【砂川事件とは?】最高裁判決や関連事件などわかりやすく解説!

砂川事件は、昭和時代に米軍基地の拡大に反対する住民運動・砂川闘争の中で起きた出来事です。反対運動中にデモ隊の4名が米軍基地の領域に侵入したとして起訴されました。無罪判決が一転して有罪となるなど、裁判の判決に疑惑の声が上がった事件として知られています。

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目次

  1. 1砂川事件とは?
  2. 2砂川事件における主要な人物
  3. 3砂川事件の詳細
  4. 4砂川事件の裁判における論点
  5. 5砂川事件が終わった後の動向
  6. 6砂川事件を知った世間の声
  7. 7砂川事件に関係する事件・訴訟
  8. 8事件を風化させないためにも

砂川事件とは?

昭和毎日

砂川事件のあらすじ


砂川事件は、東京都砂川町近辺にある立川米軍基地の拡張に抗議するデモ隊が起訴された裁判です。事件となる以前から砂川闘争として、米軍基地の拡張に反対する住民運動が行われていました。

1957年(昭和32年)7月8日に、特別調達庁東京調達局(当時あった軍に必要な施設の工事や管理をする局)が拡張のための強制測量を行ったとき、抗議する住民のデモ隊が米軍基地の立ち入り禁止で設けていた境界柵を壊して基地内に侵入してしまいました。

そのことで、日米安全保障条約に基づく刑事特別法違反として、デモ隊の中で7人が起訴された事件です。その後に起こる安保闘争・全共闘運動などの学生運動の原点となった出来事とも言われています。
 

砂川事件の原因となった在日米軍立川飛行場

駐屯地の歴史


在日米軍立川飛行場は、砂川事件の原因となった基地です。立川飛行場はもともと大正時代の1922年につくられ、陸軍航空部隊の中心となる拠点でした。敗戦後はアメリカに取られ、資材や空軍の輸送に使われました。

1954年には旅客用のターミナルも設けられ、物資や兵士、軍の旅行者のみならず、民間のチャーター機も立川飛行場を利用していたと言われています。しかし、立川飛行場は両端が狭く、大型航空機やジェット機の着陸が困難だったため、米軍は日本に利便性の追求から基地の拡張を要請しました。

ですが、地域住民の反発による砂川事件が起こり、基地の拡張計画は停滞し、上手くいかないまま時間が経過する結末となっています。
 

裁判で争点となった日本国憲法第9条

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日本国憲法第9条の内容を簡単にまとめると、平和のために戦争を放棄し、あらゆる戦力の保持を一切しない、戦争する権利も放棄するということを定めた条文となります。

砂川事件では、米軍が日本に駐留することは戦力の保持に当たるという判断が裁判でされています。しかし、最高裁では一転して米軍の駐留は憲法違反に当たらないという解釈が提示され、一審の判決はなかったことにされました。

砂川事件の数十年後には、裏でアメリカの意向が絡んでいることが判明しています。司法の独立性を放棄し、アメリカに媚びへつらう様子が世間に浮き彫りとなり、批判の声が多く上がりました。
 

砂川事件における主要な人物

昭和毎日

砂川事件一審の裁判長判事・伊達秋雄


伊達秋雄は砂川事件の一審で裁判長判事を務めた人物です。一審の判決で砂川事件において、伊達判決を下した人として知られています。大分県出身の男性で、学生時代は当時の学校教育で行われた軍事教練を拒否したり、従わなかったことがあったそうです。

大学は京都帝国大学(現在の京大)を卒業し、1933年に判事になっています。1942年に満州国の司法部刑事司参事官になったとき、不当に拘束され強制労働を課せられていた中国人らを次々と釈放したという逸話があるそうです。

砂川事件の裁判の後、1961年には弁護士として開業したり、法律事務所と法政大学法学部教授を担うなどの活動を行っていました。
 

伊達は「日本に戦力がないから、米国の戦力で日本を守ろうというならば、従来の武力によって国を守ろうという考え方と少しも変わらない。これは日本国憲法が掲げる平和主義の高い理想に反する」と語っている

駐日アメリカ合衆国大使ダグラス・マッカーサー2世

在日米国大使館・領事館


ダグラスマッカーサー2世はアメリカの外交官です。連合国最高司令官で知られるダグラス・マッカーサーの甥にあたります。駐日大使は1957年1月~1961年3月まで務めていました。

駐日大使に就任したころ、当時の駐日米軍が日本人を殺害する事件を起こすなど、日本との関係の悪化が懸念されていました。日本人の反米化を危惧したマッカーサー2世は、基地の縮小や不平等さが指摘されていた安全保障条約の改定を提案しています。

砂川事件では、秘密裏に裁判への介入を行っていたことが明らかになっていますが、上記のような危機感によるものという見方も考えられるそうです。
 

砂川事件一審判決(被告無罪)が日米関係に及ぼす影響を危惧し、判決を破棄させるための跳躍上告をするよう日本政府に勧めていたことが判明したが、これも上記のような対日認識の反映であったと理解する見方もある(当時「日本政府は社会党が新たに司法を尊重せよと騒ぎたてていることを必ずしも不快に思っていない。というのは日本政府は 『社会党の司法尊重』 が最高裁の段階になったときブーメラン効果をあげることを期待しているからだ」と国務省宛てに訓電を打ったと伝わる)。安保闘争が激化した際には、反対運動が東側陣営の指導下・影響下にあるものと分析し、当時の岸信介総理や藤山愛一郎外相、吉田茂前総理など賛成派との接触を密にする一方、反対派との接触や対話を極力避ける路線をとった。

一審の無罪判決をひっくり返した裁判官・田中耕太郎

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%80%95%E5%A4%AA%E9%83%8E

田中 耕太郎(たなか こうたろう、1890年(明治23年)10月25日 - 1974年(昭和49年)3月1日)は、日本の法学者、法哲学者。東京帝国大学大学法学部長、第1次吉田内閣文部大臣、第2代最高裁判所長官、国際司法裁判所判事、日本学士院会員。日本法哲学会初代会長。文化勲章、勲一等旭日桐花大綬章を受章。大勲位菊花大綬章を没後叙勲[1]、正二位を追贈された。
 


田中耕太郎は鹿児島県鹿児島市出身の男性です。1915年に東大を首席で卒業し、内務省に勤務しますが、1年半で退官し、東大の教授になります。

その後議員職を経て、1950年に最高裁判所長官に就任しています。閣僚経験者が最高裁判所の裁判官となった唯一の例と言われ、在任期間は3889日で歴代1位とのことです。

もともと無教会主義キリスト教の信仰者でしたが、結婚した妻の峰子の影響でカトリックに改宗しています。また、法学・法哲学から紀行文など多岐にわたる多くの書籍を執筆しており、晩年には功績が評価され、海外や国内からたくさんの勲章が送られています。
 

砂川事件の詳細

砂川事件の裁判・第一審では無罪判決(伊達判決)

昭和毎日


1959年(昭和34年)3月30日に下された砂川事件の判決では、デモ隊は無罪でした。裁判長がまず初めに示した見解は、そもそも米軍が駐屯しているのは、日本国憲法の戦力保持をしないという規定に違反するもので違憲である、ということです。

そのため、被告人らへの日米安全保障条約に基づく刑事特別法の罰則の適用は、日本国憲法に規定するデュー・プロセス・オブ・ロー規定に反した不適切なもので、被告人全員は無罪である、という判断を裁判長の伊達秋雄は下しました。

この判決は伊達判決と呼ばれ、当時の人々の間で話題となりました。
 

「東京地裁の伊達判決は、政府内部でもまったく予想されておらず、日本国内に当初どきっとさせるような衝撃を広げた」―。

デュー・プロセス・オブ・ロー規定


デュープロセスオブロー規定とは、罰則を受ける・与えるとき、適正な法的手続きに則った行為で行う必要があることを指しています。名称が長いためデュー・プロセスと呼ばれることが多いです。

この規定はどんな人でも訴訟の通達を受け取り、弁解する機会を与えられ、判決を受ける権利があり、適正な手続きもなく個人の財産などを奪ってはならないことを意味しています。

日本国憲法では第31条に、どんな人であっても、法律に規定した手段でなければ、生命・自由のはく奪、刑罰を与えることをしてはいけないという旨の条文が定められています。
 

検察側は無罪判決を受けて最高裁判所へ跳躍上告


跳躍上告とは、一審の判決を不服とし、いきなり最高裁判所に判断を仰ぐ制度のことです。跳躍上告が行えるのは、法律問題の場合だけで、事実の審議は一審または二審で確定したものとみなされます。

砂川事件の一審の判決を受けた検察側は、すぐに跳躍上告を行いました。跳躍上告が即時に行われた背景には、当時の駐日アメリカ合衆大使のダグラス・マッカーサー2世が絡んでいたとされています。
 

最高裁判所の判断は砂川事件の無罪を破棄・差戻し

昭和毎日


検察側からの跳躍上告を受けた最高裁判所は、1959年12月16日の判決で次のような結論を出しました。

憲法第9条が禁止する日本国の戦力保有は、あくまで日本が指揮・管理できる戦力に限ったもので、アメリカ軍の駐留は戦力の保有に該当しない。また、日米安全保障条約のような高度な政治性を帯びる条約に関しては、明らかな違反とわかる確証がない限りは、違憲かどうかの法的判断をすることはできない。

当時の裁判長・田中耕太郎長官は上記のような判断を下し、砂川事件一審の無罪判決を破棄し、地方裁判所へ差し戻しました。
 

当時の裁判官たちの思いと英知が込められた、きらりと光る部分はある。
 それは、日米安全保障条約に関する司法判断を避けつつ、こう書いているところだ。
<第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当とする>
 安全保障にまつわる条約という非常に難しい問題なので、司法が判断することはあきらめる。けれども、憲法の埒外の聖域に置いてよいわけではない。だから、とりあえずは条約を締結する内閣や批准を行う国会の判断に従うとしても、最終的には「主権を有する国民の政治的批判」に任せるべきだという指摘である。
 この点こそが、「砂川判決」の肝であり、最も注目すべき珠玉の部分ではないか。ましてや、今回は国際的な条約とは異なり、国内法の制定なのである。

最高裁の差し戻し後の砂川事件は有罪判決で確定


最高裁判所による砂川事件一審判決の破棄・差し戻しの判断を受けて、東京地裁は再度審理を行いました。その結果、当時の裁判長・岸盛一は、1961年(昭和36年)3月27日に起訴されたデモ隊の4人は罰金は2000円の有罪の判決を下しました。

その後、判決結果を不服とした被告人のデモ隊4名は上告を行い、最高裁に再審を訴えました。しかし、最高裁判所は1963年(昭和38年)12月7日に上告の棄却を行い、有罪の判決結果は確定となりました。
 

最高裁の棄却・差し戻しは統治行為論を採用した判断


統治行為論とは、争訟で司法の法的な判断が可能であっても、国家の行為については除外して考えるべきという理論のことです。

司法の判断で国自体を法的に裁くことは可能だけれども、国の行為は統治の土台となっているため、そこはあえて法的な審査から除外して裁判を行いましょう、という考え方のことです。

統治行為論自体は、法令の一つ一つの違憲審査を回避し、省略するための技術として語られることが多いと言われています。
 

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砂川事件の裁判における論点

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最高裁の差戻し・破棄判決は予定された筋書きだった

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砂川事件は一審の判決からすぐに跳躍上告になっていますが、実は裏で秘密裏に決められていたことだと後に判明しています。判明した理由は、アメリカ側が機密指定していた公文書を公開したことがきっかけでした。

また、元被告人の一人が、最高裁・外務省・内閣府に対して情報公開を求めましたが、記録がないとして拒否されています。しかし不服申し立てをしたところ、外務省が関連文書があることを認め、2010年4月2日に藤山外相とマッカーサー駐日大使が行った会談の内容を公開しています。
 

今回、一転して外務省が公開したのは、伊達判決2日後の59年4月の「藤山大臣在京米大使会談録」。「極秘」との印が押された手書き文書で計34ページある。今後、支援組織の弁護士らが読解を進める。
 公開の再請求は、昨年9月の政権交代で、岡田克也外相が一連の日米密約の調査を指示したことを受け、10月に行った。外務省以外の3機関は11月、以前と同じ理由で不開示としたが、外務省は12月25日、「現時点までに、該当文書を特定することができなかった」として、不開示を通知したものの、「最終決定ではなく、引き続き調査を行う」としていた。
 坂田さんは「内容をよく見ないと分からないが、一歩前進だ」と喜び、同じく元被告の静岡市葵区、土屋源太郎さん(75)は「密約問題への世論が高まり、外務省としても真剣に考えざるを得なかったのだと思う」と話している。

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砂川事件・最高裁で差戻し・破棄が行われた背景

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砂川事件の最高裁で差戻し・破棄の判決が出たのは次のような背景があったからと判明しています。

まず、砂川事件の一審判決を知った駐日アメリカ合衆国大使ダグラス・マッカーサー2世が、外務大臣藤山愛一郎に外交圧力をかけ、跳躍上告を促しました。狙いは無罪判決の破棄です。また、マッカーサー2世は最高裁長官の田中耕太郎と密談を行い、裁判に介入を行っています。

マッカーサー駐日大使が跳躍上告を求めた理由は、裁判が長引くと当時控えていた条約改定に響く恐れがあったためです。通常の控訴では訴訟が長引くため、条約に反対する社会党に邪魔される可能性がありました。そのため1959年の間に、米軍の駐留を合憲とする判決を出すように求めたそうです。
 

当時の日本もアメリカの意向に迎合する態度だった

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当時の最高裁長官・田中耕太郎も、マッカーサー駐日大使と面会したときに一審の判決は誤りで破棄と差し戻しを行う予定をほのめかしていたことが明らかになっています。また、そのときに詳しい日程や裁判の行程の説明も漏らしていたとされています。

また、ジャーナリストの末浪靖司の公文書分析により、砂川事件・最高裁の判決内容ついては、ジョン・B・ハワード国務長官特別補佐官の理論がベースになっていることが分かっています。

そして、田中は駐日首席公使ウィリアム・レンハートにも「全員一致の意見を出し、なるべく世間を騒がせない形にしたい」といった旨の発言を行っており、結果的に日本とアメリカは互いの意向が沿う形で物事が進むことになりました。
 

田中判決はジョン・B・ハワード国務長官特別補佐官による“日本国以外によって維持され使用される軍事基地の存在は、日本国憲法第9条の範囲内であって、日本の軍隊または「戦力」の保持にはあたらない”という理論により導き出されたものだという。当該文書によれば、田中は駐日首席公使ウィリアム・レンハートに対し、「結審後の評議は、実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶるもとになる少数意見を回避するやり方で運ばれることを願っている」と話したとされ、最高裁大法廷が早期に全員一致で米軍基地の存在を「合憲」とする判決が出ることを望んでいたアメリカ側の意向に沿う発言をした。田中は砂川事件上告審判決において、「かりに…それ(駐留)が違憲であるとしても、とにかく駐留という事実が現に存在する以上は、その事実を尊重し、これに対し適当な保護の途を講ずることは、立法政策上十分是認できる」、あるいは「既定事実を尊重し法的安定性を保つのが法の建前である」との補足意見を述べている

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砂川事件は自衛隊と集団的自衛権の根拠としては薄い

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砂川事件は、自衛隊や集団的自衛権を争点とした訴訟や議論において根拠にされたり、引用されることが多くありました。しかし、砂川事件の最高裁の判決を用いて、自衛隊および集団的自衛権の合憲性・違憲性を判断するのは、根拠として十分でないと考えられています。

砂川事件は自衛隊・集団的自衛権がどうこうではなく、駐留米軍についての訴訟でした。そのため、砂川事件の判決文においても、日本が独自に戦力を保有することに関して、明確に憲法的な判断は下されていません。

砂川事件を自衛隊・集団的自衛権の根拠として取りあげても、判決の中で具体的な判断がされていない以上、証拠としては不十分だと言えるでしょう。
 

一方、枝野氏は「砂川判決は集団的自衛権が全く問題になっていない」と批判し、公判そのものが日本の集団的自衛権の合憲性を争った内容ではないと強調した。その上で「論理の一部をつまみ食いして集団的自衛権の行使が可能だと導くのは法解釈の基本に反する。憲法解釈を都合よく変更するのは法の支配とは対極だ」と強調した。

米軍駐留の合憲性が争われた1959年12月の砂川事件最高裁判決に関し、裁判に関わった入江俊郎・元最高裁判事(故人)が「『自衛の為の措置をとりうる』とまでいうが、『自衛の為に必要な武力か、自衛施設をもってよい』とまでは、云はない」などとするコメントを書き込んだ文書が見つかった。
政府・与党側は、判決が「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうる」などと言及したことを引き、集団的自衛権を認める根拠だと主張する。しかし、入江氏の書き込みは、自衛隊が合憲か違憲かという個別的自衛権の判断を判決がしていないことを確認したもので、集団的自衛権は検討されていないことがうかがえる。

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砂川事件が終わった後の動向

米軍は砂川事件に関係する立川基地を現在は返還済み

国土交通省


現在、米軍は首都圏域の防衛基地を東京都福生市の横田基地のみに集約した状態となっています。そのため、砂川事件で問題となった立川基地は1977年11月30日に返還されました。

立川基地の跡地となる場所には防災基地ができたり、陸上自衛隊の駐屯地、国営昭和記念公園、国の施設の移転などがされています。
 

2014年に当時の砂川事件被告人らが再審を請求


1963年に有罪判決で確定している砂川事件ですが、2014年6月17日に当時の被告人らが再審を請求しています。被告人らの訴えは、当時の判決は誤りであり、破棄と免訴を求めるものでした。

疑念が残るものの決着のついた事件を被告人らが蒸し返すに至った理由ですが、第二次安倍内閣が集団的自衛権を合憲とする解釈を、砂川事件の田中・岸判決を根拠にしようとしており、それに抗議するため、とのことです。

2016年に東京地方裁判所は、新たな証拠は免訴に匹敵するものと認められないという旨の見解を出し、訴えを棄却しました。これを受けて被告人3名と故人となった1名の遺族は即時抗告・特別抗告も行いましたが2017年と2018年にどちらも棄却されています。そしてこれにより再審棄却が確定しました。
 

駐留米軍の合憲性が争点となった「砂川事件」の元被告と弁護団が20日、東京都内で記者会見し、再審開始を認めなかった18日付の最高裁決定について「司法のかばい合いで、権利侵害の救済を避けた不当決定だ」と批判した。

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砂川事件を知った世間の声

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政治で司法が判断を変えるのはおかしい


砂川事件は政治的な圧力により、判決が捻じ曲げられた裁判だという見方をしている人が多いです。特にアメリカが裏で噛んでいることが明確になった今では、日本の司法がアメリカの言いなりになった恥ずかしい例だとしている人もいます。

そもそも司法は、公正な判断で罪や訴えを判断する機関のはずです。しかし、政治の影響で事実や解釈が捻じ曲げられるというのは、公平性も何もないということになります。

また、砂川事件の機密文書の公開により、政治家や裁判官が知らないところで外国に媚びていたという事実が判明し、あまりいい気持ちを抱かない人が多いようでした。
 

プレッシャーは、日本政府だけでなく、裁判所にももたらされたようである。当時最高裁長官だった田中耕太郎は、何度も米国大使館などにおもむき、駐日米大使に対して、判決の時期や審理の進め方、見通し、一審判決批判などを説明している。大使が本国に送った報告の電文などが、米国側ですでに開示されていて、その事実を裏付けている。
 判決前に裁判長がこのような情報を外部にもらすなど、通常では考えられないことだ。
 日本の主権や司法の独立という点で、「砂川判決」は、戦後の司法の歴史の中で、最大の汚点とも言うべき出来事あろう。

砂川事件の最高裁判決に係る統治行為論について、国内で起きたことを、国の最高法規である憲法で審査できないというのはおかしいと思います。
三権分立からいっても、司法が政治力に影響されるのはおかしいです。
この判決は、どういった点で正統性があるのでしょうか?

裁判官が判断しなかったのは一種の逃げだという見方

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砂川事件における最高裁判所の裁判官は、あくまでエリートとして当然の判断をしただけという見方をする人もいます。

砂川事件では憲法の解釈や米軍駐留の合憲性が争点となりました。やろうと思えば合憲性について判断も可能だったでしょう。しかし、裁判官個人や裁判関係者だけの一存で国の存続に関わるような事案を判断するのはいかがなものか、という見方もできます。

当時の最高裁が、必ずしも米軍が戦力保持に当たるとは限らない、として判断から逃げたのは、裁判官の立場上、重大な事柄は国民や国民の代表となる人が決めるべきことだ、という考えがあるからとも言えます。また、それらの理由から、最高裁の判決は、安保条約が原因ではないと考察する人もいました。
 

砂川事件は統治行為論、つまり日米安保のような高度に政治的な事案は裁判所ではなく国会が判断すべきと言っているだけだからです 
何故なら裁判官はエリートであり、国家の存亡に関わるような事案はあくまで国民が決めるべき、国民の代表が決めるべきという立場だからです 
エリートがあれこれ決めるのは非民主的という話です
別に安保にお墨付きを与えたわけではなく、ある種の逃げなだけです

砂川事件を根拠に自衛権の容認はおかしい

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砂川事件は、しばしば自衛権の容認や自衛隊の合憲性の根拠に引用されることが多いです。しかし砂川事件は、あくまで米軍の駐留は戦力保持になるとは限らないという判断に留まった裁判です。

砂川事件の裁判の判決について、一般的な解釈をすれば、自衛権の容認や自衛隊の合憲性を明確に決定づけるものではない、証拠としては不十分な判決であることが分かります。根拠としてみることもできますが、やはり無理があるのではと感じる人は多いです。

また、国会議員の中でも砂川事件の判決に対する認識は分かれており、根拠として無理やり解釈している議員もいます。ですが、世間的には砂川事件を自衛権・自衛隊に関する判断に使うのは無理があると思う人が多いです。
 

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自民党の高村副総裁が砂川事件の最高裁判決を持ち出して、集団的自衛権行使容認を憲法解釈で行使できるのだと言う解釈は無理が有りませんか?
あれは個別的自衛権について述べていて、集団的自衛権についてでは無いと思いますが、しかも自民党は砂川判決が出た後も、日本国憲法では集団的自衛権を行使できないと言う解釈でずっときたはずです。 
ということは当然、砂川判決で集団的自衛権を認めたのではなく、個別的自衛機についてを認めたものだと自民党も考えていたはずです。

砂川事件に関係する事件・訴訟

砂川闘争

Wikipedia


砂川闘争とは、1955年から1960年代に行われた立川基地(在日米軍立川飛行場)の拡張に反対する住民運動のことです。砂川事件は砂川闘争の運動の中で起こった出来事となります。

1955年に在日米軍が日本に基地拡張の要請をしたことがきっかけで、砂川町長に立川基地の拡張が通告されました。基地拡張の話は瞬く間に町中に広まり、砂川基地拡張反対同盟が結成されました。この同盟はのちに、51もの労働組合と社会党、労働者農民党が支援するほどの大規模なものとなっています。

1956年10月13日には、砂川町の芋畑で地元農民と武装警官隊がぶつかり、1195人が負傷、13人が検挙される出来事が起こり、流血の砂川と呼ばれたそうです。その後砂川事件が起こり、1968年12月には米軍は基地拡張を取りやめ、横田基地への移転が決まり、基地の拡張計画は中止となりました。
 

元被告の椎野徳蔵さん(82)が6月23日、旧米軍立川基地周辺を訪れました。「土地は人間が生きていく衣食住のもと。強制的に出ていけというのは強盗と同じだ」。基地拡張に反対する住民闘争(砂川闘争)を支援した思いを語ります。
 国鉄労働組合新橋支部の「ぽっぽや」(鉄道員)で、農家出身。卒業したのも農業高校で、「土地に杭(くい)を打たれてたまるかという思いはよく分かる」。軍用機が顔も熱くなるほどの爆風をふかすなか、「飛ばされてなるものか」と基地の柵に立てた組合旗にしがみついた記憶がよみがえります。

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統治行為論が用いられた判例


砂川事件以降の訴訟において、統治行為論が用いられた判決は数件あります。苫米地事件は純粋な理由で統治行為論による判決を下しています。ほかの長沼事件については自衛隊が合憲か否かの判断を避ける理由として、統治行為論を判決に用いています。
 

苫米地事件上告審判決

Wikipedia


議員・苫米地義三が衆議院解散で失職し、憲法違反を理由に最高裁に直接訴えに出た事件です。通常、衆議院議員が解散する場合は、日本国憲法第69条の内閣不信任決議案の可決、または新任の否決により行われます。

しかし、事件のきっかけとなる第3次吉田内閣の衆議院解散は、憲法第7条によって行われています。第7条による解散は別名「抜き打ち解散」とも呼ばれています。内閣総理大臣が持つ解散権を行使し、抜き打ちのように解散が行われます。

これにより苫米地議員は職を失い、憲法第69条のよらない解散は違憲だと訴えを起こしました。同時に議員資格の確認と歳費(給与)請求も行いましたが認められませんでした。また憲法違反の判断については、統治行為論が採用され、司法による判断は回避されました。
 

長沼ナイキ事件第1審・控訴審判決


長沼ナイキ事件とは、基地の建設で自衛隊の合憲性が争点となった事件です。1969年に北海道の夕張郡長沼町にナイキ地対空ミサイル基地の建設が予定されましたが、地域住民の一部が洪水と自衛隊の違憲性を理由に反対したことから事件となります。

当時の農林大臣・長谷川四郎が土砂崩れを防ぐ目的がある国有指定保安林の指定を解除したため、長沼町の地域住民から反対の声が上がり、行政訴訟が起きました。一審では建設する基地の公益性は薄く、憲法第9条に反することから自衛隊は違憲とする判断が下されました。

しかし、判決を受けて国は控訴し、公益性は建設予定のダムにより補わると主張しました。結果、一審の判決は覆り、自衛隊については統治行為論から判断は避けられることになりました。
 

百里基地訴訟第1審判決


百里基地訴訟は、1977年に茨城県小川町(現在は小美玉市)で航空自衛隊基地を建設する際に起きた訴訟です。長沼ナイキ事件と同じく自衛隊の合憲性が争点となっています。

基地の建設予定地は、建設に反対する住民へ売却されていました。しかし、もともと土地を所有していた住民が手のひらをかえして、防衛庁(現在の防衛省)に売り渡したため、土地の所有権をめぐって、自衛隊の合憲性が訴訟の争点となりました。

一審では、第9条は国の自衛のための戦争を放棄するものではないため、自衛隊は明確に戦力とはいえない、また統治行為論から自衛隊の違憲性は裁判所では審査できないとしました。二審・三審でも同様の判断が下され、基地反対派の住民は敗訴しました。
 

事件を風化させないためにも


以上が砂川事件についての詳細でした。今となっては過去の事件であり、憲法や条約、集団自衛権、自衛隊などの難しい単語が使われる話題なので、取っつきづらいイメージがあるでしょう。

しかし、戦争をしないという日本国憲法第9条の話題とセットでよく出てくる事件です。つまり、自分の国をどうやって守るのかという話題で砂川事件の話も出てくることが多いのです。そのため一度は事件の詳細を読んでおいて損はないかと思われます。
ほかの記事にも、風化させてはいけない事件をまとめたものがあります。よろしければそちらも併せてご覧ください。
 

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