2021年03月30日公開
2023年04月18日更新
勘坂康弘社長は今どうしてる?焼肉酒家えびすの食中毒事件まとめ
勘坂康弘氏は2011年に集団食中毒事件を起こした「焼肉酒家えびす」を展開していた、株式会社フーズ・フォーラスの代表取締役社長を務めていた人物です。今回は食肉業界に震撼と大打撃を与え、「逆ギレ土下座」「殺人ユッケ」で炎上した勘坂康弘氏の現在について調査しました。
目次
焼肉酒家えびす食中毒事件の概要
焼肉酒家えびす食中毒事件とは、株式会社フーズ・フォーラス(社長:勘坂康弘)の事業である焼肉酒家えびすが2011年4月21日に起こした集団食中毒事件のことを指します。
2011年4月21日から営業停止となる約一週間の間に、食中毒になった患者は171人、うち死亡者は5人。
この事だけでもかなり大きな事件ではありましたが、フーズ・フォーラスの社長である勘坂康弘の会見や対応や、関連会社の衛生管理に対する疑惑で、更に炎上し連日報道される形となりました。
このまとめでは、勘坂康弘の会見時の問題やその後、及び5名もの死亡者を出した焼肉酒家えびす食中毒事件についてまとめていきます。
久しぶりにエッジーな会見だな、野々村竜太郎兵庫県議。狙いが分からん。劇場型会見では、船場吉兆、焼き肉酒家えびす、おぼちゃんに並んで、個人的四天王に加入させた。
— たけだ (@takedasoichiro) July 2, 2014
フーズ・フォーラス(焼肉酒家えびす親会社)とは
株式会社フーズ・フォーラスとは社長を勘坂康弘とし、焼肉酒家えびすを経営していた親会社です。石川県金沢市を拠点に焼肉酒家えびすを経営していましたが、食中毒事件が原因で現在は廃業となっています。
フーズ・フォーラスより酒家えびすの1997年の創業のほうが先であり、1号店は当時は勘坂康弘の両親を含めた家族ぐるみでの経営でした。しかし焼肉酒家えびすが軌道に乗ったために親会社として1998年にフーズ・フォーラスを設立。
勢力を拡大して食中毒事件を起こすまでは順調な経営状態でした。
社名は「Food for us」を意味し、「得るより与えよ」を企業理念としていた[1]。
1号店は当初、店の指揮をとる一方、勘坂の父親が駐車場での整理・誘導、母親が厨房での皿洗いをするという家族ぐるみでの運営が行われていたという[6]。取締役・監査役に社長の一族が就任している同族企業(非公開会社)であった。
焼肉酒家えびすは徐々に勢力を拡大
勘坂康弘が創立した焼肉酒家えびすは「福井県」「富山県」「石川県」を中心に展開。地方チェーンとして営業していましたが、徐々に勢力を拡大。
食中毒事件が起きる直前には全国20店舗ほど存在しており、2010年には神奈川県横浜市にも出店し関東圏にも勢力を伸ばしつつありました。
この店舗の売りは食中毒で話題になった「280円の和風ユッケ」を始めとして、一皿100円の豚バラなど当時の時勢に沿った低価格が売りで、これが急速に勢力を拡大させる決め手となりました。
焼肉酒家えびすがテレビ番組で紹介!?
2011年4月18日。食中毒事件が始まる3日前に焼肉酒家えびすは、『人生が変わる1分間の深イイ話』で紹介されています。勘坂康弘も若手のやりて経営者として称賛を浴びていました。
関東にも進出、番組紹介の宣伝。そして勘坂康弘がやり手として紹介されたこともあって、これからと言ったところだったのでしょう。
しかしこの深イイ話を見た視聴者が店舗に殺到したことが、皮肉にも余計に被害を拡大させてしまったとも言われています。
焼肉酒家えびす食中毒事件の詳細・原因
勘坂康弘の手腕により焼肉酒家えびすは成長し、今まさに地方を飛び出して都市圏に飛び立たんと言った所で、食中毒事件を起こします。
こうして絶頂期からたったの3ヶ月で、焼肉酒家えびすは転落・全店閉店・会社解散へと追い込まれることとなりました。
この項では、そんな焼肉酒家えびすの破滅の原因となった集団食中毒事件について纏めていきます。
焼肉酒家えびす食中毒事件はいつ起きた?
2011年4月21日~4月26日の期間に、焼肉酒家えびすで飲食を行った客が食中毒の症状を発症。発症した地域も富山県・福井県・神奈川県と幅広く、特に被害の多分を締めているのが富山県に存在していた店舗でした。
事が大きくなったのは、同年4月27日に福井県にある「焼肉酒家えびす福井渕店」で飲食した6歳の男児が、腸管出血性大腸菌O111による食中毒で亡くなってしまったことからでした。
焼肉酒家えびすの食中毒事件が発覚へ
この死亡事件により、福井県は6歳の男の子が亡くなったことを公表。
同日に保健所から、焼肉酒家えびす「高岡駅南店」「砺波店」で飲食を行った複数の客がO111・O157に感染し食中毒の症状を発症していると言った報告を受け、富山県は同店舗を営業し停止処分にすると公表しました。
マスコミもこの時から集団食中毒事件としてメディアで報道することなり、全国に食中毒事件が知られることとなりました。
この時はまだ、6歳の男児が死亡した福井県の福井渕店を含めて、上記で営業停止処分を受けた2店舗以外は、焼肉酒家えびすは営業を継続していました。
焼肉酒家えびすは全店営業停止に
しかし4月29日、営業停止処分を受けていた砺波店で飲食をした6歳の男児が食中毒で亡くなり、この事を重く受けたフーズ・フォーラスは焼肉酒家えびすの全店営業自粛を決定。
以降、被害拡大は収まりましたが、最終的には食中毒患者が181名、死亡者が5名の大惨事となりました。
5名の死亡者のうち砺波店で飲食を行った客が4人と多分を締めており、同店の衛生に対する意識や食肉の仕入れがかなり長い間取り沙汰される事となりました。
集団食中毒はユッケが原因?
この事件を知る方はまず原因としてユッケが浮かぶのではないでしょうか?
マスコミでも連日、「殺人ユッケ」という言葉が踊っていました。実際に食中毒を引き起こした飲食客の96%がユッケを食べていたことから、原因に近いと言えるでしょう。
実際にこのユッケには、"腸管出血性大腸菌O-111"が未開封の状態でも付着しており、焼肉酒家えびすに出荷する時点でユッケは大腸菌に汚染。原因菌の付着に関しては、焼肉酒家えびすでは無いと言われています。
O-157も一部被害者から検出されましたが、保管された肉からは検出されず原因菌ではないとされています。
殺人ユッケを出荷した食肉卸業者は?
この食肉を焼肉酒家えびすに卸していたのが、大和屋商店という老舗の食肉卸業者でした。この大和屋商店は食中毒の件で立ち入り調査が入った保健所に対し、「加熱用の肉しか扱っていない」と説明。
しかし、後に生食用として出荷していたことが発覚するなど、卸しの段階で問題があったことが露呈しています。
また、生食用と加熱用の肉で包丁やまな板を使い分けもしておらず、保存している冷蔵庫もサイズが保存料に対して見合っていませんでした。
さらに、生食用と加熱用の肉が触れ合って保存されているなど、お世辞にも衛生意識が高いとは言えない環境だったようです。
焼き肉チェーン「焼肉酒家えびす」の客4人が腸管出血性大腸菌「O111」などで死亡した集団食中毒事件で肉を納入した「大和屋商店」(板橋区)が生食用として提供されると知りながら加熱用の肉と同じ作業場で加工しまな板や包丁を使い回していたことが、板橋区保健所などへの取材でわかった。
— The daily olivenews (@olivenews) May 9, 2011
焼肉酒家えびすの衛生意識にも問題が?
しかし大和屋商店が全て悪いかと言えばそういう事はなく、激安店の宿命と言えば宿命ですが、アルバイト中心に営業をしていた焼肉酒家えびす。指導が行き届いていなかったこともインタビューにより判明しています。
生肉の表面を削ぎ落とす作業である"トリミング"の未実施や、ずさんな衛生管理及び売れ残ったユッケは翌日に使い回すなど、アルバイトだけではなく社員指導や意識も低かったと言われ、被害拡大の原因の片棒を担いでいます。
当時は責任のなすりつけ合いと釈明の連続で、この業界の闇の深さを感じさせますね…。
食中毒を防ぐために国の衛生基準で定められた、細菌が付着しやすい肉の
表面を削り取るトリミングという作業を、会社側から指導されていなかったと証言しました。
この従業員は「会社のマニュアルにも一切なかったし、作業自体を知らなかった」と話しています。
一方でこの従業員は、ユッケ用の生の肉は専用のまな板で切り分け、アルコール消毒も行っていたと
話しています。警察は、肉が流通のどの段階で汚染されたのか特定を進めるとともに、店での
衛生管理の実態について調べています。
【動画】世間を騒がせた勘坂康弘社長の会見
集団食中毒を起こしてしまった焼肉酒家えびす。更に騒ぎを大きくした一因なのが、社長である勘坂康弘の数々の問題対応でしょうか。
逆ギレ会見からの土下座パフォーマンスは今でも一部で語り草であり、かなり長い間、勘坂康弘は話題になることとなりました。
この項ではフーズ・フォーラス社長の勘坂康弘の対応について纏めていきます。
勘坂康弘の経歴
カテゴリ | 詳細 |
---|---|
名前 | 勘坂康弘(かんざか・やすひろ) |
生年月日 | 1968年8月18日 |
最終学歴 | 金沢星稜大学卒業 |
勘坂康弘氏は、大学卒業後にサラリーマンとして暫く勤務してから事業を興した、いわゆる脱サラです。
1997年5月に焼肉酒家えびす1号店を富山県高岡市に開店し、後に株式会社フーズ・フォーラスを設立して社長として就任。順調に規模拡大からの焼肉酒家えびす食中毒事件へと到ります。
勘坂康弘の性格とは?
こうして焼肉酒家えびすが軌道にのり成功者となった勘坂康弘ですが、その性格は事件前から"かなりの変人"と言われるほどのものでした。
社内でも勘坂康弘に対し「リーダーシップはあるが感情の起伏が激しく、よく社内でも泣いたり喚いたりする」とのことで、後に紹介する逆ギレや土下座会見にもこの性格が繋がったと言われています。
焼肉酒家えびす食中毒事件に対する会見の時の醜態も、社員の目から見ると"またやらかしたか"だったそうで、勘坂康弘にとって、あれらの感情的な奇行は日常茶飯事だったことが伺えますね。
勘坂康弘・食中毒事件会見で逆ギレする
今でも語り草なのが2011年5月2日に行われた記者会見。焼肉酒家えびす食中毒事件を受けて、勘坂康弘は以下のように発言しています。
「生食用の肉というのは日本に流通しておらず、加熱用の肉を殺菌の上、店の責任で調理するのが慣例になっている。それを踏まえ、法律で禁止すればいい。すべきです。禁止していただきたい」
その流通していないものを食用として提供していたのが焼肉酒家えびすであり、勘坂康弘をトップに置くフーズ・フォーラス。死亡者が出たにもかかわらず国に責任をなすりつける姿は、逆ギレ会見とあちこちで炎上することになりました。
「誰に対してあやまっているのか、わからない」
勘坂社長の態度に、インターネットでは多くの人が「なんでキレながら謝罪?」「誰に対してあやまっているのか、わからない」、「社長の主張なの?」などと、いぶかしげに見ている。
勘坂康弘・死亡者が出て土下座する
この逆ギレ会見から3日後の5月5日。食中毒で治療中だった当時の飲食客が、4日5日と相次いで亡くなったことから態度は一変。勘坂康弘が涙ながらに土下座し謝罪する姿が各メディアで報道されました。
しかし、この手のひらを返したかのような勘坂康弘の行動に共感が集まることはなく、ネットを中心に「誰かの入れ知恵によるパフォーマンス」だと揶揄されるだけに終わりました。
"深イイ話"の時は「有能な若手経営者」として持ち上げられていた勘坂康弘でしたが、この醜態により「金儲け主義の貪欲な社長」として手を返される事となり、勘坂康弘はマスコミ不信に陥ったとも言われています。
ここ何日か練習を積んで焼肉酒屋えびす・勘坂社長のモノマネをマスターしたので、何か土下座する機会があったらその流れで披露しようと思ってタイミングをうかがってるんだけど、そういう時にかぎってなかなか土下座しなければならないような状況に恵まれない。
— 冷凍食品 (@frozen_food) May 8, 2011
焼肉酒家えびす社長・勘坂康弘のその後
焼肉酒家えびす集団食中毒事件を起こし、地獄から天国へと転落してしまったフーズ・フォーラスと勘坂康弘。
営業停止を受けて資金繰りが悪化し、2011年7月8日にフーズ・フォーラスは解散し精算手続きを行うこととなりました。焼肉酒家えびすは同業者であるスタンドサービスに売却へされ、その名前は消えることとなりました。
この項では、食中毒事件を起した焼肉酒家えびすや勘坂康弘のその後についてまとめていきます。
会社精算時の負債額は?
精算時の負債総額は11億円、債務超過が7億円。
被害者補填は5億円と勘坂康弘は債権者説明会で説明しており、債権者に「被害者への支払い」を優先して「債権放棄」を債権者に依頼するなど、勘坂康弘なりに食中毒に対し責任をとろうとしていた姿が伺えます。
勘坂康弘の自己破産とその後
会社解散時に食中毒被害者の賠償のために全財産を当てると語っていた勘坂康弘ですが、後の2012年4月に自己破産を申し立て、奥さんとも離婚されています。
自己破産の時は負債は膨れあがっており、負債総額が約13億2000万円、うち被害者への賠償額が7億5000万円と、個人ではとても返せる額ではありませんでした。
破産申告後の勘坂康弘は、金沢市内の運送会社でトラックドライバーとして働いていると言われています。被害者への対応は清算人に任せ、勘坂康弘自身は同金沢市のマンションで一人暮らしをしているそうです。
勘坂康弘の夢の残滓の終焉
2011年にスタンドサービスに売却された焼肉酒家えびすは、名前を変え「ヴイ・ブリアン」として営業を再開しましたが、2012年にスタンドサービス資金繰りが悪化し民事再生法を申請。
「ヴイ・ブリアン」も閉鎖されることになり、2015年5月9日に登記簿からも完全消滅。。勘坂康弘がその手腕で拡大した焼肉酒家えびすの残滓さえも、日本から無くなることとなりました。
勘坂康弘の賠償はどうなった?
勘坂康弘は、遺族から食中毒に対し2億円の損害賠償が求められていました。
この訴訟は事件から約7年後の2018年3月13日に決着しており、社長や被害を起した店舗の店長の賠償は認められず、フーズ・フォーラスに対し1億7千万円の支払いを命じる判決がくだされました。
裁判で同社は賠償責任を認めており、社長と店長に責任があるかが焦点だった。鈴木裁判長は事件当時、生肉の提供が禁じられていなかったことや、肉の表面を削り取る国の衛生基準が周知されていなかったことに着目。社長について「国の基準に沿うよう徹底していなくても重過失があったとは言えない」と判断した。店長も「社のマニュアルに従ったに過ぎない」として請求を棄却した。
しかし食中毒の被害者遺族はこの決定に不服とし、改めて勘坂康弘の賠償責任を認めるように控訴しています。まだ焼肉酒家えびす食中毒事件は終わっていないようですね。
焼肉酒家えびす食中毒事件が社会に与えた影響
この事件の以後、多くの焼肉店がユッケの提供を自粛。ユッケのみならず、生レバーなどの提供も見合わされ、焼肉店でユッケを見かけることはほぼ無くなりました。
当時はユッケが無くなったことから、ユッケ風の商品が代替品として色んな場所で販売されていたりという動きもありました。
この項では、勘坂康弘や焼肉酒家えびすでの食中毒が引き起こした社会への影響を見ていきます。
食中毒事件の影響で食用牛肉基準が変わる
この事件を受けて自粛のみならず、生肉を提供する時の基準が厳粛化しました。
勘坂康弘が会見で口にした、「厚生労働省基準での生食用牛肉は、国内では一切出荷されていない」という言葉は、一般人のみならず業界にも大打撃を与えています。
結局の所は業界者が知る暗黙の了解が、表沙汰になった瞬間だったわけですね。
本事件を受け、生食用牛肉の処理に関する基準が2011年10月1日に改定され、腸内細菌科菌群を対象とした微生物検査が義務付けられるとともに、生食用加工設備の完全な区分けや肉塊ごとの設備・器具洗浄、衛生的に密封した肉塊を熱湯などで表面から深さ1cmまでを60℃で2分以上加熱処理するなどの規定が盛り込まれ、原則として有資格者ないしその監督下での処理以外が認められなくなり、食中毒などを起こした場合、営業停止や刑事罰も適用できることとなった。
牛のレバーを提供するには中心温度63℃で30分以上の加熱が必要。
— フランス料理ロドゥラ (@laudelacuisine) March 23, 2019
ただこれでは結構固くなるので、加熱するなら鶏レバーがおすすめ。
鶏レバーを63℃で加熱したものを胡麻油と塩で食べたら結構いけます。
もちろん生レバー感はゼロですが程よい弾力で美味。
ちなみに写真は鶏だけに撮り忘(以下略)
実質的に牛肉ユッケは焼肉店で気軽の頼める商品ではなくなり、高級品となりました。また代替品として桜ユッケ(馬肉)などが台頭したのも、この焼肉酒家えびす食中毒事件がきっかけです。
また、牛の生レバーは2012年7月1日から全面的に提供禁止になり、日本では合法では味わうことはできなくなりました。
この決定以降、牛の生レバーを提供した飲食店店主が逮捕される事件もあり、今は厳罰化されています。その代替品としてユッケと同じく馬肉が使われているようですね。
どうして牛の生レバーが「X」でブタの生レバーが「O」なのか、考えた事ありますか(汗)?そして、我々が外食で口にしているレバーのほとんどはブタのレバーなのです(汗)。
— Taki Inoue Bot@本人公認 (@takiinouebot) March 19, 2019
気軽に食せるユッケはもう帰ってこない
食中毒事件を起した焼肉酒家えびすと社長の勘坂康弘。まだこの事件は完全に終わってはおらず、遺族が控訴しているなど今後も動きが見られる可能性が高いです。
この事実で驚くべきことは、そもそも「食用生肉の提供の基準」が曖昧であったことであり、安全や品質もしっかり確認しないままに、焼肉酒家えびすのみならず各焼肉店で提供され続けていたことだと言われています。
やっぱり美味しいものを食べるにしろ、安全な食品を選んで食べていきたいものですよね。家で調理する時も衛生面はしっかりと確認し、美味しく楽しくお肉ライフを楽しんでいきましょう。