ハプスブルク家の現在とは?末裔に日本人がいるの?歴史も解説!
現在でも世界的に有名なヨーロッパの名門一族、学校の教科書にも出てくるハプスブルク家とは、いったいどんな一族なのでしょうか。ハプスブルク家が大きく発展した理由や現在の生活、日本人に末裔がいるというウワサまで、気になるポイントをまとめて解説いたします。
目次
「ハプスブルク家」ってどんな一族?
日本人の私たちが現在「ハプスブルク家」と聞いて頭に浮かぶイメージには、どんなものがあるでしょう。
「お金持ち」「ヨーロッパの歴史に出てくる一族」「オーストリアの名門」といったワードや、「マリーアントワネット」「エリザベート」といった有名人の名前、「きらびやかな生活」といったところでしょうか。
歴史の教科書や美術の本によく出てくる一族なので、名前くらいは耳にしたことがあるかもしれません。でも、いざ説明しようとしても難しいですよね。現在も末裔が世界中にいるという「ハプスブルク家」とは、一体どんな一族なのでしょうか。
ハプスブルク家の基礎知識
ハプスブルク家とは
オーストリア名門のハプルブルク家、もとはスイスの一貴族にすぎませんでした。しかしルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれたことから、その輝かしい歴史が始まります。
ハプスブルク家はオーストリアへ移住、他国の王家と政略結婚を繰り返し、徐々に領地を拡大、発展させました。スペイン、ハンガリー、フランスへと勢力を拡大したハプスブルク家は、資産を増やし、次第に中央ヨーロッパ全域を支配するようになります。
その後、第一次世界大戦によりハプスブルクの帝国は崩壊。1918年にオーストリア帝国が解体し、共和制になってからはただの一貴族となりました。
しかしハプスブルク家は現在も存続しており、その血統は、何百年もの間絶えることなく、もちろん現在まで連綿と続いています。
ハプスブルク家の「紋章」
ハプスブルク家の紋章は、「双頭の鷲」です。双頭の鷲とは、頭を二つ持つ鷲のこと。主に東ローマ帝国や神聖ローマ帝国、それと関連したヨーロッパの国家や貴族が好んで使用した紋章です。
ハプスブルク家の神聖ローマ帝国、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国ともに双頭の鷲の紋章を採用しています。日本人にはなじみの薄い鷲の紋章ですが、単頭の鷲も含めヨーロッパでは古来から現在までよく使われているシンボルです。
ハプスブルク家の「城」
第一次世界大戦前のハプスブルク家は、オーストリア国内だけでもたくさんの城や宮殿を所有していました。その中でも現在特に有名な宮殿をご紹介します。
一つ目は、「美しい泉」という名を持つシェーンブルン宮殿。ウィーンにはハプスブルク家の宮殿がいくつかありますが、規模は最大級。「マリア・テレジア・イエロー」と呼ばれる黄色い壁面が特徴です。シェーンブルン宮殿は現在、絢爛豪華な大広間、ホール、一族の暮らした部屋など40室が公開されています。
二つ目は、今現在構内に連邦大統領の公邸があるホーフブルグ宮殿。こちらは神聖ローマ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国の宮殿として使用されていました。
そして三つ目、かの有名なマリア・テレジアが譲り受けた歴史ある宮殿、ベルヴェデーレ宮殿。こちらは景色がとても美しく、作曲家ブルックナーが晩年を過ごした邸宅も残っています。現在はオーストリア絵画館、オーストリアで2番目に大きな美術館として使用しています。
ハプスブルク家のココがすごい!
ハプスブルク家の資産
ヨーロッパ随一の名門一族、ハプスブルク家。
ウィーン、プラハ、ブタペストといったヨーロッパ文化を象徴する都市の形成は、ハプスブルク家の資産によると言われていますし、何といってもハプスブルク家の富を象徴するにふさわしい存在、マリー・アントワネットの生活が全てを物語っているのではないでしょうか。
血縁関係によって約650年間王位と財力を確保し続けたハプスブルク家。しかしその資産は、第一次世界大戦に敗れ皇帝の地位を失った際、そのほとんどを没収されてしまいました。敗戦後は、日々の生活にすら困窮した時期があるとも言われています。
ハプスブルク家の生活
ハプスブルク家かつての繁栄の歴史は、オーストリア、ウィーンにある博物館や一般公開されている調度品などから見て取ることができます。
広大な敷地に建つ豪華な宮殿。きらびやかな調度品の数々。当時の庶民はお粥にパンやスープ、野菜や果物を食べて生活していましたが、ハプスブルク家の人々が好んで食べていたのは肉類です。牛、豚、鳥、羊、イノシシなどの肉を燻製にしたりステーキにしたりして食べました。
現在のハプスブルク家はどうなっているのか?
現在のハプスブルク家の当主について
現在のハプスブルク家当主は、カール・ハプスブルク・ロートリンゲン。ハプスブルク家の祖であるフェルディナント1世から数えて18代目に当たります。1993年に、資産家の父を持つフランチェスカ・ティッセン=ボルネミッサと結婚しましたが、現在は別居中です。
現在のハプスブルク家の生活
ハプスブルク家当主のカールは、オーストリア、ザルツブルグ在住。その他の家族は全員ウィーンで生活しています。
家の様子については現在公表されておらず、豪華なお屋敷に暮らしているのか普通の家に暮らしているのかは分かっていません。別居中の妻フランチェスカは、現代美術の収集家・後援者として活動中。息子のフェルディナンドは現在F3のレーサーとして活躍、F1レーサーになる日を期待されているようです。
現在のハプスブルク家の資産
ハプスブルク家現在の資産ですが、残念ながら公表されていません。敗戦でほとんどの屋敷や宮殿を失いましたが、帝位継承権を放棄する代わりにカイザー・ヴィラという別荘を相続しています。カイザー・ヴィラは現在、ウィーンの観光地として人気のあるスポットです。
当主カール・ハプスブルクは1993年の結婚式直後のインタビューで、「ハプスブルク家にはお金がなく、働かなければならなかった」と答えていることから、かつて大きく花開いていたころの資産には遠く及ばないことが予想されます。
ハプスブルク家の現在には日本人の末裔も!?
ハプスブルク家の末裔は世界中にいると言われていますが、もちろん現在日本人にもハプスブルク家の末裔が存在します。彼女のお名前は「鰐淵晴子」さん、職業は女優です。
日本人のバイオリニストである鰐淵賢舟と、ハプスブルク家末裔のひとりであるオーストリア人ベルタの間に生まれました。鰐淵晴子さん自身にも娘さんとお孫さんがいらっしゃいます。まだまだ末裔の歴史は続きそうですね。
ハプスブルク家発展の歴史を分かりやすく解説!
もとはスイスの一貴族だったハプスブルク家。ルドルフ1世が神聖ローマ皇帝に選ばれたのが発展の始まりです。政略結婚により財を築きながら、徐々に他国へと手を広げました。マクシミリアン1世はスペイン王家とハンガリー王家の二重結婚を行い、そこからスペイン、ハンガリーの王位継承権を得ます。
16世紀からはスペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家に分断。オーストリア・ハプスブルグ家は1918年までの約650年、中央ヨーロッパを支配し続けました。
ハプスブルク家が発展した3つの理由
①結婚外交(政略結婚)
ハプスブルク家の繁栄を支えてきたのは、他でもない、彼らの政略結婚に間違いありません。結婚外交とは、政治上の駆け引きを目的に一族の結婚を決めることです。
ハプスブルク家の場合は結婚で他国との同盟を結び、戦争を回避してきました。ブルゴーニュ公国との政略結婚によってオランダを統治、そしてスペイン、ハンガリー、ボヘミアへと結婚外交の手を広げます。
②ハプスブルク家は強運だった
ハプスブルク家が発展していく転換点となったのは、ルドルフ1世。スイスの一貴族に過ぎなかった彼が神聖ローマ皇帝に選ばれたのが、ハプスブルク家最初の強運です。その後、フリードリッヒ3世はポルトガル王女との結婚で莫大な持参金を得ました。これが一度傾いたハプスブルク家の経済状況を好転させましたが、もちろん運はそれだけではありません。
発展のため政略結婚を進めてきたハプスブルク家ですが、なんと結婚先の家が断絶、そのため王位が譲渡されるという幸運が連続します。まさに強運一族と呼べるのではないでしょうか。
③ハプスブルク家は多産
政略結婚で発展してきたハプスブルク家ですが、繁栄した理由は「結婚」だけではありません。ハプスブルク家の繁栄を裏で支えてきたのは彼らの「多産」家系です。政略結婚のわりに夫婦仲が円満で、子宝に恵まれました。ハプスブルク家の中でも有名なマリア・テレジアは、なんと18年間で16人もの子供を産みます。
しかし彼女だけが例外というわけでははありません。フェルナンド1世と皇后アンナ、マクシミリアン2世と皇后マリアなど、10人以上子供がいた夫婦が数多くいました。
ハプスブルク家の結婚外交には問題点も
近親結婚で遺伝子に問題
近親結婚とはその名の通り近しい親族の間での結婚、たとえば異母兄弟やいとこ同士で結婚すること。日本人にも近親結婚の習慣は昔からありました。
現在は常識ですが、親戚同士から生まれた子供には一族で共通する遺伝子の問題が表に現れやすくなります。たとえば母親に目が見えなくなる可能性の高い遺伝子があったとしても、父親の遺伝子によってカバーできるので目が見える子供が生まれます。しかし、同じような遺伝子を持つ近親で子をなした場合、この「目が見えなくなる可能性」をカバーできません。
ハプスブルク家は、これを繰り返しました。一族の「血の濃さ」を優先したからです。
障害をもつハプスブルクの人々も
近親結婚を繰り返したハプスブルク家には、障害を持つ子供がたくさん生まれました。虚弱体質で小さいうちに亡くなってしまったり、精神障害から感情がコントロールできなかったり、上手く言葉を話せなかったりしました。ある世代以降では、あごがしゃくれている人が多かったと言われています。これは「下顎前突症」という病気で、ひどくなると上下の歯がかみ合わず、咀嚼が上手くできません。
ハプスブルク家最後の王カルロス2世は、体が不自由で知的障害もありました。子どもをつくれるような体ではもちろんありません。39歳の若さで亡くなり、ハプスブルク家の本家はここで終わりを迎えます。
ハプスブルク家は現在もヨーロッパで影響力のある一族である
本家は断絶したハプスブルク家ですが、分家ロレーヌ家の血は現在も続いています。ロレーヌ家は、マリア・テレジアがご先祖さまです。現在ハプスブルク家はオーストリアでも王位を放棄していますが、実はヨーロッパでの政治的影響力は未だ衰えてはいません。
現在の当主カールの父オットーは、ハンガリー王・ボヘミア王を名乗り続けていましたし、オットーの兄弟の中には他国で王位継承権を保持している人もいます。ハプスブルク家の人々は、現在も未だ君主制復活への希望を失なわずにいるということですね。