悲劇の特攻兵器『人間魚雷・回天』についてまとめ

人間の命と引き換えに敵艦を沈める究極の特攻作戦。その兵器こそ「人間魚雷回天」。出撃すれば二度と生きては戻れず、多くの若者が海に散っていったのです。太平洋戦争末期に行われた悲劇の特攻作戦、悲劇の兵器人間魚雷回天にスポットを当ててみましょう。

悲劇の特攻兵器『人間魚雷・回天』についてまとめのイメージ

目次

  1. 1人間魚雷回天はどうやって生まれたのか?
  2. 2人間を乗せた新型魚雷を開発
  3. 3運命の2人が出会って動き出す歯車
  4. 4多くの若者が回天の訓練基地に
  5. 5考案者の殉職
  6. 6仁科の鬼気迫る態度に隊の士気は大いに高まる
  7. 7仁科中尉、黒木少佐の遺骨とともに
  8. 85基の回天が発進
  9. 9人間魚雷回天の破壊力は
  10. 10人間魚雷回天の操縦席は
  11. 11人間魚雷回天の任務達成は至難の業
  12. 12人間魚雷回天の戦果は
  13. 13ますます戦果が挙がらない回天作戦
  14. 14新たな作戦が・・
  15. 15海へ消えた若者たちのエピソード
  16. 16まとめ

人間魚雷回天はどうやって生まれたのか?

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昭和17年6月のミッドウェー海戦以降、日本軍は劣勢が続いた。そういう背景から、過去に例を見ない苦肉の策とも言える兵器の採用が検討された。乗組員の命と引き換えに戦況を打開させようとする特攻作戦である。

人間を乗せた新型魚雷を開発

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昭和19年2月、有人の新型魚雷の開発に海軍はとうとう踏み切ることになった。当初の計画は、あくまで脱出装置をつけることが条件であった。ところが戦局の悪化により、開発に時間とコストのかかる脱出装置は省かれ、乗組員の命を犠牲にする人間魚雷の誕生となった。

運命の2人が出会って動き出す歯車

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戦艦や潜水艦から発射される魚雷は、一度発射されれば直進するのみで途中で進行方向を修正できず、タイミングを間違えるとほぼ目標には到達できなかった。

しかし魚雷自体が自由に進行方向を調整でき、目標を追跡できたらどうだろうか・・。こんな夢のような兵器開発に思いが至ることになる。

呉軍港の近くに魚雷の実験施設があり、旧式となった九三式魚雷を改善し有効活用できないかと思いを巡らしていた若者がいた。それが海軍機関学校出身の黒木博司中尉だった。そんな中、海軍兵学校を卒業し潜水学校の過程を終了し実験施設に配属されたのが仁科関夫少尉だった。

仁科は、戦局を打開すべく良い方法はないかと模索していたが、思いがけずに黒木と同室となる。黒木、仁科の2人の出会いがあり、こうして人間魚雷回天という兵器出現の歯車は動き出すことになる。

多くの若者が回天の訓練基地に

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回天が正式に兵器として認められる前の1944年7月には搭乗員の募集が始まり、全国から約1,300名強の若者が選抜された。兵器の詳細は知らされなかったが、志願者の多くの者は戦闘機に似た乗り物を想像していた。しかし実際には戦闘機とは程遠い真っ黒な物体を見て、落胆する者も多かったようである。

しかし愛国心の強い若者たちは、すぐに「これで自分が日本を救うんだ」との気概に燃えすぐに気持ちを切り替えた。

考案者の殉職

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1944年9月1日、正式に回天の訓練基地として徳山湾の大津島基地で、訓練が開始された。しかし直後の9月6日に事故が発生。黒木と樋口孝大尉の乗った回天が行方不明となる。

9月6日は波が高く、多くの者は訓練を中止したが黒木たちは訓練を続行。ほどなくして海底に着底するや操縦不能となり酸素不足に陥った。翌朝に2人は遺体となって発見される。

回天の考案者の死で隊内に衝撃が走った。

仁科の鬼気迫る態度に隊の士気は大いに高まる

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黒木と樋口、2人の死によって隊の士気は大いに下がり、隊員の多くは放心状態となった。だが黒木と仁科は常日頃から訓練中にどちらかはきっと死ぬことになるだろう、いやもしかすると2人とも死ぬことになるかもしれないと話していた。

仁科は、この悲しみに耐え抜き、自ら先頭に立って立ち止まらず走り続け、見事に隊をショックから立ち直らせた。

仁科中尉、黒木少佐の遺骨とともに

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ついにその日はやってきた

1944年11月8日9時、12名の若者たちが大津島基地から出撃していった。潜水艦には4隻の回天が搭載された。12名の搭乗員の中には、黒木少佐(殉職後に昇進)の遺骨を胸に抱いた仁科関夫の姿もあった。

自分たちの作った回天に誰よりも先に乗って戦う・・という当初の計画を黒木とともに実現させた。

仁科が乗り込んだイ号47潜水艦は、11月19日に敵の船団を発見する。そして突入時刻を翌日早朝と決め、死への秒読みが始まった。

突入の時間となり、4人は回天へと姿を消す。1号艇に対して艦長から発進準備の連絡があると、仁科から電話を通して元気な声が聞こえてくる。艦長から「発進!」の合図が下ると、「後を頼みます!出発します!」という言葉とともに仁科は黒木と共に発進していった。

5基の回天が発進

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回天特別攻撃隊の中でも最初に出撃した菊水隊の戦果は、イ47潜水艦で仁科中尉以下3名全員が発進、そして4つの爆発音を確認。またウルシー停泊地で敵を待ち伏せしていたイ36潜水艦も1基の回天を発進させた。ウルシーにいた潜水艦から発進した回天のひとつが、輸送船「ミシシネワ」を撃沈したことは確認されている。

イ37潜水艦についても触れると、同艦はパラオ諸島のコッソル水道へ向かうが、アメリカ軍・駆逐艦の数回に及ぶ攻撃に遭い、激闘の末に大爆発。4基の回天が発進した形跡なく、4名の若者は潜水艦と共に壮絶な最期を遂げたと思われる。

人間魚雷回天の破壊力は

人間魚雷回天は、船首部分に大量の爆薬が詰められ、従来の魚雷と比べ約三倍の破壊力があるとされ空母すら沈める能力を有していました。操縦席には、自爆装置もついており操縦者が自発的に操作できる他に、気を失って前方に倒れるなら自動的に爆発する仕組みになっていました。

仮に成功しなくとも、二度と戻ってこれない片道切符の兵器だったのである。

人間魚雷回天の操縦席は

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人間魚雷回天のハッチを閉めると、操縦席にはたった一つの電球があるだけの暗くて狭い密室でした。身動きすら自由にできない狭さで、回天を操るのは極めて困難でした。

回天は水深5メートルで目標に接近し、一度浮上して目標物を確認します。この浮上は敵に発見されやすい最も危険な時間であり、ごく短時間のうちに確認する必要がありました。

そして再び潜航して、何も見えない状態でただコンパスと時計を頼りに突進するのである。訓練では、エンジンが停止したり海中に突っ込んだりで事故が続出し、実戦を前にして15名の若者が命を落としました。

人間魚雷回天の任務達成は至難の業

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昭和19年10月、劣勢を挽回すべく日本海軍は捨て身の作戦に打って出ます。フィリピンのレイテ沖で、アメリカ艦隊に対して持てる全戦力を集結させます。しかし日本軍は大敗北を喫し、連合艦隊は壊滅状態となりました。

そこで人魚雷回天は、最後の切り札として強い期待を背負うことになりました。

レイテ沖海戦から2週間後の12月8日、人間魚雷回天の部隊が南太平洋のウルシーに向けて初出撃となった。標的は一連の環礁に停泊中のアメリカ艦隊であった。母艦の潜水艦が敵艦向けて密かに接近し、搭載されていた回天がここぞとばかりに出撃した。

しかし搭乗員には正確な地図や敵艦隊の配備や位置に関する情報もなく、目標に到達することは至難の業でした。

人間魚雷回天の戦果は

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9人の尊い若者の命と引き換えに人間魚雷回天の挙げた戦果は、わずか一隻のタンカーだけでした。その後も回天による奇襲作戦が行われましたが、戦果は殆ど挙がりませんでした。

しかし大本営は、その事実を隠して多大な戦果を挙げたと発表し、残された隊員たちは大いに沸き立っていたという悲しい記録が残っています。

ますます戦果が挙がらない回天作戦

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昭和20年4月、アメリカ軍が沖縄に上陸し日本海軍は壊滅状態に陥っていた。日本軍は残っていた僅かな戦力をすべて奇襲作戦である特攻につぎ込もうとした。

しかしアメリカ軍は、駆逐艦を大量に投入し艦隊警備を万全にするなどし、回天は停泊地に近づくことさえ出来なかったのである。

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海軍は、成果の上がらない回天作戦を全面的に見直す必要性に迫られた。停泊中の艦船を狙うのでなく、アメリカ軍の補給経路で艦船を待ち伏せし、移動中の艦船をターゲットにしたのである。しかし標的が動いているため、攻撃が難しく極めて命中率が低いものとなった。

新たな作戦が・・

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昭和20年5月、移動中の艦船をターゲットにする新たな作戦のもとで、回天振武隊が出撃。大津島で半年間互いに励まし合ってきた仲間5人が搭乗員であった。彼らが母艦として乗り込んだのは伊号367潜水艦だった。

二度と生きて帰ることのない回天作戦。出撃の判断は、潜水艦の艦長に委ねられていた。

出典: https://www.akinokuni.jp

結局、回天が撃沈した艦船は、アメリカ軍の資料によるとわずか3隻。しかし日本軍はなおも特攻を止めなかった。御前会議で海軍トップは、引き続き特攻精神に徹すると主張。特攻は終戦まで続けられ、若い命が次々の海の藻屑と消えることになったのである。

戦局を挽回するという名目で製造された特攻兵器「人間魚雷回天」。作戦開始から9ヶ月を経過して、僅かな戦果と引き換えに回天で命を落とした若者は104名にものぼる。

海へ消えた若者たちのエピソード

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3名の魂の叫び

菊水隊の活躍の裏で辛い思いをした男たちがいた。イ36潜水艦に乗り込んだ搭乗員のうちの3人だ。3基の回天は機械の不具合で出撃できずやむなく帰還した。しかし基地へ帰還した後、すぐに彼らは再度の出撃を申し出た。

指揮官であった板倉少佐は、彼らを今度は後輩の指導に当たらせたいと考え、再出撃を認めなかった。しかし3人はさらに上層の長井少将に再出撃を直訴。

無理に拒否すると自決しかねない判断した長井は願いを聞き入れた。これが前例となり、金剛隊以降の出撃では数回の出撃を繰り返すのが当然となった。

菊水隊で目的を果たせずに戻った3人は、続く金剛隊で出撃して命を落とすことになる。

まとめ

若者の尊い命と引き換えに敵艦を撃沈する捨て身の兵器、人間魚雷回天。太平洋戦争末期、劣勢であった戦局を挽回するべく日本海軍が考え出した究極の特攻作戦だったが、思うような成果に結びつかなかった。

これは人の命と引き換えに戦争を続行しようとする、許しがたい苦し紛れの戦法といえる。回天の故障により出撃を果たせなかった隊員が、当時を振り返り語った次の言葉がなんとも胸に刺さる。

「日本ほど人間の命を粗末に扱った国は、世界広しといえど数少ないだろう・・」

国家間の紛争としての「戦争」、無差別な暴力により思想主張をする「テロ」。特に後者は自爆テロといった過激な形で世界中で起きている。

今回、採りあげた「人間魚雷回天」は、そのような自虐的行為の走りとなったと言われても弁明の余地がないように思える。

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