【遊女の歴史】避妊方法・遊女の名前・水揚げ・花魁・階級

遊女たちに対し、どのような認識をしているのでしょうか。現代社会には、娼婦という存在があり、花魁を娼婦と同等のものと考える人もいるかもしれません。性を売るという意味では同じかもしれません。しかし、社会背景など考えると遊女と、娼婦は全くのに別物なのです。

【遊女の歴史】避妊方法・遊女の名前・水揚げ・花魁・階級のイメージ

目次

  1. 1遊女の避妊方法
  2. 2遊女をテーマにした映画
  3. 3遊女の歴史
  4. 4遊女の身請けとは
  5. 5遊女の着物
  6. 6遊女の髪型
  7. 7遊女の言葉
  8. 8遊女という存在を総括すれば

遊女の避妊方法

遊女とは現代社会にも通じるワードなのでしょうか。それとも、既に歴史の産物なのでしょうか。遊女とは、遊郭や宿場で男性に性的サービスをする女性のことです。

それは、現代社会でいう、娼婦・売春婦のことであり、娼婦・売春婦と同様にして、避妊という問題に日々注意を払い仕事をして来た人たちです。しかし、遊女の時代は江戸であり、現代社会の人たちの避妊の方法とは随分違う点もあったのではないでしょうか。

現代社会の避妊の方法

現代社会の人たちは、どのような方法で避妊しているのでしょうか。まずみなさんが一番最初に思いつく方法は、コンドームです。 コンドームは、歴史の長い、日本で一番使われている避妊方法ともいうことが出来ます。

コンドーム

[フリー写真] 海に入って彼女を抱き上げる彼氏でアハ体験 - GAHAG | 著作権フリー写真・イラスト素材集

正しい使用の仕方をすれば、かなり避妊の確率は高いと言われています。現代社会の人たちはセックスによって、エイズなどの性感染症の心配もしなければならないですが、性病の問題でも多くの人たちが、コンドームに信頼を寄せていることでしょう。

コンドームは、殺精子剤やペッサリーなど、他の避妊道具と併用することによって、より避妊効果を高めることが出来ます。

殺精子剤

殺精子剤は、子宮頸を覆って妊娠を防ぐ、クリーム、ゼリー状や錠剤、フィルム剤などの様々な形をしたものです。精子を殺したり麻痺させたりして、膣までの通行を不可能にしたりする働きを持っている化学的避妊法です。

ペッサリ-

ペッサリ-は、小さいゴムで出来たお皿のような形で、コンドームよりもやや厚みのある天然ゴムで作られたキャップです。

女性用コンドーム

そして、女性の人たちのために、女性用コンドームというものもあります。 女性用コンドームはポリウレタンでできた筒型をしているものであり、定位置に固定するためリングがついています。

小さいリングは膣の中の子宮頸部に挿入し、大きいリングは膣の外に出します。女性用コンドームは、男性用コンドームとの併用をすることはできません。

経口避妊薬(ピル)

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経口避妊薬(ピル)は、女性の排卵を防ぐホルモン(エストロゲンとプロゲスチン)が含まれています。経口避妊薬(ピル)をより効果的に使うため、セックスする予定があろうがなかろうが、毎日同じ時間には1錠飲む必要があります。

遊女たちの避妊の努力

現代社会の人たちは、避妊という問題を回避するために、このような努力をしている訳ですが、果たして遊女の場合、どの程度の避妊の努力をしていたというのでしょうか。

つまり現代社会の人たちは、簡単にコンドームに依存することが出来ますが、江戸時代には、ゴム製品というものも存在していないのです。江戸時代において、遊女という特別な存在を除いて、基本的には、避妊という意識はあまり持ってはいなかったといいます。

江戸遊女の時代にもコンドームもどきの存在があった?

[フリー写真] 花畑とお腹の上でハートを作る妊婦でアハ体験 - GAHAG | 著作権フリー写真・イラスト素材集

実は、江戸時代、遊女の時代にも、コンドームもどきのものが存在していたと言われています。江戸時代後期の1857年(文政10)の『閨中女悦笑道具(けいちゅうにょえつわらいどうぐ)』にはそれが登場し、「茎袋(きょうたい)」という名前のものです。

実際に見た目、コンドームのままという感じなのですが、ゴムではなく、動物の皮で作られたものなのです。コンドームと同じ様にして遊女も、男性器にかぶせて使用をして来ました。遊女たちが使用していたコンドームは、「ルーデサック」とも呼ばれていました。

遊女の避妊道具は高い?

[フリー写真] 雪とカウボーイハットを被る女性の後ろ姿でアハ体験 - GAHAG | 著作権フリー写真・イラスト素材集

もちろん、遊女が考案したものでもなく、日本製ということでもなく、オランダからの舶来品ということです。遊女は、オランダからの舶来品を購入しなければならないから、随分高いお金を支払いしていたことになります。

しかし、オランダからの舶来品は使用すれば、非常に使い心地も悪かったと言いますし、そして、それほどいい効果も期待出来ませんでした。 実際に、遊女のためにそのようなものが存在していたとしても、お守りのような気休めの存在にしかなっていなかったのです。

遊女の時代 別の避妊の方法

更に、遊女の時代、「甲形(かぶとがた)」という道具を使っての避妊の方法もありました。「甲形(かぶとがた)」という名前自体、何か使用感がいいとは決して思えないですが、本当に遊女の時代、このようなもので避妊していたのでしょうか。

「甲形(かぶとがた)」の、素材は、水牛の角やウミガメの甲羅(べっ甲)なので、相当使用して痛いという感じもして来ます。男性器の先端にかぶせて使うものです。

アダルトグッズも存在していた

余談ですが、遊女の時代にも、既に、 「鎧形(よろいがた)」という道具で陰茎にはめて使うアダルトグッズも存在していたようです。遊女の時代、避妊グッズや、アダルトグッズまでも存在していたということにはちょっと驚きがありますが、問題は、その避妊道具に対してもやはり気休め程度の効果しか期待出来ないことです。

「茎袋」や「甲形」というものは、そもそも、実際にはそれほど避妊の効果を期待することが出来ないゆえ、そのようなグッズが存在していたとしても、ほとんど、ジャンルは、大人のおもちゃの扱いです。

とはいうものの、それほど大笑いもすることが出来ません。現代社会においても、まだまだコンドームなど、大人のおもちゃのお店で購入するべきものという認識が断ち切れている訳ではありません。

遊女の時代、大人のおもちゃのお店が既にあった?

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コンドームと、大人のおもちゃを同じジャンルとして考え、既に江戸時代には、大人のおもちゃのお店が存在していたも言われています。両国にあった「四ツ目屋」という店がそれにあたると言われています。

避妊具も、そこで購入することが出来、媚薬みたいなものもここで販売されていた言います。 ここで、販売されている「長命丸(ちょうめいがん)」というものは、現代社会でいう、バイアグラにあたるものであり、やはり江戸時代において、遊女たちと遊ぶために、男性たちも相当努力をしていました。

遊女の時代、魚の浮き袋も避妊道具

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実際に、遊女の時代、避妊というモチベーションを多くの人たちが持ちたいと思うものの、道具として満たされたものはそれほど存在はしていなかったようです。それはほとんど、避妊は不可能であり、理想に過ぎなかったということなのでしょうか。

実際、魚の浮き袋も避妊道具としていたちょっとお粗末な時代なのです。コンドームらしきものが登場したのは、1909年(明治42)のことと言われています。

おもちゃのようなものに過ぎなかった

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しかし、そこでもまだまだ避妊道具と正式に言えるようなものではなく、おもちゃのようなものに過ぎなかったのです。実際に、現代社会に繋がるコンドームが誕生したのは、1934年(昭和9)のことであり、こんなにコンドームの歴史が浅いということに瞬間驚きも感じるのではないでしょうか。

現代社会の人たちが、当たり前にコンドーム、コンドームというものの、ちょっとした現代社会のブームのようなものかもしれません。最初、コンドームという存在は避妊道具という感じよりは、性病目的のために使用するイメージが強かったとも言われています。

昔の人たちは、避妊したいという気持ちももちろんあったでしょうけど、現代社会の人たちよりももっと、性病という問題をより警戒していたのです。

遊女の時代 妊娠という認識はもっての他

私達はもっと遊女という存在を知る必要がありますが、遊女という仕事だからこそ、妊娠はやはりもっての他だったはずです。遊女たちは、時代が、避妊向きでなかったとしても、それなり遊女たちで苦労し、工夫していました。

遊女たちは、独自で、和紙を使って避妊をしていたと言います。 正しく言えば、「御簾紙(みすがみ)」という薄くて丈夫な和紙の一種を使用していたと言います。

遊女は和紙を使って避妊

遊女たちが、どのような方法で、そのような和紙を使用したのかといえば、彼女たちは、和紙を口の中に入れて、噛み、柔らかくして、丸めたものを女性の局部に詰めて避妊したといいます。現代社会において、ペッサリーに似た、避妊の方法とも言えるのではないでしょうか。

とにかく、遊女たちは事後一生懸命流していた

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そして、遊女たちは、事後、一生懸命水で流したと言います。現代社会のように避妊の方法が確立してない時代、その方法が一番確実とも考えられていました。

遊女の時代、避妊薬も存在していた

遊女の時代、「月水早流(げっすいはやながし)」「朔日丸(ついたちがん)」というピルのような避妊薬も存在していたと言われています。

値段は372文(約7440円)、100文(約2000円)とともに高価だったので、なかなか遊女たちも手に入れることが出来ませんでしたし、かつ効果も、ほとんど期待出来ず、そもそもどのような成分なのかも不明なのです。避妊のための薬というだけでなく、堕胎薬としても、同じ薬が出回っていました。

遊女は結果妊娠していた

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結局、避妊の方法をいろいろと考えるものの、遊女の時代、それほどいい効果が期待出来る方法を見つけられている訳ではありません。結果、残念ながら遊女たちは、妊娠してしまうことになり、堕胎という次のステージに進むことになります。

「間引き」と呼ばれる乳児殺しが、一般的に存在しているのもこの時代のことであり、堕胎専門医というものは遊女の時代、存在していました。豊臣秀吉に仕えていた中条帯刀(たてわき)を祖とした外科や産婦人科の一派とし、「中条流(ちゅうじょうりゅう・なかじょうりゅう)」という存在がそれをおこなっていました。

遊女の時代「中条流」の看板も

遊女の時代、「中条流」の看板も当たり前に街のいたるところで見つけることが出来、避妊薬「朔日丸」の看板も同様に見つけることが出来ました。

公然と宣伝されていたのは、庶民にとって、避妊も、堕胎も、それほど密着したものではなく、深刻に考えてはいなかったせいとも考えることが出来ます。何かそこによく判らない広告が貼ってあるな程度にしか、思っていなかったのかもしれません。

性は本来もっと隠されるべきものだからです。時代の進化に期待をして、そのような広告に、なんとなく未来の予感を感じていたのではないでしょうか。 ここで、ちょっと江戸時代の人たちが、避妊というものをどのように受け止めていたのかということも触れてみましょう。

江戸時代の女性は、子供をたくさん生んでいた

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現代社会の人たちが想像つかないほど、江戸時代の女性は、子供さんを生んでいたとも言われています。2014年の出生率(1人の女性が生涯出産する子どもの人数)は1.42で、現代社会において、兄弟という認識も実現出来ない現状です。

しかし、当たり前に、江戸時代の女性たちは、平均4~5人を生んでいたのです。 江戸時代では、初婚年齢が20歳前後と言われていますので、そこから計算すれば、高齢の出産というのも当たり前に存在していたとも考えることが出来ます。

子供を生むからこそ女性?

現代社会において、このようなことを言えば女性蔑視として批判を受けることになりますが、江戸時代の女性たちは、子供を生むからこそ女性であり、子供を作るマシーンとしても思われ方も強かったのではないでしょうか。

実際に江戸時代の、子供を多く生む理由の背景には、医療技術が未熟なので、たくさん、子供さんを生んだとしても、その中から死んでしまう子供が出てきてしまうためです。確率的に、その中から必ず死んでしまう子供も出てきてしまうから、女性は、子供を数多く生んでいたのです。

避妊というキーワード

そうであれば、江戸時代の人たちにとって避妊というのは、それほど重要なキーワードではなく、避妊薬「朔日丸」という広告を街で見かければ、具体的に自分たちの生活に関わりあうものではないけど、何か舶来のイメージもあり、新しい未来を予感させてくれる広告にも見えるのではないでしょうか。

中には、避妊なんてバカ言っているんじゃないわよという冷ややかな目で見ていた女性もいたのでしょう。そのころ、真剣に避妊について考えているのは、やはり遊女たちなのです。

遊女をテーマにした映画

みなさんには、遊女という存在がどのようなものかまずは正しく理解をして欲しいのです。遊女という言葉も現代社会において、あまり使用のされなくなってしまった言葉ですが、一方にある、「芸者」 「舞妓」 「花魁」という言葉と混乱してはいないでしょうか。

海外の人たちが、昔の日本を題材にして、映画を撮影するとき、見事、これらのことが全然区別出来ないまま撮影しているということもあります。そして、段々と、日本人の方々も、その事態に笑えなくなって来ている現状があるのではないでしょうか。

芸者とは

芸者とは、京都以外における女芸者さんの事です。三味線や舞、笛、鼓、太鼓などの芸を披露してくれる人たちのことです。よく聞く、半玉さんというのは芸者の見習いのことであり、京都の舞妓と同じ意味を持っています。

舞妓とは

舞妓とは、京都の芸者の呼び名であり、芸妓になる一歩手前の修行段階の人たちのことを言います。

花魁とは

花魁とは 吉原での遊女の総称のことを言います。 格の高い遊女たちを呼ぶ「太夫」は、島原から真似たとも言われています。

島原の太夫は10万石の大名と同列だったのです。そのような人たちは、芸も素晴らしくあり、風雅にも文化にも通じたと言われています。

芸者には娼婦という一面も存在しているのか

芸者は、一応芸を売る人であることは判ったものの、彼女たちは、本当に、芸だけをこなすことを求められている存在だったのでしょうか。ここで追求しなければならないのは、花魁イコール遊女と、芸者の違いです。

遊女とは、古い時代から近代にかけて、男性客に対して性的サービスを中心とした接客で生計を立てていた女性のことです。実際に、遊女のいる遊郭では、芸者や男芸者(幇間)と言った人たちが出入りしていたとも言われています。

そこにいる芸者は、唄や三味線、踊り、話芸などの芸でお客様をもてなすプロです。 かつておこなわれていた遊郭遊びでは、お客様が指名した花魁が到着するまでの間、つなぐために十八番の芸を披露していたと言われています。そこには、芸者が遊女ではないという明確な区別を見ることが出来ます。

芸は売っても身は売らぬ

「芸は売っても身は売らぬ」とも言われています。これは、芸者の矜持を表わす言葉です。しかし、そうはいうものの、もっと前の時代では、線引きもやや好い加減と思われるような部分はあったと言います。

そして、吉原など公営の遊郭が機能する時代に突入して、遊女のほうが芸者よりも格が上ということで、区別が明確に生まれることになります。実際に、もしも芸者が、遊女まがいなことをしてしまえば、遊女の仕事を奪ってしまうことになります。

しっかりお互いがお互いの仕事を守るためにも、線を引くことは大事です。遊郭における厳格なしきたりやシステムが確立したから、芸者は芸者としてのしっかり自分の道を進みだしたという感じではないでしょうか。

遊女と娼婦の違い

遊女たちは、古い時代の、娼婦、売春婦と言ってもいいでしょう。遊女のほうが芸者よりも格が上ということを既にお話ししましたが、つまり、娼婦、売春婦であったとしても、社会が彼女たちをどのように受け止めて来たのか全然違う時代背景があり、遊女たちは、自分自身の仕事に対して、かなり自信と自覚を持ち、現代で言えば、売れっ子アイドルのような存在です。

娼婦だからと言ってさげすまされることもなく、吉原の遊女は幕府公認だったので、それ相応の社会的地位で見られていました。超高級遊女ともなれば教養も相当身につけていたのです。そんな遊女たちのことを映画から学んでみましょう。

吉原炎上

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五社英雄監督・名取裕子主演の映画で、吉原ものの代表的な映画とされています。吉原の習慣などがリアルに描かれていてかなり勉強になりますが、中絶などのハードな面を描くシーンもあります。

さくらん

蜷川実花監督作品で、土屋アンナが主演した花魁の映画です。禿(江戸時代の遊郭に住む童女)として連れてこられて、一流の花魁として成長していく過程が描かれています。菅野美穂の演技にも注目してください。

花宵道中

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そして、花宵道中という映画もあります。安達祐実さんが、胸をあらわにした妖艶なおいらん姿を見せたりといろいろ話題にもなりました。足で客を小突いたりするなど刺激的なシーンもあり、花魁という存在が、かなり偉い立場にいたこともここから知ることが出来ます。

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遊女の歴史

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ここでもう少し、遊女という存在を掘り下げて見つめてみましょう。下位の遊女と一夜を共にするのとは違い、花魁を揚げる(茶屋で遊ぶ)には様々なしきたりが存在していました。

花魁とは、茶屋を通し取り次いでもらう必要があり、そのためには、お客様は、茶屋で豪勢に遊び、茶屋には大金を落とす必要があり、相当お金を持っている人たちの特権の遊びということが判ります。

三百両もの揚代の支払い

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花魁を呼んで、一夜を共にするためには、茶屋に三百両もの揚代の支払いの必要がありました。一両は現在の十万円ほどなのです。花魁も、嶋原の太夫も、付き人たちの衣服・櫛道具その他すべてを姉女郎である花魁たちが負担する義務があったために、必然的には、そのような高額な揚代が必要なのです。

遊女はお客様を品定めしていた

更にルールがあり、初会、花魁は客とは離れたところに座り、客と口を利かず飲食もしなかったとも言われています。そのとき、花魁は、お客様を品定めしていると言われていました。その花魁に相応しくないと思われた人物は、花魁とつきあうことが出来なかったのです。 もしもお客様が気に入られれば、煙草を一服まわし花魁は出ていったと言われています。

そして、裏(二回目)においても、花魁は少しそばに寄ってくれるものの、基本的には初会と同じ程度です。まだまだ、お客様との深い溝を埋めることは出来ていないようです。裏を返すという言い方がされ、木札(名を書いた木札)を裏返す事からも来ています。

三会目でようやく床入れ

そして、通常は、三会目(三回目)でようやく床入れ出来るようになるという流れです。そして、馴染みになると、お客様が他の花魁に通うのは浮気と見なされタブー視された厳しい世界だったのです。 見つかれば重い懲罰があったとも言われていますので尋常ではありません。

遊女の名前

源氏名というものもこの時代から既に存在しています。 源氏名とは、『源氏物語』にちなみ女性に付けられた名前のことを言いますが、遊女が自分自身の出世、輝く未来を願い、源氏のように勝負に勝ちたいと本名を隠し源氏名を名乗ったことからはじまったと言われています。

中世から近世にかけて公家に仕えた女官もそのような源氏名を使用していたと言われています。江戸時代の遊郭で遊女が源氏名を使用し、水商売や風俗店で働く人たちも、『源氏物語』のことを全然知らないでも、当たり前に源氏名と言ったりしています。

源氏名という意味では、遊女・花魁は、風俗とも繋がり合ってしまっているのかもしれません。そこには格段の差があると言うのにです。

遊女の水揚げとは

遊女たちのことを語るとき、水揚げのことも語らない訳には行きません。吉原には、幼いころに妓楼に売られた子・禿(かむろ)もいます。彼女たちは、実際には見習いの身分であり、花魁の下で働き雑用などをしています。そして、その中で、花魁としてのしつけについてしっかり勉強をして行きます。

彼女たちは、15~16歳の頃に新造(下級遊女)となります。そして、はじめてお客様を取ることになります。15~16歳の頃と言いましたが、実際には正確に何歳ということが決まっている訳ではなく、お客を取るタイミングは、初潮次第とされています。初潮と関係をもつのが水揚げです。

水揚げという儀式によって、処女の破瓜(はか)をおこないます。たとえ楼主であっても、水揚げをすることはないと言われており、経験の浅い若い男も、新造の未発達な局部を傷つけてしまうため、相当リスクが高いと考えられていました。

そうであれば、どのような人たちが適役であるかといえば、40歳以上の気心のしれた常連客たちです。 40歳以上といえば、現代社会の人たちは、まだまだ若いという認識を持つのかもしれませんが、その時代で、40歳以上と言えば、もう既に初老の域であることは間違いありません。

40歳以上という年齢は、完全勃起するものの、どこか遠慮し加減のある、ふわふわした感じであろうとも解釈されていたようです。ほど良い経験値もあり、水揚げのための適したパートナーとして考えられていました。

処女(遊女)とセックスをする憧れ

処女とセックスする憧れと言えば、現代社会の人たちでも多少理解出来ることはあるはずです。処女のことを、江戸時代では、「新鉢(あらばち)」と言っていたようです。

そして、処女とセックスすることは、「新鉢を割る」という言い方をしていました。「新鉢を割る」という意味の中には、女性の人たちがはじめての体験なので、痛がるものの、次第に快感を得ていくものだという男性の願望もこめられているといいます。

女性の新鉢を割ることが出来るのはたった一人の男性だけということになります。その一人になることが出来るのは、やはり、昔の時代であっても、相当なロマンや夢があったのではということも推測出来ます。

遊女だけでなく芸者にも水揚げが存在している?

歌・踊りなどで座に興を添え、客を楽しませる職業の女性たちが、芸者ということは既にお話ししてますが、色事には手を出さないと言われているものの、水揚げという言葉はこちらのジャンルでもちらほら聞くことが出来、水揚げという視点から見れば、遊女も、芸者もそれほど変わりがないかもという感じもあります。

水揚げという、処女を破る儀式をするということは、充分に芸者も性に通じる部分があったと考えることが出来ます。確かに、芸者においても、水揚げという儀式がかつて存在していました。
それは、財力ある旦那さん、いわゆるパトロンさんになってくれる人物を確保するという意味でも大事な儀式です。 水揚げによって晴れて一人前になったと解釈することが出来ます。

しかし、現在の京都の舞妓の水揚げに関してはそれがおこなわれていないと言います。やはりそのような意味でも、芸者は、性と繋がっていないということを証明することが出来ますが、芸者は、パトロンを確保することは、依然大事なことだと考えることも出来、100%そのような儀式が現代社会から消滅しているか、確証出来ている訳ではありません。

現代社会において、キャバクラなどで「水揚げしようか?」とか、「まだ揚げてもらえないのか?」とか言うお客様がたまにいるようですが、水揚げという言葉を、堂々と女性蔑視の言葉として使用されるケースが目立つうになって来ました。

いま、あきらかに差別用語として認識されている以上、なかなか、積極的に芸者の世界では水揚げしてます、とは言えない世界となり、事実は闇の中です。

花魁という遊女

遊女の歴史を探る中で、花魁というのも大事なキーワードです。 まだまだみなさんは、花魁という存在を上辺だけで捉えているところはないでしょうか。

花魁という存在をただ遊女の位の高い女性たちと捉えればいいのでしょうか。外国人などは非常にこのような日本の文化に関心を持っているものの、舞妓さんと花魁の違いも分からないまま、派手な方が花魁、今でも存在している方が舞妓程度に考えているのかもしれません。

「花魁」という言葉は、18世紀の半ばあたりから使われるようになり、それ以前は、「太夫(たゆう)」や「傾城(けいせい)」と言われていました。花魁とは「教養」と「美貌」をしっかりと合わせ待つたった一握りの遊女なのです。

遊女の中でも特別レベルの高い遊女集団

遊女の中でも、特別レベルの高い遊女集団です。 花魁はそれまでは太夫と呼ばれていたのですが、付き添いの少女が「おいらんちの姉さん」と呼び、そこから「花魁」という言い方になったとも言われています。

吉原で高級遊女を「花魁」と呼ぶのが一般的になり、世間でも 「太夫」という言い方ではなく、花魁という言葉に変わってきたと言われています。「太夫」の、その前の名前が「傾城(けいせい)」であり、城が傾くほどお金がかかる高級遊女という意味があります。

中国では城の主が色に溺れて城が傾くほど入れあげる美人に楊貴妃も含まれていますが、遊女も楊貴妃に匹敵するほど高級な遊女のことだったのです。

遊女の階級

花魁と呼ばれる遊女たちにも階級が存在しています。 遊郭が公に認められた時は「太夫(たゆう)」と「端女郎」の二つ階級しか存在していなかったのですが、段々と階級が増えて稼ぎや美貌、教養によって「太夫」「格子」(大阪の場合「天神」)「局(つぼね)」「端女郎」「切見世女郎」という階級に分けられることになります。

「太夫」だけの階級が花魁

この中で「太夫」だけの階級が、花魁と呼ばれるようになります。 「端女郎」「切見世女郎」という言葉は見た目もそれほどいい感じではありませんが、安くて多くの客をとっていたため、当時流行っていた梅毒にかかりやすかったため、当たると病気になって死ぬかもしれないことから、このような名前がつけられたと言われています。したがって全然花魁とは格が違うと考えていいでしょう。

散茶女郎の登場

そもそも遊郭自体庶民ではなかなか出入りの出来ないレベルの高いものだったのですが、「散茶女郎」の登場によって段々と庶民化して来たとも言われています。

「散茶女郎」は、 だいたい「端女郎」の上の位置します。そして段々と「太夫」や「格子」は消滅傾向にあり、庶民のための「散茶女郎」がどんどん格上げされる事態が起こって来ます。

散茶女郎が花魁と呼ばれるようになる事態に

そして散茶女郎が花魁と呼ばれるようになる事態がここで起こり、その中でも階級が生まれることになります。「呼出し」「昼三」「付廻し」がそれです。 この下には花魁以外として「座敷持ち」「部屋持ち」「局」といった階級があります。

「呼出し」は、「新造付き呼出し」とも言われ、「振袖新造」見習の遊女をつけた最高級の遊女です。 このような人たちは張見世は行わず、揚屋を通して呼び出さないと会うことが出来ません。

遊女たちがおこなう花魁道中

そして呼び出された花魁は、新造や禿など見習の少女を従えて、揚屋と女郎屋を練り歩いていく花魁道中をしました。 花魁道中という言葉も、現代社会にかろうじてまだ残り、気になっている人たちも多くいらっしゃるのではないでしょうか。

花魁道中は一体なんのためにおこなわれていたのか疑問な人たちも多くいるようですが、もともとお客様に呼ばれて遊女が揚屋(あげや)入りすることをいう言葉に過ぎないのです。

遊女たちの花魁道中とはいわば、ファッションショーのようなものとして考えてもいいかもしれません。花魁道中は、花魁たちの美しさを、絶対に手が届かない庶民たちに見せつけていたのです。

遊女の身請けとは

遊女の世界で身請けとは身の代金(前借り金)を支払い、約束の年季があけるまえに、仕事をやめさせることです。身請けののち、自分の妻、また妾にすることもありました。

江戸時代の遊女の身請けの場合、まずお客様から誰を身請けすると楼主に相談がおこなわれ、楼主は親元に異存のないことを確認したうえ、お客様に、身代金と本人の借金とを支払わせ、身代金を償わせます。

遊女も婚活をしていた?

遊女といえば、豪華な着物をまとい、贅沢や浪費を繰り返し、男性にチヤホヤされる羨ましい人生を送っていると思っている人たちも多くいますが、それは人生における一部分に過ぎないのかもしれません。実際に、いまは満たされた生活を送ることが出来ているかもしれませんが、 5年後、10年後までそのままで本当にいいのだろうか不安に思っている遊女もいると言います。

売られた身の上の遊女という立場では、より以上そのような不安を感じるケースも多くあり、遊女側の提案で、馴染みのお客様と遊女が夫婦約束(めおとやくそく)を交わしたケースも過去にはあったと言います。

いわゆる遊郭の中だけで夫婦ごっこをお互いに演じているのです。遊女という存在は、そのような意味では、いつも不安を抱えていて、地面に足がつかない存在だったのです。

『色道大鏡』には、身請けされて、自由の身になったものの、ふたたび遊郭に舞い戻ってきてしまった記述が残されています。身請けして晴れて、自由の身になったものの、素人の女性の生活がもう自分の肌にも合わなくなってしまっていることなど充分に考えることが出来ます。

そして自分の老後のために遊郭でバリバリ働いたということですが、そのまま35歳まで遊郭におり、そこで亡くなった女性も中にはいます。

遊郭が育ち、身請けしてシャバへと出ていくものの、もう既に、慣れ親しんでいるのは遊郭の方であり、どこかにはまた遊郭にもどりたい気持ちがあるのではないでしょうか。その女性たちにとって輝かしい遊郭の歴史こそがすべてなのです。

遊女もやがて熟女に

しかし、遊女がもてはやされる時間も短いと言っていいでしょう。いつまでも同じ時間が続くという考えることが出来ません。 江戸時代で30代後半は熟女も熟女、すでに中高年枠です。 40歳をすぎ、現代社会の女性の人たちはまだまだ魅力を存分に発揮しているのかもしれませんが、遊女の世界では、老人寸前です。

しかし、ここで注目したいのは、格式を重んじる京都・島原遊郭では、深い仲のお客以外とのセックスはタブーというルールが存在していたことです。セックスのない遊郭という存在がみなさんにはなかなか簡単にはイメージ出来ないのかもしれませんが、このようなルールは、敢えて、高齢者の遊女たちを守るためのルールと考えることが出来ます。

このような時代において、セックスだけが、お客様と遊女をつなぐ方法とは考えたくはないのです。

キラキラ輝く遊女だけど

[フリー写真] 太陽の光と手を広げる女性の後ろ姿でアハ体験 - GAHAG | 著作権フリー写真・イラスト素材集

キラキラ輝いてとても魅力的な遊女たちですが、遊女のほとんどは借金のカタなどとして妓楼に売られた女性だということも、決して忘れてならないことです。とても高貴な雰囲気が漂っていたとしても、農村・漁村などの貧しい家庭の親が、生活難のため娘を妓楼に売るなどといういわば人身売買がおこなわれていたのです。

実際には、幕府も人身売買を禁止しています。ですから、遊女は妓楼で働く奉公人だといういうタテマエでここに連れて来られることになります。女衒(ぜげん)と呼ばれる人買いたちもここのシーンで登場して来ます。

直接、妓楼に親らが娘を売ることもあります。身売りされる遊女たちは、どの程度の年齢かといえば、7~8歳(または5~6歳)というケースが多く、10代前後の少女までだったとも言われています。

遊女のお金の問題は、ピンキリともいうことが出来ますが、農村部での場合、3~5両(現在のおおよそ30~50万円あたり)で買われていたという記録が残っています。下級武士の場合だと18両(およそ180万円)あたりでした。

吉原へ行けば毎日白いおまんまが食べられたのかもしれませんが、「親孝行だと思って堪忍しておくれ」と親に言われ、泣く泣く吉原に売られて行ったのです。

見習い・下級遊女は大部屋に雑魚寝

実際にみなさんは、花魁という華やかな世界を注目してしまっているのかもしれませんが、花魁は事実、豪華な個室を与えられてもいますが、禿や新造といった見習いや下級遊女は大部屋に雑魚寝状態です。

白いおまんまが食べることが出来ると買われた来たものの、それもギリギリ実現出来ている程度で、妓楼で出される食事はかなり質素とも言われ、空腹をしのぐため宴会の時のお客様が残してしまっている料理をこっそりキープしておき、翌日それを食べたりした者もいたといいます。

お客を接客するのも「廻し部屋(まわしべや)」と呼ばれる共用の大部屋で、たった屏風1枚の仕切られただけの寝床で性行為をしていたとも伝えられています。屏風1枚の仕切りなんてあってないようなものであり、それは現代社会の格安風俗にも通じるものがあります。このような恵まれない環境が存在すれば、抜け出す方法は出世と年季です。

遊女も大変だった

遊女たちがみなさん決して楽に過ごして来た訳ではありません。 最初のお客様と性行為するのは午前2時あたりで、朝6時頃にお客を送り出し、そして、2度寝のあと10時頃になれば起きて、昼頃には再び昼の営業が始まったとも言われています。

ひと晩に相手をするお客様もひとりとは限らず、複数の男性とセックスすることは決して珍しいことではありません。 本当に、それはハードな肉体疲労と感じている人たちもかなり多くいました。

ですから脱走する女性たちもいただろうということを予測出来、吉原からの外出は禁止されていたのです。 ただし年季とされた10年という年月以外にも、自由になる方法はあり、それが身請けです。

遊女の身請けの額

遊女に支払いしなければならない身請け代として、その遊女の身代金 と、 遊女のこれまでの借金 プラス これから稼ぐ予定だったお金 、そして妓楼のスタッフ、遊女の妹分らへの祝儀 、更に 盛大な送別会の宴会料 、そして雑費などの料金を支払いしなければなりません。

もちろんそれは相当な額です。 下級クラスの遊女でも40~50両(現在の額でおおよそ400~500万円程度)の支払いが必要であり、トップレベルの花魁であれば、1000両(おおよそ1億円)以上もの身請金を支払いしなければならないと言われていました。

遊女の梅毒の問題

[フリー写真] 紅梅の花と蕾でアハ体験 - GAHAG | 著作権フリー写真・イラスト素材集

遊女たちもいい部分だけ切り取って見れば、とても羨ましい仕事に見えますが、本当にそうなのかは疑問があります。 身請される遊女はほんのひとにぎりの幸運な例とも言われていますし、ただ遊女は、辛抱するのみです。

辛抱しないで済む道は、ただひとつ死ぬことなのかもしれません。遊女たちは、死ぬということも、それほど遠い道のりではなかったようです。それは、現代社会のように、コンドームも遊女の時代存在していなかったからです。コンドームなしで、不特定多数の男性を相手にしているデリヘル嬢がいるとすれば、相当リスクが高いと誰もが考えるでしょう。

もちろん、江戸時代において、相当大きなリスクを抱えて、性病、特に梅毒が蔓延していたのです。そして梅毒が蔓延するものの正しい治療法がそこにあった訳ではありません。せいぜい遊女たちは漢方薬でしのぐ程度の方法しか見つけることが出来なかったのではないでしょうか。

梅毒以外にもほかの病気にかかったり中絶により体を壊し、死亡することも決して少ないケースではありません。 実際に死という意味では、惚れた男性と心中する遊女もいたと言います。

惚れた男性と心中する遊女

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『曽根崎心中』にもそのようなシーンが登場します。この世で結ばれぬなら来世で、というのは、現代社会にも繋がるロマンです。ただし、実際に成功出来ればいいのですが、失敗した時はこれ以上悲惨なものはありません。遊女の心中や逃亡は大罪にあたるためです。

病気や心中などで命を落とした遊女たちもおり、そのような遊女たちは、三ノ輪(現在の東京都荒川区南千住)にある浄閑寺(じょうかんじ)、別名「投げ込み寺」で葬り去れたと言われています。

心中の遊女たちも結構いたということを「投げ込み寺」からもうかがい知ることが出来るのではないでしょうか。生きては苦界(くがい) 死しては浄閑寺、まさに、それは遊女たちの世界を言い当てた言葉です。

遊女たちはどの程度お金を稼いでいたのか

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遊女たちはどの程度のお金を稼いでいたのでしょうか。遊女という存在には、借金のかたと贅沢という矛盾を抱えている存在だということが段々と判って来ました。

吉原にくる遊女たちは、親や兄弟の借金のカタに売り飛ばされて、地方から江戸にやってきます。 そのような遊女たちが、色香を磨き、芸事も極め、知識もつけてる必要があり、彼女たちが、太夫の位置にまで上り詰めたところで、教育費が借金にプラス加算されて、借金は雪だるま式に嵩んで行ってしまうことになります。

こんなことでは、絶対に吉原脱出は不可能という方程式がなりたっているのです。遊女自身は、年間500両以上は稼ぐものの、それを商売道具やらに必要経費として費やさねばならない事態も起こっていたとも言われています。

そのような遊女は27~28歳で引退となれば、借金はほとんど自分自身で返すことは不可能です。そんな煌びやかな遊女たちを演出しなければならないもののひとつとして着物があります。

遊女の着物

[フリー写真] 竹林と着物姿の日本人女性でアハ体験 - GAHAG | 著作権フリー写真・イラスト素材集

花魁が活躍した江戸時代と現代では、着物の着付け方に大きな違いがあります。それは「おはしょり」の有無です。もともと着物というものは、背丈よりも長く作ることが多いものですが、江戸時代はこれをそのまま着て、裾を床に引きずっていました。

実際に、そのような着物のあり方がいいというものの、機能的に優れているといういうことが出来ません。明治時代以降では、段々と洋装並の動きやすさを求めるようになって、着物を帯の下で畳みこむ「おはしょり」が正統な着方という流れになって行きます。

遊女たちの絢爛豪華な、衣装の基本ベースは、「末広がりライン」 にあったと言ってもいいかもしれません。

遊女の髪型

[フリー写真] 海と髪をかき上げる女性のポートレイトでアハ体験 - GAHAG | 著作権フリー写真・イラスト素材集

遊女たちは、着物同様に、派手な髪型で、ゴージャスさをアピールしています。 かんざしや笄(こうがい)といった髪飾りも、それを際だたせている道具です。

遊女のトップである花魁のファッションや髪型は時代の最先端を行くものです。花魁や太夫がはじめた髪型が評判となって、世間全般に流行するのも決して珍しいケースではありません。

現代社会でいうファッションリーダーの役割を遊女たちが担っていたのも事実です。まず、遊女の特徴的な髪型のひとつとして、「勝山髷(かつやままげ)」をあげることが出来ます。

遊女「勝山」の名前がそのまま髪型の名前になったと言われています。 江戸時代初期に未成年男子の髪型だった「若衆髷」を、東海道五十三次の島田宿の遊女が真似して女性風に髪型をアレンジしたものが「島田髷」です。

遊女の言葉

遊女たちが、頻繁に「あちきは~でありんす」(わたしは~です)」とか「おいでなんし(いらっしゃい)」とか言っているのを、時代劇などで見たこともあるのではないでしょうか。「ありんす」言葉は、江戸の人たちが、当たり前に使用していたということではなくて、江戸・吉原の高級遊女が接客する時の言葉とも言われています。

吉原にはいくつもの遊郭がありましたが、大見世とよばれている規模の大きいお店では、「ありんす言葉」が使われていたと言われています。 そしてその中でも使用していたのは、花魁おいらん級のランクの高い遊女です。 下っ端したっぱの遊女さんは使用していなかったとも言います。

昭和の金持ちの奥様の喋り方として、時々、「~ざます」という言葉が登場して来ますが、それももともと遊女の言葉とも言われています。

「主(ぬし)」とは、お客様や、尊敬に値する人に対して使われる言葉です。 「武左」は、「むさ」と発音し、武者=武士のお客様に限る言葉ではなく、いばるお客様のことをいいいました。そして「塩次郎」とはうぬぼれの強い自信家のことです。

遊女という存在を総括すれば

みなさんは、ここまでを読み、遊女という存在をどのように捉えたのでしょうか。絢爛豪華な存在であり、ファッションリーダーとしての存在は、現代社会の娼婦というのにはほど遠い羨望のまなざしもそこには存在しています。

彼女たちは、高貴な位置に到達して、男性たちを見下ろしているのです。しかし、遊女たちは、借金漬けになっているとも言えるのです。彼女たちは、遊郭という場所から逃げ出すことが出来ない存在ともいうことが出来ます。

しかし、周囲を囲む江戸の庶民が、満たされた生活をしているかといえば、誰もが、縛られた窮屈感を感じていたのではないでしょうか。誰もが、縛られた環境の中で自由を見つけだそうとしているとすれば、遊女たちは、やはり、尊敬にも値するリーダーだったということに変わりはありません。その遊女たちの美しさは、もちろんこの現代社会にもはっきりと語り継がれているのです。

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