2021年05月28日公開
2021年05月28日更新
江戸時代の人口は世界一だった!? 都市江戸の人口密度や推移まとめ
江戸時代、江戸の人口は世界の主要都市の中でもトップクラスの人口だったと言われています。では実際江戸時代、江戸の人口はどれくらいだったのか?世界一と言われた江戸の過去の人口増加推移のグラフや当時の人口密度や男女比率から、田舎と江戸での人口分布の差までご紹介!
目次
江戸時代の人口は世界一だった?
上の写真の模型を見ても分かる通り、江戸時代の特に江戸では人口が多く、世界の都市と比べてもその人口は世界一だったと言われています。では実際江戸時代には一体どれくらいの人口があったのでしょうか?江戸の人口密度や過去の日本からの人口の増加推移のグラフ、更には当時の江戸の男女比率や江戸時代の田舎での人口分布の差までご紹介します!
江戸時代が開始した年までの人口推移
徳川家康の手によって江戸幕府が開かれ、江戸時代が始まったのは1603年でした。総務省が発表している日本の人口推移のグラフによれば、江戸時代の人口は1200万人程度で構成されていました。人口推移のグラフを見て分かる通りそこから江戸時代の中だけでもかなり人口が増加していきますが、では江戸時代が始まった当時の江戸の人口はと言えば、およそ15万人程度だったそうです。
江戸時代の京都は30~40万人、大阪が20万人程度の人口であることを考えれば、江戸時代が開始した当初の江戸は他の2都市に比べればあまり人口密度は高くなく、人口も一か所で人口密度が高くなっていることもなく、全体的に綺麗に分布していたようです。
江戸時代の大阪城
そもそも、江戸時代の人口は現在の日本の人口の約10分の1ですので、江戸に限らずどこも住みやすかったのではないかと考えられます。この時点では世界一とは程遠い人口数でした。
人口調査はいつから行われていたのか?
豊臣秀吉
日本で初めて全国規模で人口の調査が行われたのは、戦国時代である1591年に豊臣秀吉の命により行われたものでした。人口調査の目的は朝鮮出兵のために人数を把握したいというものでした。豊臣秀吉は検地も行っており、この時代から人口の統計法が少しずつ確立されていったようです。
江戸時代にキリシタンを排除する目的で人口調査が行われた
次に人口の調査が行われたのは江戸時代に入ってからで、この人口調査は「宗門人別改帳制度(しゅうもんにんべつあらためちょうせいど)」と呼ばれました。これは人口を調べることが目的ではなく、どの宗教がどのくらい広まっているかを調べるために行われたものであったため、これによりある程度の人口は把握することができましたが、その数は正確とは言えませんでした。
現代で言えば小学校低学年の子供や中学生の子供まで数えない藩があったということですね。それだけ子供の死亡率は非常に高かったと言います
また、ここで行われた人口調査では、死亡率の高い8歳未満の子供を数えない藩やもっと年齢を上げて15歳未満の子供を数えない藩なども存在したため、不明瞭な部分は非常に多くなっているそうです。
江戸時代中期から定期的に人口の調査が開始された
徳川吉宗
その次に行われた人口調査も江戸時代で、1721年に幕府の命によりそれ以降6年ごとに全国規模での人口調査が行われるようになったそうです。調査を行ったのは、暴れん坊将軍のモデルにもなった八代目将軍徳川吉宗で、この時代からある程度日本の人口の推移や密度、分布が明確に分かるようになりました。初回である1721年の調査によれば、日本の人口は2600万人との調査結果がでました。
武家屋敷の様子
しかし、この人口の統計法にはいくつか欠点がありました。
・武家などの上流階級の人間であること、武家に仕えている奉公人や、戸籍の存在しない人は除外する
・調査方法は藩に全て任されており、前回の統計と同じように統一されていなかった(死亡率の高い8歳未満の子供は数えたり数えなかったり)
・意図的に実際の数よりも多く報告、もしくは少なく報告されていた
この、藩により意図的に数が変えられていた、というのは藩という組織自体が、江戸時代ではそれぞれ一つの国のような形であり、藩の戦力を明確に公表されることは自分の手の内をさらけ出すことでもあったため、意図的に避けたのだそうです。
そのため、本来の江戸の人口は、グラフで示されているように3000万人を超えていたのではないかと推測されています。しかし、江戸時代が始まった1603年に比べれば人口数は江戸時代だけでかなり増加していることが分かります。ただし、この後人口数の増加はストップしほぼ横ばいで推移していきます。
江戸時代中期ごろには江戸の人口も増加
参勤交代の様子を描いた図
江戸時代が開始した当初15万人いた江戸の人口も1635年に参勤交代制度が開始されてから江戸へやってくる大名のためのお屋敷が建つようになり、それにともなって町自体の人口も増加していきました。1693年になると江戸の人口は35万人まで増加、1721年では遂に50万人まで増加し、人口密度も増加していきました。それ以降はグラフでの人口推移を見て分かるようにほぼ横ばいに推移することになります。
もちろんこちらも江戸時代の幕府の調査によるものですので、武家の人間以外の人数も含めればその数は100万を超えていたのではないかと言われています。1801年のパリが54万人、ロンドンが86万人であったことを考えると、もちろん正確な人数が把握されていないため、世界一と断言することはできませんが、江戸が北京などと並んで人口数が世界でもトップクラスであったことは間違いないようです。
江戸時代の江戸は人口密度もトップクラス
武家屋敷
とても広いですね
では江戸時代の江戸ではどれくらいの人口密度だったかといえば、江戸時代の人々は身分によって住む場所が明確に区別されていたため、非常に狭い土地に分布していた庶民は人口密度が高くなっていたといいます。使用できる土地面積は、武家が使用する面積は江戸の約70%であり、残りの30%を寺社仏閣と庶民で半分に分けていたため、約50万人の人が15%の場所にぎゅうぎゅうになって住んでいました。
長屋
上の数で計算すると、江戸時代の庶民は1km四方の土地に約6万人が住んでいたことになります。現在の東京ではもっとも人口密度が高い地域でも2.2万人だそうで、しかも当時江戸の庶民は全て長屋といわれる平屋の賃貸に暮らしていたことを考えると、当時がどれだけ人口過密になっていたかが分かっていただけるかと思います。このように、江戸時代の江戸は、人口密度で見ても世界一と言ってもいいほど人口過密地区でした。
江戸時代の江戸の男女比率は?
次に江戸時代の男女比率ですが、1721年の調査によると、江戸にいた男性は32万人、女性は18万人いたそうで、男女比率にすると、5:3くらいの比率になるようです。ではなぜ男性の比率が高いかというと、参勤交代により武士が多く江戸に滞在していたこと、また田舎の二男三男が仕事を求めて江戸にやってくるということが多くあったためにこのように男性の比率が高くなっていたそうです。ただし、この男女比率は江戸時代後期にはほぼ均等な構成になっていたとも言われています。
江戸時代の人口分布は?
日本の人口分布の推移グラフ
一番上の二つが江戸時代中期と後期の人口分布図
では江戸時代では江戸に人口の分布が多く集中していたかというとそうでもなく、上のグラフを見て分かるように、関東や近畿などの都市部に多少の集中が見られますが、現代に比べればかなり均等に分布されていることが分かります。因みに江戸時代の当初はもう少し近畿に人口分布が寄っていたようです。江戸(東京)の人口は大正、昭和へ移るにつれどんどん過密になっていきました。
江戸時代の人口の構成は?
江戸時代の身分別人口
では江戸時代では人口がどう構成されていたかというと、圧倒的に庶民、平民が多く構成されその割合は90%を超えていたと言われています。またその庶民の構成の中でも圧倒的に農業を営んでいる人が多く、全体の80%を構成しています。残りの商業、工業を営んでいた人々はそれぞれ2:1の比率で存在していたそうです。
華族の家族写真
グラフにある士族とは、江戸時代に武士の身分であった人のことを指し、華族は武士の中でも大臣など特に身分の高い人のことを指します。卒は下級軍人という意味です。このグラフは主に明治時代の資料を基に作成されているため、このような名称になっています。つまり、グラフで見ると、江戸時代の武士は全体の3.6%で大臣以上の階級ともなれば日本全体のたった0.01%であったことが分かりました。
江戸時代の江戸は超過密都市だった
さて、江戸時代の江戸について人口の推移や密度、人口の構成について調べてみましたが、江戸時代に人口が急激に増加し、江戸の町は庶民にとって世界一とも呼べるほど超人口過密都市であったことが分かりました。その人口過密度は現在の東京もっとも過密な地区のなんと約3倍でした。
長屋で生活する庶民
お隣さんとはほぼ家族同然の生活をしていたようです
また長屋と呼ばれる平屋建ての木造建築物に住んでいたことを考えると、ほとんどプライバシーというものはあってないようなものだったと考えられます。現在では考えられない生活ですが、助け合いの精神が生きていた時代でもありましたから、それはそれで楽しい生活だったのかもしれませんね。