2021年05月10日公開
2021年05月10日更新
山口組6代目組長 生きる伝説『司忍(本名:篠田建市)』の壮絶な人生
山口組6代目組長『司忍(篠田建市)』の波乱万丈な人生。山口組6代目組長であり、生きる伝説と言われる司忍(篠田建市)はいかにして山口組6代目組長の座に登りつめたのか。 その人柄は?名前の由来は?家族はいるの?様々な疑問にお答えします。
目次
- 1山口組6代目組長『司忍』とは
- 2公平な人柄と称される篠田建市
- 3山口組とは
- 46代目山口組と神戸山口組と任侠山口組
- 5司忍(篠田建市)が山口組組長に登りつめるまで
- 6山口組系暴力団組織「弘道会」を設立
- 7山口組6代目組長就任
- 8司忍(篠田建市)の伝説その1
- 9司忍(篠田建市)の伝説その2
- 10司忍(篠田建市)の伝説その3
- 11司忍は阪神淡路大震災時にも懸命な援助を
- 12司忍(篠田建市)の妻や家族は?
- 13産経新聞が山口組6代目組長 司忍(篠田建市)にインタビューを
- 14ヤクザといえば刺青・エンコ詰め
- 15山口組所在地
- 16山口組6代目組長 司忍(篠田建市)の跡継ぎは?
- 17終わりに:山口組6代目組長 司忍(篠田建市)の壮絶な人生
山口組6代目組長『司忍』とは
山菱
山口組6代目組長『司忍(つかさ しのぶ)』とは、指定暴力団山口組の6代目組長を務める男で、その威厳ある振る舞いや組長に成り上がるまでの数々のエピソードから、生きる伝説とまで言われています
山口組本部
日本最大の暴力団と言われる山口組をたばね、今なお生きる伝説としてその威光を轟かせる6代目組長の司忍。
司忍の人柄や彼の残した伝説、妻や家族などを調べました。また、2011年に話題にもなった司忍へのインタビューについても触れていきます。
司忍
上の写真(左)が司忍(篠田建市)です。見た目はシブいおじさまといった具合ですが、どこか優しそうで穏やかな雰囲気がありますね。
篠田建市として大分県に生を受ける
1942年1月25日、司忍は大分県大分市に生まれ、地元の水産高校を卒業後、大手水産会社に入社しました。
その後、大阪に出て愚連隊のような日々を過ごします。
愚連隊とは、「ぐれる」からくる当て字です。若い不良、チンピラのようなものですね。
司忍という名前からか、日本人ではないのではと推測されがちな司忍ですが、本名が篠田建市で、司忍というのはいわゆる渡世名ですから、おそらく生粋の日本人でしょう。
篠田建市が司忍を名乗る理由は?
渡世名とはヤクザが自分の名前を一部かえて縁起の良いものにしたり、優しそうな名前をいかつくしたりする文化のことですが、司忍の場合は本名が篠田建市ですから、ほとんど芸名かペンネームのような変わりよう。
ヤクザになったときに飼っていた犬の名前が司(つかさ)と忍(しのぶ)だったから、なんていう説もありますが
夭折した弟(弟の名前が司(つかさ))を偲ぶ(忍ぶ)意味で司忍を名乗っている。
という説が有力なようです。
公平な人柄と称される篠田建市
想像するヤクザの組長というと、とにかく酒を飲んでいて、大量にタバコを吸い、びっしり刺青が入っていて、黒塗りの車に乗っていて…という印象ですが、そんなのは映画のなかだけの話のよう。司忍(篠田建市)はそうではありません。
司忍(篠田建市)は、酒もタバコもやらず、和食中心の質素で栄養豊富な食事を心がけ、日々鍛錬を欠かさず身体を鍛え、60代でも冬はスノーボードに出かけるほどの健康さを維持しているそう。
これには司忍(篠田建市)の慈しみ深い信念が関係しています。彼は組の若い人間を、加えてその家族さえもちゃんと守ってやりたいと考え、自分が健康でなければ組を支えられない、組が倒れてしまっては、共に組を支えてくれている若衆が食べていけない、また、不健康にあっては考え方さえおかしくなってしまう、そうした諸々の理由から、自身が健康であることを心がけているのです。
組織の上に立つ者として模範的とも言えるこの人柄、当然のことながら組の舎弟や若衆からの信頼も厚く、公平な人柄であると高い評価を得ています。
山口組とは
歴代の山口組組長
組員には在日韓国人の方や在日中国人もいますが、山口組の組長になれるのは日本人だけだそう。
ところで、山口組とはどういった組織なのでしょう。
指定暴力団として日本最大規模を誇る山口組ですが、2015年には分裂騒動がありました。
6代目山口組、神戸山口組、任侠山口組の3つに分裂した模様ですが、この理由としては諸説あり、簡単には分析できない内容となっています。
山口組は本部の組員が100人程度で、その100人がそれぞれに自身の組の組長であるというあまりにも大きな団体でした。
そうした状況の中、世間では暴力団排斥の機運が高まり、またそれに伴って各都道府県にも暴力団排除条例などが設置されたこともあり、組長である司忍(篠田建市)の、大所帯を支え続けるための決断、新しい時代への舵取りにたいして不満が募ったことが分裂の原因となったという見方が大きいのですが、現行法をかいくぐって資金を得るための自演ではないかという説もあり、概して暴力団にとって難しい時代であることを象徴する出来事となりました。
また、マクドナルド事件とも称される、組員がマクドナルドでの支払いを拒否しその請求書が組長である司忍に届けられるというマヌケな事件から、暴力団同士の小競り合いや発砲事件など、警察の取締強化と相まって暴力団の秩序が乱れ始めたこともこの分裂騒動を覗き見るヒントとなりそうです。
6代目山口組と神戸山口組と任侠山口組
山口組初代組長
先に述べたとおり、山口組は現在大きく分けて3つに分裂しています。
ひとつは名古屋に本部をかまえ、6代目組長司忍(篠田建市)率いる6代目山口組。
二つ目は神戸に本部をかまえる神戸山口組。これは井上邦雄が組長を務めます。
さいごに任侠山口組は、神戸山口組からさらに派生した団体で、これは織田絆誠が代表を務めます。
現状は三つ巴の小競り合いが続いているようですが、任侠山口組は6代目山口組に合流するのではという見方もあります。
また、6代目組長である司忍(篠田建市)の目の届かぬところで、神戸山口組や任侠山口組は法を犯し警察沙汰になる事件もいくつか起こしています。
分裂からおよそ3年、事の顛末を我々が知るのはまだ先になりそうですね。
司忍(篠田建市)が山口組組長に登りつめるまで
さて、司忍(篠田建市)の経歴に話を戻します。
司忍(篠田建市)は大阪でごろつきのような日々を過ごしたのち、三代目山口組系鈴木組内弘田組に入ります。20歳のころでした。
ヤクザは組長を中心に盃を交わして義理の親子関係や兄弟関係を結びます。これをヤクザは当然「家族」と呼びます。
そして、山口組においては若衆(子)である者も、自身を中心に義理の家族を作り、組を持っています。そうしたピラミッド上の繋がりがあるということを念頭に置くと、三代目山口組鈴木組弘田組という名前の意味もわかってくるかと思います。
山口組系暴力団「弘田組」に入団した篠田建市
弘田組に入った司忍は名古屋で武闘派として名を知らしめます。
中京地区においては山口組傘下以外の暴力団が数々あり、山口組の直参組織ではあった弘田組も当時の愛知県下ではそう強い組織とは言えず、幾度となく抗争・衝突を繰返して地盤を固めていきます。そういった抗争の陣頭指揮を執ったのが司忍でした。
司忍が弘田組に入った数年後、その上位組織だった鈴木組が解散。弘田組が山口組系列の直参組織となったのは鈴木組の地盤を引き継ぎ、弘田武志が親方となってからのことで、そのころには司忍も弘田組の内部で司興業を結成し、何人かの「家族」を持つようになっていました。
また、東陽町事件と呼ばれる大きな抗争があった際、司忍は首謀者として13年に及ぶ懲役刑を受けています。まさしく武闘派のヤクザといったところでしょうか。
この事件では後に司忍の右腕として現在の山口組の総指揮官と言える地位に就く高山清司も懲役刑を受けています。
一和会行きを頑なに拒否した司忍
司忍が懲役刑を終え出所したころ、山口組の3代目組長だった田岡一雄が死去。
田岡一雄の跡を継ぐ者として最有力候補だった山本健一と関係の深かった弘田武志は、4代目組長に従って山口組に入る予定でした。ところが山本健一は4代目組長に就任することなく亡くなってしまいます。
そして、4代目の座を巡って権力闘争が勃発しました。
これを受け、司忍の親分である弘田武志は、この4代目組長候補である2名のうちの、関係の深い人物が権力争いに負ければ、山口組系列を抜けて一和会に行くと宣言。
親が白と言えば白、という強力な縦社会であるヤクザの世界において、しかしながら親に恥をかかせないことも子の務めであると考えていた司忍は、ここで親分の弘田武志に物申します。
結果、権力争いに負けてしまった弘田組でしたが、山口組傘下にも一和会傘下にも下らずに解散。司忍の懸命な説得に応じた弘田武志は、仁義を守った上で一番平和的な解決に落ち着いたのでした。
こうした、組の未来を賭けた舵取りについて、親分に意見するのは並々ならぬ度胸がなければかなわないだろうということは想像に難くありません。これもまた司忍の人柄を表す伝説のひとつとして数えられています。
山口組系暴力団組織「弘道会」を設立
弘田武志がヤクザを引退したことで解散となった弘田組の地盤を引き継ぎ、司忍は弘道会を結成しました。引退してしまった弘田を慕う想いを込めて『弘』の字をとったと推測される弘道会は、4代目山口組の発足後もそのまま山口組系列の直参組織として活動します。
しかし、司忍に安堵は訪れません。
4代目組長に就任した竹中は、山口組から分裂した一和会によって暗殺されてしまいます。就任からわずか半年、1985年1月の出来事でした。この事件をきっかけに、およそ5年間に及ぶ長い衝突が起きました。
これを通称、山一抗争と呼び、この抗争において司忍は多大な功績を挙げました。抗争が終結し、5代目山口組が発足すると同時に司忍は山口組の若頭補佐に就き、山口組の重要なポストを務めることとなります。
山口組6代目組長就任
山口組の若頭補佐を務める司忍は、弘道会の会長としていくつもの抗争を戦い抜きます。
山波抗争、名古屋抗争、北関東抗争とつづく大きな抗争の最中、1997年に司忍はボディガードに拳銃を所持させていたとして銃刀法違反により指名手配を受けます。
指名手配を受けながらも抗争を闘い、出頭したらすぐ多額の保釈金(なんと10億円!)を支払って保釈、保釈されたと思ったらまた抗争、そのあいだも裁判はつづく、という波乱の日々を過ごした司忍。
2003年3月、裁判についてはまだ上告中の身でしたが、弘道会の会長を高山清司に譲り、司忍は山口組若頭に就任、そこからわずか2ヶ月後の5月、ついに司忍は山口組6代目組長に就任しました。
司忍の6代目就任はクーデター?
ピラミッド構造に権力が存在するヤクザ社会において、盃を交わした以上は親に忠誠を誓うのが子にとって絶対の掟ですが、16年続いた5代目組長は亡くなったのでもなければ自ら司忍を指名したのでもありませんでした。
要するに、親の絶対的な権力を無視して、山口組内部の政治を担っていた執行部が司忍を6代目組長として立てなければ組織が立ち行かないと判断したのでした。
これには諸々の噂が飛び交っていますが、どれが真だ偽だということでもなく、5代目組長だった渡辺は周囲の信頼を得ることが困難になっており、不満をつのらせた組員たちによってごく自然に、なお限りなくクーデターに近い状態で組長の交代劇が行われたということでしょう。
山口組は新しい時代へ
銃刀法違反についての上告が棄却され、実刑判決が下りることが確実視されていた司忍は、6代目組長就任後すぐさま、かねてより右腕として活躍していた高山清司を若頭に就かせ、弘道会時代と同様の統治体制を敷きました。
ここからわずか8ヶ月の間に幹部役職を創設、かつて山口組を支えた組織との関係復活、また東京都内の有力暴力団の会長を顧問として迎えての組織拡大など、様々な方面にその手腕を発揮、6代目組長としての実績を確実に重ね、服役中の地位を確かなものとしました。
特に東京都内に山口組直系の組織を得たのは史上初でした。
2005年11月に上告が棄却され、司忍には実刑判決が下りました。
しかし、伝説的な働き、常に「家族」を思う司忍の人柄は組員たちの信頼を繋ぎ止めるには十分過ぎるほどだったことでしょう。
2011年4月に出所して、6代目組長の椅子に着きました。
司忍(篠田建市)の伝説その1
片目が開かないままの高山清司
ここからは司忍が生きる伝説と呼ばれる所以になるエピソードを挙げていきます。
まず有名なのがこちら、弘道会時代からずっと司忍の右腕として動いていた高山清司ですが、右目が閉じたままです。
これも実のところ、真相を知る者は司忍と高山清司の本人たちだけですが、噂によると以下の通りだそう。
弘道会時代、眠っている高山清司に司忍がいたずらを仕掛けた。いたずらとは、瞼を接着剤で貼り付けるというおちゃめなものだったが、右目が完全に閉じてしまい、無理やりにこじあけたところ、瞼の筋肉が断裂してしまい、自力で瞼を開けることが不可能になった。
この話がほんとうなら無邪気では済まされない話ですが、司忍の伝説はここからで、そのことを気に病んだ司忍はオトシマエをつけるため、指を詰めると宣言し、高山清司がそこまでしなくていいと静止するのを押し切り、ついに小指を落としてしまったとのこと。
一般人には理解しがたい感覚ですが、指を詰めて罪に贖うことで互いが信頼関係で結ばれ、今日に至るまで家族同然に過ごしてきたそう。
司忍(篠田建市)の伝説その2
司忍が6代目組長に就任した山口組はなんと年収が2.4兆にも及ぶとのこと。
下に引用元サイトから原文のままで引用しておきます。
この情報の一次ソースはアメリカの経済誌「fortune」。なのでおそらくこの2.4兆はドルでしょう。いったいどうやってこんな情報を手に入れたのか…それはそれで伝説的な気がしますが、ともかくものすごい収入です。
1.日本山口組 年收約2.4兆 山口組是全球最大黑幫,約有2.8萬名成員,主要收入來自走私毒品,其次為賭博、勒索和圍事。該組織分級精細,成員一旦入會就得完全效忠,向心力極強,儘管日本政府近年強力掃蕩,各堂口上繳的收入仍然可觀。
司忍(篠田建市)の伝説その3
先述の通り数々の抗争を生き抜き勝ち抜き領土を拡大しつづけた武闘派の司忍ですが、驚いたことに読書家な一面も併せ持つまさに文武両道の組長だそうです。
哲学書をあらかた読破した後は中国故事や歴史書、欧州の詩集にまで及ぶらしく、かなり頭脳派な一面も見られます。
哲学書などは一般に、非常に読解の難しい書物とされています。それを「あらかた読破」してしまうとなると驚きです。
司忍は阪神淡路大震災時にも懸命な援助を
1995年、神戸の街を襲った前代未聞の大地震、阪神淡路大震災。
この救援にも司忍は力を惜しみませんでした。
当時、山口組の総本家は神戸にありました。司忍は震災直後の神戸の街にヘリコプターで駆けつけ救援物資を総本家に届けるに留まらず、そのまま山口組の組員を率いて救援活動に従事。当時の司忍は山口組の若頭補佐で、山口組系列のヤクザのなかではかなり高い権力を持っていましたが、そんなことは鼻にもかけず自ら焼きそばを作る姿が目撃されています。
司忍(篠田建市)の妻や家族は?
ヤクザ映画などでは極道の妻と呼ばれる組長の妻、姐さんや姉御と呼ばれる存在が不可欠ですが、現実はそうでもないらしく。
極道に妻は要らない。妻子があるとそこがアキレス腱になる。女も子供も極道にとっては邪魔になるだけだ。という考えを持った人がヤクザの世界には多数いるらしく、中には普通に妻を持つ人もいますが、内縁の妻だったり単なる愛人だったりで、一般に言われるような家族を持とうとは思わない人が多いようです。
したがって司忍に妻や子どもはいません。もし仮にいたとしても、インターネットで探せるほど甘いセキュリティではないでしょう。70代とは思えない若々しい出で立ちですから妻のひとりやふたりはと思うのですが、極道にとって守るべき家族は組員であり、妻の代わりはあっても若衆の代わりはいないのだそう。
山口組初代組長の墓参りをする司忍
その代わり、というわけではありませんが、組員を家族同様に扱う司忍は、家庭を持っている組員に対しても寛容で、自分の家族であるかのように接するとのこと。
特に服役中の組員に幼い子供のいる場合などは、父に代わって誕生日プレゼントを用意するなど手厚い心配りでその家族を守ります。
ここにも義理人情に厚い人柄が垣間見えますね。
産経新聞が山口組6代目組長 司忍(篠田建市)にインタビューを
2011年、出所したばかりの司忍が、全国で暴排条例が施行されたことについてのインタビューを受け、そのインタビュー記事が山口組の分裂を受けて再掲された記事があります。以下のリンクを参考にどうぞ。
インタビューアーの質問に対し真っ向から的確に答え、論理的にわかりやすい言葉で自身のあり方を説明する司忍の姿はインターネットを中心に大反響。
インタビューを褒めそやす者、インタビューに対して違和感をもつ声や、インタビューを決行した産経新聞を称える者など、反響は様々ですが、普段接することのない暴力団組長のインタビューを読めるというだけで、すでにこのインタビューには価値があると言えるでしょう。
ヤクザといえば刺青・エンコ詰め
インタビューではインテリジェンスな一面を披露した司忍ですが、一般的な日本人にとってやっぱりヤクザは怖いもの。
日本人ならきっと誰でも知ってるとおり、ヤクザと言えば刺青でしょう。極道の妻たちにもびっしり刺青が入っているシーンなんかは日本人の多くが目にしたことのある光景ではないでしょうか。
かつて刺青はヤクザがするものとされており、日本人の多くはタブーとして考えていましたが、現代では外国のタトゥーなどの影響もあってか、若い日本人の間でカジュアルに刺青をする人も増えているそう。
多くの日本人にとっては馴染みのない拳銃ですが、日本人のなかでもヤクザなら触れる機会もあるのでしょうか。
それからもうひとつ、ヤクザといえばと日本人なら思い出すもの、やっぱりエンコ詰めでしょう。
エンコ詰めとは指を切断すること。
先述しましたが司忍も高山清司のために指を詰めました。片手の小指と薬指がないと噂されていますが、真相はどうなのでしょうか。
ヤクザが指を切り落とす理由
世界中にマフィアが存在しますが、指を詰めることで示談や和解が得られるという文化があるのは日本くらいなものではないでしょうか。
ヤクザの世界では、例えば不手際、不義理が会った際、それを詫びるべく指を詰めることで相手に対して、心身共に究極の詫びを表わす効果があるようです。
指詰められたら許すしかないわな…といった具合です。
そして、いとも簡単に指を詰めてしまうヤクザなら、度胸があると名が売れ、名が売れればトラブルも事前に回避できる、というわけです。
一般的な日本人のイメージする、小指を切断=やくざを抜けた、という情報は間違いのようで、抜けるときには破門状が届くというのが、少なくとも山口組では常識だそう。
山口組所在地
名古屋市中村区宿跡町1-55
と細かな住所まであきらかになっている山口組総本家、つまり司忍の自宅です。
司忍は質素な暮らしを好んでいる、と言われているとおり、事務所を兼ねているため大きさはかなりありますが華美な外観ではありません。
ヤクザの組長の家といったらマンガなどではとんでもない敷地に日本庭園があって茶室があって…なんてイメージですが、ここはどうもオフィスのような建物ですね。
日本人のイメージする「ヤクザっぽさ」はありませんね。
組員たちの車を停めるため、大きな駐車場もあります。
ここはかなり「ヤクザっぽい」ですね。
山口組6代目組長 司忍(篠田建市)の跡継ぎは?
妻子がいないため、跡取りとなる息子もいない司忍。そもそもヤクザは実際の血のつながりよりも盃による義兄弟や義親子の関係を重視するため跡取りを、実際の息子に譲ることはあまりないそうですが、司忍の跡を継げる組員は存在するのでしょうか。
信頼を集め、確かな目標を持って任侠へ邁進しようという真面目な人柄を引き継げる人物であること、また、司忍に認められる人柄であることも重要となります。
司忍も70代の半ばにさしかかり、健康的であるとはいえそう先も長いとは言えない年齢にあり、また暴排条例や分裂騒動など山口組にとって安定しているとは言えない情勢もあり、司忍の後継者選びは非常に切迫した問題であると言えます。
順当にいけば右腕である高山清司ですが、この人ももう70歳。若すぎてはまだ人柄も醸成していないだろうとはいえ、老いていても血気盛んな暴力団員たちをまとめ上げることは難しいでしょう。
ヤクザは組長の声ひとつで全てが変わってしまう世界でもありますから、山口組の今後についてはまだ目が離せない状況が続きます。
終わりに:山口組6代目組長 司忍(篠田建市)の壮絶な人生
司忍の壮絶な人生、その人柄、ヤクザというものの真実、その一端を少しでも紹介できたなら。そう願いこの記事の結びとします。