【おせんころがし殺人事件とは】栗田源蔵の生い立ち・事件の詳細

終戦の爪痕がまだ残る昭和28年(1953年)、千葉県のおせんころがしで母子3人が殺害されたおせんころがし殺人事件が起こりました。今回はおせんころがし殺人事件の徹底解説と、日本のシリアルキラーとも呼ぶべき犯人、栗田源蔵の人物像に迫ります。

【おせんころがし殺人事件とは】栗田源蔵の生い立ち・事件の詳細のイメージ

目次

  1. 1母子3人が犠牲!「おせんころがし殺人事件」とは?
  2. 2事件が起こったおせんころがしはどんな場所?
  3. 3犯人の栗田源蔵とは何者なのか?
  4. 4栗田源蔵の犯罪歴
  5. 5こうして栗田源蔵は捕まった!
  6. 6栗田源蔵のその後
  7. 7おせんころがし殺人事件が社会に及ぼした影響は?
  8. 8死をもって罪は償われたのか?

母子3人が犠牲!「おせんころがし殺人事件」とは?

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昭和28年(1953年)10月11日の真夜中、千葉県のおせんころがしと呼ばれる断崖絶壁で、幼い子供を含む母子3人が崖から投げ落とされ、石で殴り殺されるという事件が起こりました。

長女一人だけが生き残りますが、ほかに目撃者はおらず物証もないまま、犯人の栗田源蔵は逃亡します。

後に逮捕された栗田源蔵は、母子3人のほかに5人も人を殺していたことが明らかとなります。

その陰惨な手口と、栗田源蔵の凶暴性により、おせんころがし殺人事件は、昭和の犯罪史に残る凶悪事件の一つとなりました。

狙われた母子一家

昭和28年(1953年)10月10日、勝浦駅(興津駅という説もあり)に一組の行商人の母子が降り立ったところから事件は幕を開けます。母子は29歳の母親と6歳の長男、11歳の長女、そして2歳になった次女の4人です。母子の目的は、行商に出たまま戻らなくなった父親の行方を捜すためでした。

結局その日は父親の行方を見つけることができず、帰りの電車もなくなって、母子は途方に暮れていました。そこへ1人の男が声をかけてきます。これが犯人の栗田源蔵でした。

栗田源蔵の目的は母親の体

栗田源蔵が母子に近づいた目的は、母親を強姦することでした。時刻は午後11時を回った頃、栗田源蔵は長男を自分の自転車に乗せ、送っていくことを申し出ます。

真っ暗になった田舎道を、母親は次女を背負い、長女の手を引き、栗田源蔵と共に進みます。途中、栗田源蔵は母親にしつこく、「やらせろ」「やらせろ」と迫りますが、母親は適当にいなし、取り合いませんでした。

おせんころがしで牙を剥いた栗田源蔵の狂気

その後も執拗に母子につきまとった栗田源蔵は、地元でおせんころがしと呼ばれる場所に差しかかった時、ついにその本性を剥きだしにします。

日付も変わり、時刻は夜中の一時頃、当然辺りには、母子と栗田源蔵以外の人影は見当たりません。栗田源蔵はまたも母親に迫りますが、今度も拒絶されて怒りを爆発させます。

その時、栗田源蔵が発したという言葉が、twitterで見つかりましたのでご紹介します。

おせんころがしで母子3人惨殺!

どんなに迫っても母親から相手にされないことに激昂した栗田源蔵は、まず長男をこぶしで殴り、石で激しく殴りつけ、崖下の海面めがけて投げ落としました。続いて道路にしゃがみこんで抵抗した長女も、力づくで引きずっていき、同じく崖から投げ落とします。

突然の凶行に母親は腰を抜かし、なんでもするから命だけは助けて欲しいと、命乞いをします。しかし栗田源蔵は母親を強姦し、まだ赤ん坊だった次女と一緒に崖下へ投げ落としてしまいました。

おせんころがしでの凄惨すぎる手口とは?

崖から投げ落とされた3人の中には、まだ息のある者もいました。そんな母子を、栗田源蔵は無慈悲にも次々と石で殴りつけ、完全に息の音を止めてしまいました。

この時幸運にも、軽傷で済んだ長女は、目の前で母親と弟、そして妹が無残にも、石で殴りつけられて殺害されている間、岩陰でじっと身を潜めていました。そのお陰でたった一人の生き残りとなることができました。

やがて息をしなくなった母子3人の遺体を積み重ねて、栗田源蔵はその場を立ち去りました。

事件が起こったおせんころがしはどんな場所?

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母子3人が殺害された場所は、おせんころがしと呼ばれる場所です。実はこれ、正式な地名ではありません。千葉県勝浦市と鴨川市の間、およそ4kmに渡って連なる崖の総称です。最寄りの交通機関はJR外房線行川アイランド駅となり、歩いても10分程で到着することができます。

おせんころがしと呼ばれるようになった由来とは?

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ではどうしてこの場所は、おせんころがしと呼ばれるようになったのでしょうか?おせんころがしの名前の由来となった伝説を、Wikipediaから引用します。

昔、この崖の近くの豪族古仙家にいた、おせんという一人娘が名称の由来とされている。おせんは、村人を苦しめる強欲非道な父親を改心させようとしたが、改心は無理と悟り、この崖から身を投げたといわれている。

おせんころがしは有名な心霊スポット?

おせんが身を投げ、母子3人が無残な殺され方をした場所ということもあってか、おせんころがしは心霊スポットとしても有名です。

幽霊の目撃談について調べてみると、真夜中に釣りに行ったら、幽霊を見てしまったというネットの書き込みがありました。

あと、地元に「おせんころがし」と言うトンネルがあって、そこの近くで釣りをすると出ます。
その昔、なにやら不遇な娘「おせん」が大変なめにあって、崖から海に叩き落とされたとかした山のトンネルです。
平べったいのが釣れるポイントですが、夜いくと誰もいないので、「やったぜ、独占じゃわい」とか思って釣ってると、例のアレが隣に立って見つめてるそうです。

ネットでは伝説より、おせんころがし殺人事件の事件現場としてのほうが有名といった声も聞かれます。

おせんころがしは自殺の名所?

おせんころがしは自殺の名所としても有名です。ただし、一説によると、単に足を滑らせただけの転落事故でも、自殺とカウントされていた可能性もありますが、真実のほどは定かではありません。

日本全国にはほかにも恐ろしい場所があります。興味のある方は以下の記事もひチェックしてみてはいかがでしょうか?

【犬鳴村】日本で一番怖い村|犬鳴峠の事件・都市伝説の真相まとめ - ミステリーならShiritaGirl

地元では観光スポット


陰惨な殺人現場、心霊スポット、自殺の名所など、おどろおどろしい場所といったおせんころがしですが、実は勝浦の絶景ポイントの一つにもなっています。

犯人の栗田源蔵とは何者なのか?

母子4人をおせんころがしから投げ落とした挙句、母親、長男、次女を殺害した栗田源蔵とは、果たしてどんな人物だったのでしょうか?ここからはその生い立ちや人物像、余罪についても深く掘り下げていきます。

12人兄弟の3男

栗田源蔵は大正15年(1926年)、今の秋田県雄勝郡羽後町(うごまち)に12人兄弟の3男として生まれました。

現在の秋田県羽後町について、Wikipediaの記事を引用してご紹介します。

羽後町(うごまち)は秋田県の南部に位置する町である。町長は安藤豊。キャッチフレーズは「緑と踊りと雪の町」[1]。
周囲を山に囲まれ、古くは小野寺氏の城下町として発展した。県内屈指の豪雪地帯[2]であり、山間部の積雪量は2メートルを超えることもしばしばである。主要産業は農業で、米ではあきたこまちの生産量が多い。黒毛和牛に代表される畜産も盛んである。県南でも最大の観客動員数がある「西馬音内の盆踊」は日本三大盆踊りと称される。

小学校を中退

父親は川漁師でしたが病弱であったため、一家の家計を支えるのは母親でした。両親からの愛情に乏しい少年時代を過ごし、夜尿症に悩んでいました。

夜尿症のせいでいじめにあい、小学校も3年生で中退してしまいます。その後奉公に出るのですが、やはり夜尿症は治らず、小便臭いということで嫌われ、奉公先を転々とする日々でした。1945年終戦の年、徴収されて弘前の歩兵連隊に入隊しますが、ここでも夜尿症のせいで早々に除隊となります。

結局栗田源蔵の夜尿症は死ぬまで治らず、ずっと苦しみました。

はやぶさの源の異名

その後栗田源蔵は北海道に渡り、美唄炭鉱で炭鉱夫としての職を得ます。周りは荒くれものだらけで、栗田源蔵は肉体労働に明け暮れます。ここでの生活の経験が、栗田源蔵を粗暴で荒くれものの男へと変えました。

すっかり荒くれ者となった栗田源蔵は、炭鉱夫を辞めた後、次々と犯罪に手を染めていきます。空き巣や窃盗などを繰り返し、ついには酔っぱらって殴り合いの大喧嘩をします。この罪で殺人未遂および傷害罪で懲役2年の判決を受けますが、1年で仮出所しました。

仮出所しても反省するどころか、あちこちで泥棒を働いていました。この頃から栗田源蔵は「はやぶさの源」という異名で呼ばれ、不良グループのリーダーとして名を馳せるようになりました。

栗田源蔵の仕事は何?

Wikipedia

いっぱしの悪党に成長し、さまざまな犯罪に手を染めていた栗田源蔵は、ヤミ市場のブローカーとして、落花生や米などを販売していました。

ヤミ市場のブローカーって?

現代ではなじみのないヤミ市場のブローカーという仕事ですが、具体的にはどういうものか解説します。

第二次世界大戦後、戦争に負けた日本は生活に必要な物資が極端に不足していました。政府は物価統制令という法律を制定し、食料品などの供給を管理していました。

しかし、庶民にとってはその日食べる物もままならない状況が続き、多くの餓死者を出す事態にもなりました。

食料難は深刻を極め1945年(昭和20年)の東京の上野駅付近での餓死者は1日平均2.5人で、大阪でも毎月60人以上の栄養失調による死亡者を出した。1947年(昭和22年)には法律を守り、配給のみで生活しようとした裁判官山口良忠が餓死するという事件も起きている。

数は少ないですが、全国には元ヤミ市だった場所も残っています。

ヤミ市ブローカーは犯罪者

Wikipedia

ブローカーの仕事は仲買人とも呼ばれ、買い手と売り手の間に入って暴利を貪っていました。しかし、物価統制令がしかれてる以上、ヤミ市もブローカーも違法であり、買った側も警察に見つかれば商品を没収されました。

栗田源蔵も食料管理法、物価統制法に違反した罪で逮捕されています。

栗田源蔵の犯罪歴

「はやぶさの源」と呼ばれ、殺人未遂と傷害で服役までした栗田源蔵は、はたしておせんころがしでの母子殺害が初めての殺人だったのでしょうか?

次はおせんころがし殺人事件以外に、栗田源蔵が犯した殺人について掘り下げていきます。

2人の愛人殺し

昭和23年(1948年)、現在の静岡県沼津市で、栗田源蔵は愛人関係にあった20歳の女性を痴情の縺れから殺害し、砂浜に埋めるという凶行にでます。

その後、二股をかけていた17歳の女性に、20歳女性の殺害を知られたことから同じように殺害し、同じく砂浜に埋めて犯行を隠蔽しました。

この時、栗田源蔵が発した言葉がtwitterで紹介されています。

小山事件

次に昭和26年(1951年)、現在の栃木県小山市に強盗を目的として栗田源蔵は訪れます。しばらく市内を物色していた栗田源蔵は、24歳の既婚女性に目をつけました。

栗田源蔵は女性が赤ん坊をあやしていたところを襲い、強姦して殺害します。その後、死姦までして逃亡しました。ここでは赤ん坊を殺害することはありませんでしたが、今度も警察の手を逃れました。

こうして栗田源蔵は捕まった!

過去に2件もの殺人事件を起こし、おせんころがしでは残忍な方法で母子3人を殺害しながら逃げきった栗田源蔵は、いったいどのようにして逮捕されたのでしょうか?

栗田源蔵の逮捕のきっかけとなった事件の詳細と、逮捕までを紹介します。

おせんころがし殺人事件の捜査の行方は?

おせんころがしで母子3人が惨殺された事件の捜査は難航していました。容疑者は浮かぶものの、いずれも関与は認められませんでした。

DNA鑑定などなかった時代ですから、これと言った物証も発見されない中、容疑者として栗田源蔵を特定するのは困難だったことが窺えます。

また、目撃者もたった一人の生き残りとなった長女しかおらず、幼いこともあって有力な手掛かりとはなりませんでした。

この長女の行方については、残念ながらはっきりしたことはわかっていません。しかし、長女に関する口コミが5chで見つかりましたのでご紹介します。

助かった長女って、生きてればまだ60代前半だよね。
存命中の確立の方が高いよね。
事件当時7歳なら記憶もあるだろうな・・・。

茂みのなかに隠れて一部始終を見ていたとか、見ていなかったとか。

図書館で読んだ昭和38年ごろのサンデー毎日に、
実況見分でやってきた栗田と、ただ一人助かった長女が、
対面している写真が載ってったよ。
心の傷とか考えないのかな、とか思ったw

千葉市内で主婦と義理の姪を殺害

栃木県の小山で主婦を殺害したのが昭和26年(1951年)8月8日。おせんころがしで母子3人を殺害したのが、昭和26年(1951年)10月11日。そして年が明けた昭和27年(1952年)の1月13日、栗田源蔵は性懲りもなくまた人を殺します

次の犠牲者は千葉県に住む主婦と、義理の姪でした。腹部を刺され布団をかけられた状態の主婦と、強姦され手ぬぐいで絞殺された姪の遺体を、近隣住民が見つけて事件は発覚します。

1952(昭和27)年1月16日・1面「老婆と同居の姪絞殺さる 物取りか色情か」
1952(昭和27)年1月17日・1面「顔見知りの犯人が暴行拒まれ凶行 検見川二人殺し捜査進む」

栗田源蔵ついに逮捕

警察は容疑者として、「はやぶさの源」こと栗田源蔵に目をつけます。捜査の結果、現場に残された指紋が、栗田源蔵の指紋であることが確認されます。

警察の取り調べに当初は関与を否定していましたが、ついには犯行を認めました。そしてここから、栗田源蔵が過去に犯した殺人の全てが明らかになっていきました。

栗田源蔵のその後

主婦と義理の姪殺しで逮捕された栗田源蔵には、どんな判決が下されたのでしょうか?また、おせんころがし殺人事件の捜査はその後どうなったのでしょうか?

露見した悪事の数々

栗田源蔵が逮捕されると、全国の警察から似た手口の事件の情報が寄せられます。この中に小山事件、そしておせんころがし殺人事件も含まれていました。

捜査の結果、小山事件で現場に残されていた指紋も栗田源蔵のものと一致します。さらに、おせんころがしで母子3人を殺したことも、2人の愛人を殺したことも、全て栗田源蔵の犯行だったことがわかりました。

この時、青森県蔵館温泉で起こった類似事件についても犯行を認める供述を行いましたが、その後の調べで栗田源蔵の犯行ではないことがわかりました。

後に、おせんころがしでの母子3人の殺害、小山事件、愛人2人の殺害を総称して、おせんころがし殺人事件と呼ぶようになりました。

栗田源蔵は日本のシリアルキラーなのか?

おせんころがしでの母子3人殺害を含め、合計8人もの人を殺害した栗田源蔵は、日本のシリアルキラーと呼んでもいいのか検証してみましょう。

シリアルキラーとは?

そもそもシリアスキラーとはなんでしょうか?その定義からご紹介します。

シリアルキラーの定義は複数あるが、FBIのレポートによると[1]、下記の共通項にまとめられる。
1人、またはそれ以上の犯人
2人以上の殺人の被害者がいること
殺人事件が、それぞれ別個のものであり、別の時に起きていること
犯行が一定の間隔を置いて行われることが大量殺人 (mass murder) と連続殺人 (serial murder) を区別する

FBIの定義によると、おせんころがし殺人事件を含めて、8人もの人を手にかけた栗田源蔵は日本のシリアルキラーと言えるでしょう。

栗田源蔵に下った判決は?

栗田源蔵は子供2人を含む8人もの人を殺害した罪で、裁判にかけられることになりました。

裁判はまず、千葉地裁で行われました。ここで裁かれたのは、栗田源蔵が逮捕されるきっかけとなった主婦と義理の姪殺しです。判決は死刑でした。

次に宇都宮地裁で、おせんころがし殺人事件とほかの殺人事件に対して、新たに死刑判決が言い渡されました。

栗田源蔵の最期とは?

獄中では看守を何度も呼びつけたり、悪態をついたりと問題ばかり起こしていた栗田源蔵。再審の申し立てなども熱心に行っていました。そんな栗田源蔵が、事件への反省の念を覚えるようなことはあったのでしょうか?

ここでは逮捕されてから死刑が執行されるまで、栗田源蔵がどのように過ごしたのかご紹介します。

栗田源蔵が残した手記「懺悔録」とは?

栗田源蔵は獄中で、「懺悔録」という手記を残しました。自分が犯した犯罪の詳細や心情などが綴られており、本人は出版したいと願い、あちこちの出版社や新聞社に手紙も送っています。

しかし出版社や新聞社から断られ、弁護士などにも売れないだろう、と言われてあっさり諦めてしまいました。

果たして「懺悔録」にはどんなことが書かれていたのでしょうか?手記の一部をWikipediaから引用します。

栗田は「懺悔録」という手記を書いている。曰く、「女と寝る時は叩いたり、締めたりすると、とてもいいぞ」と9歳の頃老人に言われたとの事である。栗田本人はこの書物を売ろうとしたが断られた。

栗田源蔵の夢枕に立った母子3人

死刑執行が確実になると、栗田源蔵は次第に衰弱していきます。見る影もなくやつれきって、命乞いをしたり、自分は無実だと訴えることまでありました。

またある時、刑務所に来た牧師に「おせんころがしで殺害した母親と子供たちの夢を見る」と告白し、かなり動揺していたことが窺えます。

そして昭和34年(1959年)10月14日、ついに死刑が執行されます。享年32歳でした。

栗田源蔵に子孫はいるの?

栗田源蔵に子孫は残されているのでしょうか?ひょっとして家族がいたのでは?と思い調べてみましたが、栗田源蔵が結婚していたという記録はなく、残念ながら子供がいたという事実も見つかりませんでした。

しかし5chに少しですが、栗田源蔵の親族の情報がありましたのでご紹介します。

こいつの血縁者はまだ秋田にいるんだろ?甥とか姪とかその子供・孫・・・
根絶やしにしろよ。こんなDNA。

遺体は誰が引き取ったのか?

日本の司法制度では、死刑執行後の遺体を親族は引き取ることが可能です。しかし実際には、引き取る親族は多くありません。

それでは栗田源蔵の遺体には、誰か引き取り手がいたのでしょうか?栗田源蔵には妻も子供もいなかったので、可能性としては両親や兄弟が考えられます。残念ながら記録は残っておらず、栗田源蔵のお墓の場所も特定することはできませんでした

おせんころがし殺人事件が社会に及ぼした影響は?

国会議事堂 - 千代田区、国会議事堂の写真 - トリップアドバイザー

今日でも猟奇的な事件が起こるたび、世間に与えるインパクトは計り知れません。事件当時、おせんころがし殺人事件と残忍な手口で8人もの人を殺した栗田源蔵が、日本社会に与えた影響を調査しました。

死刑廃止論に影響も!

今でも、死刑執行のニュースが報道されるたび、死刑制度は議論の対象となり、問題の難しさを浮き彫りにしています。

当時の国会でも、死刑制度の議論の中で、栗田源蔵の名前と犯した犯罪について言及し、死刑制度は必要だと訴えています。

第24回国会法務委員会公聴会の議事録の一部を引用します。少し長いですが、ぜひ全文も読んでみてください。

議論を進めていく前に、論より証拠、実際今日裁判所におきましてどういう被告人の行為に対しまして死刑を言い渡しているか一つ紹介いたしたいと思うのであります。事件は宇都宮地方裁判所の判決が確定いたしておりますから、これは名前も具体的な内容もこの席で申してもいいと思うのでありますが、被告は栗田源蔵と言うのであります。
中略
これは一つの例でありますが、かくのごとき事件は、裁判の上におきましては相当に出ておるのでありまして、われわれ記録を見ましただけても実に憤慨にたえない。これが果して人間であろうかと思うような人間もいるのであります。

死をもって罪は償われたのか?

今回は、戦後の日本を震撼させたおせんころがし殺人事件の詳細と、犯人の栗田源蔵の最期までを、徹底的に洗い出してみました。

ほかに類を見ない犯行手口の残忍さと、栗田源蔵の何かに取りつかれたような執念深さは、死刑執行によって幕を閉じました

死刑が執行される直前、栗田源蔵が被害者たちへ懺悔をしたかどうかはわかりません。今はただ栗田源蔵の犠牲となった被害者たちの冥福を祈るばかりです。

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