大川小学校唯一の生存者「生き残り教師」:津波迫る小学校で何が起こっていたのか?

東日本大震災から6年が経ち、復興は進みました。大川小学校以外は。大川小学校では当時、避難をするしないで教師同士で揉め、84人の命が亡くなりました。「生き残り教師」と呼ばれる少ない生き残りの大人は当時何を見ていたのでしょうか。

大川小学校唯一の生存者「生き残り教師」:津波迫る小学校で何が起こっていたのか?のイメージ

目次

  1. 1東日本大震災で津波に襲われた石巻市立大川小学校。「生き残り教師」と呼ばれる生存者の一人。当時何が起こったのか
  2. 22011年3月11日、東日本大震災という悲劇で石巻市の大川小学校は闇に落とされた
  3. 3校長不在と食い違う教師たちの意見と不安な小学生たち
  4. 4教師たちの度重なる選択ミス~悲劇の始まり~
  5. 5津波~大川小学校の生徒95%が犠牲になる悲劇
  6. 6生存者は生徒数人と「生き残り教師」のみ。大川小学校の多くの生徒はいなくなった。
  7. 7無駄な教師間の論争が大川小学校の生き残りを妨げた
  8. 8食い違う生き残りの生徒と生き残り教師の証言と教育委員会の聴取結果
  9. 9生き残り教師が校長と保護者宛てに書いた手紙
  10. 10大川小学校のその後
  11. 11大川小学校生徒の遺族が裁判で勝訴、県と市は控訴
  12. 12大川小学校は保存され、生き残り教師は…

東日本大震災で津波に襲われた石巻市立大川小学校。「生き残り教師」と呼ばれる生存者の一人。当時何が起こったのか

東日本大震災の悲劇の翌日の大川小学校

2011年3月11日、東日本大震災が起き、石巻市立大川小学校は津波に襲われました。
死亡した生徒は74名、教師は10名。当時現場にいて無事だった教師はただ一人。「生き残り教師」と呼ばれる教師は一体何を見て、なぜ助かったのでしょうか。

2011年3月11日、東日本大震災という悲劇で石巻市の大川小学校は闇に落とされた

大川小学校

大川小学校も被害が大きかった

出典: http://www.orion311.com

2011年3月11日に東日本大震災は起きました。

午後2時46分、校舎は大きく揺れ、窓ガラスは割れました。倒壊する恐れがあるので教師たちは生徒を校庭に避難させました。

主な避難先は2つありました。一つは小学校の近くにある裏山。もう一つは少し下ったところにある小高い橋のたもとでした。
教師たちはその2つの避難先のどちらに避難するのか議論を始めます。

校長不在と食い違う教師たちの意見と不安な小学生たち

ニュースの画像

生徒たちは校庭に50分待機されました

出典: http://blog.goo.ne.jp


この日は校長は不在でした。年休とのことです。

校長不在で普通なら教頭が指揮を執ります。ですが、この日は動揺もあり、誰が指揮を執るかでもめてしまいました。誰もやりたがらない、押し付け合いで言い争ったそうです。
地震が起き、生徒たちは校庭に集められて不安に怯えています。時間はどんどん過ぎていきます。

やがて消防と役場の広報車が来て、避難を呼びかけます。この時には津波の危険性がテレビやラジオで呼びかけられています。教師たちは避難の呼びかけに応じます。

今度は避難先を2つのうちどちらにするかで教師たちは揉めます。
裏山は高く、津波の危険性は橋のたもとよりは安全です。ですが、当時は降雪もあり、傾斜も少しあるので危険だったというのが後にわかりました。
教師の一人が「避難するのに怪我して、地震(津波)がなかったら責任はどうするんだ。保護者にはなんて言うんだ」と言ったのです。

教師たちの度重なる選択ミス~悲劇の始まり~

指揮を誰が執るかで揉めていた教師たち。校長不在で実質指揮を執るべきなのは教頭でした。
その教頭は裏山への避難賛成派でしたが、のちに否定派になります。裏山避難否定派の教師が「責任問題になるのは教頭」と言いくるめたという可能性があります。
結果避難はせずに生徒たちは待機していました。
この時に不安で泣き出す子や話を聞いていて「こんなんじゃ死んじゃう」と裏山へ自主避難する生徒もいたそうです。

やがて2回目の広報車が避難を急かしに来ます。津波が来ることも知らせてくれました。
津波の悲劇がそこまで来ていたことを知らせてくれました。
この時に教師たちが揉めていなければ生徒のほどんどが生存者としてまだ元気に暮らしていたかもしれません。

ここで教頭と教師たちは選択ミスを犯してしまいます。
生徒と大川小学校に避難してきていた老人たちを橋のたもとへ避難しようということになりました。

津波~大川小学校の生徒95%が犠牲になる悲劇

津波被害にあった大川小学校の教室

時計の時間は止まったまま

出典: http://blog.livedoor.jp

大川小学校の生徒のほとんどはスクールバスで通います。スクールバスの運転手が一緒に乗って避難しようとずっと待っていてくれましたが、裏山避難否定派の教師が「全員乗れないから不公平」と拒否しました。
運転手はずっとそのばで生徒を待ち、安全な場所へ連れて行こうと待ってましたが、津波に巻き込まれて亡くなりました。

学校まで保護者が車で迎えに来た生徒以外のすべての生徒と教師は橋のたもとへ向かって歩き出します。
橋のたもとまでの距離はおよそ200メートルでした。教師は生徒たちに列を作るように指示し、先頭を歩きました。

時はすでに遅し、津波は迫っていました。ゴーという轟音とともに列の先頭から飲み込まれました。
恐怖で泣き崩れたまま流された子、必死に逃げながら流れた子、次々に飲み込まれていきました。

避難場所となった橋のたもと付近
早く避難できていても飲み込まれていた

出典: http://www.orion311.com

生存者は生徒数人と「生き残り教師」のみ。大川小学校の多くの生徒はいなくなった。

裏山

大川小学校のすぐ裏にあります

出典: http://2006-01-17.blog.so-net.ne.jp

列の最後尾にいた「生き残り教師」と数人は津波とは逆方向に逃げました。

そして、本来避難するべきだった裏山へ逃げます。
生き残り教師は裏山を生徒1人(もしくは2人、確実な情報はない)を一緒に登り上げ、助かりました。
80人強いた生徒と教師ですが生存者はたったの数名。たったの数名でした。

無駄な教師間の論争が大川小学校の生き残りを妨げた

生徒の遺品

持ち主のいなくなったランドセルが悲しい

出典: http://blog.livedoor.jp

保護者たち

先生の言うことを聞いていたのに!! という言葉が胸に刺さります

出典: http://mainichi.jp

怯えた生徒たちを校庭にただただ待機させ、避難を遅らせた。教頭は指揮を執らず、教師間の論争で意見をコロコロと変えた。校長はその日年休だったのは仕方ないが、悲しみに暮れた大川小学校に現れたのは数日後だった。教師と教頭は時間をかけたうえ、避難場所に最適な裏山を選ばなかった。
ほとんどの生徒と教頭を含めた教師は東日本大震災という天災の悲劇の死亡者になった。

悲劇が重なり、悲しみは津波の残骸とともに大川小学校に残ってしまいました。
生存者はその日大川小学校にいなかった校長と助かった生き残り先生と助かった生徒数名、保護者が迎えに来てどうにか逃げられた生徒数名だけでした。

もしも、教師たちが話し合いを上手くにして避難できていたら、多少道がぬかるんでいても裏山に早く避難できていたらほとんどの生徒が生存者となっていたでしょう。
教師たちが生き残りを妨げてしまいました。

食い違う生き残りの生徒と生き残り教師の証言と教育委員会の聴取結果

教育委員会と保護者たち

何回も話し合いは行われたが、納得いった話し合いは一度もできていない

出典: http://diamond.jp


時は経ち、生徒の遺族や教師の遺族は校長や生き残り教師にその時の状況説明や責任問題の説明を求めます。
そして県と石巻市に裁判を起こします。校長や石巻市の避難マニュアルなどが不適切だったからです。

石巻市の教育委員会は聴取を行います。生徒と生き残り教師それぞれに状況を聞き出します。
また、生徒や生き残り教師はメディアに状況を伝えたり、保護者などに状況を伝えていました。

ここで問題が起こります。
石巻市教育委員会の聴取結果と生き残り教師や生徒の証言が食い違っているのです。
石巻市教育委員会は聴取結果の9割は生存者の生徒の証言でさらに食い違っていたのです。
 

生き残り教師は石巻市教育委員会や県から匿われており、生徒の保護者やマスコミから遠ざけている

大川小学校の前には生徒の好きなものが置かれた

出典: http://photozou.jp


この悲劇の唯一の大人の当事者である生き残り教師は石巻市教育委員会や県から匿われており、保護者やマスコミから遠ざけているそうです。

石巻市や県は避難マニュアルや対応がしっかりしてなかったので守られているのでしょうか。

生き残り教師が校長と保護者宛てに書いた手紙

生き残り教師が2階に避難できるか確認しました

2階に避難しても津波被害でやられてました

出典: http://kaikaedoki.seesaa.net

当時の避難ルート

最後尾にいた生き残り教師と生徒の一部は裏山まで逃げられました

出典: http://blog.goo.ne.jp

現場ではどんな議論がされ、どんな経緯で橋のたもとまで避難することになったのかは、当事者のほとんどがなくなったのでわかりません。

数少ない当事者であり、東日本大震災の悲劇を真正面で見た生き残り教師は校長と保護者宛てに手紙を書いています。

書いてあったことは子どもを守れなかったことの謝罪と東日本大震災の悲劇の状況を伝えています。
教頭に裏山へ逃げることを提案したこと、教頭から何も返事がなかったこと、せめて学校の2階はどうかと見に行ったこと、見に行って戻ったら橋のたもとへ移動開始していたこと、裏山へ避難しようと強く言えなかったことが書いてありました。

大川小学校のその後

大川小学校を保存するか取り壊す決める住民集会の様子


出典: http://www.huffingtonpost.jp

献花台

毎年多くの人が訪れます

出典: http://yamayama.at.webry.info

東日本大震災の悲劇の舞台となってしまった大川小学校。2016年3月に震災遺構の保存として全体の保存をすることが決まりました。
「もう見たくない」という保護者の意見がありますが、公演で囲み植栽をするなど対処をして残してあります。

今では大川小学校付近は多くの観光者が訪れるスポットになっています。

大川小学校生徒の遺族が裁判で勝訴、県と市は控訴

第一審は勝訴

学校先生を断罪の文字が重々しいです

出典: http://www.huffingtonpost.jp

東日本大震災の悲劇から6年が経ちました。
生徒の遺族は石巻市と宮城県相手に裁判を起こしました。

「教師は津波の襲来を予見しながら、児童を安全な裏山に避難させず、避難場所として不適当な橋のたもとに誘導した」として遺族が裁判を起こします。

仙台地裁は教師側の過失を認め14億円の石巻市と宮城県に命じました。宮城県と石巻市は不服として控訴し今に至ります。

遺族は思います。お金をっ貰っても子どもは帰ってこない。そのお金を使うたびに子どもの顔が浮かんでしまうのではないか、と。

控訴して救われる人もいます。教師の遺族です。
東日本大震災という数十年に一度、百年に一度レベルの地震と津波に慌てない人はいませんし、選択は間違ったとはいえ避難はしようとしました。
さらに、教師の遺族が辛いのは、「生徒たちを救えなかった」と一生遺族や第三者から言われ続けてしまうのです。
県と市の控訴は教師の遺族のためにもなったのです。
 

大川小学校は保存され、生き残り教師は…

現在の大川小学校

出典: http://www.huffingtonpost.jp


大川小学校は保存され、東日本大震災の悲劇の形として残ることになりました。
でも生き残り教師はどうなるのでしょうか。
生徒の多くを救えなく、ほとんどの生徒と同僚の教師が亡くなり、証言を言うこともままならず後悔をしながらどこかで暮らしています。
生き残り教師は生徒数人を救ったまま彼の心と共にどこかへ匿われてしまいました。

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