2021年07月14日公開
2021年07月14日更新
安倍晴明の子孫は安倍晋三って本当?家系図や末裔まとめ【陰陽師】
同じ名字であることから、陰陽師として有名な安倍晴明の子孫が現在の首相である安倍総理だと思う方はいらっしゃるかもしれません。しかし、本当に安倍晴明の家系で子孫や末裔なのかを家系図で調べてみたいと思います。また、安倍晴明の家系図や末裔についても紹介します。
目次
安倍晴明を出した安倍氏とは?
安倍(阿倍)氏は、孝元天皇の皇子大彦命(おおひこのみこと)を祖としています(日本書紀)。
また、大彦命の子の建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)を祖とする記述もあります(古事記)。
源氏や平氏と同じように天皇家を祖とする氏族で、皇別と言います。
安倍(阿倍)氏は大和国(やまとのくに)十市(とおち)郡阿倍(現在の奈良県桜井市)を本拠地とする豪族で、古代から天皇の重臣として政治の重要なポストにいました。
大化の改新の後、安倍氏は朝臣(あそん)の姓(かばね:豪族や貴族の称号)を賜りました。
その後、布勢(ふせ)、引田(ひけた)、許曽倍(こそべ)、狛(こま)といった家に分かれました。
奈良時代には遣唐使で有名な阿倍(安倍)仲麻呂を輩出します。
仲麻呂は引田臣の流れをくみます。
陰陽師として知られている安倍晴明は布勢臣の流れといいます。
この他にも東北地方を本拠にした豪族で、源頼義・義家親子に滅ぼされた安倍氏もあります。
この安倍氏は仲麻呂とは別系統ですが、引田臣の流れをくむとされます。
安倍氏の家系図・皇別まで
家系図の一番左側の孝元天皇から5代数えた阿加古以降、阿倍氏(安倍氏)の流れになります。
大彦命は高祖父、建沼河別命は曾祖父にあたります。
いずれにせよ、家系図からこの両者が祖先であることが分かります。
陰陽師として活躍した安倍晴明
安倍晴明
安倍晴明(あべのせいめい、921-1005)は、平安時代中期に活躍した陰陽家・天文学者です。
伝説が多いですが、実在の人物です。
安倍益材(ますき)の子で、陰陽家の賀茂忠行(かものただゆき)から陰陽道を学びます。
また、その息子保憲(やすのり)からは天文学を学びました。
陰陽家とは、すべての物は「陰」と「陽」の二つの気によって作られて変化していくという陰陽思想を伝えた人のことを言います。
晴明は占いなどを行う陰陽師として活躍し、式神を使ったり、もののけを退治したりするなど、数々の伝説や逸話があります。
その伝説や逸話については、また後で説明します。
安倍晴明の子孫・末裔について
安倍氏のうち引田臣の流れをくむとされる家系は、晴明の時代より陰陽家として活躍することになります。
陰陽家は継承され、後に晴明の直系子孫は土御門(つちみかど)の家を称します。
代々陰陽道、天文学、暦に通じて、朝廷に仕えました。
災害などがある場合は、前もって朝廷だけではなく、幕府にも伝えました。
安土桃山時代に一時失脚することもありましたが、その後復帰して江戸時代には徳川家と関係を結びました。
1683(天和3)年に、土御門泰福(やすとみ、1655-1717)が陰陽道の宗家として、日本各地の陰陽家・暦家などを支配することを許可されます。
その後、陰陽道を主体とする天社土御門神道(てんしゃつちみかどしんとう)を開きます。
この神道は現在も続いていますが、1870(明治3)年陰陽寮の廃止により、土御門家は陰陽家の役目を終えます。
その後、華族となり子爵の位を拝することになりました。
第二次世界大戦後は、日本国憲法によって華族制度が廃止されます。
1994(平成6)年には当主土御門範忠氏が男子がなく、亡くなりました。
ちなみに晴明の流れをくむ土御門家の他に、傍流の倉橋家があります。
土御門家と同じく、陰陽家でした。
そして、代々陰陽家を継承していきました。
その倉橋家も明治時代には子爵になります。
そして現在も続く天社土御門神道ですが、本庁はもともと土御門家の所領だった、福井県おおい町(旧名田庄村地区)にあります。
また、安倍晴明縁の晴明神社があります。
晴明神社
京都府京都市上京区にある神社です。
安倍晴明の死後、その屋敷跡に晴明を祀って建てられました。
晴明神社はここだけではなく、全国にあります。
安倍氏の家系図・土御門家を名乗るまで
家系図の晴明というところが、安倍晴明です。
土御門家は晴明の直系子孫が名乗っていることが分かります。
安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した、有世から数えて6代の土御門久脩(つちみかどひさなが、1560-1625)の子泰吉が、陰陽家倉橋家の祖となります。
安倍氏(土御門家)の家系図・安倍晴明の子孫・末裔の土御門家
家系図の通り、安倍晴明は土御門家の大元のルーツとされます。
土御門家を名乗るのは、有世の曾孫有宣(1433-1514)の頃とされます。
江戸時代には土御門泰福が改暦に尽力し、その後陰陽道の宗家となって、天社土御門神道を開きます。
江戸時代末期の陰陽家だった土御門晴雄(1827-1869)が亡くなった翌年1870年、陰陽寮は廃止され、陰陽家としての役割を終えます。
安倍首相と安倍氏の子孫・末裔について
これまで、安倍氏と安倍晴明について説明してきました。ここで、本題に入ります。
安倍晋三首相は安倍晴明の子孫なのでしょうか。
同じ名字のため関係性がありそうですが、まずは安倍首相について見ていきます。
東北地方の安倍氏の子孫・末裔が安倍首相?
現在の内閣総理大臣で、自由民主党(以下自民党)総裁です。 父親が元外務大臣の安倍晋太郎、母方の祖父が元首相の岸信介、大叔父が同じく元首相の佐藤栄作という政治家一家に生まれました。
安倍晋三首相は都内の生まれですが、跡を継いで山口県にある父親の選挙区から出馬しました。
そのため、安倍首相の直接のルーツは山口県にあります。
その安倍首相ですが、2013年の参議院議員選挙の応援で岩手県北上市に来た際、
「私は安倍貞任(あべのさだとう)の末裔で、その起源が岩手県にある」
という由の発言をしたようです。
安倍は安倍でも晴明ではなく、安倍貞任です。
安倍貞任とは今から900年以上前に活躍した、現在の岩手県北上川周辺を本拠地にした武将です。
弟の安倍宗任とともに貞任・宗任兄弟と称されます。
この貞任・宗任兄弟は、最初の章で話した安倍氏のうち引田臣の流れをくむとされる家系です。
東北の豪族・陸奥安倍氏
平安時代の後期に、安倍氏(以下陸奥安倍氏)は現在の岩手県の北上川周辺を治めていました。
家系図によれば、古代、東北地方を中心に住んでいた蝦夷と戦った、引田臣の出身の阿倍比羅夫(あべのひらふ)から9代目が貞任(1019か1029-1062)になります。
宗任(1032-1108)は弟です。
引田、布勢といった家は出元が同じです。
そのため、安倍晴明の土御門家と同じ、孝元天皇の皇子大彦命またはその子建沼河別命が祖先ということになります。
しかし古代の伝説上の人物で、津軽地方に流されたとされる安日彦(あびのひこ)という人物の末裔という説もあります。
この他にも陸奥安倍氏の祖先に関してはいくつか諸説があるようです。
このように陸奥安倍氏は北上川周辺に拠点を構え、隆盛を誇りました。
しかし朝廷との関係が悪化し、ついに戦いが起きてしまいます。
この戦いを前九年の役(1051-1062)と言い、源頼義・義家親子に敗れて、陸奥安倍氏は滅亡します。
一族の棟梁だった兄貞任は戦死、弟宗任は捕らえられ京に送られた後、後に九州に流されました。
陸奥安倍氏の末裔として、安倍晋三首相の他に、津軽・出羽地方を治めた戦国大名の安東氏、その後の秋田氏、九州松浦党などが挙げられます
陸奥安倍氏の家系図・阿倍比羅夫から家麻呂まで
家系図では引田臣の流れをくむ阿倍比羅夫が陸奥安倍氏の起こりと考えられます。
そこから4代数えて曾孫の家麻呂からは、陸奥安倍氏の系図につながります。
陸奥安倍氏の家系図・家麿(家麻呂)から貞任・宗任兄弟まで
安倍家麿(家麻呂)は東北地方に住んでいた蝦夷(えみし)が起こした反乱宝亀の乱(ほうきのらん)の際に、鎮荻将軍(ちんてきしょうぐん、蝦夷討伐を命じられた将軍)として活躍します。
家麿から数えて6代が貞任・宗任兄弟です。
その貞任の子高星の末裔が安東氏と秋田氏、
そして家系図にはありませんが、宗任の子が九州の松浦氏に婿入りし、後にその末裔が松浦党の一族になったといわれています。
そして、安倍貞任の末裔が安倍晋三首相のようです。
安倍首相は安倍晴明の子孫・末裔ではない
本人に連なる確たる家系図は今のところありませんが、安倍晋三首相は陸奥安倍氏の末裔を称しています。
陸奥安倍氏は元々引田という家系から連なるといわれ、安倍晴明を輩出したとされる布勢の家系とは別系統になります。
そのため、安倍首相は確かに安倍氏の子孫や末裔かもしれませんが、安倍晴明の子孫・末裔ではありません。
前九年の役を生き延びた安倍宗任には男子が3人いたようですが、どうやら全員が父宗任の配流先の九州にいたようです。
あくまでも説ですが、彼らのうちいずれかの末裔が山口に移ったのであれば、安倍宗任の子孫・末裔という可能性もあります。
ですから安倍首相が北上市で話した、「安倍貞任末裔発言」も貞任は一族の棟梁ですから、たとえ弟宗任の末裔であったとしても、貞任の末裔と言っても問題ありません。
土御門家・倉橋家以外の安倍晴明の子孫・末裔
ここで話を変えます。
安倍晴明の子孫・末裔には晴明と同じく陰陽家として代々継承してきた土御門家や倉橋家があります。
この他にも晴明の子孫・末裔と称している方がいらっしゃいます。
その方は、陰陽師として活動している安倍成道氏です。
安倍晴明の子孫・末裔~水の陰陽師・安倍成道氏~
成道氏は普段陰陽師として、占いや悩み相談などを行っているようです。
悩み相談の鑑定では災いの身代わりになってくれる式神を作ります。
また、除霊も行うことができるようです。
それだけではなく、陰陽師に関する書籍も執筆しています。
どうやら成道氏の占いは評判が良いようです。
その成道氏ですが、安倍晴明の子孫・末裔を称しており、「水の陰陽師」の家系を継承していると言っています。
いったい水の陰陽師とはどういう意味なのでしょうか。
安倍晴明が興した陰陽道にまつわる五つの家
成道氏のホームページによると、安倍晴明には6人の子がいて、1人は正妻との子ども、あとの5人は側室との子どもです。
この側室との5人の子どもには、陰陽道を継承させました。
正妻との子どもには、安倍氏宗家を継承させて、側室との子どもには陰陽道における五行にちなみ、「木」、「火」、「土」、「金」、「水」の家をそれぞれ興させました。
それらの家系が晴明の陰陽道を受け継いでいると言います。
安倍成道氏はこのうち「水」の家系の継承者ということになります。
五行
古代中国から伝わった、万物を構成すると考えられていた5つの元素のことを指します。
万物構成とこの世のすべての事柄を説明する考え方を五行説と言います。
それぞれ、木(もく)、火(か)、土(ど)、金(ごん)、水(すい)と読みます。
この説は陰陽の気でこの世のことを説明する陰陽説と結びつき、後に陰陽五行説となります。
陰陽五行説は、陰陽(陰の気と陽の気)と五行で、あらゆる出来事を説明しようという考え方です。
なお、五行には関係性があって、相生(そうしょう)と相剋(そうこく)の2つがあります。
相生は木は火を生み、火は土を生み、土は金を生み、金は水を生み、水は木を生むという関係性です。
相剋は木は土に剋(か)ち、土は水に剋ち、水は火に剋ち、火は金に剋ち、金は木に剋つという関係性です。
成道氏が言うには、宗家も含めた六家は上の五行図のように京都に住まいがあるようです。
中心には宗家があり、その周囲に「木」、「火」、「土」、「水」、「金」の五家の居宅が周囲を囲むようになっているようです。
相剋関係だけを見れば、五行図から「五芒星」が浮かび上がります。
これら六家で中心を守る結界のような機能を果たしていると成道氏は言います。
安倍晴明の伝説・逸話
陰陽師として活躍した安倍晴明ですが、数々の伝説や逸話があります。
それらは『大鏡』や『今昔物語集』などといった書物に記されています。
これらが後に、小説や映画、ドラマといったフィクションなどで知られるようになります。
現代では、人知を超えた類いまれなる力を持った陰陽師というイメージです。
安倍晴明の伝説や逸話のうち、代表的なものを紹介します。
母親はキツネ?
安倍晴明の母親はキツネだったという伝説があります。
平安時代中期の村上天皇の頃、安倍保名という人物が信太(しのだ)の森(現在の大阪府和泉市信太山にある森)に来ていたところ、猟師に追いかけられていた1匹の白キツネを助けます。
しかし、保名は怪我をしてしまいます。
その時、葛の葉(くずのは)という女性に助けられ、保名は自分の家に帰ることができました。
その後葛の葉は保名を看病しているうちに、やがて保名に対して恋心を抱きます。
そして二人は結ばれ、童子丸という男の子が誕生します。
その童子丸が5歳になった時、葛の葉の正体が分かります。
なんと保名が助けた白キツネだったのです。
葛の葉はお稲荷様から遣わされていたことを童子丸に話し、信太の森に帰ってしまいます。
この童子丸というのが後の安倍晴明というわけです。
この伝説は「信太妻(しのだづま)」と言い、歌舞伎や浄瑠璃などの演目になりました。
式神を家来としていた
式神とは陰陽師の命令によって、不思議な力によって様々なことを行う鬼神のことを言います。
ここで言う鬼神とは桃太郎などに出てくる鬼ではなく、霊魂や神霊といった霊を指します。
式神と言えば、紙などでできた人形(ひとがた)が有名ですが、この他にも直接霊魂などを式神にすることもあったようです。
安倍晴明には十二天将という式神を家来としていたという話があります。
この十二というのは十二支に対応し、それぞれ「騰虵(とうしゃ)」、「朱雀(すざく)」、「六合(りくごう)」、「勾陳(こうちん)」、「青龍(せいりゅう)」、「貴人(きじん)」、「天后(てんこう)」、「大陰(たいいん、だいおん)」、「玄武(げんぶ)」、「大裳(たいも)」、「白虎(びゃっこ)」、「天空(てんくう)」です。
平安時代後期に書かれた歴史物語『大鏡』には、晴明が夜空に起きた変化を見て天皇の退位を知り、その様子を式神に確かめさせたとあります。
安倍晴明の家系図には諸説ある?
これまで安倍晋三首相が安倍晴明の子孫なのではないかということについて説明してきました。
確たる家系図はありませんが、安倍首相は安倍晴明の子孫ではないと考えられます。
そのことを説明する上で、安倍晴明に至る家系について述べてきました。
記事中の家系図では安倍晴明のルーツは孝元天皇までさかのぼることができ、大彦命またはその子建沼河別命が祖とされます。
そこから安倍氏(阿倍氏)は興り、布勢臣の姓をもらった家系の末裔が安倍晴明ということになっています。
家系図では、阿倍御主人(あべのみうし、布勢臣)の子孫が安倍晴明とされます。
関連する文献などには、この流れが記載されています。
しかし、この他にも安倍晴明は引田臣の流れをくむ阿倍仲麻呂の子孫だったり、大彦命の子という波多武彦命の子孫である難波吉士(なにわのきし)氏の末裔ではないかといった説もあります。
波多武彦命は建沼河別命と兄弟と考えられ、子孫の難波吉士氏と安倍氏は同じところから出た家ということになります。
このため、安倍晴明に関するルーツもいくつかあるとされます。
安倍氏の家系図はどのように調べることができるのか
安倍氏の家系図は書籍や事典などで調べることができます。
また、インターネットで調べることもできます。
なお今回は、「日本の名字7000傑」のサイトなどを参考にしました。
安倍晴明の子孫は安倍晋三って本当?家系図や末裔まとめ・まとめ
陰陽師と言ったら、その名前を聞かないことはない安倍晴明。
晴明は陰陽道や天文学に通じ、代々継承される陰陽家の礎を築きます。
そして数々の伝説や逸話を残します。
今回は、安倍首相はその晴明の子孫なのではないかということを中心に述べました。
今回調べたことから、安倍首相は晴明の子孫ではないと考えられます。
詳細な家系図があるわけではありませんですが、安倍首相は陸奥安倍氏の子孫ではないかと考えられます。
晴明の子孫や末裔は晴明と同じく陰陽家として職務を行い、現代も続く神道流派を興しました。
また、その末裔の中には現在も陰陽師として活躍している方もいらっしゃるようです。
また晴明の子孫や末裔だけではなく、晴明に至る家系図や晴明の伝説・逸話なども紹介しました。
現在ではあまりご先祖様のことを調べる機会というのはなかなかないかも知れませんが、ルーツを知るということは決して無駄なことではないと思います。
なぜなら自分に至るまで、大昔から脈々と命が受け継がれているからです。
分かる範囲で構わないので、ぜひ自分のルーツについて調べてみてはいかがでしょうか。