VAN創業者「石津謙介」日本メンズファッションを創った男がスゴい!
今では日本で当然のように着られているアメカジファッション。そのスタイルを日本に浸透させた日本のメンズファッションの祖とも言える石津謙介とは、一体どのような男性だったのでしょうか? 今回は石津謙介の生い立ちやVANの創業から衰退までをご紹介したいと思います!
目次
VAN創業者石津謙介とは?
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石津謙介
VAN創業者
現在の日本では当たり前のように着られているアメカジファッションですが、このアメカジファッションを日本に浸透させ、メンズファッションの祖と言われているVAN創業者石津謙介とは一体どんな人物なのでしょうか?
また高級子供服ブランドファミリアやNHKの朝ドラ「べっぴんさん」との繋がりとは?
今回は、VAN創業者石津謙介についてその生い立ちやVANの創業から衰退までご紹介したいと思います!
石津謙介という人物について
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VANのロゴ
石津謙介と言えば、日本のファッション業界で知らない人はいないと言われているほど有名人です。
日本初のトータルファッションブランド「VAN」の創業者であり、戦後の日本にアメリカのメンズファッションを浸透させ、現在のメンズファッションの基礎を作り上げました。
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岩佐栄輔
『べっぴんさん』で主人公に片思いをする青年
現在日本で普通に使われている「トレーナー」「スニーカー」「Tシャツ」「T.P.O(Time Place Occasion)」などの言葉を生み出したのも石津謙介です。
また、NHKの朝ドラ『べっぴんさん』で主人公すみれに想いを寄せる岩佐栄輔は、石津謙介がモデルだと言われています。
『べっぴんさん』に登場する石津謙介
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坂野惇子
『べっぴんさん』の主人公すみれはそもそも、日本の高級子供服ブランド「ファミリア」の創業者である坂野惇子がモデルになっており、ファミリアを一流ブランドに育て上げるまでをドラマにしています。
また、モデルとなったファミリアの創業者である坂野惇子は、実際に石津謙介と会社や共通の知人を通して繋がりがあったようでした。
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ファミリアのロゴ
ドラマ『べっぴんさん』の中で岩佐栄輔は、実在のファミリアの創業者である坂野惇子がモデルとなった劇中の人妻であるすみれに想いを寄せ、物語の中で失恋をした後、すみれ達とライバル関係になっていくという役どころです。
では実際の岩佐栄輔の役どころのモデルと言われる石津謙介と、ファミリアの実在の創業者坂野惇子とは具体的にどのような関係だったのでしょうか?
次はその関係性や、石津謙介の生い立ちなどを見ていきましょう。
石津謙介はお坊ちゃん育ちだった
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大学生の石津謙介
1911年、石津謙介は岡山で紙問屋の二男として生まれ裕福な家庭で育ちました。学生時代からオシャレとして有名でファッションにのめり込んでいたそうです。後に妻となる昌子と出会ったのも学生時代だそうです。昌子の証言によれば大学生時代に二人は出会ったと言われていますが、石津謙介本人によると妻との出会いはもっとずっと前、中学五年生の時によく帰り道にすれ違う場所でナンパしたと語っています。
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石津昌子
石津謙介の妻
妻の昌子は石津謙介同様非常にオシャレで男女関係に先進的な考えを持っていたため不良カップルと呼ばれ、当時から目立っていたようです。また大学時代に石津謙介はまだ妻ではなかった昌子と5日間のみではありますが、同棲をしたことがあるようです。
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石津夫婦
勿論そのことがバレると父親に激怒され、仕送りを止められてしまいますが、昌子を妻にすると宣言して納得させたそうです。実際、大学卒業後は家業である紙問屋を継ぐと同時に結婚し昌子は正式に石津謙介の妻となりました。
実家が廃業し中国へ渡航した
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現在の天津
無事に家業を継いだ石津謙介でしたが、日中戦争の戦況が悪化し、紙の原料となるパルプの入手が困難になったことや統制法などの影響で自由に紙が売買できなくなったことにより、紙問屋は廃業を迫られました。
この時に、当時の友人から中国にある日本人が経営している洋品店で働かないかと誘いを受け、石津謙介は妻と息子を一時日本に残して(妻と息子は後に中国に呼び寄せました)単身中国天津に渡り、遂にファッション業界へと足を踏み入れました。
石津謙介は中国で異文化を学んだ
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尾上清
当時の天津は世界中の人が集まって生活をしており、元々欧米文化に憧れを持っていた石津謙介は様々な国の人と積極的に仕事をし、英語を習得し異文化に触れました。
また、この時に後に大きな関わりを持つこととなる尾上清と知り合います。
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レナウンのロゴ
レナウンは大手アパレル企業です
尾上清は石津謙介が勤めていた会社と大きな取引をしていた佐々木営業部(のちのレナウン)というアパレル企業の跡取り息子で、徴兵で天津に来ており、天津にあった会社の支店や石津謙介の会社のお金を使って豪遊していました。
尾上は豪快で面倒見がよかったため、石津謙介とも仲良くなったようです。
尾上清と「ファミリア」の坂野惇子の関係性
「ファミリア」の設立の援助も
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野上潔
この尾上清は、野上潔という役で『べっぴんさん』に登場しており、ファミリアの創業者である坂野惇子とも深い関わりがあります。
惇子の父親である佐々木八十八と尾上清の父親である尾上設蔵は共に佐々木営業部(のちのレナウン)を立ち上げた創業者であったため、二人は父親を通した古くからの知り合いでした。
また『べっぴんさん』と同じように坂野惇子に経営の助言を与え、後のファミリアの立ち上げの援助も行っています。
石津謙介は坂野惇子と『べっぴんさん』のような接点はない
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坂東すみれ
『べっぴんさん』の主人公
しかし、石津謙介は『べっぴんさん』のように妻や息子を戦争で亡くしたり、ファミリアの坂野惇子に想いを寄せていたという事実はありません。
また、『べっぴんさん』で起こった「キアリス」と「エイス」の対立のように、ファミリアと石津謙介がのちに立ち上げるブランド「VAN」が対立していたという話も全くなく、二人の接点は野上潔がほとんどのようです。
アイビールックとの出会いと石津謙介の再就職
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アイビーリーガー
アメリカの伝統ある難関名門大学8校に通う大学生の総称、富裕層が多い
日本の敗戦後、中国人からの報復を恐れて石津謙介と妻や息子たちは日本に帰国します。
この時手続きを行ったアメリカ軍の兵士であるオブライエン中尉が石津謙介とアイビールックとの出会いでした。
石津謙介はアイビーリーガーのファッションやライフスタイルなどを熱心にオブライエン中尉に聞いていたそうです。
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メリヤス編み
日本に帰国後は尾上清の口利きで当時日本一のメリヤス問屋となっていた佐々木営業部へ再就職しました。
佐々木営業部では、石津謙介は肌着やセーターなどを作り売っていましたが、やがて独立への思いを強く持つようになり、アパレルブランドの立ち上げに踏み切ります。
「VAN」の誕生
石津謙介は会社を設立
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石津謙介は同僚と3人で「石津商店」を大阪で始め、テーラードジャケットやコートなどを作り始めました。
石津商店の服は高級品でしたが、服は飛ぶように売れ、店を始めたわずか3カ月後には「有限会社ヴァンヂャケット」を設立し、ファッションブランド「VAN」が誕生し、石津謙介は社長へと就任しました。
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メンズ・クラブ
日本初のメンズファッション誌
「VAN」は俳優が着用したことや、新しく創刊された日本で初めてのメンズファッション誌「男の服装(のちのメンズ・クラブ)」で大きく取り上げられ宣伝されたことなどにより、「VAN」はブランドとして成長していき、1955年には東京進出を果たすまでとなりました。
アイビールックの流行やみゆき族の誕生
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アイビールック
社長である石津謙介は、メンズファッションがまだ未開拓だった当時の日本で世界標準の服が着られるようにしたいと考え、以前オブライエン中尉から聞いたアイビーリーガーのメンズファッションは、富裕層の若者がみんな着ているもので、アイビールックこそがアメリカンスタンダードであると考えて日本でもアイビーファッションを打ち出していきました。
石津謙介がみゆき族の教祖に
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みゆき族
それまで日本のメンズファッションになかったカジュアルな服装であるアイビールックは大きな流行を見せ、当時銀座のみゆき通りにアイビーファッションを身にまとった若者たちがたむろする、いわゆるみゆき族と呼ばれる社会現象が起きるほどでした。
また、石津謙介はアイビールックの教祖と呼ばれるようになりました。
ヴァンヂャケットの経営不振
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「VAN」はその後も順調にブランドとして成長、「ヴァンヂャケット」も順調に経営を行っていたのですが、急速に店舗などを増やしていき、大量生産を行ったことで売上は毎年伸びていた一方で、在庫がかなり残るようになってしまい処分に困るようになっていました。
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また、会社を立ち上げた当初自由な社風を売りにしていた「ヴァンヂャケット」は企業として成長する過程でその自由さを失い、社員はどんどん不満を募らせていきました。
そこに第1次オイルショックの影響などもあり、「VAN」はバーゲンセールを頻繁に行うようになり、以前の誰もが憧れるかっこいいメンズファッションブランドの地位から激安ブランドへと転落してしまいました。
石津謙介の社長引退
経営権は副社長の石津祥介に
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石津祥介
石津謙介の息子で長男
その後も「ヴァンヂャケット」は経営戦略に失敗し、社内で不満を爆発させていた社員によって労働組合が結成されました。
またその次の年に石津謙介の息子である三男の啓介が死去したこともあって、この年に石津謙介は社長のまま息子で長男・副社長だった石津祥介に経営権を譲りました。
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丸紅のロゴ
しかしその後「ヴァンヂャケット」の経営の一角を担っていた丸紅の社長が逮捕された事件の影響で、息子で副社長の石津祥介は経営権を持った副社長から降格、石津謙介は代わりに丸紅の人物を副社長にしましたが、その年の決算でも売上の落ち込みなどにより90億円の赤字を計上してしまい、責任を取って社長を退き石津謙介は会長に就任しました。
ヴァンヂャケット倒産後の石津謙介
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ダーバン
ヴァンヂャケット倒産後石津謙介は尾上清の援助を受け次男裕介の自宅へ引っ越したほか、尾上の計らいで自身が設立した紳士服メーカー「ダーバン」のアドバイザーとして雇いました。
倒産後しばらく石津謙介は仕事に対するやる気を失っていましたが、VANのファンや周囲の人間の励ましにより立ち直り、デザイナーとして働き始めます。
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石津謙介は社会復帰後、中国政府からダウンウェアのデザインを依頼され、「雪人」と名付けられたそのダウンウェアは、ヨーロッパでヒットを飛ばしたそうです。
また会社の倒産後も石津謙介を慕う人物は多く、メンズファッション雑誌で何度も特集が組まれ、アイビーファッションは再ブームを果たしたそうです。
仕事が増えてからは事務所を設立し、執筆活動をメインに行っていました。
石津謙介の最後
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石津謙介は80歳を超えても6人のガールフレンドを作るほどのプレイボーイでしたが、86歳になったことを機に、夜遊びは控えるようになったそうです。
石津謙介はその後も文化的な活動を続けていましたが、やがて健康を害し入退院を繰り返すようになります。
そして2005年5月24日、肺炎により、この世を去りました。
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石津謙介は、当時婦人画報社の専務取締役だった熊井戸立雄氏と出会い「男の服飾(MEN'S CLUB)を創刊。
石津謙介は生前から、尾上清同様、「葬式は不要」という考えを持っており、友人の熊井戸立雄が死去した際型に捉われない葬式のやり方を立案、実行していたほどでした。
石津謙介の死後は、遺言通り葬式は執り行われず検体に出されました。享年95歳でした。
石津祥介について
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石津祥介
石津謙介の息子(長男)
石津謙介の息子であり、一時はヴァンヂャケットの副社長として経営を行っていた石津祥介については、現在も存命で、今年で83歳になります。
石津祥介は、初め頃VANの宣伝としても使われていた「男の装飾(のちのメンズ・クラブ)」の編集部に勤めていました。
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「TAKE IVY」
石津祥介が出版したアイビーファッションのスナップ写真集「TAKE IVY」は世界中で発売され、「ニューヨークタイムズ」でも取り上げられたことがあるほど有名です。
その後石津祥介はヴァンヂャケットに入社し副社長となりましたが、会社が倒産してしまいました。
出典: http://kawakiya.co.jp
現在でも石津祥介は、石津謙介の息子として事務所の運営を行っています
現在石津祥介は石津謙介が立ち上げたブランド「KEN COLLECTION」や「KEN'S EYE」を事務所を運営しながら管理しています。
またその他にもファッションデザイナーやファッションディレクターを行っており、メンズファッション協会の常任理事なども務めているようです。
石津謙介のまとめ
石津謙介とは、日本における「アイビーファッション」の元祖とも言われており、当時の日本にカジュアルな服装を風俗として取り入れるというファッション業界の革命を起こしました。
現在でも使われている「スニーカー」「トレーナー」「Tシャツ」「TPO」などの言葉を作り出したのも石津謙介だと知ると、かなり日本のファッション業界に影響を与えた人物であることが分かります。
一方で石津謙介は、経営戦略の暴走により会社を倒産させており、経営者としては非難されることの多い人物ですが、ファッション業界の人々にとっては今でも「ファッションの神様」として輝き続けています。