどんな人か
  7. 7裁判の判決
  8. 8事件のその後の影響
  9. 9宇都宮病院事件に関する本
  10. 10宇都宮病院事件を教訓に変わる精神医療

石川院長はどんな人・宇都宮病院事件の概要・その後の法改正

栃木県庁舎 昭和館 - 宇都宮市、栃木県庁舎 昭和館の写真 - トリップアドバイザー


皆さん、「宇都宮病院事件」というものをご存知でしょうか。今から34年前に起こった信じられないような事件なのです。精神科病院の中で起こった、現在では考えられないような忌まわしい事件です。この事件は、日本と世界に大きな衝撃を与え、その後の日本の精神保健のあり方を大きく変えることになりました。

その宇都宮病院事件の舞台となった病院の院長だったのが石川文之進という人物です。この石川院長とはどのような人だったのでしょうか。その人物像も含めて、宇都宮病院事件についてみていくことにしましょう。
 

宇都宮病院事件の概要

旧白崎医院 - 酒田市、旧白崎医院の写真 - トリップアドバイザー


宇都宮病院事件と呼ばれる事件は、一体どのようなものだったのでしょうか。まず、事件の概要からみていくことにしましょう。
 

宇都宮病院事件と呼ばれるリンチ殺人事件


事件の舞台となったのは、栃木県宇都宮市にある私立精神科病院報徳会宇都宮病院です。宇都宮病院事件と呼ばれるものの中には様々な犯罪が含まれますが、最も大きなものがリンチ殺人事件であって、そのことをもって宇都宮病院事件と呼ぶのが普通です。

リンチ殺人事件が起きたのは、1983(昭和58)年4月24日のことです。当時宇都宮病院に措置入院をさせられていた患者が被害者となりました。
 

殺人事件はどのようにして起こったのか


当時32歳だった入院患者のKさんは、その日の夕食にほとんど手をつけませんでした。看護助手のAが食べるよう注意しましたが、Kさんは無視してそれを残飯入れに捨ててしまいました。それに腹を立てたAが、Kさんを数回殴打しました。しかし、Kさんは殴られまいとAの手を噛んで抵抗したのです。

AはKさんに抵抗されたことで、メンツをつぶされたと感じ、Kさんに暴行を加えることにしました。AはKさんを小ホールに連行し、回し蹴りをしました。その様子を見ていた他の看護助手2人と看護助手をさせられていた患者1人が暴行に加わりました。金属製のパイプを持ち出してKさんを殴打しました。「やめてくれ」と逃げ回るKさんを追いかけ、さらに暴行を加えたのです。

Kさんは暴行を受けた後、しばらく倒れ込んだままでしたが、自力で立ち上がって自室に戻りました。しかし、ベッドの上で苦しんだのち、その後死亡しました。
 

さらにもう1人の患者が暴行され死亡


そしてもう1人、当時35歳だった入院患者のSさんが看護職員らによって暴行を受け死亡しました。Sさんは1983年(昭和58年)12月、見舞いに来た知人に「こんなひどい病院はない。ここを退院させてほしい」と訴えました。それが原因で、看護職員たちによる激しい集団暴行を受け、その後血を吐きながら数時間後に死亡しました。

病院長の石川は、Sさんに目立った外傷がなかったために、遺族に対しては病死と説明して遺体を引き渡しました。しかし、後の裁判の時に、土葬されたSさんの遺体を掘り起こし、暴行の証拠を突き止めることになりました。

ただ、1981年から3年余りで、宇都宮病院では220人の入院患者が死亡しているといいます。そのため、殺人事件の犠牲者が2人で終わっているのかはよくわからないところです。
 

事件はどのようにして発覚したのか


当時の精神科病院は閉鎖性が強かったことで、こうした看護職員による患者暴行死事件は公にはなりませんでした。しかし、宇都宮病院に不法収容されていた患者が東大医学部付属病院精神科病棟を訪れ、宇都宮病院を告発する意思を伝えたことで、事件が発覚することになりました。

東大病院は精神病棟内に「宇都宮病院問題担当班」を設置し、弁護士や当時の日本社会党、さらには朝日新聞社宇都宮支部とも協力しながら、宇都宮病院の問題を追及し始めることになったのです。

その後、東京大学精神科医師連合が宇都宮病院問題究明のための調査チームを結成し、結局、1984年(昭和59年)3月14日付の『朝日新聞』で宇都宮病院事件が明るみに出ることになりました。
 

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宇都宮病院事件が起こった背景


病院内でリンチ殺人が起こるというのも異常ですが、またそのことがすぐに外部に知られることもなかったというのも、今では考えられないことではないでしょうか。それには、日本における当時の精神医療の状況が大きく絡んでいます。

宇都宮病院事件が起こった背景には、当時の日本の精神科診療と精神科病院のあり方そのものの問題があったのです。
 

隔離収容主義下での精神科病床の急増


戦後、日本では1950年(昭和25年)に「精神衛生法」という国の精神医療と精神保健施策の基準となる法律が定められました。しかし、それは明治時代に制定された「精神病院法」による患者の隔離収容主義をのまま引き継いだものだったのです。

そのため、精神科診療は一般診療科と違って特殊なもので、精神障害者を「収容」してもらうために、精神科病院に対する国の財政的助成も制度化されました。結果として、私立の精神科病院が盛んにつくられるようになりました。

高度経済成長期には、日本全体の精神科病床は年間1万床ずつ増加しました。1955年(昭和30年)の4万床が1965年(昭和40年)には17万床に、そして1969年(昭和44年)には25万床にまで急増しました。そして、この多くは私立の精神科病院の開院によるものでした。
 

特別待遇を受けて儲かる精神科診療


1958年(昭和33年)10月2日の厚生省事務次官通知によって、精神科の場合、一般診療科に対して医師数は約3分の1、看護師数は約3分の2を基準とする特例基準が認められました。そして10月6日の医務局長通知では、事情により「その特例基準の人員数を満たさなくともよい」ということにもなりました。大変な特別扱いです。

要するに、精神科診療は一般診療科を運営するより人件費を抑えられることになるのです。そして、行政命令によって強制入院させる措置入院の国庫負担率も5割から8割に引き上げられ、精神科病院の経営がさらに有利となりました。

こうした精神科医療への特別待遇は、日本の政府と社会の中に精神障害者に対する根深い偏見と差別があり、患者の隔離収容主義が容認されていたことによって可能となったのです。
 

内科医からの転身と宇都宮病院の開設


精神科病院が増大していく中で、精神科医も増えていくことになりましたが、専門の精神科医の供給がそれほど増えることはありませんでした。結局、精神科病院に勤務する医師のほとんどは内科や産婦人科などから転身した人たちでした。精神科病院を経営する方が利益が上がるため、診療科を変更した病院も少なくなかったのです。

1961年(昭和36年)、石川文之進が開院した宇都宮病院もそうした病院の中の一つでした。石川はもともと内科医で、精神科医としては何の経験もなかったのですが、東京大学医学部精神科の研究生となり、内科医から精神科医へと転身を図ることになりました。

こうした事情からもわかる通り、当時の精神科医療は低レベルなものであって、精神科医としての能力がないのに精神科病院を経営している医師も多かったのです。
 

宇都宮病院はどのような病院だったのか

病院のように広い廊下 - チュムポーン、パラドーン イン ホテルの写真 - トリップアドバイザー

宇都宮病院の拡張の始まり


宇都宮病院の前身は、石川院長が1952年(昭和27年)に開院した石川医院です。1961年、石川は東大医学部研究生として、当時、東大医学部脳研究施設神経生物部門所属の武村信義氏の指導を受けながら、精神科宇都宮病院経営に乗り出すことになりました。

このことで、東大医学部の武村氏と石川、そして宇都宮病院との繋がりができることになり、石川は東大医学部との人脈づくりを行っていくことになったのです。

宇都宮病院開院の翌1962年には、石川は同病院理事長に就任しました。そして、1965年(昭和40年)には、精神衛生鑑定医の資格を取得し、宇都宮病院内に解剖室を新設しました。その時、病床数は開院時の57床から300床へと増大しています。
 

扱いに困った患者を積極的に受け入れる


宇都宮病院は、家族から見放されてしまった患者、他の病院で扱いに困った患者、そして警察も扱いに困るような薬物による患者などの受け入れを積極的に行っていました。そのため、各方面からは便利がられていたとも言われています。問題の多い患者の受け入れを拒まずしてくれる便利な病院であったのです。

また、石川院長の実弟が県議会議員ということで、行政や政界にもコネがありましたし、実弟の後任の事務長として宇都宮警察署の元幹部を受け入れてもいました。

石川は病院規模を次第に拡張し、1967年(昭和42年)には、病床数を375床にまで増やしました。しかし、この頃、宇都宮病院の患者獲得の手法が問題となり、栃木県精神病院協会幹部が県に告発しましたが、大きな問題とはならずに終わってしまいました。
 

宇都宮病院内部の実態


宇都宮病院では、1960年代末から看護長やケースワーカーなどによる無資格解剖が日常的に行われるようになっていました。解剖をして取り出した患者の脳をホルマリン漬けにして、研究用として東大医学部の医師たちに提供をすることもしていました。

また、宇都宮病院は、経験のない無資格の看護職員を積極的に雇い入れ、適切な教育や訓練を施すことなく勤務させていました。「患者になめられるな。言うことを聞かないと殴ってもいい」とも教えられ、暴力的行為が嫌な場合には解雇されてしまいました。そのため、患者の扱いはますますひどく、そして暴力的なものになっていったのです。

1970年代になると、宇都宮病院では作業療法という名目で入院患者に労働をさせるようになっています。配膳の仕事や看護職員としての手伝い、そして各種検査までさせています。その他、病院の増築や造園など、さらには同族企業の用務員などもさせています。
 

極めて閉鎖性の強い病院だった


宇都宮病院では、入院患者の外部との接触が特に厳しく制限されていました。入院患者の通信と面会の自由は制限され、外部の人間と接触することがほとんどできないか、あるいは不可能とも言える状況に置かれていました。病棟内には公衆電話が設置されていましたが、病院側によって患者のお金は管理され、10円硬貨を持つことさえできない状態でした。

そのため、病院内部の実情が外部に漏れることがなかったのです。そして、県などの行政による監査も不十分であったことで、病院による患者のひどい扱いが続くことになったとも言えます。それは、宇都宮病院が扱いに困った患者を積極的に受け入れていたことで、その存在が社会に必要なものとして見られていたという事情があったからです。
 

東大医学部との癒着


宇都宮病院は多角化を進め、宇都宮市内で報徳グループとして事業をますます拡張していきました。一方、武村氏を通してつながった東大の医師たちとは共同研究を行うようになっていきました。東大の医師たちは、宇都宮病院の入院患者を研究対象とした論文を数多く発表していったのです。

彼らは宇都宮病院の非常勤医師として勤務し、謝礼と研究費を受け取ることができましたし、宇都宮病院としては、東大の医師たちを受け入れることで医師数を水増しすることができたのです。そして、何よりも、東大の権威を借りて病院のブランドイメージをアップすることができました。

医療法人報徳会は、1981年には東大のそばに「報徳会本郷神経クリニック」を開院し、その実質的院長は東大病院外来医長の斎藤陽一氏が務めました。斎藤氏は宇都宮病院の患者のデータベース化もしています。
 

東大の医師たちは病院の実態を知っていた


宇都宮病院の非常勤医師を務め、共同研究もいろいろと行っていた東大医学部の医師たちは、果たして病院内で起こっていたことを知っていたのでしょうか。もちろん、わからないはずはありませんでした。彼らはそのことをよく知っていたのです。

東大の医師たちは、宇都宮病院内で患者に対して、日常的に虐待行為が行われていることを認識していました。そのことを示す録音テープも残っています。

しかし、彼らはそのことを黙認していました。なぜなら、そうすることで、宇都宮病院から研究費と謝礼を受け取り続けることができるからです。そして、研究対象となる患者を提供してくれ、自分の研究にとって利益になるからです。結局、東大からは計15人の医師が非常勤医師として宇都宮病院に名を連ねることになりました。
 

宇都宮病院事件のその後

看護職員5人と石川院長らが逮捕される


事件が発覚した1984年(昭和59年)3月14日、栃木県警は看護職員等による患者への暴力、不正入院、無資格診療行為などの疑いで宇都宮病院に家宅捜査に入りました。そして3月29日、5人の病院職員を傷害容疑で逮捕しました。宇都宮病院では、3年間に220名の不審死があったのですが、彼らの容疑はそのうちの2件の死亡事件に関わるものでした。結局、5人のうち4人が障害致死罪で起訴されました。

一方、石川院長は同年4月12日、院長を辞任しましたが、その後4月25日に4件の容疑で栃木県警に逮捕されました。容疑は「診療放射線技師および診療エックス線技師法違反」、「保健婦助産婦看護法違反」、「死体解剖保存法違反」、「食糧管理法違反」の4つです。

石川が問われたのは、無資格医療行為や患者に農作業をさせて得た収穫物を病院職員に販売させたという食管法違反だけでした。宇都宮病院病院事件での全逮捕者は9人でした。
 

事件発覚後の東大の医師たち


宇都宮病院事件発覚後の5月13日、東大医学部は宇都宮病院に関係した医師6人に対し、厳重注意と注意の処分を行いました。しかし、「患者の置かれた状況に無関心であった不見識」とか「利用された責任を全う出来なかった」という程度のもので終わっています。ただ、精神神経学会においては、宇都宮病院に関係して論文を執筆した医師たちの責任が追及されることになりました。

その後、東大では宇都宮病院問題を考える討論集会なども開かれ、結局10月15日には、宇都宮病院に最も関わっていた武村氏が東大脳研を辞任しました。その後、武村氏は宇都宮病院に移ることになりましたが、事件と全く無関係ではないとされながら、一切の刑事責任を追及されることはありませんでした。
 

宇都宮病院事件は世界中に衝撃を与えた


宇都宮病院事件は日本だけでなく、世界中に衝撃を与えることになりました。当時は、ソ連と南アフリカ共和国が、反政府的な人に対して精神医療を利用して弾圧行為を行っていることが問題となっていた時期でした。

1984年8月、宇都宮病院事件を受けて、国連人権小委員会の場で日本政府は国際的に非難されました。そして、翌1985年5月には、国際法律家委員会(ICJ)と国際医療職専門委員会(ICHP)の合同調査団が来日し、日本の精神科医療の実態とひどい人権侵害を世界中に知らせることになったのです。

こうして宇都宮病院事件をきっかけして、日本の精神医療は世界中から非難を受けることになり、国連の場などで日本政府は精神障害者の人権保護の改善に動くことを世界に約束することになりました。
 

宇都宮病院から退院した患者たちのその後


宇都宮病院事件後、170人の患者が同病院から退院させられました。栃木県に委託された精神科医の診断により、措置入院患者の半分以上に当たる6割の人が退院を許されました。措置入院は、「自傷他害の恐れ」があるため患者本人に対して行政が命令して強制入院させるものですが、そうした恐れがあるとされた患者の半分以上がその必要がないと判断されたのです。

しかし、宇都宮病院事件後、措置入院を解除された元患者の中から、傷害事件を起こしたり、殺人事件を起こしたりした者が何人か現れました。そのため、一部では危険な患者を退院させたと非難する声も出たということです。

精神医療のむずかしさを物語るものではありますが、一方で、社会の偏見と無理解の中で、元患者が追い込まれていったという側面もあるのではないかという考え方もあります。
 

石川院長とはどんな人か


石川文之進という人はどんな人物なのでしょうか。儲かる精神科診療に目をつけ、周辺から次々と患者を受け入れながら、報徳会宇都宮病院と報徳グループを急成長させたところから、拝金主義者とも言われています。しかし、本人は宇都宮病院事件はマスコミによって歪められたものであり、元患者たちの「妄言」「妄想」に惑わされていると主張しています。

ただ、石川は以下のプロフィールにみられるように、病院事業を急拡大させていますし、病院での評判も決していいものではありません。
 

石川院長のプロフィール


石川文之進は、1925年(大正14年)10月2日の生まれです。1949年(昭和24年)に大阪大学付属医学専門部を卒業、翌年広瀬医院に勤務し、ここから医師としての生活が始まりました。

1952年(昭和27年)に石川医院(診療所)を開設し、1955年(昭和30年)に医療法人大恵会石川病院院長に就任しました。1958年(昭和33年)には、医療法人大恵会石川病院分院を開設し、そして1961年(昭和36年)に、医療法人報徳会宇都宮病院を開設しました。翌1962年(昭和37年)には同病院理事長に就任し、1971年(昭和46年)に同病院院長に就任しています。

宇都宮病院の規模拡大については、病床数の変化によってすでにみてきました。周辺地域から扱いに困った患者たちを積極的に受け入れ、無資格の少数の人たちを使いながら精神科病院を経営してきたのは紛れもない事実です。
 

宇都宮病院内での振る舞い


宇都宮病院事件が発覚した時の病院の常勤医師は、石川院長とあと2人の医師の計3人でした。しかし、実質的には948人の入院患者を石川院長ひとりで診ていたといいます。

石川は、ゴルフのアイアンを片手に病床を回り、患者に襲われないようにしていました。そして、患者を威圧しながら、患者に暴行を加えていたといいます。院長の回診は週に1回行われ、患者1人当たり数秒と、ただ単に回っているだけでした。その後、院長が病院批判をした患者を長期間保護室に収容したことなどが裁判所によってが認定されました。

また、病院内の敷地にゴルフのグリーンを作って、そこで練習をしながら、球は患者たちに拾わせていたといいます。さらに、石川院長は自宅の改築や造園のためにも患者を使っていたということです。
 

裁判の判決

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元看護職員らには実刑判決


患者2人の死に関しては傷害致死罪などで4人が起訴されました。そして、1986年(昭和61年)3月20日、宇都宮地方裁判所で判決が下されたのです。

入院患者のKさん殺害を主導した元看護職員のAには、傷害致死と暴行行為等処罰に関する法律違反で懲役4年の実刑判決が下されました。他の元看護職員の2人には、同法律違反で執行猶予つきの懲役3年が言い渡されました。そして、もう1人の元患者は、執行猶予つきの懲役1年6カ月の判決が下されました。死刑には程遠い懲役刑でした。

裁判では、被告側は患者の死は薬の副作用による影響が大きいと主張しましたが、裁判官はそれを認めず、被告たちの暴行と患者の死との間には因果関係があると認定しました。また、この裁判の中では、患者軽視と人権無視の宇都宮病院の経営や看護・治療体制の実態が明らかとなり、それを裁判官が認めることになりました。
 

石川院長へは1年の実刑判決


「診療放射線技師および診療エックス線技師法違反」、「保健婦助産婦看護法違反」、「死体解剖保存法違反」、「食糧管理法違反」の4つの罪に問われた石川院長ですが、1985年3月26日、宇都宮地裁は石川に対して懲役1年の実刑判決を言い渡しました。しかし、石川はそれを不服として控訴しました。

結局、石川は最高裁判所で保健婦助産婦看護婦法違反の罪で懲役8カ月の実刑判決を受けることになりました。そして、医道審議会は石川に医業停止2年を言い渡しました。暴力が容認される環境の病院を作り、人権侵害に深く関わった石川本人に対して課せられた刑は実刑8カ月にすぎなかったのです。

他に、元入院患者たちは「入院治療の必要がないのに監禁された」と石川院長らに対して損害賠償を求めて民事訴訟を起こしました。結局、1996年(平成8年)9月、東京高等裁判所によってその請求は認められました。
 

事件のその後の影響

人権に配慮した精神保健法の成立


宇都宮病院事件が起こった時の国の精神医療は「精神衛生法」に基づいて行われていました。1950年(昭和25年)に定められた法律ですが、明治時代に制定された「精神病院法」をそのまま引き継いだものでした。それは、精神障害者の隔離収容政策を推し進めるようなものだったのです。

宇都宮病院事件をきっかけにして、国の内外で日本の精神医療に対する批判が起こる中で、日本政府もようやく精神障害者の人権に配慮した法改正へと動くことになりました。

そして、1987年(昭和62年)に「精神保健法(現精神保健及び精神障害者福祉に関する法律)」が成立し、精神障害者の本人の意思を尊重するような内容に改められたのです。
 

法改正の内容とは


「精神衛生法」から「精神保健法」へと法改正をされて、大きく変わったのは以下の点です。

第1に、精神障害者本人の同意に基づいた任意入院制度の創設です。それまでは、障害者本人が希望しても入院できませんでしたが、できるようになりました。本人が退院を希望すれば、もちろん病院はそれを認めなければなりません。

第2に、入院時の書面による権利等の告知制度の創設です。そして第3に、患者の入院の必要性や処遇の妥当性を審査する精神医療審査会制度の創設です。知事が任命する委員から成る地方精神保健福祉審議会が各都道府県に創設されることになりました。

その他、精神科病院に対する厚生労働大臣又は都道府県知事による報告徴収、改善命令に関する規定や、精神障害者の社会復帰の促進を図るための精神障害者社会復帰センターに関する規定などが新たに加えられました。
 

宇都宮病院事件に関する本


宇都宮病院事件を扱った書籍としては、以下の2冊が代表的なものです
 

富田三樹生『東大病院精神科の30年』青弓社(クリティーク叢書)


2000年に刊行されたこの本の正式タイトルは『東大病院精神科の30年―宇都宮病院事件・精神衛生法改正・処遇困難者専門病棟問題』というものです。自主管理・自主看護を掲げて闘う富田氏が、東大病院闘争に端を発する精神医療改革運動30年の歴史を総括したものです。

富田氏は、この本の中で宇都宮病院事件について詳しく触れています。一項目として「第六期―宇都宮病院問題から精神衛生法改正へ」を設け、その中で宇都宮病院事件について詳細に書いています。

また、資料編の中で「宇都宮病院問題シンポジウム」を受けての医師会議や教室会議の見解、そして富田氏の発言などを載せています。宇都宮病院事件を深く知るための資料として役立つ本です。
 

大熊一夫『新ルポ・精神病棟』朝日新聞社


1985年に刊行されたこの本は、朝日新聞記者(当時)の大熊氏によって書かれた宇都宮病院事件に関する詳細なルポになっています。宇都宮病院の看護職員による患者への暴言・暴行の状況などを詳しく記録し、診察時の録音テープによっても病院の実態を明らかにしています。

目次は、以下の通りです。第1部 検証宇都宮病院 (松葉杖の訪問者、奇怪な死2件、白衣の患者、"研究のお相手″たち、悪徳の条件、裁きの場で、資料石川文之進被告に対する一審判決)。第2部 「宇都宮病院」をなくすために (入院51回、アルコール症専門病院、分裂病の軌跡、吹き抜けのある病棟、十人力の病棟、実名で生きる)。

後半部分は、宇都宮病院事件のようなことが起きえない開放病棟をもった良心的な精神科病院に関するルポになっています。
 

宇都宮病院事件を教訓に変わる精神医療


1984年に発覚した宇都宮病院事件は、実に衝撃的なものでした。当時の日本医師会会長の武見太郎氏が「精神医療は牧畜業だ」と言ったように、そこでは入院患者を人権のある人間としては扱っていませんでした。できるだけ多くの患者をかき集め、無資格の少人数の看護職員たちを使って暴力で管理し、患者の外部との接触は厳しく制限しました。

そうした中で、患者をリンチして死に至らしめるという宇都宮病院事件が起こったのです。しかし、宇都宮病院だけが特殊とは言えない状況にあったのが当時の日本でした。患者の隔離収容主義と強い閉鎖性を特徴とした精神医療が、32~33年前まで日本では行われていたのです。

宇都宮病院事件を教訓にして、日本の精神医療と精神科病院は大きく変わっていきました。開放病棟を持った病院が一般的となり、患者の人権も尊重されるようになっています。先進国日本において、二度とあのような非人道的事件が起こることを許してはなりません。
 

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