イスラエル・パレスチナ問題とは?現在も続く紛争の原因をわかりやすく解説!

現在のイスラエル・パレスチナ問題にはどのような原因があるのでしょうか?そして解決にはどんな壁が立ちはだかるのでしょうか?歴史を見ていきながら、なぜ現代でも紛争は終わらないのか、イスラエル・パレスチナ問題についてなるべくわかりやすく解説します。

イスラエル・パレスチナ問題とは?現在も続く紛争の原因をわかりやすく解説!のイメージ

目次

  1. 1イスラエル・パレスチナ問題
  2. 2パレスチナ自治区
  3. 3聖地エルサレムについて
  4. 4イスラエル・パレスチナ問題:パレスチナ地域の戦争の歴史(紀元前から135年まで)
  5. 5イスラエル・パレスチナ自治区の問題:パレスチナ地域の戦争の歴史(第一次世界大戦前まで)
  6. 6イスラエル・パレスチナ自治区の問題:パレスチナ地域の歴史(第一次世界大戦前までその2)
  7. 7イスラエル・パレスチナ自治区の問題:ユダヤ人、アラブ人にとって歴史の境目、第一次世界大戦
  8. 8イスラエル・パレスチナ自治区の問題、三枚舌外交その1:フサイン=マクマホン協定
  9. 9イスラエル・パレスチナ自治区の問題、三枚舌外交その2:サイクス・ピコ協定
  10. 10イスラエル・パレスチナ自治区の問題、三枚舌外交その3:バルフォア宣言
  11. 11イスラエル・パレスチナ自治区の問題:フサイン=マクマホン協定とバルフォア宣言
  12. 12イスラエル・パレスチナ自治区の問題:嘆きの壁事件
  13. 13イスラエル・パレスチナ自治区の問題その6:第二次世界大戦
  14. 14イスラエル・パレスチナ自治区の問題:イスラエル建国
  15. 15イスラエル・パレスチナ自治区の問題:その後から現在・・・解決に向けて
  16. 16イスラエル・パレスチナ自治区の問題についてまとめ

イスラエル・パレスチナ問題

わかりやすく言えばイスラエル・パレスチナでのユダヤ人とアラブ人の様々な権利での対立です。この対立を元に数え切れないほどの紛争、テロといったものが起きています。

その中でも重大なものとしては極めて複雑な歴史からくる。領土の問題でしょう。紛争は絶えず、双方解決する気が無いような気さえします。

どのような原因なのでしょうか?もっと詳細を見ていきましょう。

出典: https://ameblo.jp

アインシュタインはユダヤ人です。

出典: http://ja.myecom.net

有名なアラブ人ナンシー・アジュラム

パレスチナ自治区

現在のパレスチナ自治区というのはヨルダン川西岸地区とガザ地区です。

また非常にややこしいのですがパレスチナというのはイスラエルを含む「地方・地域」のことも指します。世界地図を見てもこのパレスチナ地方というのはヨーロッパ、アフリカ、中央アジアに跨る重要な地域で必然的に歴史的にも重要になります。

出典: http://new22nozawa.cocolog-nifty.com

画像のほうがわかりやすいですよね。陸続きなのにガザ地区とヨルダン川西岸地区はイスラエルに分断されています。重大なのはなぜ自治区なのかです。実は「パレスチナ国」と認めている国家は、、国際連合加盟国(193ヶ国)中、136ヶ国が国家承認しています。しかし、日本や当事国でもあるイスラエル、そして安保理常任理事国であるアメリカ合衆国、イギリス、フランスなど57ヵ国がパレスチナ国を承認していません。

意見はあるかも知れませんがこの記事では「パレスチナ自治区」で統一します。

ガザ地区について

現在特に劣悪な環境なのがガザ地区です。東京23区の約6割の面積に相当する地域に暮らす住民は2016年10月、200万人を超えました。その8割が食料などの援助に依存し、失業率は40%以上。2020年にガザ地区は「居住不能」レベルまで人が溢れ、2030年の人口は310万人に達する見通しです。

ガザで供給される水の95%が汚染されており、病気の3割は水が原因だとされます。下水処理場の停止でガザ沿岸は遊泳禁止レベルに汚染されています。

1998年、ガザ国際空港が開港しましたが、2001年にイスラエルにより破壊さています。

2008年-2009年に行われたガザ紛争(ガザの)虐殺など近年においても問題解決される兆しがありません。

出典: http://parstoday.com

ガザ地区の空爆

聖地エルサレムについて

エルサレムはユダヤ教、イスラム教、キリスト教の聖地とされていて歴史的に重大なのは明らかです。古代イスラエル・ユダ王国の首都で、エルサレム神殿がかつて存在しました。また、イエス・キリストが処刑された地でもあります。旧市街はユダヤ教・イスラム教・キリスト教の聖地で、嘆きの壁や聖墳墓教会、岩のドームといった各宗教縁の施設を訪れる人々が絶えません。

旧市街は城壁に囲まれ、北東はムスリム地区、北西はキリスト教徒地区、南西はアルメニア正教徒地区、南東はユダヤ人地区となっています。また現在の城壁はオスマン帝国のスレイマン1世によって建設されたものです。

ちなみに旧市街は「エルサレムの旧市街とその城壁群」の名で1981年に世界遺産に登録されました。

出典: http://www.romeacrosseurope.com

聖墳墓教会

出典: https://worldheritagesite.xyz

岩のドーム

イスラエル・パレスチナ問題:パレスチナ地域の戦争の歴史(紀元前から135年まで)

歴史を見ると紀元前11世紀頃、ユダヤ人はイスラエル王国を成立させたことから始まります。

しかし紀元前930年ごろ内乱が原因で、イスラエル王国は南北に分裂します。北のイスラエル王国は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされ、南のユダ王国は紀元前586年に新バビロニアに滅ぼされました。新バビロニアも紀元前539年ペルシア帝国に滅ぼされ、その後パレスチナの地は紀元前331年アレクサンダー大王の東方遠征により征服されます。アレクサンダー大王の死後、パレスチナはセレウコス朝(シリア王国)の支配下に入るがマカバイ戦争を経て、ユダヤ人の王朝であるハスモン朝が成立します。紀元前1世紀にハスモン朝はローマ帝国の保護国となり、後にローマ帝国の属州ユダヤ属州となります。66年には独立を目指し、ユダヤ戦争(第1次ユダヤ戦争)が勃発しますが、70年にローマ帝国により鎮圧されます。132年に第2次ユダヤ戦争が起き、一時はユダヤ人による支配権を取り戻したが、135年に再びローマ帝国に鎮圧され、名称もシリア・パレスチナ属州に変わります。この頃、数多くのユダヤ人が世界に散っていきました。
 

出典: http://www.wikiwand.com

ユダとタマール

出典: http://www.gregorius.jp

アレクサンダー大王

イスラエル・パレスチナ自治区の問題:パレスチナ地域の戦争の歴史(第一次世界大戦前まで)

ローマ帝国が東西に分断され、東ローマ帝国の属州になります。しかし636年、東ローマ帝国が正統カリフに敗北し以後イスラム教国家の支配下に置かれます。しかし1099年に第1回十字軍によりエルサレムが占領されキリスト教国であるエルサレム王国が成立します。1187年、ヒッティーンの戦いでアイユーブ朝に破れエルサレムを再占領されます。1200年ごろにはエルサレム王国の支配地域は地中海沿いのみとなっていた。わずかな支配地域を維持していたエルサレム王国でしたが1291年にマムルーク朝により完全に滅亡します。

1517年にはトルコから台頭してきたオスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼしこの地方を支配します。この支配は第一次世界大戦まで続きます。

ここまで見ても分かるとおり、パレスチナ地域は戦争・紛争が絶えませんでした。わかりやすく簡潔にまとめても、ユダヤ教⇒イスラム教⇒キリスト教⇒イスラム教と何度も入れ替わっています。

出典: http://histrace.com

十字軍

出典: http://mphot.exblog.jp

サラディン

イスラエル・パレスチナ自治区の問題:パレスチナ地域の歴史(第一次世界大戦前までその2)

これは戦争・紛争といったものではないですが、「シオニズム」というものにも触れなければいけません。これはイスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しよう、あるいはユダヤ教、ユダヤ・イディッシュ・イスラエル文化の復興運動(ルネサンス)を興そうとするユダヤ人の近代的運動です。シオニズムという言葉は、1890年代、オーストリアの同化ユダヤ人であるナータン・ビルンバウムにより考案されました。

1834年にセルビアに住む宗教的指導者イェフダー・アルカライが小冊子を発行し、聖地での贖罪を前提とした帰還を唱えました。こうした宗教的意味合いのとは別に、モーゼス・ヘスは1862年、反ユダヤ主義への解決策としてユダヤ人の民族主義を復興し、ユダヤ人の国家を築くべきだと訴えました。

1882年に第一次アリヤー(ヘブライ語で「上がる」こと、シオン(エルサレム)への帰還の意)が始まります。東ヨーロッパから2万5千人から3万5千人のユダヤ人がオスマン帝国支配下のパレスチナに移住しました。またユダヤ人が冤罪で逮捕されたドレフュス事件や、ポグロムという東欧やロシアではユダヤ人が虐殺される事件が繰り返し発生していたことも原因となり、シオニズム志向は強くなっていきます。1904年から始まった第二次アリヤーでは4万人ほどがパレスチナに移住します。

出典: https://en.wikipedia.org

イェフダー・アルカライ

出典: https://blogs.yahoo.co.jp

モーゼス・ヘス

イスラエル・パレスチナ自治区の問題:ユダヤ人、アラブ人にとって歴史の境目、第一次世界大戦

このようにアラブ人とユダヤ人が混在する中、1914年、第一次世界大戦が勃発します。オスマン帝国はドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国の三国同盟側で参戦します。一方イギリスは連合国側で「三枚舌外交」というものを秘密裏に行います。大戦は連合国側の勝利でパレスチナはイギリスが統治することになります。

これが歴史で見る現在のイスラエル・パレスチナ問題の決定的な原因と言えます。
 

出典: https://thepage.jp

第一次世界大戦

出典: http://blog.goo.ne.jp

第一次世界大戦

イスラエル・パレスチナ自治区の問題、三枚舌外交その1:フサイン=マクマホン協定

1915年、メッカの太守であるフサイン・イブン・アリーとイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間でやりとりされた書簡です。

オスマン帝国支配下におけるアラブ人の独立とパレスチナでの居住を認めた協定で、イギリスは当時オスマン帝国支配化にあったアラブの独立を約束させることによって、アラブをイギリス陣営に引き込み、オスマン帝国と戦わせることを目的としました。

出典: http://s-yoshida8.my.coocan.jp

イスラエル・パレスチナ自治区の問題、三枚舌外交その2:サイクス・ピコ協定

1916年、イギリス、フランス、ロシアの間で結ばれたオスマン帝国領の分割を約した秘密協定です。具体的な領土の分割案は以下の通りです。

シリア、アナトリア南部、イラクのモスル地区をフランスの勢力範囲とする。
シリア南部と南メソポタミア(現在のイラクの大半)をイギリスの勢力範囲とする。
黒海東南沿岸、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡両岸地域をロシア帝国の勢力範囲とする。

サイクス・ピコ協定は歴史を語る上では重要ですが、この記事ではわかりやすくイスラエル・パレスチナ問題を語りたいので紹介に留まっておきます。

出典: http://s-yoshida8.my.coocan.jp

わかりやすく地図でまとめたもの

イスラエル・パレスチナ自治区の問題、三枚舌外交その3:バルフォア宣言

バルフォア宣言はイギリスのユダヤ系貴族院議員である第2代ロスチャイルド男爵ライオネル・ウォルター・ロスチャイルドに対して送った書簡で表明された、イギリス政府の公式方針として、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地の建設に賛意を示し、その支援を約束するというものです。

出典: http://s-yoshida8.my.coocan.jp

イスラエル・パレスチナ自治区の問題:フサイン=マクマホン協定とバルフォア宣言

イギリスは連合国軍として第一次世界大戦に勝利し上記の協定や宣言を履行することになります。そして矛盾が生じるのがフサイン=マクマホン協定とバルフォア宣言です。どちらも秘密裏に行われていたため混乱を招きます。

アラブ人の独立とパレスチナでの居住を認めたフサイン=マクマホン協定。
パレスチナにおけるユダヤ人の居住地の建設に賛意を示し、その支援を約束するバルフォア宣言。

わかりやすく矛盾しているように感じます。次々と入ってくるユダヤ教のユダヤ人と、元からいたオスマン帝国やその周辺のイスラム教アラブ人。当然のように対立します・・・

アラブ人はバルフォア宣言の撤回を要求し続け、イギリスの提案する立法評議会への協力やアラブ機関の設立などを頑なに拒否します。しかしその間にもユダヤ人は移民を進め、ユダヤ機関の設立、自警組織ハガナーの結成、ヘブライ大学の開校など、ユダヤ人国家建設に向けてパレスチナにおけるユダヤ人コミュニティーを着実に大きくしていきます。

出典: https://www.nipponzen.com

ハガナー

出典: https://overseas.huji.ac.il

ヘブライ大学

イスラエル・パレスチナ自治区の問題:嘆きの壁事件

そしてとうとう事件が発生します。1929年、エルサレムにある嘆きの壁で起きた嘆きの壁事件。エレミア・ハルパーン の指揮のもと青年数百名が嘆きの壁に集まり「壁は我々のものだ!」と叫びます。これがきっかけになり、アラブ人によるユダヤ人襲撃が行われ、133名のユダヤ人が殺害され339名が負傷します。この事件を受けイギリスは2つの調査委員会を派遣します。調査委員会はどちらも、事件の要因はユダヤ人移民のコミュニティーが大きくなり、アラブ人がそれに脅威を感じたことが原因とし、ユダヤ人の移民と土地購入について再検討を勧告した。一時は勧告に従った白書が出るもののユダヤ側の反発にあい撤回されます。

1936年、アラブ人によるユダヤ人襲撃と、その報復が引き金となりパレスチナ独立戦争が発生します。イギリスはピール調査委員会を派遣し、パレスチナの分割を提案します。ユダヤ側は国家創設の足がかりとしてこれを受け入れますが、アラブ側はこれを拒否します。調査委員会の活動が終わると、再びパレスチナ全土で反乱が起こり、1939年に収束するまでにアラブ人に大勢の死傷者と逮捕者を出します。

その後もイギリスは必死に解決策を探ります。1939年5月にイギリス政府の方針を大きく変えるマクドナルド白書が出されます。この白書は移民および土地売買に関して制限を設けるものでした。アラブ側の主張に沿った方針でしたが、当然ユダヤ人は拒否します。またアラブ人はイギリスをもはや信用せず拒絶します。ユダヤ人はアラブ独立戦争からさらなる防衛力の必要性を感じ、またイギリス政府の方針変更に武力で抵抗するためハガナーやイルグン、レヒといった武装組織を強化していきます。

もはやイギリスは統治不可能という状況に陥っていきます。

出典: https://ameblo.jp

嘆きの壁は、ヘロデ大王時代のエルサレム神殿の外壁のうち、現在も実際に存在する部分で歴史的にも貴重なものです。

出典: http://www.wikiwand.com

パレスチナ独立戦争

出典: http://www.wikiwand.com

パレスチナ独立戦争

イスラエル・パレスチナ自治区の問題その6:第二次世界大戦

第二次世界大戦でもアラブ人とユダヤ人は対立します。

ドイツではユダヤ人大量虐殺が起きます。そのような原因のため、戦時中はユダヤ人の反英闘争はなりをひそめ、義勇兵としてイギリス軍とともに戦いました。一方アラブ最高委員会のアミーン・アル・フセイニーは「敵の敵は味方」とわかりやすい理論でドイツを中心とする枢軸国を支持します。

結果は連合国側の勝利、アミーン・アル・フセイニーの名声は地に落ちます。

一方で戦争が終わるとイギリス政府はアメリカに共同調査委員会の設立を提案し、英米調査委員会が設立されます。委員会は強制収容所にいる10万人のユダヤ人をパレスチナに移住させるようイギリス政府に勧告しますが、イギリス政府はこの勧告を受けませんでした。これが原因でキング・デイヴィッド・ホテル爆破事件などユダヤ人過激派の反英闘争が激化することになります。

出典: http://royallibrary.sakura.ne.jp

イギリスの戦艦「ウォースパイト」

出典: http://earther.tv

ヒトラー

イスラエル・パレスチナ自治区の問題:イスラエル建国

とうとうイギリスはパレスチナ地域の解決策を国際連合の勧告に委ねることにします。

国連の調査委員会では、ユダヤ人の国家とアラブ人の国家を創設する分割案が採択されます。これが現在のものと近くなっています。イスラエルとパレスチナ自治区のガザ地区とヨルダン川西岸地区になります。ガザ地区が離れているのはこれが原因なんですね。またイギリスは1948年5月15日をもって委任統治を終了するとしました。イギリスが紛争への介入を止めるといよいよ両陣営の相手に対する攻撃は活発となりユダヤ人・アラブ人双方による襲撃事件が多発します。このような中、採択された分割案に基づき、ユダヤ人は1948年5月14日イスラエル独立宣言を行いました。当然アラブ人は反発し第一次中東戦争が勃発、イスラエルが勝利しパレスチナの8割を占領するに至ります。
 

出典: http://diva-ayuko24.blog.jp

わかりやすい分割案と変遷

出典: http://embassies.gov.il

イスラエル独立宣言

イスラエル・パレスチナ自治区の問題:その後から現在・・・解決に向けて

1956年10月29日、エジプトのナセル大統領のスエズ運河国有化宣言に対応して、英・仏・イスラエル連合軍がスエズ運河に侵攻し、第二次中東戦争が勃発します。エジプトの敗北は目前と思われたが、この侵攻はアメリカの猛烈な反発を招き、結局11月8日に停戦します。

第三次中東戦争ではイスラエルがエジプト、シリア、ヨルダンに勝利しガザ地区と東エルサレムを含むヨルダン川西岸を占領します。

その後も数え切れないほどの紛争が起き、解決の道はないのではないかと思われていました。

しかし1993年にイスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)の間でオスロ合意を承認。これは「イスラエルが占領した地域から暫定的に撤退し5年にわたって自治政府による自治を認める。その5年の間に今後の詳細を協議する。」といったもので現在のガザ地区とヨルダン川西岸地区をパレスチナ自治区に返還しました。

これでこの問題は解決に向かうと思われました。しかしイスラエル・アラブ双方の過激派はこれを認めません。その結果が現在のイスラエル・パレスチナでのテロや紛争となっています。またイスラエル、パレスチナ自治区の両首相も過激派が選ばれることもあり、まだまだ紛争が多く、解決には程遠いでしょう。

出典: http://gaviotasidiotas.blogspot.jp

パレスチナ解放機構

出典: http://1000ya.isis.ne.jp

オスロ合意

出典: https://ja.wikipedia.org

ガザの国旗

出典: http://www.bbc.com

現在パレスチナでの与党はハマス。写真をみても過激派なのがわかりやすい。

イスラエル・パレスチナ自治区の問題についてまとめ

いかがだったでしょうか?なるべくわかりやすくまとめたつもりですがやはり複雑な問題ゆえ長くなってしまいますね。様々な原因から現在の問題に繋がっていて解決まではまだまだかかりそうです。どうにか解決の糸口を見つけて欲しいものです。エルサレムは聖地であり、そこで紛争が起きているのは宗教を持っていない筆者でも悲しく思います。きっと嘆きの壁も嘆いているのではないでしょうか?

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