日本赤軍とは?事件詳細や目的・メンバーの現在までわかりやすく解説

無差別自爆テロ、ハイジャック、大使館占拠――。テロのセオリーを世界中に次々と提示していった昭和の危険組織「日本赤軍」。令和新時代の日本人がいま振り返るべき「日本赤軍」の歴史を、成立の経緯、メンバーのプロフィール、数々の事件など、わかりやすく詳細にまとめました。

日本赤軍とは?事件詳細や目的・メンバーの現在までわかりやすく解説のイメージ

目次

  1. 1【特集・日本赤軍】①成立までの道のり
  2. 2【特集・日本赤軍】②次々と繰り出した国際テロ
  3. 3【特集・日本赤軍】③日本赤軍の終焉とその後
  4. 4日本赤軍を振り返って――現代政治とのつながり

【特集・日本赤軍】①成立までの道のり

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かつて、「日本赤軍」と名乗る国際テロリスト集団が存在しました。彼らは、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と活動を共にしながら、世界革命戦争を引き起こして格差社会を生み出す資本主義国家や労働者を奴隷のように扱う社会主義独裁国家を根こそぎ打倒していくという、あまりにも現実離れした目標を掲げていました。

昭和史に拭いきれない汚点を残した日本赤軍。「平成」から「令和」へと元号が切り替わるなか、日本赤軍の過去をいま一度振り返っておくべきタイミングが来ています。日本赤軍とは何だったのか、彼らの歩みを詳しく見ていくことにしましょう。

日本赤軍(にほんせきぐん、英語: Japanese Red Army)は、1971年から2001年まで存在した日本の新左翼系団体、世界同時革命を目指した武装集団。
日本革命を世界革命の一環と位置付け、中東など海外に拠点を置き、1970年代から1980年代にかけて多数の武装闘争事件(日本赤軍事件)を起こした

「国際根拠地論」と世界革命戦争

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そもそも日本赤軍とは、何を目的とした組織だったのでしょうか。

日本赤軍は、元々マルクス主義革命をめざす学生運動組織「共産主義者同盟」の中から、武力革命を訴えた「赤軍派」が現れ、その考えに共鳴した若者たちが集まってできた組織です。

マルクス主義とは、労働によって生み出される資本を社会で共有し、格差のない平等社会を目指した考え方です。60年代から70年代前半にかけての学生運動は、このマルクス主義を中心に渦巻き状に広がったものと捉えることが出来ます。

そんな日本赤軍の歩みを振り返るために、まずは時計の針を1971年に戻したいと思います。場所は中東の国「レバノン」のベッカー高原。二人の若き映画監督が、ある日本人女性を訪ねてレバノンに渡航したところから始まります。

若松孝二と足立正生のPFLP取材

昭和46年(1971年)、それまでピンク映画の制作が主だった映画監督・若松孝二は、若松プロダクションの盟友・足立正生と共に、60年代末に東京・新宿で知己の間柄になっていた女性活動家・重信房子を訪ねてレバノンへ渡りました。

重信房子は当時、婚姻関係にあった奥平剛士らと共に、レバノン・ベッカー高原でパレスチナ人民解放戦線(PFLP)の軍事演習に参加し、「世界革命戦争」に向けた武装蜂起の機会を窺っていたのです。

『赤軍――P.F.L.P 世界戦争宣言』

若松と足立は、重信・奥平グループの現地での様子を密着取材し、『赤軍――P.F.L.P 世界戦争宣言』というタイトルのドキュメンタリー映画を制作しました。若松と足立は帰国後、「赤バス隊」と銘打った映画宣伝キャンペーン隊を組織し、上映行脚の旅に出ます。

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25歳の重信房子が語った"世界革命戦争"

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『赤軍――P.F.L.P 世界戦争宣言』の中でインタビューを受けた重信房子は、パレスチナに渡った赤軍派グループの活動について語りました。

「赤軍派が69年に出した『前段階蜂起』というのは(中略)現実に闘争を媒介するということであり、ゲリラ闘争をして螺旋(らせん)的に上り詰めるということだと思う」

「世界革命戦争に上り詰めようとする実態っていうのは、世界の戦争派、世界の革命派が同時に軍事を共有すること、それは共同行動、共同軍事闘争として為されなければならない」

前段階(武装)蜂起
国家権力や民間権力に対してゲバ棒を振りまわしても一時的に騒乱状態を起こすだけで意味がなく、革命を成就させるには実際に武装して爆弾や銃で戦うべき、という考え方。

渡航のきっかけは塩見孝也の逮捕と「よど号事件」

それにしても、なぜ重信房子はレバノンに渡り、パレスチナ人民解放戦線のもとで武装蜂起の準備をしていたのでしょうか。

その理由は、日本国内の学生運動が危険視され、踏み込んだ活動が困難な状況になりつつあったからです。特に大きな原因として、共産主義者同盟赤軍派のカリスマ的リーダー・塩見孝也の逮捕と、「よど号ハイジャック事件」の事実上の失敗が挙げられます。

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塩見孝也を失った赤軍派は、塩見が「大菩薩峠事件」失敗後に計画していた「フェニックス作戦」(よど号ハイジャック事件)に倣って、「PBM作戦」を計画。

Pはペガサス作戦(塩見孝也の奪還)、Bはブロンコ作戦(日米の政治の中枢を占拠する同時テロ)、Mはマフィア作戦(金融機関強盗によって活動資金を得る)のことで、このうちマフィア作戦のみ7回実行されました。

国際根拠地論
資本主義先進国の階級闘争(格差社会闘争)、第三世界の民族解放闘争、社会主義「労働者国家」の官僚独裁体制打破の3つを同時に行って世界共産主義革命を起こすために、小国である「労働者国家」を説得して革命の本拠地にするという考え方。

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よど号メンバー メモ
田宮高麿(27) 95年死亡。妻は森順子。
小西隆裕(26) 妻・福井タカ子は日本に帰国。
岡本武(25) 88年落盤事故で妻・福留貴美子と共に死亡。
田中義三(22) 07年死亡。妻・水谷協子は拉致被害者・有本恵子さんの教育係。
安部公博(22) 妻・魚本民子は日本に帰国。
若林盛亮(23) 妻は黒田佐喜子。
赤木志郎(23) 妻・金子恵美子は日本人拉致事件の関与が疑われている。
吉田金太郎(20) 死亡時期不明。76年より前に粛清された可能性が高い。
柴田泰弘(17) 2011年に病死。元妻は八尾恵。

よど号グループは北朝鮮に亡命後、77年までの間に9人中8名が、北朝鮮に入国していた日本人女性と結婚しました。妻たちはのちに「よど号妻」と呼ばれ、単なる配偶者にとどまらず、北朝鮮による「日本人拉致事件」に関与する者さえいました

日本人拉致事件に関与か――よど号妻たちの疑惑

たとえば田宮高麿の妻・森順子と、若林盛亮の妻・佐喜子(旧姓黒田)は、スペイン・マドリードでの日本人男性拉致事件(松木薫さん、石岡亨さん)の拉致実行犯として国際指名手配中です。

柴田泰弘の元妻・八尾恵は、横須賀市内のスナックで北朝鮮のスパイ活動をしていた罪で逮捕されました。また、八尾は有本恵子さんの拉致事件について関与を自白するも、証拠不十分でこの件については不起訴となっています。

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ウェブサイトで発信し続ける「よど号グループ」

平成29年(2017年)11月末、よど号グループおよびその妻たち6名は、自分たちの活動の回想や国際情勢・日本政治に対する評論を発信するウェブサイト「ようこそ、よど号日本人村」を開設しました。

のちの浅間山荘事件や日本赤軍事件に大きな影響を与えた「よど号事件」の犯人や、いまだに解決していない「日本人拉致事件」の関与を疑われている人物が、こうしたウェブサイトで意見発信をしていることについて、日本国内では厳しい意見を寄せる声が後を絶ちません。

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サイトでは、メンバーによる国際情勢や日本政治に関する評論などを掲載。しかし内容は「よど号事件に大義はなかった」と認めたり、皇室への敬意や民族愛を語ったりと、一般的にイメージされる「極左兵士」の姿からはほど遠い。

帰国したいから反省したフリでアピールですか、しらんがな。
URLも「よど号日本人村」とかいう名称みても、乗っ取ったよど号の名前を使わなければ自らの存在を説明できない程度の薄っぺらさ。
君らに「よど号」ってくくりで呼ぶのは被害受けた側なり第三者がすること。https://t.co/wy60MusHji
— しがない有権者 (@tabeyuken) 2017年12月29日

国際根拠地論の継承――重信房子と奥平剛士

具体的な行動を起こし、日本政府を手玉に取って北朝鮮への亡命を果たす――。昭和45年(1970年)の「よど号ハイジャック事件」は、赤軍派や全国各地の過激派活動家に多大な影響を与えました

しかし、よど号グループのメンバーは、その後ピタリと消息を絶ちます。重信房子はこの状況に焦りました。

赤軍派の多くは逮捕されて「森恒夫体制」に

さらに重信房子にとって頭の痛い問題が生じていました。極度の人材不足に陥っていた赤軍派は、70年6月に、重信の親友・遠山美枝子の夫であった最高幹部・高原浩之が逮捕され、いよいよ組織が壊滅的危機に瀕してしまったのです。

この状況で赤軍派のリーダーになっていったのが、よど号犯・田宮高麿に師事していた森恒夫でした。森は「成田闘争」(成田国際空港建設をめぐる政府と地域住民の争いに新左翼過激派が介入していた)で地道な成果を上げ、次第に発言権を増していましたが、元々は敵前逃亡をして赤軍派を離脱していた人物でした。

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「国際根拠地」の新候補としてレバノンを選んだ重信

「北朝鮮はオルグ(洗脳勧誘)できない。そして赤軍派は、人望のない森恒夫が主導するようになってしまった――」。そこで重信房子は、国内での活動をあきらめ、パレスチナ紛争の拠点レバノンを新たな活動拠点にしようと決意しました。

レバノンには、パレスチナ人民解放戦線(PFLP)という武装集団が存在し、アメリカやイギリスら資本主義陣営の支えのもとに成立していたイスラエルと、たびたび武力衝突を起こしていました。重信は彼らと共闘することが出来れば心強い、と考えたのです。

出国パスポートを取得するため、奥平剛士と結婚

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重信は、かねてよりその活動ぶりを耳にしていた京大パルチザンの奥平剛士と面会。奥平の人間性に彼女の人生の同志となり得る可能性を見出したこともあって、公安警察の目をくぐり抜けて出国するために、奥平剛士と結婚して戸籍を奥平姓に変えました。

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重信房子と結婚した奥平剛士は、一足先にレバノンに向けて出国。数日後の1971年2月28日、今度は重信房子が日本を旅立ちました。

明治大学夜間部の頃から活動を共にしてきた親友・遠山美枝子が、重信房子の出国を見送りました。遠山はこのとき、まさか1年も経たないうちに自分自身がおぞましい悲劇の犠牲者になることなど、知る由もありませんでした。

重信グループに合流した"もう一人のキーマン"

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レバノンでの重信・奥平グループの活動を密着取材し、『赤軍――P.F.L.P 世界戦争宣言』を制作した若松・足立は、真っ赤な車体のマイクロバス「赤バス」に乗り込んで全国上映ツアーを実施。鹿児島大学での上映会で、ある人物と出会います。のちに「テルアビブ空港乱射事件」を起こし、パレスチナの英雄となる岡本公三です。

よど号犯・岡本武を崇拝する弟――岡本公三

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岡本公三の兄は、よど号ハイジャック事件の犯人・岡本武でした。公三は幼いころから兄・武を尊敬し、友人との会話でもそのほとんどが兄の話だったというほど、兄を崇拝していました。

そんな兄・武が、よど号を乗っ取って北朝鮮に渡った――。この出来事に、岡本公三は心を躍らせていました。自分が岡本武の弟であることを隠そうとせず、むしろ積極的に周囲に誇ってみせるほどだったといいます。

元日本赤軍・岡本公三とは?|生い立ち、テルアビブ空港乱射事件など - 事件情報ならShiritaGirl

赤バス隊に合流、そしてレバノンへ

岡本公三は、『赤軍――P.F.L.P 世界戦争宣言』を見て、即座に赤バス隊に合流。翌72年2月29日、連合赤軍が浅間山荘事件で制圧された翌日に、奥平・重信グループに合流するため、日本を出国しました。

【特集・日本赤軍】②次々と繰り出した国際テロ

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昭和47年(1972年)5月30日、奥平剛士・安田安之・岡本公三の3名は、イスラエル・ロッド国際空港で無差別自爆テロを敢行しました。世に言う「テルアビブ空港乱射事件」です。

この事件を機に、重信房子はパレスチナ人民解放戦線(PFLP)と共同声明を出し、「日本赤軍」の誕生を声高らかに宣言しました。

偽装結婚とはいえ心から尊敬していた奥平剛士の死は、遠山美枝子の死(山岳ベース事件)と同様に、決して癒えることのない心の傷をもたらしたはずです。しかし重信房子には、彼女が歩んだ道を引き返す選択肢はありませんでした。

テルアビブ空港乱射事件(1972)

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テルアビブ空港乱射事件 1972年5月30日発生
実行犯 奥平剛士、安田安之、岡本公三
目的 PFLP「サベナ機ハイジャック事件」の報復テロ
結果 26名殺害、73名重軽傷。奥平、安田は死亡。岡本は逮捕される。

パレスチナ人民解放戦線(PFLP)は、イスラエルに逮捕されている仲間317人の解放を要求するために、サベナ航空572便ハイジャック事件を起こしました。

しかしこの作戦は返り討ちにあい、犯人2名が死亡、2名が逮捕される結果となります。そこでPFLPは報復テロを計画。警戒されない人物を起用することになり、ベッカー高原で訓練中だった奥平剛士ら3名の日本人が実行役に指名されます。

奥平・安田は自爆。岡本は自爆失敗で逮捕される

浅間山荘事件で壊滅した国内赤軍派のありさまに憤っていた奥平剛士は、「死んでオリオンの星になろうじゃないか」と安田、岡本に言い聞かせ、自爆テロへと突き進んでいきました。

奥平剛士、安田安之は手榴弾を顎の下に当てて爆死。顔と指をすべて吹き飛ばすことで、証拠をなくす狙いがありました。しかし岡本公三は旅客機に手榴弾を投げつけ、燃え盛る炎の中に飛び込む方法を選び、失敗。その場で逮捕され、日本人グループの犯行であることが判明したのです。

岡本は厳しい拷問を受けるも、パレスチナの英雄に

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イスラエルの特殊諜報機関「モサド」による激しい拷問により、統合失調症を患うなどした岡本公三でしたが、さまざなま政治的事情からイスラエル当局は岡本を死刑に出来ませんでした。のちに捕虜交換という形で解放され、岡本はレバノンに政治亡命しました。

パレスチナでの岡本の人気は絶大で、岡本が街を歩くと、いつの間にか人々が岡本について回り「コーゾーコール」が発生するなど、彼は日本からやってきたパレスチナの同志として英雄視されています。

ドバイ日航機ハイジャック事件(1973)

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ドバイ日航機ハイジャック事件 1973年7月20日発生
実行犯 丸岡修、PFLPメンバー4名
目的 岡本公三の奪還、身代金40億円
結果 目的果たせず、リビアで旅客機を爆破

テルアビブ空港乱射事件で逮捕された岡本公三の奪還のために、日本赤軍・丸岡修とPFLPメンバー4名が、パリ発アムステルダム、アンカレジ経由羽田行きの日本航空404便をハイジャック。乗客の身代金40億円と岡本公三の釈放を要求しましたが、聞き入れられず。

丸岡は旅客機を急遽、リビアに向かわせ、着陸後に乗員・乗客を全員降ろした後、旅客機を爆破(指紋等の証拠隠滅が目的か)。リビア政府の助けを受けて逃亡しました。

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シンガポール事件(1974)

シンガポール事件 1974年1月31日発生
実行犯 和光晴生、山田義昭、PFLP2名
目的 ベトナム戦争・石油供給基地の爆破
結果 爆破成功。シージャック事件を起こす。

シンガポール・ブクム島にて、ベトナム戦争の石油供給基地として使われていた米石油メジャー「ロイヤル・ダッチ・シェル」の石油施設をプラスチック爆弾で爆破。ベトナム戦争への抗議、資本主義陣営への攻撃、ベトナムゲリラ組織との連携強化と、複数の目的を同時に果たすテロでした。

犯行グループは逃走に失敗し、やむを得ず船を強奪(シージャック)。乗組員5名を人質に、シンガポール警察との膠着状態に陥りました。

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在クウェート日本大使館占拠事件(1974)

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在クウェート日本大使館占拠事件 1974年2月6日
実行犯 PFLP5名
目的 シンガポール事件実行犯の救出
結果 南イエメン政府の協力で逃亡に成功

シンガポール事件を起こして、シージャックの末、現地警察と膠着状態に陥った和光・山田両日本赤軍メンバー。彼らを窮地から救おうと、日本赤軍が次なる手を繰り出します。

シンガポール事件発生から7日目の74年2月6日、PFLPを名乗る5人組が、クウェート市内にある日本大使館を急襲。そのまま占拠に至り、大使館員12名を人質にとって、シンガポール事件の犯行グループの国外出国(武装は維持したままで出国)を要求しました。

日本政府が日航機をシンガポールに派遣

在クウェート日本大使館が占拠されたことで、シンガポール事件は状況が一変。日本政府は急遽、日航機をシンガポール・チャンギ国際空港に派遣。現地で武装したままの犯行グループ4名と日本政府関係者を乗せ、クウェート国際空港に向かいました。

クウェート国際空港で大使館占拠グループが合流。パレスチナ解放機構(PLO)関係者やクウェート当局の立会いのもと、武装解除して南イエメンのアデンに向かい、そこで「形式的に」投降。その後、両事件のメンバーは南イエメン政府の黙認のもと、逃亡に成功しました。

ハーグ事件(1974)

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ハーグ事件 1974年9月13日発生
実行犯 奥平純三、和光晴生、西川純
目的 山田義昭の奪還
結果 仏政府の超法規的措置で山田が釈放

74年7月26日、山田義昭がパリ=オルリー空港で偽造旅券および偽造紙幣所持の疑いで逮捕されました。山田は、フランス警察の取り調べの中で、日本赤軍の次なるテロ計画について自供。これを知った日本赤軍が、山田にこれ以上喋らせまいと、急遽、山田奪還作戦を計画しました。

同年9月14日、オランダ・デン=ハーグの在蘭フランス大使館を襲撃し、占拠。大使ら11名を監禁し、身代金100万ドルと山田義昭の釈放を要求。交渉の末、オランダ政府が身代金30万ドルを払い、フランス政府が山田義昭を超法規的措置で釈放しました。

事件後、実行グループは30万ドルの身代金を含む携行品すべての放棄を条件に、"形式的に"シリアに投降しました。

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クアラルンプール事件(1975)

クアラルンプール事件 1975年8月4日
実行犯 丸岡修、奥平純三、和光晴生、日高敏彦、山田義昭
目的 赤軍派メンバーの7名の奪還
結果 西川純、戸平和夫、坂東國男、松田久、佐々木規夫が釈放

1975年8月4日、日本赤軍メンバー5名による武装集団が、マレーシアの首都のクアラルンプールにある、米国大使館とスウェーデン大使館を襲撃・占拠し、アメリカの総領事ら52人を人質に取りました。

犯行グループは日本国内で服役または拘置中の7人(西川純、戸平和夫、坂東國男、松田久、佐々木規夫、坂口弘、松浦順一)の釈放を日本政府に要求しましたが、坂口と松浦はこれを拒否。日本政府は、5名の活動家を超法規的措置として釈放しました。

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ダッカ日航機ハイジャック事件(1977)

ダッカ日航機ハイジャック事件 1977年9月28日発生
実行犯 丸岡修、坂東國男、西川純、佐々木規夫
目的 日本で服役および勾留中の9名の釈放
結果 奥平純三、城崎勉、大道寺あや子、浴田由紀子、泉水博、仁平映が釈放

1977年9月28日。その日は、日本赤軍のカリスマリーダー・重信房子の誕生日でした(当時32歳)。この日、日本赤軍はパリ=シャルル・ド・ゴール空港発、ギリシャ、エジプト、パキスタン、インド、タイ、香港経由東京行きの日本航空472便をハイジャックしました。

旅客機はバングラディシュの首都ダッカにあるジア国際空港に着陸させられ、日本赤軍は人質の身代金として600万ドル、さらに日本で服役および拘留中の9名の釈放を要求します。

福田赳夫首相は「人命は地球より重い」として犯人グループの要求を呑み、日本赤軍の合流を拒絶した3名を除く、奥平純三ら6名の超法規的措置による釈放と身代金の支払いを決定したのです。

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「ダッカ事件」以降の日本赤軍事件

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「ダッカ日航機ハイジャック事件」以降、日本赤軍の活動は困難を極めることになりました。

世界各地で日本赤軍の犯行をモデルにしたテロが起き始め、各国の警戒態勢が強化されたと共に、日本赤軍の思想が「時代遅れ」となりつつあったこともあり、資金集めが窮迫していったのです。これ以降、日本赤軍のテロ活動は単独犯による妨害テロに変化しました。

1986年のジャカルタ事件では、在インドネシア米国大使館と日本大使館にロケット弾が撃ち込まれ、発射されたホテルの部屋から城崎勉の指紋が採取されたことで、城崎の犯行と判明。

1987年にはローマ事件が発生。ヴェネチア・サミット開催中にローマの米国大使館、イギリス大使館にロケット弾が撃ち込まれ、カナダ大使館の車が爆破されました。この事件では、レンタカーから採取された指紋が奥平純三のものであったため、奥平の犯行だと断定されています。

【特集・日本赤軍】③日本赤軍の終焉とその後

日本赤軍のリーダー・重信房子の現在

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1971年、映画監督・若松孝二は、かねてより知己の間柄だった重信房子を訪ねて、レバノンを訪れました。それからわずか6年の間に、重信房子は世界中のテロリスト集団に影響を与えることになった「日本赤軍」のリーダーとして、数々のテロ活動を支えていきました。

おそらく彼女の才覚は、一企業の経営者としても、あるいは政治家としても、その他さまざまな分野においても、どこでも成功できるほどの器量があったと言えるでしょう。彼女には学生運動の同志や文化人だけでなく、公安警察の刑事をも惹きつける人間的魅力があったのです。

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2000年11月8日、日本国内で逮捕された重信房子は、翌年に日本赤軍の解散を宣言しました。現在はがん闘病のため、東日本成人矯正医療センターにて懲役20年の刑で服役しています。

重信房子は、日本赤軍の解散宣言後、日本赤軍として活動していた当時について、著書や知人への手紙の中で回想しています。

「アラブの地域的正義に、私が普遍的正義だと一面を見ていたあやまりがあった」と振り返る重信房子ですが、いまから数年のうちに出所する予定となっており、そのカリスマ性の再発揮を危惧する声もあります。

日本赤軍草創期メンバー・岡本公三の現在

重信房子には日本国内でのカリスマ性を危惧する声がありますが、元日本赤軍メンバーにはもう一人、パレスチナ情勢に少なからぬ影響力をもっている岡本公三という存在があります。

現在、レバノンで静かに余生を送っている岡本公三ですが、パレスチナ人の間では絶大な人気があり、国際手配の身の上とはいえ、岡本公三を日本に帰国させて再逮捕する動きはいまのところありません。

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自分名義の口座を第三者が使うため不正に開設したとして、兵庫県警警備部などは21日、詐欺容疑で、左翼系新聞を発行する「人民新聞社」(大阪府茨木市)社長、山田洋一容疑者(60)=兵庫県尼崎市南塚口町=を逮捕した。関係者によると、口座は日本赤軍メンバーで国際指名手配されている岡本公三容疑者(69)の支援団体が使用。口座に入金された約1千万円のほぼ全額が、岡本容疑者が亡命したレバノンで引き出されていた。

その他・元日本赤軍の現在

NAVER まとめ

岡本公三を除く6名の元日本赤軍メンバーは、いまだに所在がつかめておらず、その生死さえ不明です。しかし、この状況は誰かの協力なしには生まれてきません。何者かによる手厚い保護下にあるか、すでに死亡しているかのどちらかだと推測できます。

特に「東アジア反日武装戦線」メンバーでもあった佐々木規夫や大道寺あや子などは、いまもなお、その思想を現在の国内政治に反映させるべく活動している可能性すらあるのです。

日本赤軍を振り返って――現代政治とのつながり

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日本赤軍の歴史は、そもそも「マルクス主義思想」に原点があります。現代政治家の多くがこの影響下で育ち、思想形成していった事実を考えるとき、この思想から分派した過激派「日本赤軍」の過去は、現代政治に少なからぬ影響を与えていると見ていいでしょう。

血気にはやる若者たちの蹉跌(さてつ)――。こう考えれば話は単純なように見えなくもありませんが、日本赤軍問題はもっと複雑で、あらゆる政治勢力に利害を生じさせるセンシティブな問題なのです。

令和新時代を迎え、昭和の記憶はどんどん薄らいでいきますが、「アーカイブの時代」とも呼ばれる平成を経験した私たちには、日本赤軍の過去を簡単に振り返ることのできる映像記録も多数残されています。この機会に、日本赤軍を検索チェックしてみてはいかがでしょうか。

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