ピカソの名言集!キーワードは子供?ピカソの生い立ちや性格も!
20世紀を代表する画家ピカソ。ピカソは早熟の天才であり、生涯を通じてその作風をどんどん変えていきました。そして恋多き人でもありました。生涯を通じ純粋に芸術に向き合い、多くの名言を残したピカソについてその数々の名言をご紹介いたします。
目次
世界的な芸術家ピカソについて知りたい!どんな人だったの?
あまり絵画に詳しくない人に「誰か知っている画家はいる?」と尋ねたら、おそらくゴッホかピカソと答えるのではないでしょうか。まさにピカソは20世紀を代表する画家だといえます。ピカソは「ゲルニカ」「アヴィニョンの娘たち」などの代表作でもよく知られています。ピカソは早熟の天才だと言われ、画家だった父親をあっという間に追い抜き、わずか13歳で美術大学に入学します。
ピカソは生涯に約1万3500点の油彩と素描、約10万点の版画、約3万4000点の挿絵、約300点の彫刻と陶器を制作し「最も多作の美術家」としてギネスブックにも認定されています。ただ制作するだけでなく、常に新しい技法に挑み続け、5度に渡り作風を変えキュビズム技法の創始者としても知られています。
ピカソの生い立ちは?どんな人生を歩んだの?
ピカソはどこで生まれたの?
ピカソは1881年、スペインのマラガで産まれました。本名は「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ」非常に長い本名の例としても良く語られます。
スペイン人の本名は父方の姓と母方の姓を入れるのが一般的で、祖父や祖母の姓を入れた本名、聖人や祖先の名前を入れた本名も珍しくありません。ピカソの本名も聖人や祖父母の名前を連ねたものです。あまりに長いので本人も本名を覚えていなかったと言われます。また本名で呼ばれることも好きではありませんでした。両親としては幸多かれと長い本名を付けたのでしょうが、この本名はさすがに長すぎたと言うわけでしょう。日本人の本名はとてもシンプルなので、本名で悩むというのはなかなか想像できませんね。
早熟の天才と呼ばれた幼少期・青年期
ピカソは生まれつきの画才を持っていました。父親も美術学校の教師でしたが、ピカソが8歳の時に描いたリンゴの作品を見て、あまりの上手さに舌を巻いたと言われています。
一家はピカソに本格的な絵画の教育を受けさせようとバルセロナに引っ越します。ピカソはラ・ロンハ美術大学をわずか13歳で受験しますが、通常は制作に1ヶ月掛かる入学試験の課題をわずか1週間で仕上げて教官を驚かせました。ピカソはここで伝統的な絵画の技法を学びますが、やはり在学中からその存在は抜きんでており数々の賞を受賞したそうです。
ピカソは16歳の時、マドリードにあるサンフェルナンド王立アカデミーに入学します。しかしピカソ自身は伝統的な絵画技法に興味を持てなくなり、授業にろくに出なくなり、ついには中退してしまいます。マドリードの街には学校よりもピカソを惹きつけるものがありました。それはブラド美術館です。ここで画家ベラスケスや画家ゴヤ、画家エル・グレコの作品に大きく感銘を受けました。ピカソの作風には画家エル・グレコの影響を受けている部分があります。
芸術家としての芽が出たパリでの創作期
ピカソは1900年、当時最先端の文化を誇っていたパリを訪れます。ここでできた初めての友人、ジャーナリストで詩人のマックス・ジャコブ氏と出会い、小さなアパートの部屋をシェアします。この頃はまだ無名で貧しく、せっかく描いた作品を暖をとるために暖炉にくべてしまうこともありました。やがて、恋人ができたことやフランス絵画の影響で、暖色系の絵画を描くようになると一気に売れるようになり、多くのパトロンが付きます。この時期に描いた作品によって、ピカソは世界的な画家であることを確立しました。
名画『ゲルニカ』が描かれたきっかけ
20世紀を代表する作品「ゲルニカ」が描かれたのはスペイン内戦のさなかです。ドイツ軍のコンドル軍団が共和国の拠点に対して行った、無差別爆撃をきっかけに描かれました。ピカソはこれに抗議するため、製作中の作品を中断して急遽「ゲルニカ」の制作に取りかかりました。
「ゲルニカ」は爆撃にもがき苦しむ人々や動物の姿をモノクロームで描いた作品です。「ゲルニカ」の制作には当時の恋人だったドラ・マール氏が立ち会い、制作風景を多数撮影しています。ピカソは作品を制作している最中アトリエに人を入れることを好みませんでしたが「ゲルニカ」は例外で、1人でも多く反ファシズムの立場を取ってもらおうと積極的に人を招き入れました。
「ゲルニカ」は最初美術館ではなくスペイン万博で公開されました。その後「ゲルニカ」はスペイン共和国を支援しようとしたアメリカ芸術家会議の企画「ゲルニカ展」のためにアメリカに渡ります。ニューヨークの美術館、ロサンゼルスの美術館、サンフランシスコの美術館、シカゴの美術館で展示されました。
ピカソは戦地に近いフランスに「ゲルニカ」を戻すことを好まず「ゲルニカ」はニューヨーク近代美術館(MoMA)に一時的に保管され、1953年になってようやくヨーロッパに戻ってきます。「ゲルニカ」の制作当初の評判は芳しいものではありませんでしたが、第二次大戦後に、反戦のメッセージを吹き込んだ歴史的作品として再評価されました。
穏やかな晩年
晩年のピカソはフランスの古城を買い、そこに引きこもることが多くなります。相変わらず多作ではありましたが、この時期は子供の落書きのような画風も多く、酷評されている作品もあります。ただ、友人には「ようやく子供のように描けるようになったよ」と喜んで伝えていたそうです。二度目の妻、ジャクリーヌ・ロック氏に看取られて、91歳で亡くなりました。
2つの特徴から分かるピカソの性格とは?
ピカソは変化を恐れない天才だった
ピカソはその画風をつぎつぎ変えていったことでも有名です。大きく5つの時期に分類することができます。まず黎明期は「青の時代」(1901年-1904年)と呼ばれ、友人の死にショックを受けたことからこの画風がスタートしました。全体に青色無機顔料のプロシア青を使い、暗い印象の作品を制作しました。作品には乞食や娼婦など社会の底辺の人々が登場します。
「ばら色の時代」(1904年-1907年)では、最初の恋人オリヴィエ氏と出会ったことから作風が一変します。明るい色調でサーカスの芸人などを描き「サーカスの時代」とも言われています。続いて当時流行していたアフリカ彫刻に影響を受けた「アフリカ彫刻の時代」(1907年-1908年)を経て、自らが画風を創始した「キュビズムの時代」(1909年-1925年)に移行します。キュビズムはヨーロッパの伝統技法を無視したもので、最初「ピカソはとうとう狂ったのか」とまで言われましたが、やがて高く評価されるようになります。最後に「シュルレアリスムの時代」を迎えます。
ピカソは恋多き芸術家だった
人生を通じて7人の恋人がおり、2度の結婚をしました。最初の恋人はオリヴィエ氏。夕立に降られてピカソの軒下に飛び込んだオリヴィエ氏に一目惚れしますが、彼女は人妻でした。当時のピカソは「青の時代」と呼ばれる陰鬱な作風の作品を描いていましたが、彼女によって作風が一変し、いわゆる「バラの時代」を迎えました。
2人目の恋人はエヴァ・グエル氏。ピカソは彼女をモデルにしてキュビズム時代の絵画を描いています。この絵の下書きには"MAJOLIe"(私のかわいい人)との書き込みがあり、ピカソの溺愛ぶりが偲ばれます。しかし、病弱だったエヴァ氏は結核ですぐ亡くなってしまいます。
3人目の恋人はオルガ・コクローヴァ氏です。ピカソは彼女と最初の結婚をして息子をもうけます。しかしオルガ氏との結婚生活はうまくいかず、ピカソはアトリエに引きこもることが多くなります。
妻に対する気持ちが離れた頃、マリー・テレーズ氏と出会います。きっかけは彼女を街で見かけたピカソが「君を描かせてくれ。私はピカソだ」と名乗ったことでした。ピカソは彼女を「運命のモデル」とまで言っています。彼女の美しい肉体はピカソの創作意欲をかき立て、7人の中で一番創造的インスピレーションを与えたと言われています。
5人目の女性はドラ・マール氏。この時点で妻オルガ氏、マリー氏との関係も続いており、いわば四角関係となってしまいます。6人目の女性はフランソワーズ・ジロー氏。ピカソが63歳の時でした。ピカソ最後の恋人にして2度目の妻はジャクリーヌ・ロック氏でした。2人は8年間同棲した後、結婚をします。
人生の意味を考えさせられるピカソの名言9選
①私は捜し求めない。見出すのだ。
私たちは手元にあるものに満足できず、常に何かを探していたりします。ピカソの数多くの作品を生み出せる才能から生まれた名言だと言えます。
②人はあらゆるものに意味を見出そうとする。これは我々の時代にはびこる病気だ。
ピカソの芸術家としての立ち位置を鮮明にする名言です。絵画の作品「ゲルニカ」が描かれた後、そこに描かれている事象に対し、多くの人から多様な解釈が寄せられました。これに対しピカソは「私は絵を描くために絵を描いており、物があるがままに描いているだけだ」と反論しています。
③すべては奇跡だ。例えばお風呂に入った時、あなたがお湯に溶けてしまわないことだって。
「すべての常識を疑え」と言わんばかりの名言。お風呂に入るとき、なぜ入浴剤は溶けて人体は溶けないのか、真面目に考えた方はあまりいないでしょう。
④冒険こそが私の存在理由である。
1つの作風にこだわらず、人生で5度も作風を変えたピカソらしい名言ですね。こだわりを持ちすぎず、冒険心を忘れないことが大切だということが分かります。
⑤明日に延ばしてもいいのは、やり残して死んでもかまわないことだけだ。
数多くの作品を生み出したピカソは、やり残して後悔するすることをかなり嫌っていたことがこの名言で分かります。
⑥自分には過去も未来もない。ただ現在に生きようが為に絵を描くのである。
現在を生きるために絵を描くというこのピカソの名言はとても心に響きますね。過去や未来を考えず、まずは現在に生きるために行動することが大切なのです。
⑦想像できることは全て現実なのだ。
キュビズムの創始者、ピカソならでは名言です。キュビズムは西洋絵画の伝統技法を捨て、対象を同時に複数の視点から見た様を描写するという斬新なものでした。
⑧明日描く絵が一番素晴らしい。
人生においてどんどん作風を変えていったピカソらしい名言ですね。ピカソは生涯において自己模倣に陥ることはありませんでした。
⑨私は大金を持った貧乏人のように暮らしたい。
お金といった概念を疑ったピカソの名言です。大金を持っても贅沢な暮らしをするのではなく、質素で慎ましやかに暮らしたいという気持ちが表れています。
愛について考えたくなるピカソの名言4選
①孤独の中では何もできることはない。
人生においてたくさんの恋人がいたピカソは、恋人のおかげで作風が変わることもありました。そのため、孤独だったら自分がここまで多くの作品を作ることは出来なかったということを表した名言です。
②私の創造の源泉は、私が愛する人々である。
作風を変えるキッカケにもなった恋人が、作品を想像する源泉だという恋多きピカソらしい名言です。
③人生で最も素晴らしい癒し、それが愛なのだ。
ピカソは画壇で売れるようになってからは、非常に裕福になりました。しかしやはり一番大事なものはお金ではなく愛だという名言です。
④すべてのものは限られた量しかない。特に幸福は。
最初の結婚は必ずしも幸福では無かったピカソの名言。ピカソは独占欲が強く、6人目の恋人には三行半を叩き付けられて別れます。これがピカソ最初の失恋だったと言われています。
仕事への情熱や意味を説いたピカソの名言7選
①できると思えばできる。できないと思えばできない。これはゆるぎない絶対的な法則である。
天才のピカソが上から目線で突きつけたようにも思える名言です。しかし自分で限界を決めてしまった人の人生はどんどんつまらなくなります。
②大切なことは熱狂的状況をつくり出すことだ。
芸術が生まれるのは冷めた状況ではなく、熱狂的になれる状況の時だけだというピカソらしい名言です。
③行動が全ての成功への基本的な鍵である。
行動しなければ何も生まれないという、すべての人に贈りたいピカソの名言です。成功を夢見るだけでなく、まずは行動することが大切なのです。
④ひらめきは自分で呼び込めるものではない。私にできるのは、ひらめきを形にするだけだ。
「私は捜し求めない。見出すのだ」と対になるピカソの名言です。ひらめいたものを作品という形にしてきたピカソならではの名言ですね。
⑤私はいつも自分のできないことをしている。そうすればそのやり方を学べるからだ。
自分のできる範囲のことだけをするのではなく、あえてできないことをすることで見聞や知識が広がるという素晴らしい名言です。人生においてとても参考になりますね。
⑥仕事は人間に必要だ。だから人は目覚まし時計を発明した。
ピカソは多作でしたが、逆に言うとそれだけ沢山売れた、ということです。芸術に対しては飽くなき探究心を持って臨む一方、絵画市場の動向にも敏感で、少しずつ作品のタッチを変えていきました。ピカソの現実的な一面がわかる名言です。
⑦画家は労働者が働くように勉強しなければならない。
ピカソの生きていた時代を象徴する名言です。絵画が写真に取って代わられる時代で、多くの画家は新しい作風を見つける必要がありました。
芸術の意味を説いたピカソの名言9選
①優れた芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む。
芸術家の作品に対する姿勢を表現した名言です。模倣するだけではなく、目で見て盗むことで自分の力にできる人こそが偉大になれるのです。
②私は対象を見えるようにではなく、私が思うように描くのだ。
キュビズムを発明したピカソならではの名言ですね。「見る」ではなく「思う」ように描くことがピカソにとって重要だったことが分かります。
③誰もが芸術を理解しようとする。ならばなぜ鳥の声を理解しようとはしないのか。
鳥の声のようなささやかな物事でさえ、理解をしなければいい作品を生み出すことができないということを表しています。1つの物事だけでなく、広い視野で見なければいけません。
④いかなる創造活動もはじめは破壊活動だ。
若くして伝統的絵画技法と決別し、ついには西洋の絵画技法の常識である遠近法をも無視した、キュビズムの創始者らしいピカソの名言です。
⑤芸術は悲しみと苦しみから生まれる。私は立ち止まりはしない。
芸術とは楽しいことから生まれるだけでなく、悲しみや苦しみから多く生まれるという芸術家らしい名言です。どのような悲しいことがあっても、立ち止まらずに作品を生み出し続ける決意が表れています。
⑥芸術は日々の生活のほこりを魂から洗い流してくれる。
ピカソが芸術に対して感じる思いをそのまま言葉にした名言です。ピカソにとって芸術とは、心の洗濯をしてくれる癒しの存在だったのですね。
⑦絵の玄人なんていうものは、絵描きに対してロクなアドバイスをしない
ピカソが生きていた時代、多くの画家は「肖像画家」としてパトロンの家族を描くことで暮らしていました。こうした画家達が金科玉条のように守っている伝統的な絵画技術はピカソにとって退屈だったようです。自らが新しい技法の開発に余念がなかったピカソらしい名言です。
⑧子供は誰でも芸術家だ。問題は大人になっても芸術家でいられるかどうかだ。
子供の頃は自由に創造することができるが、大人になるとそれが難しくなるというピカソの名言です。大人になっても子供の頃のような創造ができれば、優れた芸術家になれるのです。
⑨ようやく子供のような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ。
この名言は88歳になって描いた作品に寄せたものです。この頃のピカソは画壇からは「過去の人」と見なされていました。しかし、ピカソの芸術への追究は続いていました。ようやく満足できる到達点にたどり着いたということでしょう。
ピカソの名言のキーワードは子供?彼が遺した言葉の意味とは?
自己模倣に陥らず、どんどん作風を変え、感情のおもむくまま7人の恋人と関係をもったピカソ。天才ならではの所業と言えばそれまでですが、なにか「大きな子供」のようにも思えます。それゆえに並みの大人では思いつかない普遍的な価値を持つ名言を多く残したと言えるのではないでしょうか。
ピカソの作品を展示している関東の美術館3選
【美術館①】国立西洋美術館
東京都大東区上野にある国立西洋美術館では、ピカソを筆頭にフランス政府から寄贈された様々な絵画を鑑賞することができます。自然豊かな公園内にあるので、自然を楽しみながらゆっくりと絵画を見て芸術を感じることができます。
美術館②】ポーラ美術館
ポーラ美術館では、青の時代のピカソの作品など様々な絵画が展示されています。絵画を鑑賞した後は、ミュージアムで様々なアートグッズを購入することができます。気に入った作品のポストカードなどを部屋に飾るのも素敵ですね。
美術館③】箱根 彫刻の森美術館
箱根にある彫刻の森美術館では、ピカソを専門的に紹介するためのピカソ館があります。陶芸などを中心に約320点のピカソ作品が順次公開されています。ピカソの作品をたくさん見たいという方は、是非彫刻の森美術館に行ってみてください。
ピカソの名言は純粋に生きる大切さを教えてくれる!
私たちの多くは限られた才能と能力しかなく、故にいろいろなもの縛られずには生活できません。このためいつまでも理想論を唱えていると「なに子供みたいなこと言っているんだ」などと諭されがちです。ピカソは抜きんでた天才だったため、最後まで純粋な心を捨てることなく生涯をまっとうしました。天才ならではの名言は日々の生活に疲れがちな私たちをリフレッシュさせてくれます。