スターリンの名言・格言集!ソ連の独裁者の性格・生い立ち・逸話も!

ソ連の独裁者として君臨したスターリンとは一体どのような人物だったのでしょうか?粛清と呼ばれる恐怖政治で多くの人々を死に追いやったスターリンの生い立ちや性格、名言などを解説していきます。彼の残した冷酷な名言からは、私たちが学ぶべきことも見えてくるでしょう。

スターリンの名言・格言集!ソ連の独裁者の性格・生い立ち・逸話も!のイメージ

目次

  1. 1ソ連の独裁者スターリンとはどんな人物?
  2. 2スターリンはどのように残忍な独裁者になった?
  3. 3スターリンの性格とは?
  4. 4スターリンが行った恐怖政治『粛清』とは?
  5. 5スターリンの名言・格言10選!
  6. 6スターリンは結婚していた?子供もいるの?
  7. 7スターリンの最期とは?死因は何だった?
  8. 8スターリンの晩年の名言とは?
  9. 9スターリンの逸話を紹介!
  10. 10【番外編】スターリンのように世界で大虐殺した人物とは?
  11. 11スターリンのような独裁者が生まれない世界に

ソ連の独裁者スターリンとはどんな人物?

スターリンという名前は歴史の教科書にも出てきます。ソビエト連邦の独裁者であることは知っている人も多いでしょう。しかし、スターリンの生い立ちや性格といったところまで知る人は少ないかもしれません。「粛清」と呼ばれる恐怖政治を行なった独裁者ですが、神や死などについて、彼の冷酷な考え方や人間像をうかがわせるような数々の名言も残しています。彼の名言から私たちは今一体なにを学ぶべきなのでしょうか?今回はスターリンの性格や生い立ち、逸話なども含めてご紹介していきます。

スターリン

スターリンはどのように残忍な独裁者になった?

残忍な独裁者と聞けば、ヒトラーの名前を思い浮かべる人も多いかもしれません。しかし、スターリンが行った「粛清」という恐怖政治によって命を落とした人々の数は、ヒトラー以上とも言われています。独裁者として歴史に名を残すこととなったスターリンには、どのような生い立ちがあるのでしょう?彼の政治活動も含めて概略を説明していきます。

像

スターリンの生い立ちとは?

1878年、ヨシフ・スターリンはロシア帝国の支配下にあったグルジアで、貧しい靴職人の息子として生まれました。本名はヨセフ・ベサリオニス・ヅェ・ジュガシビリといいます。3番目の子として誕生しますが、上2人が子供のうちに死亡したため、長男として育てられます。父親からは靴職人の跡取りとなることを強要されましたが、スターリンは神学校に進み、熱心に勉学に励みました。やがてマルクス主義に傾倒し、司祭叙任を間近に控えていながら、神学校を退校します。

ロシア

スターリンの政治活動

ヨシフがスターリンを名乗るようになったのは、警察に追われながらも様々な労働運動を続け、論文を発表したときのことでした。何度も逮捕されたり、シベリアに流刑にされたりしながらも、脱走して革命運動の指導者としての地位を築いていきます。

1917年、ロシア革命が起こり、レーニンを議長としてソビエト連邦が誕生しました。レーニンの死後、スターリンはトロツキーとの間で熾烈な後継者争いを繰り広げます。トロツキーを失脚させたあとは絶対的な独裁者として君臨し、敵対する者たちは次々と「粛清」の対象として徹底的に弾圧しました。第二次世界大戦中は連合国軍側に加わり、戦後は戦勝国として東ヨーロッパの国々を支配下に置き、社会主義政治による統治を進めていったのです。

モスクワ

スターリンの性格とは?

スターリンは冷酷で残忍な性格でした。彼が抱いていた極度のコンプレックスが原因のひとつと言われています。帝政ロシアの中でも少数民族であるグルジア人の貧困層の出身だったため、神学校でも差別を受けていました。身長が低かったことも劣等感の理由です。加えて、警察に追われていた日々のことも人間不信な性格に拍車をかけました。

独裁者となってから、スターリンは極度の猜疑心の持ち主となります。一度でも敵国の捕虜となった兵士はスパイの可能性があるということで、帰国しても強制収容所に送りました。常に命を狙われているという妄想にも取りつかれていたのです。

ソ連

スターリンが行った恐怖政治『粛清』とは?

「粛清(しゅくせい)」とはスターリンが1930年代に行った大規模な政治弾圧のことです。粛清の対象は政治家の幹部にとどまらず、作家や科学者などの一般市民やソ連国内の外国人にまで及びました。1937年から1938年までに134万5000人近くが有罪にされ、約半数は死刑、残りは強制収容所や刑務所に送られました。この数も粛清の一部であり、正確な死亡者の総数は今も判明していません。この粛清の時期、ソ連の共産党は数百万人に上る人口の減少を把握していたともされています。

ハンマー

スターリンの名言・格言10選!

悪名高き恐怖政治を断行したスターリンですが、名言と呼ばれる言葉の数々も残しています。彼の異常な性格から出た名言でもあるため、名言といえども必ずしも物事の本質をとらえているとはいえないでしょう。しかし、類まれなる独裁者が吐いた名言として、私たちがなにかを学ぶために知っておくべき言葉かもしれません。スターリンの考え方を示す名言を具体的にご紹介します。

①人間の死についての考え方

一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字でしかない

粛清で多くの人々を死に追いやった独裁者、スターリンならではの冷酷さが伝わる名言です。彼の人間の死に対する考え方をよく表わした名言であり、粛清による死をただの数字としか見ていなかったことがわかります。

時計

②人間という生き物についての考え方

死が全てを解決する。人間が存在しなければ、問題も存在しないのだ

ある意味、宗教的な奥深さも感じさせるような名言です。しかし、これもスターリンの残忍さを示す名言といえるでしょう。敵対する人間を次々と容赦なく殺すことで、問題は解決したと考える彼の独善的な性格を表わしています。

窓

③神についての考え方

人は自分で神を作り出し、それに隷属する

父親の強い反対にあいながらも神学校に通い、独裁者の中で唯一聖書を隅から隅まで読んだ人物とされるスターリンですが、彼の神についての考え方を語った名言です。母親は信心深い女性でしたが、その母親だけでなく、自らの生い立ちまでも侮べつするような名言といえます。

教会

④恐怖に対する持論

愛とか友情などというものはすぐに壊れるが恐怖は長続きする

人間への不信感を公言してはばからなかったスターリンらしい名言です。人々へ圧倒的な恐怖を与えつづけ、独裁者として君臨した年月は、暗黒の歴史となって残ることになりました。失われたものはあまりにも大きかったにも関わらず、自らの所業を肯定するような名言でしょう。

ベネラ

⑤現実と理論についての考え方

現実と理論が一致しなければ現実を変えよ

現実を意のままにできると考える、まさに暴君の言葉ともいえる名言です。自分を正当化するために、一時的に現実を変えたとしても、さらに理論との乖離を生むことになります。自らを全ての基準とし、詭弁を貫いたスターリンならではの名言です。

新聞

⑥選挙に対する考え方

投票する者は何も決定できない。投票を集計する者がすべてを決定する

独裁者にとっては選挙など茶番であるというスターリンの考え方を如実に物語る名言です。選挙の意義を根底からくつがえし、人民を愚ろうする思想がいかに危険であるかも、現代の人々に教えてくれる名言でしょう。

モスクワ

⑦戦争についての考え方

歴史は無敗の軍隊が存在しないことを示している

スターリンも少なくとも歴史から学んだことはあるとわかる名言です。人々を恐怖で支配したスターリンですが、自らも栄枯盛衰の恐怖に怯えていたことをうかがわせる名言ともいえます。彼は東西冷戦という戦わずして戦う道を選びました。

像

⑧人を信じないスターリンの性格

赤軍には捕虜は存在しない、存在するのは『反逆者』のみである

赤軍とは自国の軍隊のことですが、敵国の捕虜となった兵士を、スターリンは強い猜疑心からスパイとみなしました。そうした彼の考え方を代表するような名言です。第一次大戦中に捕虜になった者でさえ処刑するほど疑り深いところがありました。第二次大戦中にはドイツで捕虜となった自国の兵士たちの収容所まで爆撃し、上空から「祖国を裏切った者たちへ」というビラをまいたほどです。

リボルバー

⑨冷淡なスターリンの性格

感謝の気持ちとは、犬に悩まされて気分を悪くするようなものだ

人からの感謝の気持ちさえ踏みにじる、スターリンの冷酷さが感じられる名言です。吠えられて眠れないという理由で、他人の盲導犬まで銃殺したスターリンならではの名言といえるでしょう。

壁画

⑩独裁者としての地位を表す

わしが小指をちょいと動かせば、あんな奴、吹き飛ばされて木端微塵さ

これは第二次大戦後、スターリンがユーゴスラビアの政治家チトーを評したときの名言です。実際、スターリンはチトー暗殺のために刺客をユーゴスラビアに送り込みましたが、全てチトーに検挙されています。おごり高ぶりながらも、虚勢を張っていたとも考えられる名言といえるでしょう。

ボトル

スターリンは結婚していた?子供もいるの?

1905年、スターリンは最初の妻エカテリーナと結婚します。しかし、1907年、エカテリーナは第一子である長男ヤーコフを出産した数か月後、チフスにかかり、25歳の若さで病死しました。スターリンはひどく落ち込み、身近な者に「人間に対する私の最後の温かい感情は、彼女の死とともに消え失せた」と語っています。息子ヤーコフに対してはひどく冷淡でしたが、ヤーコフがドイツ軍の捕虜となって謎の最期を遂げたあとは、食事にも手をつけないほど塞いでいたといわれています。

2番目の妻ナジェージダとは1919年、彼女が19歳のときに結婚しました。1921年に次男のワシーリー、1926年には長女のスヴェトラーナをもうけています。夫婦仲は徐々に険悪となり、ナジェージダはスターリンの粛清を知ったときには、夫に激しく抗議しています。

人形

1932年、ナジェージダは知人のパーティーの席でスターリンと口論となったあと、寝室で銃を手にした姿で死亡しているのが発見されました。彼女の最期に関してはいくつかの説があり、虫垂炎で亡くなったと公表される一方、スターリンが彼女を殺したと主張する人も多くいます。

ナジェージダが亡くなったあと、スターリンは次男や長女にも愛情をかけることなく、家政婦に任せていました。次男は軍に所属するも、スターリンの死後は刑務所送りとなります。釈放されたあとにアルコール依存症で死亡したともされていますが、死因は定かではありません。長女は1967年、ソ連から亡命してアメリカに帰化し、国際的に称賛を浴びることになりました。

スターリンの最期とは?死因は何だった?

スターリンの最期についてはいくつかの説があります。実際のところ、1953年3月1日、スターリンは寝室で倒れているところを発見されました。就寝時に脳卒中の発作を起こしたとされています。しかし、翌朝スターリンが起きてこなかったときも、警備責任者は彼の眠りを妨げて怒りを買わないよう、午後まで何もしませんでした。そのため容体が重くなったともいわれ、4日後に死亡しています。このスターリンの最期については、彼の部下が故意に発見を遅らせた、または医者を呼ばずに放置したという見殺し説もあります。

一方、スターリンの最期は暗殺によるものだったという説もあります。亡くなった当時、彼はひどく暗殺の不安に怯えていました。本当は脳卒中で倒れたのではなく毒殺されたという説や、脳卒中だったものの、その後の治療で毒を投与されたという説もあります。

このようにスターリンの最期については諸説ありますが、いずれにしても部下による見殺し説や暗殺説が根強く語られるのは、彼の所業によるところが大きいと考えざるをえません。

帽子

スターリンの晩年の名言とは?

先ほどご紹介したスターリンの名言からもわかるように、彼は極度の人間不信と猜疑心に苛まれていました。暗殺の恐怖に怯えつづけていたスターリンの晩年は、「自分の周りにいる人間は全て敵である」という病的な妄想に取りつかれたものだったのです。その心中が察せられるような彼の晩年の名言をご紹介しましょう。
 

私はもうおしまいだ。だれも信用できない。自分さえも

この名言は1951年、スターリンが側近であるフルシチョフとミコヤンにつぶやいた言葉です。この名言から、彼の晩年がいかに暗く寂しいものだったかを知ることができます。フルシチョフとミコヤンはスターリンが最期を遂げたあと、脱スターリン化を推し進めていったメンバーでもありました。

ソ連

スターリンの逸話を紹介!

悪名高き粛清を行い、奇異な最期を遂げたスターリンですが、その考え方を知ることができるのは彼の名言からだけではありません。彼の性格の根本を垣間見るような逸話も残されています。極端な政治思想や性格形成には、幼少期の影響もあったと考えられるのです。具体的な逸話をご紹介しましょう。

幼少期に親から虐待を受けていた

スターリンは幼少期に親から虐待を受けて育ちました。父親はアルコール依存症で妻やスターリンに度々暴力をふるいました。父親に力任せに床に叩きつけられた幼いスターリンは、何日か血尿が止まらなかったと後年母親が語っています。

やがて父親と母親は別居しますが、スターリンを引き取った母親もしつけとして彼を殴っています。権力者となったあと、スターリンは母親を宮殿に住まわせるものの、彼女が重い病気にかかるまで訪れることはありませんでした。彼が晩年の母を見舞ったとき、以下のような二人の会話が医師によって記録されています。

「どうしてお母さんは僕をあんなにひどくぶったのですか?」
「そのおかげでお前は良くなったんだよ」

列車

詩を書くことが得意だった

後世にまで語り継がれる数々の名言を残したスターリンは、言葉を紡ぐ能力が高かったのでしょう。幼い頃は詩を書くことが得意でした。1895年、16歳のとき、「朝」という名の詩が有名な新聞「イベリア」の第123号に掲載されました。1916年には彼の詩が教科書にも採用されています。その美しい言葉でつづられた詩は、後年、独裁者として残した冷酷な名言からはとても想像できないものです。

本

スターリンの誕生日は2つある?

スターリンには誕生日が2つあります。彼自身の手書きによる履歴書に記載されているものも含め、長らく彼の生年月日は1878年12月18日とされていました。しかし、1922年に権力を握ったのちは、自分の誕生日を1879年12月21日としています。その日が実際にスターリンの誕生日としてソ連では祝われていたのです。なぜ彼が誕生日を変えたのか、明確な理由はわかっていません。

バラ

【番外編】スターリンのように世界で大虐殺した人物とは?

世界の歴史において大虐殺を行なった人物はスターリンだけではありません。比較的記憶に新しいところでは、中国の毛沢東、ドイツのヒトラー、ベルギーのレオポルド2世などが挙げられます。毛沢東の政策は今でも議論の対象となっていますが、ヒトラーの最期は自殺という形でした。レオポルド2世も最期を迎える頃には国王としての名誉は失墜し、国民からの敬意も失っています。スターリンも含め、悲劇の物語として単純にひとくくりにはできませんが、犠牲となった人々のことは永遠に歴史から消え去ることはないでしょう。

戦車

スターリンのような独裁者が生まれない世界に

スターリンについて生い立ちから名言なども含めてご紹介してきました。絶対的な権力を誇った人物ながら、晩年は暗く寂しいものだったことがわかります。現在、ロシア国内でもスターリンを「強い指導者」として再評価する動きはあります。しかし、因果応報という言葉を思わせるような独裁者の最期は、私たちが歴史から学ぶべきことを教えてくれるのではないでしょうか。

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chawa

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