『栃木実父殺し事件』尊属殺人(親殺し)重罰規定が違憲となった理由とは?

かって、親殺し、いわゆる尊属殺人は「死刑又は無期懲役」(刑法200条の条文より)の重罰規定がありました。 栃木で起こった娘による実父殺人事件では、尊属殺人罪違憲判決が下されることに…。 「栃木 実父殺しの闇 〜尊属殺人事件〜」親と子の関係の真相に迫ります。

『栃木実父殺し事件』尊属殺人(親殺し)重罰規定が違憲となった理由とは?のイメージ

目次

  1. 1そもそも尊属殺人とは? 親殺しが重罰規定だった理由
  2. 2栃木実父殺し事件 尊属殺人(親殺し)の発覚
  3. 3尊属殺人罪〜栃木実父殺し〜の事件にいたったそもそものきっかけ
  4. 4その後、実父との関係、ついに母親の知るところとなる。
  5. 5母が栃木に戻り、平和が訪れそうになるが…
  6. 6状況はさらに悪化
  7. 7たび重なる出産と堕胎で生命の危険が
  8. 8それでも相沢チヨが親から逃げなかった理由
  9. 9自分を受け容れてくれる男性との出合い
  10. 10人生初めての光明の前に立ちはだかる実父
  11. 11エスカレートする父の行動が遂に栃木実父殺しという悲劇を生む
  12. 12私選弁護士 大貫大八の依頼人は?
  13. 13闘う相手は日本国憲法。弁護士謝礼はジャガイモ
  14. 14栃木実父殺し事件の尊属殺人事件としての裁判の経緯
  15. 15「栃木実父殺し」事件への当時の社会の反響
  16. 16栃木実父殺し事件、最高裁で違憲判決が出るまで
  17. 17ついに「刑法200条の条文」削除、尊属殺人は刑法改正へ

そもそも尊属殺人とは? 親殺しが重罰規定だった理由

親子

親族間の殺人はどう裁かれるべきなのか?

日本における、親殺し「尊属殺人罪」とは? 発生件数の推移は?

尊属殺人とは、祖父母・両親・おじ・おばなど、親等上、父母と同列以上にある血族(尊属)を殺害することです。
尊属殺人罪は古くから世界各国で広く認められていましたが、近代では、親や祖父母だからという理由のみでの重罰規定は「法の下の平等に反する」「不公平」「子供を蔑む発想」として排除される傾向にあります。
現在、尊属殺人罪の重罰を規定する刑法は、大韓民国や中華人民共和国等にわずかに残っているだけです。
かっては日本にも刑法200条の条文で尊属殺人罪は「死刑又は無期懲役」の重罰規定が存在しました。
日本において、尊属殺人罪が違憲とされた事件の真相、当事者たちの心理、該当犯罪件数の推移など、現在の日本に及ぼした影響を探ります。

殺意

刑法史上に残る違憲判決の背景は?

無期懲役又は死刑

尊属殺人罪は重罪。

栃木実父殺し事件 尊属殺人(親殺し)の発覚

実父との子どもを連れ、顔見知りに父親殺しを伝える。

昭和43年(1968年)10月5日、午前10時半ごろ、栃木のとある商店に子供を連れた女性が入って来ました。
女性の名は相沢チヨ29歳。店主夫妻とは顔見知り。
「父ちゃんを殺しちゃった。ヒモで絞め殺しちゃった…。」
そう言うと相沢チヨは声を上げて泣き始めました。
店主の妻は警察に通報。警察がチヨの住む県営住住宅を捜査すると、チヨの実父(52)が絞殺死体で発見され、チヨはその場で逮捕されました。

顔見知りの商店へ

チヨが手を引く子どもの父親は…。

手錠

顔見知りに父を殺したことを伝え逮捕された相沢チヨ。

尊属殺人罪〜栃木実父殺し〜の事件にいたったそもそものきっかけ

栃木二間の貸家、14歳で実父に犯される。

相沢チヨの一家は、栃木県内の二間の借家で暮らしていました。家族構成は、両親と子供が7人の9人家族。
チヨは長女であり、妹が2人と弟が4人いました。
中学2年生で当時14歳の彼女は父親から犯されることになります。
最初は驚き抵抗したものの、周りで寝ている家族を起こしては悪いという心理が働き、じっと耐え、結果的になされるがままに犯されてしまったのです。
「母ちゃんに言ったら承知しない!」
父はチヨに脅しをかけ、その後も関係を持ち続けました。

実父に

抵抗することもできない環境。

少女の孤独

二間の貸家で家族9人。八方塞がりの相沢チヨ。

その後、実父との関係、ついに母親の知るところとなる。

実父の暴力耐えきれず、母親が栃木から出奔

こうした生活が1年ほど続いた後、相沢チヨはとうとう母親に全てを打ち明けます。
話を聞いた母親は怒りに震え、夫に対し
「実の娘になんてことを。ケダモノ!」と激しくののしります。
これに対し夫は、開き直り
「ブッ殺すぞ!」「自分の娘を自由にしてどこが悪い!」と妻をどなり暴力をふるいます。
父親の家庭内暴力は徐々に激しさを増し、耐え切れなくなった母親は、相沢チヨと次女の2人を夫の元に残し、
他の子供たちを連れて北海道の実家へと帰ってしまいました。
実の娘を実父である夫に凌辱され、幼い子供たちを抱え、窮地に追い込まれた母親の心理状況はいかほどのものだったのでしょう。

荒れた手

母にすがったことで、さらに事態は悪化。

母が栃木に戻り、平和が訪れそうになるが…

母が栃木を去り実父と夫婦同然に。

母と弟たちが家を去り、実父と娘2人の生活が始まります。
間もなくして次女は中学を卒業、東京の会社へと就職が決まり、家を出ます。
妹が出て行ってしまい、その後、実父と娘は夫婦同然の生活となっていきます。

さらなる絶望

親子でありながら夫婦同然の関係へ。

北海道から母が戻って来るが、その後…。

1956年(昭和31年)、母親が子弟たちを連れて北海道から戻ってきました。
家族は一緒に暮らすべきだと話し合うためです。
その後の話し合いには母の兄も同席し、2人で実父に「娘にには手を出さない」と約束させ、母の兄が住む家の敷地に、家を建てさせてもらうことになりました。
再び一家全員で暮らすようになりましたが、実父は相変わらずチヨの布団の中に入ってきてはチヨの身体を求め続けます。
母と母の兄は止めに入りますが、逆に殴られ、罵声を浴びることに。
暴力の前に状況は一向に解決しませんでした。

家族

戻ってきた母や弟たちとの生活が始まりますが…。

状況はさらに悪化

17歳で実父の子を妊娠。

17歳の時、とうとう相沢チヨは妊娠してしまいます。もちろん、子供の父親は実父です。
どうしていいか分からなくなった彼女は、知り合いの男と一緒に逃げます。
二人の居所を突きとめた実父は相手の男を罵声と暴力で追い払い、チヨを連れ戻します。

出産

出産と堕胎。

たび重なる出産と堕胎で生命の危険が

実父との間で繰り返される出産と堕胎。

その後、実父はチヨを連れて一家全員で住んでいた家を出、県営住宅を借り、ここで再びチヨと2人きりの生活を始めます。
暴力に支配されたチヨは反抗も出来ず、この県営住宅でその後12年間暮らすことになります。
チヨはこの家で最初の子供を出産します。
子供が産まれてから益々もう実父からは逃げられないという心理状態になっていきます。
これ以降、実父と娘の間で5人の子(うち2人が幼いうちに死亡、他にも6人を人工妊娠中絶)を出産し、夫婦同様の生活を強いられます。さらに、被告人は、医師からこれ以上妊娠すると身体が危ないと言われ不妊手術を受けるに至ります。

手術

生命を脅かすほどの妊娠・堕胎そして不妊手術。

それでも相沢チヨが親から逃げなかった理由

妹を守るために

近所の人たちは、夫婦同然に暮らしている二人が血のつながった親子であることは気付いていたようで、噂にもなっていました。
相沢チヨが、その境遇から逃げ出さなかったのは、自分が逃げると妹が同じ目に遭わせると実父から脅され、逃げ出せない心理状態になっていたようです。
 

姉妹

妹を思うと逃げられない。

自分を受け容れてくれる男性との出合い

男性との出合い

1964年(昭和39年)、チヨは25歳の時、印刷会社に就職します。
チヨは、ここで同年代の女性たちと他愛もないことをしゃべり、一緒にご飯を食べ、家にいる時よりもはるかに楽しい時間をすごします。社員旅行にも行きました。
その後、チヨは恋に落ちます。相手は7歳年下の男性工員です。
会社が終わってからデートを重ね、2人の仲はますます親密なものになり、相手の男性はチヨに子供がいることを承知の上で彼女にプロポーズします。もちろん、相手の男性は実父とチヨの関係を知りません。



 

働きに出るチヨ

会社勤めを始め、楽しい時間を過ごします。

恋愛

家を出て愛する人と結ばれたい。

人生初めての光明の前に立ちはだかる実父

怒り狂う実父。

相沢チヨは実父に結婚を申し込まれたことを告げます。
「そいつをブッ殺す!」
激怒した父の姿を見て、チヨはこの家からは逃げ出して彼と一緒になる決意をします。
荷物を準備し、着替えて出発しようとしていたところへ、実父が酔って帰宅。
用意していた手荷物を見て状況を察知した実父は激昂。
チヨを怒鳴り散らし、暴力をふるい、服を引き裂き、下着までも引き裂き、
騒ぎを聞き、かけつけた近所の人たちが、何とか実父を抑えてている間にチヨは半裸姿で家を飛び出しバス停に走りますが、すでにバスは通過した後。チヨは再び実父に連れ戻されてしまいます。
 

無情にも

なんとかバス停にたどり着いたが。

逃避行の失敗

父から逃げることは叶わなかった。

エスカレートする父の行動が遂に栃木実父殺しという悲劇を生む

栃木から逃げ出せず、栃木実父殺し事件という最悪の結末に…。

この日以降、相沢チヨはほとんど監禁状態となります。家から出させてもらえず外部とも連絡が取れなくなります。
「逃げたら子供たちを始末する。」
「お前を一生不幸にしてやる。」
実父はチヨをこう言って脅し続けます。そして酒によっては身体を求め、拒絶すれば暴力。
監禁状態が続き、心身ともに限界に達していた相沢チヨは、
部屋にあった実父の作業用のヒモをつかむと、泥酔して怒鳴りちらす実父を押し倒します。
実父の首にヒモを巻きつけ、チヨは思い切り父の首を絞め上げました。

とうとう

身も心も現界に達したチヨはついにダークサイドに。

私選弁護士 大貫大八の依頼人は?

相沢チヨの逮捕から数日後、宇都宮市内で事務所を構える大貫大八弁護士のところにひとりの依頼人が現れます。
殺された実父の別居中の妻、相沢チヨの母親です。娘を実父から救えなかった母は、娘が殺人に至った心理を思い、恥をしのんで全てを語り、大貫大八に娘の弁護を依頼したのです。

弁護士

依頼人は加害者の母、被害者の妻。

闘う相手は日本国憲法。弁護士謝礼はジャガイモ

尊属殺人事件の背景の闇、大貫大八の闘いの始まり

大貫大八弁護士と、同席した息子で、のちに訴訟を引き継ぐ大貫正一弁護士は、栃木実父殺し事件の背景を聞き、母や娘の心理状態を思い涙を流します。
普通の殺人罪は刑法199条で「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは3年以上(※現在は5年)の懲役に処する。」と規定されていますが、
尊属殺人はそれとは別に刑法200条の条文で次のように重罰規定されていました。
「自己又は配偶者の直系尊属を殺したる者は死刑又は無期懲役に処す」。
父親を殺したチヨは、本来であれば、この重罰規定の尊属殺人罪を適用されて死刑か無期懲役になります。
チヨが実刑を逃れるには、刑法200条の条文を憲法違反にして無効にするしかありません。
この時点で尊属殺人罪は合憲判決であり、大貫大八・正一親子二代に渡る最高裁判決までの長い道のりがスタートしました。
現在では考えられないことですが、貧しい親子からの支払いはお金ではなくジャガイモであったとも言われています。

弁護士への支払いはジャガイモ

お金ではなく正義の為に闘った大貫大八。

栃木実父殺し事件の尊属殺人事件としての裁判の経緯

当事の裁判の背景は?

裁判所は、刑法典に規定された法定刑の範囲の刑を元にして、2回加重減軽を加えることにより、処断刑を言い渡します。これを本件に当てはめると、尊属殺人罪の法定刑のうち軽い無期懲役を基礎として、まず被告人の心神耗弱による減刑を加えると無期懲役は懲役七年となり、次いで2度目の減軽(酌量減軽)を加えても、懲役3年6月となり、これが当時の処断刑の下限です。
執行猶予を付けるには、処断刑が懲役3年以下であることが条件です。大貫大八が全力で弁護しても、刑法200条の条文が存在する以上、相沢チヨに執行猶予が付くことは難しい状況でした。

刑法の壁

大貫大八の前に立ちはだかる刑法200条の条文。

そもそもなぜ「尊属殺人罪」が存在したのか?

自分を育ててくれた親を殺すことなど、人間としてあるまじき行為であり、親殺しは重罪であって、死刑か無期懲役にすべきだとするのが、刑法200条の条文に規定された尊属殺人罪の考え方です。
しかし、この相沢チヨのように、子供のころから父親に虐待され続け「殺すしかない」という心理状態にまで追い詰められた人間に対しても、「親を殺したのだから死刑か無期懲役」という判決を下すことは、正しい判決といえるのでしょうか。この条文が発生件数の抑制に寄与しているかも不明でした。

尊属殺人と法の下の平等

親殺しは重罪であるとするならば、他人を殺した場合なら重罪ではないのか、ということにもなります。
日本の憲法によれば、全ての国民は法の下に平等であるとされています。
尊属殺人罪は、殺した相手が親だから他人だからと、相手によって罪の重さが違うという法律であり、これは憲法の「全ての国民は平等」という精神に反するのではないかという議論がこの事件の一連の裁判中に巻き起こりました。
親を殺したから、即、重罰規定罪とするのではなく、それぞれの事件について被害者と加害者の関係や状況・動機・殺人に至った心理状態などを考慮して、公平な判決を下すべきである、という考えです。

尊属殺人の根底

尊属殺人材の根底にあるのは健全な親子関係。

破綻した親子関係

歪んだ親子関係でも尊属殺人罪は適用されてしまうのか。

「栃木実父殺し」事件への当時の社会の反響

事件に対する当時の社会的反響、親殺しに対する判決

事件の異様さから、当初の報道件数は非常に少ないものでした。
しかし、この異常な親子関係が明るみに出ると徐々に注目が集まり、同時に親を殺さざるを得ない心理状態に陥ったチヨへの同情の声も多く上がりました。親子の関係が現在とは大きく違う当時では異例のことでした。
大貫大八・正一両弁護士の奮闘もあり、1973年(昭和48年)4月4日、最高裁判所で出されたチヨへの判決は、懲役2年6ヶ月、執行猶予3年。殺人としては驚くほど軽いものでした。

報道

当時の社会的反響は大きなものでした。

栃木実父殺し事件、最高裁で違憲判決が出るまで

各裁判所の判断

各審級の裁判所は、今回の栃木における実父尊属殺人事件に関して以下のように異なる判断を下しました。
1審の宇都宮地方裁判所は、刑法200条の条文を違憲とし、情状を考慮し過剰防衛であったとして刑罰を免除。
2審の東京高等裁判所は、刑法200条の条文は合憲であるとして、その上で最大限の減刑を行い、かつ未決勾留期間の全てを算入して、懲役3年6月の実刑を言い渡しました。
終審たる最高裁判所大法廷は、それまで合憲と判例されていた刑法200条の条文「尊属殺重罰規定」を一転して判例変更し、日本国憲法違憲と判断、被告人に対し刑法199条の殺人罪を適用、懲役2年6月、執行猶予3年を言い渡しました。

裁判で

各審級でどのような判断が?

栃木親殺し事件、尊属殺人罪に冠する最高歳判断の詳細

最高裁大法廷の判決の多数意見は、尊属殺人罪に関する厳罰化規定を、普通殺人罪と別途に設けること自体は違憲とせず、執行猶予が付けられないほどの厳罰しか規定しないことを違憲とするものでした。
最高裁は、尊属殺人罪が日本の憲法に反するとしてこの刑法200条の条文を無効とし、チヨの判決には適用せず、一般の殺人と同様な判断で判決を下したのです。
なおチヨは、事件前に精神障害の既往症はなく、逮捕後新たに精神障害と診断されたわけでもありません。しかしながら宇都宮地方裁判所および東京高等裁判所は、犯行時のチヨの心理状態に配慮して、精神状態については「心神耗弱状態であった」として、刑法第29条を適用し刑罰を減軽し、最高裁判所も前二審の判決をそのまま支持し、心神耗弱を認めています。

最高裁の判断

違憲判決は?

尊属殺人への裁判官の意見は分かれる。

本判決は大法廷で審理された15名の裁判官による判決ですが、裁判官のうち下田武三のみは、尊属殺人に関する重罰化の程度は立法府の判断に委ねるべきこととして、同規定を違憲とする結論に反対しています。
また、裁判官のうち6名は違憲との結論には賛成するものの、尊属殺人罪に関する規定を殺人罪と別途に設けること自体は、合憲とする多数意見の理由には反対しています。
結論として、本判決は14対1、理由としては8対6の多数により決せられ、大貫大八は違憲判決を勝ち取りました。

判決

各審級での判断は?

ついに「刑法200条の条文」削除、尊属殺人は刑法改正へ

栃木実父殺し事件のその後の経緯、現在の刑法における尊属殺人罪

この事件以降、法務省は日本国憲法違反との確定判決を受け、尊属殺人罪であっても一般の殺人罪である刑法199条を適用する運用を行うよう通達を出し、親族間の殺人事件である尊属殺人罪適応対象の事案についても殺人罪が運用され、その後、尊属殺人罪の重罰規定は適用されることはなくなりました。
1995年(平成7年)改正刑法(平成7年法律第91号)が国会で成立した際、刑法200条の条文は削除されました。
栃木の親殺しの事件から27年後です。
栃木での実父殺しという悲惨な事件は、その後の日本の刑法に大きな足跡を残しました。

違憲判決、そして

事件から27年後の刑法改正。

現在にも活かされる刑法学のエポックメイキング

この事件は、現在でも法学生の多くが講義で学びます。刑法200条の条文の重罰規程の削除を導いた歴史に残る事例です。
法曹界に生きる者として無私無欲で闘った大貫大八の弁護士としての矜持は現在も引き継がれているのです。

大学の講義にも

法学部の学生なら必ずしも講義に出てくる違憲判決です。

栃木の親殺し事件から半世紀、現在の家族間殺人件数の闇

その後、親族間の殺人事件の件数はどう変化しているのでしょうか?
親族間の殺人件数は長らく検挙件数全体の40%前後で推移してきましたが、2004年に45.5%に上昇。以降10年間でさらに10ポイント近く上昇し、2012年2013年には件数は50%以上に増加しています。
発生件数から判断する限り、刑法200条の条文は削除されましたが、現在では、チヨの時代とは違った新たにこじれた心理関係が生じてしまっているようです。
また、この発生件数の増加という事実は、重罰規定が抑制には無力であった事も証明しています。

現代の新たな闇

現在、発生件数は増加。半世紀前とは違う親族間の新たな闇。

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