中世フランスを彩った「高級娼婦」「公妾」の歴史と美貌

華やかで波乱に満ちた中世フランスにて貴族たちの裏社交界に一際美しく彩りを添えた花たち「高級娼婦」、 「公妾」。 かつての貴族たちを虜にして、数々の要人達からも愛された、高級娼婦と公妾達の華々しい美貌と知性によって築かれた歴史をご紹介します。

中世フランスを彩った「高級娼婦」「公妾」の歴史と美貌のイメージ

目次

  1. 1高級娼婦と公妾
  2. 2高級娼婦(クルティザンヌ)と公妾
  3. 3高級娼婦(クルティザンヌ)
  4. 4公妾
  5. 5高級娼婦への道
  6. 6パトロンとバレエと高級娼婦
  7. 7高級娼婦たちの開くドゥミモンド
  8. 8名作『椿姫』のヒロインのモデル高級娼婦『マリー・デュプレシ』
  9. 9高級娼婦マリー・デュプレシと椿姫
  10. 10フランス宮廷の要人たちの愛人、高級娼婦『コーラ・パール』
  11. 11高級娼婦コーラ・パールの華麗なる男性遍歴
  12. 12歴史を騒がせた高級娼婦たち
  13. 13公妾と敏腕政治家『ポンパドゥール夫人』
  14. 14有名な公妾達
  15. 15日本に置いての高級娼婦
  16. 16まとめ

高級娼婦と公妾

出典: http://blog.livedoor.jp

ジョアッキーノ・パリエイの描く『夜会』

18世紀の貴族たちの社交界を描いた風俗画。夜会でダンスや音楽を嗜みながら男女の出会いを楽しむ貴族達の日常を切り取った作品。
かつての高級娼婦たちは貴族たちの社交界の中で花形として賓客たちを楽しませていました。

皆さまは、娼婦に対してどういう印象をお持ちでしょうか。
夜の女、淫売、売春、あばずれなど、決して良い感情を持っているという方は少ないことでしょう。性的サービスを行うことにより金銭を得る、という行為は確かに素晴らしいと胸を張れるような職業ではありません。
性を売る、という行為自体に対して嫌悪感を覚える人も多いでしょう。
これは実は近代に限ってのことではありません、むしろ今よりも昔の方が娼婦たちは徹底的に差別され、嫌悪されてきました。
中世ヨーロッパ、特に16世紀から19世紀にかけては当時絶対的だったキリスト教が「ルネサンス」や「宗教改革」によって崩れていき、多くの波乱と動乱を巻き起こしながら弱体化されてきた時代には、特に多くの娼婦が生まれました。
女性に「貞淑さ」を求める一方、その貞淑さを守るために必要不可欠とされたのが娼婦たちです。性への規制が緩くなった際、純潔な女性を守るために必要とされながらも、彼女たちは女性としての尊厳を捨てた卑しい女だと差別され続けていたのです。
ですが、そんな彼女たちの中にも一等輝く宝石のごとき存在がありました。
それが、「高級娼婦」であり「公妾」であります。
侮蔑ではなく憧憬を、憐憫ではなく愛情をほしいままにした彼女たちの美貌と知性により気付かれた歴史を今日はご紹介させていただきます。

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高級娼婦(クルティザンヌ)と公妾

出典: https://izi.travel

娼婦の立ち位置

中世フランスでの娼婦の立場は基本的に低く、法律などでも一般庶民と比べてかなり分の悪いものでした。
暴行などの行為を受けても、まともな罰を与えられることなく罪人が解放されることもあり、当時の売春婦に対する扱いは今では考えられないほど劣悪でした。

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社交界の花形

貴族の娘ともなれば社会的な束縛が厳しく、本人の意向に沿う沿わない関係なく家の為に行動を制限されることが多々ありました。
中世フランスの歴史を紐解いても、昔の女性は非常に厳しい立場をとらされており、全うな女性が表立って派手な行動ができないのが常でありました。
だからこそ、高級娼婦たちのような階級の娘たちが歴史に花を添えていたのです。

中世フランスでは娼婦といっても一概にひとまとめには出来ませんでした。
16~19世紀にかけてキリスト教が崩れ性への規制が一時緩んだことにより増えた娼婦による売春を野放しにした結果、戦争の際に兵士の間で梅毒が流行るという事件が起こった際、その梅毒の媒体となったのが娼婦だったからです。
そのため、フランスは性病を取り締まるために娼婦という職をあえて公認し、国が管理することによって性病などを抑制しようと働きかけました。
その反面、街頭に立つ娼婦を徹底的に取り締まることによって国が安全だと認められない売春を減らすことへとつながりました。
その結果、娼婦は
・私娼…最底辺の娼婦、営業許可をもらわずに売春している。
・公娼…警視庁に出頭し健康診断を受けてリスト登録し、営業許可を得て売春している。
・高級娼婦(クルティザンヌ)…営業許可をもらっていないが、貴族相手に売春などをしている。
の3つに分かれるようになりました。

高級娼婦(クルティザンヌ)

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高級娼婦(クルティザンヌ)

社交界の花形。売春婦でありながら上流貴族たちに愛されました。 上流階級専用の娼婦のことを高級娼婦と呼び、同じ娼婦ではありますが私娼や公娼とは違い一目を置かれています。

 高級娼婦、クルティザンヌ、あるいはドゥミモンデンヌと呼ばれた娼婦たちです。
売春だけではなく美貌もさることながら高い教養と「エスプリ」と呼ばれる知的センスが必要とされており、娼婦の中では最高ランクに値する娼婦であるとされています。
 クルティザンヌ(courtisane)とはイタリア語で廷臣を意味する「コルティジャーノ(cortigiano)」の女性形である「コルティジャーナ (cortigiana)」に由来しており、意味自体も本来なら廷臣に準じる立場で宮廷に関わる女性をさしていましたが、次第に王侯貴族を相手にする娼婦を意味するようになりました。
 私娼と同じく非合法な娼婦ではあるのですが、この高級娼婦は一度公娼をしてしまうと二度となれるものではありませんでした。
国の認めた娼婦になるということは、自らを「穢れた娘」であると認めると同義とされ、高貴な方々にとって触れるべき相手ではないとされてしまったためです。
そのため、私娼、公娼とは一線を引いた存在であり、当然ながら彼女たちを買う値段も非常に高額なものでありましたが、高級娼婦達の相手にする客は上流貴族などの身分の高い方々の相手をするに至って妥当な値段でもあったのでしょう。
洗練された彼らに愛された教養ある高級娼婦達は彼らに愛され、貢がれることによりより恵まれた生活を送ることができました。
 上流階級に意見ができた彼女たちは当時の女性の憧れでもあり、高級娼婦の特権的な地位を得るために娘の教育や美貌の為に財産を投げ打つ家も少なくないほどでした。
エスプリと美貌があれば家柄関係なく輝ける高級娼婦は、当時の社会においてかなり一目を置かれた存在でもあったのです。

公妾

出典: https://blogs.yahoo.co.jp

高級娼婦達の最高峰

公妾の中には、高級娼婦から見事寵愛を受けて成り上がった高級娼婦もいました。 まさに、美貌で身分を乗り越えて射止めた栄光の座ともいえるでしょう。

 さて、今まで娼婦について説明してきましたが、ここで公妾について触れておきます。
公妾は娼婦ではありませんが、その地位は家柄は関係なく得られるクルティザンヌ達よりも強い権力を持った地位になります。
 本来ならばキリスト教であるヨーロッパ圏内の国家では一夫一妻制が勧められており、妻以外の女性を迎えることが固く禁じられていましたが、王に限ってはその例外になるのです。
 それが、公妾になります。 
公妾は王の寵愛を得た、国が認めたただ一人の愛人です。王は公妾を一人だけ妻とは別に迎えることができました。
この公妾の基準は、王に愛されている、というだけであり家柄関係なく迎え入れられることが可能です。
 愛人ではあるのですが、王と公妾の間に生まれた子供が王になるわけではなく、よほどのことがない限り継承権は正妃との子供が得ることになります。
ですが公妾の子がそのまま放逐されるわけではなく、男子であれば家臣団に迎えられ、女子であれば他家に嫁がされることになり上流貴族として十分に生きていけるように取り計らえました。
 また公妾も単なる王の愛人としてではなく、国内外でも公式的な地位を与えられており、幅広い宮廷政治の一端や宮廷の文化の運営などに一役買うなど、重要な廷臣としての立場も与えられています。
また、公妾の生活や必要経費などは全て王室持ちであり、そのことを活かして社交界への積極的な参加により社交界の花形として活躍し、特に公妾の行う贅沢かつ豪奢なサロンは国威を示す上での重要な役割を担っているとされていました。
また、王室のスキャンダルなどを未然に防ぐ防波堤の役割もあり、国民の不満や批判を公妾が表立つことで王や王妃からそらす盾としてでも必要とされていたのです。

これだけ重要かつ素晴らしい地位である公妾は、決して安定した地位ではありませんでした。
正妃や貴族の嫉妬、権力闘争に巻き込まれることはもちろん、王の寵愛が無くなれば簡単にすげかえられてしまう地位でもあったのです。そういった意味では、クルティザンヌ達以上に安定に欠けた生活であったのは間違いありません。
しかしながらそれでも華やかな女性たちが己が人生をかけて奪い合うほど魅力的な地位であったのです。

出典: https://ja.wikipedia.org

公妾と王

公妾にとって、王の寵愛を失えば自分の立場も失うこと同然ですが、中には色事を使わずに自分の立場を繋ぎとめた者もいます。
王妃へのいたわりや、王への良き理解者であること、また周囲の支持を得ることも公妾の立場を守ることにつながるのです。

高級娼婦への道

選ばれた娼婦、高級娼婦(クルティザンヌ)になるには初めがかなり重要になります。
何せ一度でも公娼になれば、高級娼婦になることができなくなります。
ですが、クルティザンヌになるには多大な努力と資金が必要になりました。作法、教養への勉学、衣装やあらゆる分野への見解を深めるには、それなりの裕福さが要求されました。
ですので、親が娘の美貌を見出した際には、まずはお妾さんとして裕福な親戚や知り合いに送ります。
彼女たちはそこで行儀作法を習い、上級貴族の前に出ても恥ずかしくない様に言葉使いから身の振り方までしっかりと仕込まれることとなります。
器量や才覚を磨きながら、更にそこから上のパトロンを探さなければいけません。
彼女たちが高級娼婦になる為には上流階級の紳士に出会うことが必要不可欠なのです。
最終的に社交界に出入りできるようになれば、高級娼婦への道は開けたも同然でしょう。

パトロンとバレエと高級娼婦

 では、面倒を見てくれる親や裕福な親戚友人がいない場合はどうしたらいいか?
そういう場合は、多くはバレエやオペラなどで端役女優としてデビューすることがもっともよいとされました。
今でこそ舞台芸術として高められ、優雅なイメージのあるバレエですが、中世時代は今とはかなり違う環境にバレエは置かれていました。
フランスのバレエは18世紀以降低俗化が進んでおり、主役以外のバレエダンサーは薄給で生活しなければならず、多くのバレエダンサーはパトロン無しでは生活できなかったとされており、バレエダンサーは娼婦同然と差別されていました。

エドガー・ドガ作「踊りの花形」

舞台上で優雅に踊るバレエダンサー。
左上の顔の見えない黒服の男はバレエダンサーのパトロンであり、値踏みするようにバレエダンサーを見つめています。

 パトロンには男性が多く、女性ダンサーたちは彼らによって娼婦のように扱われました。
こういった事実から男性ダンサーが減っていき、フランスのバレエの低俗化がより悪化したとされています。
 しかし、これは高級娼婦を目指した女たちにとってよいパトロンを得るのにはいい機会でした。
特にチャンスだと言われたのは、バレエダンサーたちが初舞台を踏む時です。
初舞台であるということは売春斡旋も初であるということ。つまり純潔である可能性も高いのです。
上流階級の紳士たちにバレエやオペラなどの初舞台の場で見染められ、契約することが高級娼婦になる為のよい手段だったのです。

高級娼婦たちの開くドゥミモンド

出典: http://www.ladyweb.org

社交界

各国の外交や、経済、政治など重要な話をする場所でもあり、中世フランスにおいてはある一定の身分以上のものしか参加できない集まりです。 参加者には王侯貴族、貴族、上流階級など名だたる名家が集まりました

ドゥミモンドとはフランス語で「半分の世界」と言います。
高級娼婦や新興貴族、そして多くの富裕層からなる社交界の事を指しており、王族や貴族など本来の社交界(バーモンド)に対して対になるようにつけられました。
この言葉を最初に使ったのは、『椿姫』の作者、アレクサンドル・デュマであるとされます。
小説『椿姫』を戯曲化した際に、つけたタイトルが『ル・ドゥミモンド』であり、それが瞬く間に流行したために定着しました。
パトロンを得た高級娼婦達は、フランスであれば庶民であろうともエスプリ、美貌、財産があれば貴婦人として扱われます。
ドゥミモンドに出席した高級娼婦たちはその中で自分のパトロンになってくれそうな紳士を見つけて近づくのでした。
ドゥミモンドでは、高級娼婦達が主賓になることもありました。
彼女たちが招待し、そして向かうのは男性だけ。本来であれば夫婦そろって出席するのが社交界なのですが、社交界人土の半分である男性しか向かわないために、高級娼婦達は、ドゥミモンドの女とも呼ばれるようになるのです。
ドゥミモンドが成功すれば成功するほど、招待主の名が上がり、社交界でのランクが上がることになります。
主賓が高級娼婦達のような身分が下のものであろうと、客人になる貴族たちは社交界での話題づくりに積極的にドゥミモンドに参加してくれることが多かったと言います。
こうやってドゥミモンドで成功することで、高級娼婦達は自らの地位を高めることができたのです。

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高級娼婦たちのドゥミモンド

一定以上の教養と趣味の良さは合ったので、それなりに形にはなっていたようですが、中にはやはりちぐはぐとした本物の社交界とは違った趣があったそうです。

名作『椿姫』のヒロインのモデル高級娼婦『マリー・デュプレシ』

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椿をもったご婦人

マリー・デュプレシの肖像画。
マリー・デュプレシはその身分に合わない気品ある美貌と深い知性を持ち合わせた教養ある高級娼婦として社交界の花形に上り詰めました。
マリー・デュプレシの恋人はアレクサンドル・デュマ・フィス、フランツ・リストなど多くの知識階級から上流階級にまでわたっているが、マリー・デュプレシの愛は常に真摯なものであったとされています。

胸に椿の花を挿し、透き通るような白い肌に艶やかな黒髪。
マリー・デュプレシはクルティザンヌの歴史の中でも、もっとも有名な女性であるのは疑いようもないことでしょう。
享楽と繁栄を極めた第二帝政期パリの中で、クルティザンヌの頂点とまで謳われたマリー・デュプレシは、かの有名な名作である「椿姫」のモデルになった娼婦です。
マリー・デュプレシは芸術的ともいえる卓抜したセンスと、美意識を持ったクルティザンヌであり、その教養溢れる気品に満ちた姿は多くの人々を魅了しました。
儚げで美しい彼女は、その美を讃えるように「天使のような娼婦」とまで呼ばれるほど愛されたのです。

高級娼婦マリー・デュプレシと椿姫

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小説椿姫

19世紀パリで活躍していた椿をつけた高級娼婦マルグリッド・ゴーティエが贅沢三昧の日常と空虚な恋愛に疲れ果てていた際、友人に紹介された青年アルマン・デュヴァルと恋に落ちます。
初めて得た誠実な愛に喜ぶマルグリッドでしたが、アルマンの父に別れるように頼まれ、再び高級娼婦として働きアルマンに真実を告げずに別れてしまうという切ない小説です。
マリー・デュプレシとアレクサンドル・デュマ・フィスの恋路を元に書かれたものであり、彼とマリー・デュプレシの複雑な愛情と後悔が込められています。

 

花をこよなく愛したマリー・デュプレシは、当時の平民の家族が一か月は優に暮らせる金額をひとつの花束にかけましたと言われています。
ですが、胸を病んでいたマリー・デュプレシは匂いのきつい花は体が受け付けなかったらしく、そのため匂いの薄い椿を最も愛したそうです。これがマリー・デュプレシの椿姫という名の由縁でした。
元々胸を病んでいた彼女は肺結核により23歳の若さでこの世を去ることとなりましたが、マリー・デュプレシのその美しさや気高さ、賢さは「椿姫」の作者アレクサンドル・デュマ・フィスによって綴られ、死後も多くの人に愛されています。

出典: https://ja.wikipedia.org

アレクサンドル・デュマ・フィス

[巌窟王」などを描いたアレクサンドル・デュマの息子であり、彼の私生児でもあります。
認知され、出来うる限りの良い教育を受けましたが青年時代に受けた偏見と差別は彼のその後の作風におおいに影響を与えました。
マリー・デュプレシと恋に落ちたものの、11ヶ月付き合った後彼女の高級娼婦という立場と耐えきれず彼の方から離れていきましたが、彼女との出会いはアレクサンドル・デュマ・フィスにとって大きな転機となりました。

出典: http://jams-parisfrance.com

オペラ 椿姫

今でこそ名作と名高い椿姫ですが、初演の際は娼婦が主役ということでかなりの批判を受けました。
なんとか上演できたのも、最後に主役が亡くなるという結末だったからだと言います。
しかし翌年の再演では入念なリハーサルを繰り返し、聴衆に受け入れられることに成功しました。
今では世界のオペラ劇場に最も上演回数の多い作品の一つになりました。
 

フランス宮廷の要人たちの愛人、高級娼婦『コーラ・パール』

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気兼ねしないご婦人

パリジェンヌにならず、自らを取り繕うことなく自然体で過ごしたコーラ・パールに紳士たちが親しみと愛情をこめて、そう呼んでいたといいます。
彼女もまたエーミール・ゾラの小説『ナナ』のモデルとなっており、その小説からコーラ・パールの破天荒な愛らしさと奔放さが垣間見えるようです。
誰よりも自分に素直であった彼女の晩年は寂しいモノでありましたが、コーラ・パールがパリに与えた影響力は今もなお続いています。

コーラ・パールはクルティザンヌの中でもかなりの変わり者であったことは間違いありません。
娼婦たちが身に着けるべき口調やしぐさを軽蔑し、本能的な破天荒な振る舞いを好んだと言います。
フランスに近代的なファッションを持ち込んだのもコーラ・パールであり、彼女が貴婦人たちに影響させたのは服装や髪形やメイクなど、当時の常識では考えられないような斬新なものばかりで、下品であるなどと批判を生むだけでなく大きなセンセーションを与えました。パリに置いて、初めてアイシャドーをつけるようになったのもコーラ・パールだと言われています。
コーラ・パールは停滞し気味だった貴族界の服装事情に新たな風を吹き込ませたのでありました。

高級娼婦コーラ・パールの華麗なる男性遍歴

『ナナ』

エーミール・ゾラ作、小説『ナナ』
第二帝政期フランスに、猥雑な姿で舞台に身を躍らせた新人女優ナナが高級娼婦となり上流階級の男を次々とその美貌で破滅させていく作品。
最終的にはナナ自身も美貌を病で失い、ひっそりと亡くなってしまう。
この、ナナのモデルはコーラ・パールがモデルだと言われている。

コーラ・パールはドゥミモンドなどでも大人しく振る舞うことはなく、コーラ・パールを支援する貴族たちにお礼ではなく罵倒と侮蔑をよこしたと言われるほど勝ち気で、男性に対しては特にコーラ・パール女王然としたふるまいを好みました。その姿には、時の皇帝ナポレオン三世ですら頭を下げて思し召しを伺うほどです。
ドゥミモンドの女王として君臨した彼女の愛人は皇帝ナポレオン三世を代表として皇帝ナポレオン三世の従兄弟ナポレオン公やオランダの王太子など歴史に名だたる人物ばかりでありました。

出典: https://bushoojapan.com

皇帝ナポレオン三世

あのナポレオン・ボナパルトの甥であり、フランス最後の君主。 彼の治世前期は強圧的な「権威帝政」でしたが、後期になるにつれて「自由帝政」という議会的主義な政治に代わっていったとされます。 かなりの好色家とも知られており、身分の上下を問わず数多くの女性と性交したことで有名です。

歴史を騒がせた高級娼婦たち

マリー・デュプレシ、コーラ・パールのような華麗な高級娼婦達。
彼女たちのように貴族たちを翻弄しながら高級娼婦たちは歴史に仇花を咲かせながらその一生を売春と恋愛に費やしました。
その中でもいくつか有名な娼婦たちをご紹介します。

出典: https://ameblo.jp/irusutyuu/entry-12011496306.html

リアーヌ・ド・プジー

海軍士官との駆け落ち結婚後、夫の虐待を理由に離婚。
その後売春と女優業をはじめ、ヴァルテス・ド・ラ・ビーニュ伯爵夫人と共に高級娼婦となりました。
作家ナタリー・クリフォード・バーネイとは同性愛の関係にあたり彼女たちの交友は死ぬまで続いたと言います。
1920年にグルジアのプリンス、ジョルジェ・ギガと再婚しプリンセス・ギガとして王族に名を連ねました。

出典: http://zepcy.com

ラ・パイヴァ夫人

第二帝政期フランスを傾けた高級娼婦。 宝石をこよなく愛した女性としても有名で、その浪費家ぶりは囲っていたはずの主人ですら恐れをなして追い出すレベルでした。 爵位を得るためにポルトガル貴族パイヴァ公爵と結婚するも、爵位を得た後に彼を捨ててドンネルスマルク伯爵を篭絡し、豪奢の家を今後の拠点として立ててもらいました。 ドンネルスマルク伯爵とラ・パイヴァ夫人はそこでドイツ軍と共謀しスパイ活動を行い、普仏戦争に大きな貢献を果たしました。 その後、パイヴァ公爵がピストル自殺していたので、ドンネルスマルク伯爵と再婚。 彼からの結婚のプレゼントはポンシャルトラン城と、当時のフランス皇后ウージェニーが一番大切にしていたネックレスだったそうです。

出典: https://www.pinterest.nz

アリス・オジー

アリス・オジーは19歳でヴァリエテ座で女優としてデビューしました。
その際にフランスの国王の息子ド・マール公爵に見染められ、彼の愛人になることになりますが、王子の身分だったド・マール公爵は自由気ままに使える金がありませんでした。
そのため、アリス・オジーは王子を捨て、当時マリー・デュプレシを囲っていたペレゴー伯爵と付き合いました。 彼女は完璧に整った美女ではないとされていますが、男心をくすぐらせる魅力と欠点が愛らしいと
言われており、アリス・オジーにしか出せない雰囲気が魅力的でした。 アリス・オジーは娼婦としては珍しくかなり裕福な老後を送っており、昔捨てた恋人であるド・マール公爵とも交友は続いていたそうです。

公妾と敏腕政治家『ポンパドゥール夫人』

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美人公妾

女性の髪形でポンパドゥールという髪型があるが、前髪を高い位置でまとめ襟足もあげて後頭部でまとめるのが正式な髪型になった。 ポンパドゥール夫人が始めた髪型であり、当時の貴婦人たちは彼女の髪形や服装などをこぞって真似し、その特徴的な髪型をポンパドゥールと呼ぶようになりました。

ポンパドゥール夫人は元々は銀行家の娘として生まれた、いわゆる平民の出です。
とはいえど富裕層の生まれから貴族の子女以上の教育を受けて育ち、その美貌と才覚をめきめきと伸ばしていきました。
富裕層であることから、多くの一流文化人と出会い、磨かれ続けた彼女の転機は23歳に訪れます。
ルイ15世の目に留まったのは1744年頃であり、彼女はポンパドゥール公爵夫人の称号が与えられ、1745年にはルイ15世の公妾として召し抱えられることになるのです。

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ベッドの上の実力者

多大な浪費家でもあった彼女ですが、その美的センスは確かなものであり当時の歴史の中に置いては最先端の流行を作り出していました。 影響力の強い要人たちを押さえ、その上ルイ15世の友としても愛人としても心を繋ぎ留め続け政治に文化にと様々な分野に貢献し続けた彼女は当時のフランス王室には必要不可欠な人物でした。 彼女が後世に残した言葉の一つに、彼女の当時の立場を思わせるような言葉があります。 「私の時代が来たわ」

フランス国王の公式の愛妾となったポンパドゥール夫人は、政治に関心の薄いルイ15世の代わりに権勢をふるうようになりました。
彼女が推薦したリベラル派のシュワーズは、外務大臣だけでなく戦争大臣を兼任、事実上の宰相となりフランスの重農学者であるケネーも彼女の主治医となりました。
特に彼女がフランスに貢献したのは、オーストリアのマリア・テレジアとロシア帝国エリザヴェートとの共謀による反プロイセン包囲網、「三枚のペチコート作戦」でしょう。
特に長年の敵であったオーストリアとの和解は画期的であり、この和解のためにあのマリー・アントワネットがフランスに嫁いでくることとなったのです。
ルイ15世はこの類まれなる美貌と智謀を持った公妾を42歳で亡くなるまで愛し続け、寝室を共にすることが無くなっても傍に置き続けていたのでした。

出典: http://modahistorica.blogspot.jp

フランスの為に

体だけの関係ではなく、国の為に尽力し、王の良き友人として、王妃の良き理解者として活動していた彼女は敵対していたものからも認められるほど有能な公妾でした。

有名な公妾達

出典: http://dramatic-history.com

アニェス・ソレル

アニェス・ソレルはフランス初の公式寵姫。 15世紀のヴァロア朝の国王シャルル7世の公妾でその麗しい美貌から「Dame de Beaute (美しの貴婦人)」と呼ばれ愛されました。
この当時、フランスは苦境に立たされており領土の多くをイギリスに占領されていましたが、シャルル7世はイギリスを領土から追い返すことに成功した陰にはアニェス・ソレルが的確な助言をしたからであり、美しいだけではない女性であったことが明らかになっています。
また、ダイアモンドを初めて身に着けた女性とされており、シャルル7世から送られた煌びやかな宝石は彼女の美しさを際立たせました。

出典: http://zepcy.com

モンテスパン夫人

美貌、知性、センスの3つを兼ねそろえた麗しの公妾。 ですが、一方でその性格は周囲をして悪いと言わざる負えないほど気性が激しく我儘であったそうです。 ルイ17世の当時の公妾ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールを押しのけて公妾となり、宮廷で絶大な権力をふるうようになり、次第に王妃を軽んじるようになりました。 ですが、彼女がかつてそうしたようにやがて王の寵愛が薄れて別の若い貴婦人に関心を寄せていってしまい、モンテスパン夫人は嫉妬に狂うことになりました。 その結果彼女は犯罪とされていた黒魔術に手をだしてしまい、この事件はルイ14世の統治中最大の醜聞になってしまいました。 彼女は最後、追いやられた修道院で生涯を追えますが、ルイ14世からは身内に喪に服してはならないとのお触れが出るほど嫌われていたそうです。

出典: https://bushoojapan.com

デュ・バリー夫人

ポンパドゥール夫人が亡くなった後に迎えられたルイ15世の公妾です。 愛嬌の良さとその美貌から宮廷の貴族から慕われていましたが、オーストリアから嫁いできた王妃マリー・アントワネットとは非常に仲が悪く敵対関係にあったといいます。 1774年に危篤に陥ったルイ15世から遠ざけられる形で修道院入りしましたが、当時の人脈を使いド・ブリサック元帥やシャボ伯爵、イギリス貴族のシーマー伯爵達の愛人になることで優雅な生活を送っていました。 1789年に勃起したフランス革命により愛人であったド・ブリサック元帥が虐殺された後処刑から逃げるようにイギリスに逃れ、亡命してきた貴族を援助しました。 ですが1793年に帰国した際、革命軍にとらわれギロチンの露として消えることになりました。

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ローラ・モンテス

『スペインの踊り子』と自身を呼んだ公妾。
元々はフランスで踊っていたダンサーだったのですが作曲家フランツ・リストとの恋仲によって有名になり、彼女のダンスはヨーロッパ中で話題を呼びました。
1864年にドイツ、バイエルン王国の王ルートヴィヒ1世の公妾となりますが、その激しい気性と傲慢ぶりから王室からは嫌われており、出自自体が卑しい踊り子である彼女をミュンヘンの上流階級は受け入れようとしませんでした。
結果的に彼女への反感が革命を呼び、ルートヴィヒ一世は退位して王太子に王の座を譲り、ローラ・モンテスは王国から逃亡。
彼女はその後イギリス、アメリカ、オーストラリアと様々な土地を放浪しますが、うまくいかず最後は自分の今まで行ってきた仕打ちを振り返って反省し、修道院に入りました

日本に置いての高級娼婦

日本での高級娼婦というと江戸時代の花魁などがそれに値します。
教養や芸事に精通し、決して色事だけでなく艶やかに男性を翻弄した彼女たちも高級娼婦として成立するでしょう。
現代日本においては既に花魁は廃止され、すでに存在しませんが高級娼婦に近い存在というのは日本にも存在します。
具体的な例としては叶姉妹などがあげられます。
叶姉妹は大勢の男性の取り巻きがいらっしゃるそうで、その数総勢100名前後。どの方も世界的に有名な方だそうで、彼らに貢がれていることでかなりの収入源を得ているようです。
また、元々は要人のコールガールだったともいいます。
複数の異性に愛され貢がれながら。そのゴージャスな生活を満喫する彼女たちの姿は、かつての高級娼婦たちと重なる部分があるでしょう。

出典: http://gahag.net

花魁

かつて江戸時代には敷地は2万坪、遊女は数千人いたとされる吉原。 その数千人の中でも花魁の最高位『太夫』になれるのは3~5人だけだったと言われています。 高級娼婦と同じく異性から愛され、貢がれるべき女であった彼女たちの華々しさは時のお江戸の遊びの象徴でもありました。

まとめ

歴史を彩った艶やかな娼婦達は、歴史上においてとても重要な役割を果たしました。
中世フランスの芸術分野から、権力闘争において高級娼婦と公妾の名を抜きにして歴史を語ることはとてもではないですが難しいでしょう。
売春は確かに現代の道徳観念からすれば眉をしかめられるものですが、高級娼婦と公妾の華やかでかつ刹那的な生き方は異性のみならず同性ですら憧れを抱いてしまうほど刺激的であります。
彼女たちの華々しい活躍は多岐にわたり、歴史上の偉人たちを虜にしたその美貌と知性に今でもなお我々は影響を受けているのです。

出典: https://activephotostyle.biz/details.php?image_id=5561

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