インパール作戦の司令官「牟田口廉也」が無能と言われた理由と家族/子孫の戦後

太平洋戦争中の日本軍南方作戦であまりに杜撰な作戦で多くの犠牲者を出したことで知られるインパール作戦の司令官「牟田口廉也」は、よく無能と言われますが、真実はどうだったのか?インパール作戦の司令官「牟田口廉也」について調べました。

インパール作戦の司令官「牟田口廉也」が無能と言われた理由と家族/子孫の戦後のイメージ

目次

  1. 1「インパール作戦」(太平洋戦争で最も無謀と言われた作戦)とは
  2. 2インパールとは
  3. 3「インパール作戦」の実行に拘った牟田口廉也とは
  4. 4トンデモ作戦「インパール作戦」を決行した牟田口廉也司令官の人物像
  5. 5牟田口廉也15軍司令官が決行したインパール作戦の詳細
  6. 6「インパール作戦」の実行に拘った牟田口廉也司令官の子孫1
  7. 7「インパール作戦」の実行に拘った牟田口廉也司令官の子孫2
  8. 8「陸の三馬鹿」にも選ばれた牟田口廉也司令官
  9. 9トンデモ作戦「インパール作戦」を決行した牟田口廉也司令官の戦後
  10. 10「ジンギスカン作戦」ならぬ「ジンギスカンハウス」とは
  11. 11まとめ

「インパール作戦」(太平洋戦争で最も無謀と言われた作戦)とは

牟田口廉也、第15軍司令官が決行したトンデモ作戦

インパール作戦とは、太平洋戦争のさなかに、当時の日本軍(大日本帝国陸軍)により実行された作戦で、日本軍側の作戦名は「ウ号作戦」と呼ばれていました。

補給を軽視した無謀な作戦のまま実行されたインパール作戦では、約3万人もの将兵が命を亡くし、日本軍に多大な損失を招いたことから「太平洋戦争で最も無謀」と呼ばれるようになりました。

実際、インパール作戦は"ビルマ戦線"の転換点となり、結果、戦線は崩壊し日本軍の東南アジアでの優位が失われ、以降は守勢に回ることになってしまいます。

この"前代未聞の作戦"は、どうして実行されるに至ったのか?約3万人もの日本の将兵はなぜ死ななければならなかったのか?真相を調べました。

インパールとは

牟田口廉也、第15軍司令官が決行したトンデモ作戦の舞台

インパール(Imphal)は、インド北東部に位置し現在はマニプル州の州都で人口は約26万人の都市で、世界最古のポロ競技場があることで知られています。

インパール作戦が決行されたのは、1944年の3月ですが、この時期のインパールは日本軍によってお隣りの国「ビルマ」から撤退を余儀なくされていたイギリス軍などの連合軍の反攻拠点となっていました。

一方で、ビルマ全土を制圧した日本陸軍の上層部は、ビルマを守るという消極的な作戦より、逆にインド(インパール)に侵入し攻略することで、この地域での優位性を確保しようという目的のもとインパール作戦の実行に傾いていきます。

ちなみに、インパール作戦では、たった3週間でインパールを攻略する計画が立てられていました。

しかし、実際のビルマ~インパールに至る周辺は2000メートル級の山々が連なる山岳地帯で、さらに世界でも有数の豪雨地帯であり、車両が走れる道はほとんどなく、トラックや大砲は解体して人力で持ち運ぶしかない…そんな道なき道を進まなければならない地域でした。

日本軍の兵士達は、目的地であるインパールに到達して戦いを始める前に消耗していってしまいました…。

「インパール作戦」の実行に拘った牟田口廉也とは

トンデモ作戦「インパール作戦」を決行した牟田口廉也司令官の経歴


日本軍の第15軍司令官だった牟田口廉也(むたぐち れんや)は、佐賀県出身の帝国陸軍軍人で、太平洋戦争で最も無謀と言われた作戦「インパール作戦」の決行を強く主張し当時の日本に多大な損失をもたらした無能な人物として(日本はもちろん外国でも)「牟田口廉也」という名前は知られています。

かって東條英機に重用された牟田口廉也ですが、インパール作戦における重大な失敗に対して反省の姿勢を見せず、自己を弁護する態度を取り続け、今現在も無能との酷評を受け続けている旧日本陸軍軍人…。

そんな牟田口廉也司令官(陸軍中将)の経歴について見てみたいと思います。

佐賀県出身の牟田口廉也司令官は、「陸軍士官学校」「陸軍大学校」を卒業したエリート軍人で、
現在でいえばキャリア組の軍人官僚といった存在だったと思われます。

(現場経験が浅い、机上で物事を考える典型的存在ですね…。)

しかし、牟田口廉也司令官の場合は、カムチャツカ半島に潜入し半島の縦断調査に成功したり、
「盧溝橋事件」当時、現地の歩兵連隊の連隊長を経験した経歴があります。

若い頃の牟田口廉也は、無能というよりは、優秀な軍人だったことは間違いないと思われます。

ちなみに、戦後を見届け、昭和41年まで生き延びた彼の墓には「寿光院温誉西岸浄廉居士」との戒名が刻まれました。

トンデモ作戦「インパール作戦」を決行した牟田口廉也司令官の人物像

第15軍司令官で「インパール作戦」を決行した牟田口廉也(陸軍中将)の人物像を理解するため、牟田口中将の生前のエピソードや人となりをいくつか紹介します。

牟田口廉也中将は、"兵站"を軽視する傾向があり、その重要性を理解してなかったようです。
ちなみに兵站とは、英語では「Military Logistics」と訳され、「補給」「輸送」「整備」「情報と備蓄管理」の機能を意味します。具体的には、兵站には以下の項目が含まれます。

・「補給」(Supply):作戦の成功に必要な物資を、必要な時に、必要な場所にスムーズに補給すること。
・「輸送」(Transportation):兵站での輸送は、様々な状況の変化等を勘案して融通性を備えた準備が求められる。
・「整備」(Maintainance):作戦を成功させるために必要な武器の可動性を最大化する目的で行われる。
・「情報と備蓄管理」:物流情報は最重要の機密情報であり適切に管理されるべき。

以上のような「兵站」を軽視する傾向があった牟田口廉也中将は、銃弾も食料も最前線に補給することなく「やれ」と言うばかりで、前線で闘う兵からは「ムチャグチ」と言われていました。

また、「兵站」を軽視した結果、食料が十分に届かず栄養不足でフラフラな状態の将校に対し、1時間以上訓示を続けた結果、皆倒れてしまいました。

ちなみに、この時の訓示の内容は「弾丸がない、食う物がないなどは、戦いを放棄する理由にならない…」というものでした。

ただし、「インパール作戦」に先立つ「二十一号作戦」に対し、第十八師団長だった牟田口廉也中将は「兵站補給が困難」と言う理由で反対しているので、「兵站」を全く理解していなかった訳では無いと思われます。

第十八師団長時代の牟田口廉也中将は、「兵站が困難」と理由で作戦に反対したりするなど、「温情ある将軍」として当時の部下だった兵士から評価されています。

第十八師団長だった牟田口廉也中将と、インパール作戦を指導した第15軍司令官としての牟田口廉也中将の間には、かなりの差異が認められます。(この間に中将の人柄を変える"何か"あったのでしょうか?)

牟田口廉也15軍司令官が決行したインパール作戦の詳細

現在でも無能と酷評される牟田口廉也中将が遂行したインパール作戦の実態とは、いかなるものだったのか、NHKの番組「無謀と言われたインパール作戦 戦慄の記録」から紹介します。

(「無謀と言われたインパール作戦 戦慄の記録」より)

インパール作戦は、極めて曖昧な意思決定をもとに進められた。 1942年1月、日本軍はイギリス領ビルマに進攻し、全土を制圧。イギリス軍はインドに敗走した。日本軍の最高統帥機関である大本営はインド進攻を検討するが、すぐに保留。しかし、1943年に入ると太平洋でアメリカ軍に連敗。戦況の悪化が再び計画を浮上させる。 そのころ、アジアでも体制を立て直したイギリス軍が、ビルマ奪還を目指し反撃に出ていた。 1943年3月、大本営はビルマ防衛を固めるために、ビルマ方面軍を新設。司令官に就任した河辺正三は着任前、首相の東條英機大将に太平洋戦線で悪化した戦局を打開してほしいと告げられていた。 ・上層部の人間関係が優先された意思決定 牟田口廉也中将がビルマ方面軍隷下の第15軍司令官へ昇進。インパールへの進攻を強硬に主張した。しかし、大本営では、ビルマ防衛に徹するべきとして、作戦実行に消極的な声も多くなっていた。 それでもなぜ、インパール作戦は実行されたのか? 大本営の杉山参謀総長が最終的に認可した理由が作戦部長の手記に書き残されていた。 「杉山参謀総長が『寺内(総司令官)さんの最初の所望なので、なんとかしてやってくれ』と切に私に翻意を促された。結局、杉山総長の人情論に負けたのだ。」(眞田穰一郎少将手記) 冷静な分析より組織内の人間関係が優先され、1944年1月7日、インパール作戦は発令されたのだ。

「曖昧な意思決定」 (「無謀と言われたインパール作戦 戦慄の記録」より)

牟田口廉也中将がビルマ方面軍隷下の第15軍司令官へ昇進。インパールへの進攻を強硬に主張した。しかし、大本営では、ビルマ防衛に徹するべきとして、作戦実行に消極的な声も多くなっていた。 それでもなぜ、インパール作戦は実行されたのか? 大本営の杉山参謀総長が最終的に認可した理由が作戦部長の手記に書き残されていた。 「杉山参謀総長が『寺内(総司令官)さんの最初の所望なので、なんとかしてやってくれ』と切に私に翻意を促された。結局、杉山総長の人情論に負けたのだ。」(眞田穰一郎少将手記) 冷静な分析より組織内の人間関係が優先され、1944年1月7日、インパール作戦は発令されたのだ。

上層部の人間関係が優先された意思決定(「無謀と言われたインパール作戦 戦慄の記録」より)

「牟田口軍司令官から作戦参謀に『どのくらいの損害が出るか』と質問があり、『ハイ、5,000人殺せばとれると思います』と返事。最初は敵を5,000人殺すのかと思った。それは、味方の師団で5,000人の損害が出るということだった。まるで虫けらでも殺すみたいに、隷下部隊の損害を表現する。参謀部の将校から『何千人殺せば、どこがとれる』という言葉をよく耳にした。」(齋藤博圀少尉の回想録)

軽視された命(「無謀と言われたインパール作戦 戦慄の記録」より) 遺族の前で同じ事を言ってみろ!と言ってやりたいです。

日本軍の最高統帥機関、大本営は戦場の現実を顧みることなく、一度始めた作戦の継続に固執していた。東條大将の元秘書官は、現地で戦況を視察した大本営の秦中将が東條大将に報告したときの様子を語っている。 「報告を開始した秦中将は『インパール作戦が成功する確率は極めて低い』と語った。東條大将は、即座に彼の発言を制止し話題を変えた。わずかにしらけた空気が会議室内に流れた。秦中将の報告はおよそ半分で終えた。」(元秘書官 西浦大佐の証言) この翌日、東條大将は天皇への上奏で現実を覆い隠した。

作戦継続に固執した大本営 (「無謀と言われたインパール作戦 戦慄の記録」より)

分隊長だった佐藤哲雄さん(97)は、隊員たちと山中をさまよった。密林に生息する猛獣が弱った兵士たちを襲うのを何度も目にしたという。 「(インドヒョウが)人間を食うてるとこは見たことあったよ、2回も3回も見ることあった。ハゲタカも転ばないうちは、人間が立って歩いているうちはハゲタカもかかってこねえけども、転んでしまえばだめだ、いきなり飛びついてくる。」(佐藤さん) 衛生隊にいた望月耕一(94)さんは、武器は捨てても煮炊きのできる飯盒を手放す兵士は 1人もいなかったという。望月さんは、戦場で目にしたものを、絵にしてきた。最も多く描いたのが、飢えた仲間たちの姿だった。

「白骨街道」と呼ばれた撤退路 (「無謀と言われたインパール作戦 戦慄の記録」より)

「(1人でいると)肉切って食われちゃうじゃん。日本人同士でね、殺してさ、その肉をもって、物々交換とか金でね。それだけ落ちぶれていたわけだよ、日本軍がね。ともかく友軍の肉を切ってとって、物々交換したり、売りに行ったりね。そんな軍隊だった。それがインパール戦だ。」(第31師団 衛生隊 元上等兵 望月耕一さん(94))

「白骨街道」と呼ばれた撤退路 (「無謀と言われたインパール作戦 戦慄の記録」より) 遺族の方も、こういう真相は知らされていないのでは?

前線に置き去りにされた齋藤博圀少尉は、チンドウィン河の近くで、死の淵をさまよっていた。 「七月二十六日 死ねば往来する兵が直ぐ裸にして一切の装具をふんどしに至るまで剥いで持って行ってしまう。修羅場である。生きんが為には皇軍同志もない。死体さえも食えば腹が張るんだと兵が言う。野戦患者収容所では、足手まといとなる患者全員に最後の乾パン1食分と小銃弾、手りゅう弾を与え、七百余名を自決せしめ、死ねぬ将兵は勤務員にて殺したりきという。私も恥ずかしくない死に方をしよう。」(齋藤博圀少尉の日誌)

「白骨街道」と呼ばれた撤退路 (「無謀と言われたインパール作戦 戦慄の記録」より)

牟田口司令官が残していた回想録には「インパール作戦は、上司の指示だった」と、綴られていた。一方、日本軍の最高統帥機関・大本営。インパール作戦を認可した大陸指には、数々の押印がある。その1人、大本営・服部卓四郎作戦課長は、イギリスの尋問を受けた際、「日本軍のどのセクションが、インパール作戦を計画した責任を引き受けるのか」と問われ、次のように答えている。 「インド進攻という点では、大本営は、どの時点であれ一度も、いかなる計画も立案したことはない。インパール作戦は、大本営が担うべき責任というよりも、南方軍、ビルマ方面軍、そして、第15軍の責任範囲の拡大である。」(大本営 服部卓四郎 作戦課長)

作戦の責任を転嫁する上層部(「無謀と言われたインパール作戦 戦慄の記録」より) 戦後残された遺族の身になったら、泣くに泣けない話だと思います。

「インパール作戦」の実行に拘った牟田口廉也司令官の子孫1

NHKの番組「無謀と言われたインパール作戦 戦慄の記録」のなかで、「インパール作戦」の牟田口廉也司令官の子孫(お孫さん)が、牟田口廉也中将の遺品を公開されています。

番組内で子孫の方(お孫さん)は、「父(牟田口廉也司令官の息子)は祖父(牟田口廉也司令官)に対してはアンチだった…見るのも嫌だったが(残された家族として事実を後世に伝える事の責任を感じて)捨てなかったのでは…。」との意味を述べています。

牟田口廉也司令官の子孫として、NHKの番組「無謀と言われたインパール作戦 戦慄の記録」のなかで、顔も名前も出して居られたのは、大変勇気のいる事だと思いました。

「インパール作戦」の実行に拘った牟田口廉也司令官の子孫2

牟田口廉也司令官に対してアンチだったという子孫(息子さん)のエピソードを紹介します。

ある歴史雑誌によれば、とある作家が飲み屋で牟田口廉也司令官の悪口を酒のつまみにして飲んでいたところ、同じ店で飲んでいた初対面の男性が突然、

「私は牟田口廉也の息子です。でも父はそれを認めようとしません。そんな男を父親と思う気はありません。」

と言って、そのまま飲み屋から出ていった…、というエピソードが紹介されていました。

牟田口廉也司令官本人は、戦後も戦争犯罪を免れ、一般人より恵まれた軍人恩給を受給しながらしぶとく生き続けていましたが、一方で、牟田口廉也司令官の家族は、世間の冷たい目に晒されて辛い目をしていたのかも知れません。

「陸の三馬鹿」にも選ばれた牟田口廉也司令官

陸の三馬鹿とは、戦後アメリカで、味方の日本兵を大量に見殺しにしたクズで愚将の陸軍幹部として有名(?)になった軍人のことで、牟田口廉也中将は、寺内寿一大将(赤坂の芸妓を軍用機で呼びよせた人物)や富永恭次中将(芸者を同乗させて逃亡した人物)とともに名前があがっています。

アメリカだけではなく、イギリスでも牟田口廉也司令官は無能な旧陸軍幹部として有名になったそうです…。

日本兵の間からも「無茶口」として恐れられた存在が、牟田口廉也中将でした。

陸の三馬鹿のおかげで亡くなった遺族の方達の気持ちは堪らないと思います。

トンデモ作戦「インパール作戦」を決行した牟田口廉也司令官の戦後

戦後、牟田口廉也司令官は東京都調布市に住み余生を送りました。

佐藤元中将の告別式の日、牟田口元中将も姿を見せ、牟田口元中将は佐藤家の遺族の前に頭を下げ「自分の至らないため、すまないことをした」と詫びたそうです。

戦後まだまもない頃は、亡くなった遺族への配慮からかインパール作戦への反省をし公式の席への出席を遠慮して生活していましたが、アーサー・バーカー元イギリス軍中佐の書簡を受け取った後、自己弁護を行うようになったということです。

とくに、死去までの最後の4年間「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した。」と自説を主張していました。(自らの葬儀でも、遺言で自説を記載したパンフレットを参列者に配布させた程でした。)

なので、インパールで亡くなった遺族や子孫への謝罪も積極的に行った気配は無いようです。

「ジンギスカン作戦」ならぬ「ジンギスカンハウス」とは

牟田口廉也司令官が戦後、経営した中華料理店「ジンギスカンハウス」について

牟田口廉也司令官は戦後、中華料理店を経営していたこともあります。

ちなみにその中華料理店の名前は「ジンギスカンハウス」だったそうです。

ジンギスカンハウスが繁盛したのか?ジンギスカンハウスが成功したのか?は分かりませんが、最終的には、トンデモ作戦「インパール作戦」で7万人の餓死者を出した牟田口廉也司令官が、ジンギスカンハウスという中華料理店を経営するとは皮肉な話です。

ジンギスカンハウスという店名が、どういう経緯で決まったのか不明ですが、インパール作戦でのジンギスカン作戦から命名したのかも知れないです。

もしそうなら、ジンギスカンハウスが成功するなど、あり得ない気がしますし、成功するハズがない…と思ってしまいます。

まとめ

牟田口廉也司令官の「ビルマ国境の山岳地帯を越え、インド北東のインパールに集結しているイギリス軍に音もなく近づいて奇襲を成功させよ」という作戦は、大切な武器や食料の補給に必要な兵站の概念が非常に疎かでした。

これは、牟田口中将が(現場を知らない)陸大出身の典型的なエリート官僚軍人だから、と考える人もいますが、明治維新で活躍した大村益次郎などは、書物だけの知識(独学)で、兵站や補給についても重視し、実戦の戦闘をこなしながら倒幕まで成功させてしまいます。

このことを考えると、陸大の教育方法も問題あったのでしょうが個人的な資質の側面も小さくなかったような気がします。

「音もなく近づいて…」というあたりに、机上で考えられた空虚な作戦という雰囲気がつきまとっている感じがしてしまいます。

こういう旧日本軍幹部の実態を聞かされる遺族の方達の気持ちは堪らないと思います。

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