佐川一政『パリ人肉事件』の詳細【閲覧注意】なぜ無罪?現在の情報も

パリ人肉事件は、20世紀に日本のみならず、世界を震撼させたカニバリズム(食人)事件です。事件内容もさることながら加害者の佐川一政の異常な動向が印象深く、未だに話題に上ることが多い、この事件。ここではパリ人肉事件や佐川一政について、紹介していきます。

佐川一政『パリ人肉事件』の詳細【閲覧注意】なぜ無罪?現在の情報ものイメージ

目次

  1. 1パリ人肉事件とは?
  2. 2佐川一政の生い立ち
  3. 3パリ人肉事件の詳細
  4. 4なぜ佐川一政は無罪になった?
  5. 5帰国後の佐川一政の活動
  6. 6佐川一政の現在や最新情報、題材にした作品
  7. 7パリ人肉事件が残した教訓とは

パリ人肉事件とは?

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パリ人肉事件は、1981年にフランスのパリで起こった殺人事件です。被害者となったのは当時25歳のオランダ人女性ルネ・ハルテヴェルトさん、加害者は当時32歳であった日本人の佐川一政

この事件の最も奇妙な点は、佐川一政がルネさんを殺害した動機が「人間の肉が食べたかったから」という点にあり、実際に発見されたルネさんの遺体の一部は佐川一政によって食べられていました。

また、猟奇犯罪者として裁かれるはずの佐川一政が無罪になっただけではなく、帰国後にマスコミにもてはやされたという事件後の奇妙な流れも、物議をかもしました。

佐川一政の生い立ち


佐川一政は1941年4月26日に兵庫県の神戸市で生まれました。父親の手のひらに乗るほどの未熟児で生まれ、1歳時には腸炎に罹患するなど乳幼児期の健康状態は思わしくなく、両親は息子が長くは生きられないのではないかと嘆いたと言います。

しかし、体は丈夫ではなかったものの、順調に成長。幼い頃に体が弱かったことも、両親が佐川一政に甘かった理由なのではないか、とも考えられています。

虚弱体質だった幼年期


成長した佐川一政は、虚弱体質気味ではあったものの、学校に通う普通の健康な少年になっていました。しかし、内向的な性格をしていたことから、本を読むなどして静かに過ごすことを好んだと言います。

シェークスピアやブロンテの『嵐が丘』、トルストイの『戦争と平和』を好み、ヘンデルやベートヴェンの楽曲を愛したという、絵に描いたような芸術少年だったそうです。

高校生になると白樺派の文学に傾倒した佐川一政は、武者小路実篤の家をアポイントメントもなく突然訪問し、迎え入れてもらったという行動的な一面も見せるようになります。自ら小説を書き始めたのも、この頃だと言います。

事件以前に見えていた佐川一政の異常性


パリで初めて人を手にかけた佐川一政ですが、実は以前から異常な性癖を持っている様子は見られていました。

高校卒業後、和光大学人文学部に通っていた佐川一政は、近所に住む35歳のドイツ人女性に惹かれ、彼女の部屋に不法侵入をしたのです。この時は女性の頭部を傘で殴りつけるという暴行は働いたものの、それ以上のことを行う前に逮捕されています。

これだけでも立派な犯罪ですが、裕福な父親が多額の示談金を支払ったことにより、この件は不起訴となりました。

佐川一政は後に、この時も強姦目的などではなく食べたくて襲ったと述べており、父親が我が子可愛さにお金を出さずにいれば、後に続く事件は防げたのでは、という指摘もあります。

佐川一政の親族


息子の不祥事をお金で解決できるほど裕福であった佐川家とは、いったいどのような家庭だったのでしょうか?

佐川一政の父は、一部上場企業の社長を務めていました。さらに、叔父は歌手で俳優の佐川満男と、実に華やかな一族の生まれでした。

また、叔父の満男が小学生の甥に聞かせたという、魔法使いが子供を誘拐して鍋で煮込んで食べるという話が、後のカニバリズム事件のきっかけになったとも考えられています。

この話を聞くことで、佐川一政は人肉を食べることに興味を持つようになり、高校生になると自分の異常な性癖について、精神科医に相談に行っていたそうです。しかし、取り合ってもらえず、やがて彼は欲求を爆発させることとなります。

パリへの留学目的


和光大学を卒業した佐川一政は、関西学院大学大学院に進学、修士号を取りました。そしてこの後さらに、パリ第3大学大学院へ留学することになります。

この時期になると佐川一政の人肉への興味は、もはや渇望とも呼ぶべきレベルに達しており、フランスへはもともと獲物を物色しに行くつもりであったことが、後に明らかになっています。

未熟児に生まれて健康に育った佐川一政でしたが、その体の発育は決して恵まれたものではなく、成人時の身長が152cm、体重35kgと非常に小柄でした。

このような体型であったことがコンプレックスで、体が大きく、健康的なブロンド美人に固執、留学を決意したのではないかとも指摘されています。

佐川元容疑者は1949年4月26日に神戸市で生まれ、鎌倉の公立中、高校を経て和光大学人文学部を卒業、77年からパリに留学していた。父親は一部上場会社の社長である。超未熟児で誕生したため、成人してからも平均男性より二回りも小柄で肉体的なコンプレックスがあった。留学してからは白人女性に憧れる気持ちがひときわ強くなったようである。豊かな仕送りを受けていたので多くの娼婦をアパートに連れ込んでは「この女を食べたい」と妄想を抱いていた。

被害者のルネさんとはどこで知り合った?


ルネ・ハルテヴェルドさんは、フランス文学の博士号を取得しようとオランダからパリ第3大学に留学していた、25歳の女性でした。

背が高く、ブロンドの美しい女性でしたが、非常に真面目でフランス語とドイツ語を流ちょうに操り、得意の語学を活かした家庭教師をすることで学費を賄っていたと言います。

30歳を過ぎても父親のお金で暮らしている佐川一政とは、共通点もなさそうなルネさんですが、取っていた講義が同じだったことで、後に彼女の命を奪う殺人鬼と知り合ってしまいます。

ルネさんと佐川一政が出会ったのは1981年の5月。事件が起こる僅かひと月前のことでした。

パリ人肉事件の詳細


同じ文学の趣味を通じてルネさんに近づいた佐川一政。ルネさんは事件の前に佐川一政を2度にわたって自宅に招いており、友人として良好な関係にあったとが分かります。

また、ルネさんは親へあてた手紙の中で佐川一政のことを頭脳明晰な日本人の友達と書いており、彼を良い人間だと信じていたことがうかがえます。

しかし、そんなルネさんを佐川一政が裏切る日がやってきます。1981年6月11日に一体何が起こったのか?時系列順にパリ人肉事件を追っていきましょう。

1981年6月11日 ルネさんを家に招く


ドイツの詩人ベッヒャーの詩を、ドイツ語で朗読してもらいたい。そのように持ちかけて、佐川一政はルネさんを家に招きました。

これまでも佐川一政はルネさんに詩の朗読を頼んでは、テープに録音していました。そのため、ルネさんはこの日もなにも疑うことなく、指定された時間どおりに佐川一政の家を訪れました。

当時、佐川一政が住んでいたのは、花の都パリの中でも貴族や富裕層が住む高級住宅街として知られる、パリ16区にあるアパートでした。

1981年6月11日の昼下がり。この華やかな場所で、日本の犯罪史上に残る陰惨な事件が起きようとしていました。

セックスを断られ、ライフルで射殺


いつものように文学について語り合い、お茶を飲んでいた2人でしたが、佐川一政は突然ルネさんにセックスをしてもらえないかと頼むという奇行を見せます。

下品なスラングで頼まれたルネさんは、自分たちはただの友人で、それだけの付き合いだと佐川一政を諭しました。

非礼を謝罪するように頭を下げた佐川一政は、ルネさんに詩集を渡し、朗読を頼みます。そして、ルネさんが本に気を取られている隙に背後から近づいて、ライフルで彼女の後頭部を打ち抜きました。

「食べるついでに」ルネさんをレイプ


その後、佐川一政は動かなくなったルネさんの服を脱がせて、まだ温かい彼女の遺体をレイプしたと言います。

後に佐川と面談した心理学者は、ルネさんに拒絶されたことでプライドが傷ついて、彼女を殺害したと診断しました。

しかし、佐川一政本人はこれを否定しており、ルネさんに性的魅力を感じたのは確かだが、殺害動機は食べたかったからで、食べるついでにレイプしたのだと述べています。

電動ノコギリと包丁で遺体を捌く


続いて包丁を手にした佐川一政は、ルネさんの遺体から鼻先と、片方の乳房を削ぎ落しました。そして、乳房には生のままかぶりつき、その場で食べたと言います。

その後、満足した佐川一政は、時間をかけて丁寧にルネさんの遺体を捌いていきました。取っておきたい部分は冷蔵庫に入れて、残りはビニール袋に入る大きさに電動ノコギリでぶつ切りにしたと言います。

さらに佐川一政は、この様子をこまめに写真に記録していました。このフィルムは未現像のまま、彼のアパートから押収されています。

6月12日 遺体を運ぶスーツケースを購入

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狂気の夜から一晩明けた、6月12日の朝。佐川一政は、何事もなかったかのように街へ出かけていきました。そして、小柄な彼とはアンバランスな大きさのスーツケースを購入し、カーペット洗浄機のレンタルをして帰宅しました。

スーツケースはルネさんの遺体を運ぶため、そしてカーペット洗浄機は、床についたおびただしい血液を洗い流すためです。

佐川一政は、ルネさんの遺体を詰めたスーツケースを持って3度ほど街に出ていたと言います。捨てる場所を探してのことでしたが、人が行き交うパリの街では、誰の目にも触れずに大きなスーツケースを捨て置いていかれる場所が見つからず、街をさまよっては帰宅していたそうです。

6月13日 ルネさんを心配した家主が警察へ


真面目で講義をさぼったことのないルネさんが大学に来ないことを心配し、友人達は6月12日の夕方に彼女の住む下宿を訪ねます。しかし、家主の女性は11日の昼からルネさんの姿は見ていないと言い、鍵を借りて部屋に入ってみても、彼女の姿はありません。

翌日の6月13日になっても、ルネさんから何の連絡もないことを不審に感じた家主の女性は、警察へ出向き相談をしたと言います。

この日、もう2日待ってルネさんが帰宅しないようなら、捜索願を受理するという約束を取り付けて家主の女性は帰宅しました。しかし、事件はこの後急展開を見せていくのでした。

巨大なスーツケースを持ったアジア人が目撃される


家主の女性が警察を出たおよそ8時間後、パリにあるブーローニュの森で、ひどく背の低い子供のような体型をしたアジア人の男性が、自分の体重よりも重そうに見えるスーツケースを押して歩いている姿が目撃されました。

この小柄で奇妙なアジア人の正体こそ、ルネさんの遺体を運んでいた佐川一政でした。

腐敗の早い内臓部分はゴミに出して処分していましたが、すでに犯行から2日も経っていたことから、いよいよ佐川一政はルネさんをどうにかしないといけないと焦っていたのでしょう。

人目も気にせずに大きなスーツケースを持って森に入り、そのまま池に投げ込んで、ルネさんの遺体を捨てようとしていました。

目撃者が警察へ通報


疲れ切った佐川一政がスーツケースを池に投げ込もうとした時、ちょうど森の中を散歩していた人が通りかかりました。

突然現れた人影に驚いた佐川一政はスーツケースを放り出して、森の中に逃げていきました。その過剰な反応と、大きすぎる奇妙なスーツケースに興味を持ち、通りすがりの人々は好奇心に駆られてスーツケースを開けようと近づいてみました。

しかし、その一つに血液がべったりと付着しているのを見て驚き、すぐさま警察へ通報。間もなく一台のパトカーが駆け付け、佐川一政の犯行は明らかになっていきました。

警察がスーツケースの中身を確認


現場に到着した警察官は、目撃者たちから男の人相を聞き取ると、すぐさま応援要請をかけました。そして、捜査班が到着し、ゴム手袋をはめた警部が慎重にスーツケースを開けました。

スーツケースの中にはゴミ袋に包まれたなにかが入っており、警部がカッターで袋を切り裂くと、そこから無残に変わり果てた女性の遺体が現れたのです。

鼻の頭が削ぎ取られていることを確認した警部は、直ちにブーローニュの森一面を立ち入り禁止にして、検視官も出動したと言います。

しかし、ブーローニュの森には身を潜められる場所が多くあり、この夜、佐川一政は警察の目をかいくぐって帰宅することに成功しました。

検視官も戦慄する異様な遺体

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ルネさんの遺体の入ったスーツケースは直ちに遺体安置所に運ばれ、検視官たちの調査が行われました。

司法解剖の結果、被害者の死因が至近距離から後頭部に二十二口径ライフルの弾を受けたことが判明しましたが、検視官たちは、無くなっているパーツが不自然なことに頭を悩ませたと言います。

加害者が被害者の遺体をバラバラにした場合、頭部や両手といった身元が判明しやすいパーツを見つからないようにすることは良くあることですが、この遺体からなくなっている部分は臀部や乳房、唇といった箇所で、加害者の意図が不明なのです。

そして、一つの結論にたどり着きます。この事件の加害者は、被害者の遺体を食べた可能性がある、と。

6月15日 遺体がルネさんのものと判明


正式には受理されなかったものの、家主の女性が出したルネさんの捜索願は、すでに警察のコンピューターに登録されていました。

背の高いブロンドの女性、歳は20代。この条件がぴたりと一致したことから、6月15日、ルネさんの下宿の家主と、大学の友人たちが遺体安置所に招かれます。

そして、鼻を修復したルネさんの頭部のみを見せられた彼女たちは、その場に泣き崩れて証言しました。「ルネ・ハルテヴェルドに間違いありません」と。

警察は念のためルネさんの部屋に立ち入って彼女の指紋を取り、それを遺体と照合したうえで、オランダに住む彼女の両親へ、娘が陰惨な死を迎えたという報告をしたのです。

警官隊が佐川一政の家に突入


一方、加害者の捜索をしていた警察官たちは、6月11日の午後に、大きなスーツケースを持った奇妙なアジア人を乗せたというタクシードライバーを発見します。

彼は、パリの16地区にあるエランジュ通10番地でそのアジア人を乗せたと証言しており、これを受けてエランジュ通にはたちまち非常線が張られました。

武装した警官隊がアパートメントの下に集結し、階段を駆け上り、佐川一政の部屋に突入していきました。

警官隊が武装していたのは、人間を食べるという残虐な行為をする異常者なのだからと警戒してのことでしたが、警官隊が突入した部屋にいたのは、子供のような体型をしたひどく非力そうなアジア人男性、佐川一政でした。

狂気のカニバリズム事件の証拠

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部屋の捜査を行っていた警官隊は、冷蔵庫の扉が開いていることに気がつきます。そして、中を覗いてみると、そこにはルネさんの唇が片方、左の乳房、両臀部が入っていました。

戦慄した警官は佐川一政に、右の乳房は何処へやったのかと聞きます。すると、当然のように彼は「食べました。」と答えたと言います。

なんとキッチンのフライパンの上には、焼いた後と思われる肉片も残っていました。佐川一政は、警官の質問に対して、生で食べた後、ビフテキのように焼いて食べたと証言たそうです。

こうして、佐川一政は逮捕され、この恐ろしい事件が「カニバリル・ジャポネ(人喰い日本人)」という言葉とともに、フランス中に知られていったのでした。

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なぜ佐川一政は無罪になった?

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カニバリズムという異質さだけでも注目を集めたパリ人肉事件でしたが、逮捕された後も引き続き佐川一政は世界中の話題となりました。

これだけ残虐なことをやっておきながら、彼は罪に問われず、フランスでも日本でも裁かれることがなく、社会復帰を果たしています。

殺人は犯罪だが、殺した後に食べれば無罪になると話題になった、パリ人肉事件。なぜ佐川一政は、無罪になったのでしょうか?

なぜ?フランスでは不起訴処分に


逮捕後、佐川一政はパリにあるサンテ刑務所に収監されました。そして、収監中に精神鑑定を受け、医師から心神喪失状態での犯行で責任能力が無いという診断を下されます。

責任が問えないために不起訴処分となった佐川一政は、身柄をアンリ・コラン精神病院へと移されました。この処置を不服に感じたルネさんの両親は控訴をしますが、棄却されてしまい、娘の無念を晴らすことができませんでした。

幼い頃に腹膜炎にかかったという佐川一政の証言が、脳膜炎にかかったと誤訳して調書に記録されたことも、彼に責任能力が無いと判断された原因と考えられていますが、一度下された判決が覆されることはなく、佐川一政には何の罰も下されなかったのです。

帰国後は精神病院に入院


凶悪なカニバリズム事件の犯人に裁きが下されないことに怒りを感じたのは、被害者遺族だけではありません。フランス国民からも怒りの声が上がり、佐川一政は1984年に国外追放を受けて日本に強制送還されました。

そして帰国後すぐに、都立の精神病院である松原病院に入院します。これは、当時横浜に住んでいた佐川の両親の根回しによるもので、その翌年の1985年9月には精神疾患は完治したという診断が下され、佐川一政は完全に自由の身となったのでした。

どうして日本では罪を問えない?

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佐川一政が入院していた当時、松原病院の院長であった金子嗣郎博士は、佐川一政は精神障害ではなく人格障害であり、責任能力が問えると主張し続けていたそうです。

日本の警察も金子博士に賛同していましたが、裁判資料をフランス警察から送ってもらうことができす、松原病院の関係者も、警察も不安を抱えたまま、佐川一政の社会復帰を受け入れたのでした。

日本の法律では、国外で犯罪を犯した場合であっても、日本国内で罪に問うことは可能とされています。しかし、裁判にかけられるだけの資料がそろわなかったことから、佐川一政は日本でも罪に問われることがなかったのです。

佐川一政が無罪になったのは被害者の国籍のせい?


なぜフランス警察は、日本警察の要請に応じてパリ人肉事件の資料を送ってくれなかったのでしょうか?

これについては憶測の域を出ませんが、一説にはルネさんが自国民ではなく、オランダからの留学生であったことから、日仏間の貿易で得られる国益を優先させた結果なのではないかとも指摘されています。

1984年(昭和59年)に日本へ帰国し、精神病院である東京都立松沢病院に入院した。同病院での診察では、佐川は人肉食の性癖は持っておらず、フランス警察に対する欺瞞であったという結論であった。副院長の金子嗣郎は、“佐川は精神病ではなく人格障害であり、刑事責任を問われるべきであり、フランスの病院は佐川が1歳の時に患った腸炎を脳炎と取り違えて、それで誤った判断を下したのではないか”としている[6]。日本警察もまったく同じ考えであり、佐川を逮捕して再び裁判にかける方針であったが、フランス警察が「不起訴処分になった者の捜査資料を引き渡すことはできない」として拒否した。

帰国後の佐川一政の活動

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佐川一政が完全に自由の身となると、凶悪犯罪者に制裁を望む国民の声が上がる一方で、なぜか一部のマスコミからは文化人のような扱いを受けるという異常な展開を見せました。

ここでは、一躍、時の人扱いとなった佐川一政の活動について紹介していきます。

私小説「霧の中」がベストセラーに

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佐川一政がマスコミにもてはやされるようになったきっかけが、この『霧の中』という本です。

加害者はである佐川一政本人が、パリ人肉事件の詳細を記したこの本には『異常行動を取り上げた衝撃的手記』と書かれた帯が巻かれ、20万部を超えるベストセラーとなりました。

さらに佐川一政はこれを機に、講演会などに呼ばれるようになり、テレビ番組にも出演するようになっていました。

本書は現在でも入手可能ですが、ネットの掲示板などで見られる感想の中には、なんでこれがベストセラーに?と、内容の後味の悪さだけではなく、文学作品としての完成度の低さを指摘する声も見られます。

★ 今月1冊目。 クソハンニバル野郎佐川の小説みたいなルポみたいな本。 30年前の本で文章は下手くそでわかりにくいしこの佐川が腹立ちますね。 フランスで人殺して食べて精神異常とのことで日本に送還されてそっから小説家になって生活保護を受けて。。と滅茶苦茶なおっさん。 これは嫌な本。

アウトサイダーアーティストとして絵が評価される

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主にカニバリズムについて書いた本を複数出版する傍ら、佐川一政は油彩画やパステル画を制作し、アウトサイダーアーティストとしても、コアなファンを獲得していきました。

上の画像は佐川一政が描いたとされるパステル画です。漫画家の根本敬や、ベルギーの画家のリュック・タイマンスなどが、彼の作品のファンであることを公言しています。

裁かれることのない佐川一政への海外の反応


パリ人肉事件をモチーフにした『TOO MUCH BLOOD』という楽曲をザ・ローリングストーンズが発表するなど、佐川一政と、彼の起こした事件は海外でも注目を集めました。

1992年にはドイツのプレミエTVの番組に出演し、どうやってルネさんを食べたのかなどのインタヴューに答え、数百万人がこれを視聴したと言います。当時、ドイツの人々が何を思い、番組を視聴していたのかは分かりません。

しかし、現在YOU TUBEにあげられている佐川一政のインタビュー映像を収めた動画に寄せられた海外からのコメントは、非常に辛辣なものが目立ち、中には日本の司法を批判するものも見られます。


上の動画内にはショッキングな映像や、発言が含まれています。閲覧の際には、くれぐれもご注意ください。

・なんでこんな男がまだ生きてるんだ。 イギリス ・日本だけだろ。アメリカにはこんな狂ったやつはいないよ。 アメリカ ・この動画見た後にマクドナルド食べたくなったのは俺だけ? アメリカ ・悪魔だ! ルーマニア ・なによりこの人が、人間を食べる行為を淡々と話しているのが恐ろしい。 アメリカ ・彼が自身の異常な欲望に対して開き直っているのが怖すぎる。 アメリカ ・こんな動画見なきゃよかった。 アメリカ ・なんでYoutubeは俺にこの動画をすすめてきたんだろう。 オーストラリア ・この人に比べたら俺なんて異常でもなんでもないな。

鉄拳との関係は?

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佐川一政の画像を検索すると、お笑い芸人の鉄拳さんと親し気にしている写真が何枚か出てきます。

これはどうやら、鉄拳さんが以前に所属していた芸能事務所で受けていた仕事の一幕のようですが、2ショットならばいざ知れず、上の画像のように子供と写っているものに関しては批判の声も集まっています。

鉄拳さんが衣装を着こんでいることからも、プライベートの友人ではないことは分かりますが、仕事であっても罪をつぐなっていない犯罪者と親しげにしている様子は、あまり見たくない姿と言えるでしょう。

佐川一政の現在や最新情報、題材にした作品


全盛期には、毎月100万円の印税を得ていたという佐川一政ですが、人々のパリ人肉事件の記憶が薄まるとともに、徐々に忘れ去られていきました。

2000年に入る頃にはほとんど仕事もなくなり、マスコミにも相手にされなくなった彼は、現在どのように暮らしているのでしょうか?

生活苦からAVに出演


稼いでいた時期も貯金をすることがなく、外国人女性との遊興費などに収入のほとんどをつぎ込んでいたという佐川一政。

仕事がなくなると、弟のチェロを勝手に売る、闇金から借金をする、果てはAV男優の仕事を受けるなど、マスコミの寵児から転落していきます。

こんな人間がバラエティー番組やAV男優になってAVでたりしてんだからな ありえんだろ サカキバラだの宮崎や加藤がテレビに出るのと同じ 世の中狂ってるわ

いつみても佐川一政許せないな。あと周りのメディアも。
— ひめちゃん@ (@himepuyo06) 2019年3月24日

2005年には父親が死亡、母親は自殺


2005年1月4日には、佐川一政の父が病気で死去しています。そして、翌日には母親もなくなっているのですが、母親は自殺であることが分かっています。

パリ人肉事件後、佐川一政自身は法的制裁を受けませんでしたが、父親は一部上場企業の社長職を辞すことになり、母親は精神を病んだと言います。

法的にも社会的にも制裁を受けていないと批判されることのある佐川一政ですが、家族が背負わされたものは大きかったのでしょう。

2005年(平成17年)1月4日に父が死去。翌日に母が自殺[8]。当時、佐川は闇金の取立てに追われて千葉県に逃げていたため、両親の死に目に会えず、社葬という理由で葬儀への出席も断られた。その後、親の遺産で借金などを返し、2005年(平成17年)4月に公団住宅に転居[8]。千葉県に住んでいた頃は、持病の糖尿病が悪化し、生活保護を受けていたが、2006年(平成18年)のインタビューでは「現在は受けていません」と語っている。

現在は弟が介護をしている?


兄が起こした事件以降、佐川一政の弟も心因性喘息を患い、ストレスの多い生活を強いられたと言います。

しかし現在、佐川一政の弟は、なぜか生まれ育った家庭を破壊した兄の面倒を1人で見ているそうです。

2019年に70歳を迎える佐川一政は、数年前に脳梗塞を患い、介護が必要な状態にあると言います。他人に介護を頼むのは難しいのでしょうが、それにしても弟が1人で介護をしている状態に、違和感を感じる声も多く上がっています。

佐川くん、弟に介護して貰ってんのか。 フランスを震撼させ日本人から嫌悪された恐怖の人食い鬼の面倒を見るなんて、出来た弟だな。
事件前から一族の厄介者だったらしく、パリ留学は厄介払いもあった 帰国後は一族の恥が日本中に知られ、それこそ一族は困りつつも佐川一政の面倒を見てたんだろう 両親亡き後は弟が必然的に責任負わされたんだろうね

2019年にはドキュメンタリー映画が公開


2017年にフランスとアメリカの合作で、現在の佐川一政を追ったドキュメンタリー映画『CANIBA』が制作されました。

本作はヴェネチア国際映画祭やトロント国際映画祭で上映され、コアな映画ファンの間で話題を呼び、議論の対象となりました。

そして、2019年7月に日本でも『カニバ/パリ人肉事件38年目の真実』として上映されることが決まっています。

作品内ではパリ人肉事件のことだけではなく、現在の弟との奇妙な関係にも焦点が向けられていることに注目が寄せられていますが、残酷なシーンも多く、海外での上映時には上映中に退席する人も多かったと言います。

気持ち悪いけど第三者から見たら興味深いな
映画化されても普通の感性ならば嫌悪感しか感じないよなぁ… エンタメとして面白がってる場合じゃないって話よ

全く反省が見られない佐川一政

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パリ人肉事件から40年近い年月が経った今、一番批判されているのは佐川一政が社会的な制裁を受けていないことではなく、彼が全く反省をしていない点でしょう。

近年のインタビューでも、白人女性よりも沖縄女性のほうが美味しそうだと言ったり、お気に入りの女性タレントの名前をあげたりしており、事件発覚直後から一貫してルネさんに対する謝罪の言葉がないのです。

この点に、カニバリズム以上の違和感を感じるという意見が多く見られます。

GON!でも連載してたよね。 全く反省してないって感じだった。

パリ人肉事件が残した教訓とは

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ひ弱そうな外見と凶悪犯罪のアンバランスさや、とらえどころのない性格などが相まって、帰国後に時代の寵児として担ぎ上げられた佐川一政。

佐川一政の全盛期を知る世代の人は当時を振り返り、犯罪者を面白がる異常な時代だったと言います。

ルネさんや彼女の遺族を直接的に傷つけたのは佐川一政ですが、被害者が存在していないかのようにこの事件を面白がった一部のマスコミと日本人も、遺族の気持ちをどれほど傷つけたか、想像に難くありません。

犯罪被害者を2度殺すようなことがあってはならない。

20世紀日本の犯罪史上に残る事件として知られるパリ人肉事件からは、そのような教訓も得られるのではないでしょうか
カニバル(食人)じけんについては、こちらの記事もどうぞ

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