キューバ革命の英雄チェ・ゲバラとフィデル・カストロの歴史がイケメンすぎる

キューバ革命の英雄チェ・ゲバラとフィデル・カストロと言って、今日本の若者で知っている人がどのくらいいるでしょうか?と言うよりキューバ革命をを知っている人も少ないのではないでしょうか?まったく違う道を歩んだチェ・ゲバラとフィデル・カストロの事を調べてみました。

キューバ革命の英雄チェ・ゲバラとフィデル・カストロの歴史がイケメンすぎるのイメージ

目次

  1. 1キューバ革命の国 キューバとは
  2. 2キューバ革命以前の歴史 発見からスペインの植民地へ
  3. 3キューバ革命以前の歴史 ハイチの独立により影響が
  4. 4キューバ革命以前の歴史 アメリカの保護国として独立
  5. 5キューバ革命以前の歴史 アメリカの保護国の時代
  6. 6キューバ革命の英雄革命家『チェ・ゲバラ』『フィデル・カストロ』
  7. 7キューバ革命の英雄『チェ・ゲバラ』
  8. 8キューバ革命の英雄『チェ・ゲバラ』の少年時代
  9. 9キューバ革命の英雄『チェ・ゲバラ』の青年時代
  10. 10もう一人のキューバ革命の英雄『フィデル・カストロ』
  11. 11キューバ革命の英雄 フィデル・カストロの少年時代
  12. 12キューバ革命の英雄『フィデル・カストロ』の青年時代
  13. 13キューバ革命の英雄 『フィデル・カストロ』の弟も革命家に
  14. 14キューバ革命の英雄『フィデル・カストロ』は数回結婚
  15. 15キューバ革命の英雄『チェ・ゲバラ』と『フィデル・カストロ』の出会い
  16. 16『フィデル・カストロ』M26を革命軍として組織
  17. 17『チェ・ゲバラ』は『フィデル・カストロ』に共感!
  18. 18『チェ・ゲバラ』と『フィデル・カストロ』のキューバ革命
  19. 19『チェ・ゲバラ』と『フィデル・カストロ』キューバに向かう
  20. 20『チェ・ゲバラ』と『フィデル・カストロ』キューバ上陸
  21. 21『チェ・ゲバラ』と『フィデル・カストロ』 革命成功
  22. 22『チェ・ゲバラ』と『フィデル・カストロ』ハバナ革命広場へ
  23. 23キューバ革命でのチェ・ゲバラ
  24. 24『フィデル・カストロ』ハバナ革命広場へ
  25. 25革命後の『カストロ ゲバラ』
  26. 26キューバ革命後のチェ・ゲバラ
  27. 27ボリビアでの『チェ・ゲバラ』
  28. 28革命後の『フィデル・カストロ』
  29. 29晩年の『フィデル・カストロ』
  30. 30革命後のキューバ
  31. 31映画になったキューバ革命の英雄『チェ・ゲバラ』『フィデル・カストロ』
  32. 32まとめ

キューバ革命の国 キューバとは

キューバ革命の革命家を紹介する前にキューバを簡単にわかりやすく紹介しましょう。

出典: http://www.abysse.co.jp

キューバ国旗

出典: http://www.mofa.go.jp

キューバの位置

キューバ共和国は、カリブ海の浮かぶラテンアメリカの本州の半分くらいの大きさの島国で、キューバの首都はハバナです。
東にはハイチとドミニカ共和国が、南にジャマイカがあります。そして、フロリダ海峡を隔てて北に145km先にはアメリカ合衆国のフロリダ州があります。
ちょうど南北アメリカ大陸の中央に位置していて、南北アメリカ大陸と、ヨーロッパを結ぶ要路に位置しています。

人口は約1100万人で、40%がスペイン系の白人で、10%が黒人そして50%は、ミックスです。アメリカ大陸で初めて成立した社会主義政権にちなみ、「カリブに浮かぶ赤い島」とよばれていたこともありました。

キューバ革命以前の歴史 発見からスペインの植民地へ

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クリストファー・コロンブス

キューバの国がわかったところで、革命につながる歴史を簡単にわかりやすく説明しましょう。キューバには インディオ系タイノ民族やアラワク民族が住んでいました。1492年10月28日、スペイン王室の後援を受けて新大陸を目指していたクリストファー・コロンブスは、キューバ島に上陸しました。その時にコロンブスは、スペイン王女の名にちなんでこの島をフアナと命名しました。

出典: http://tabit.jp

でも、のちにの先住民が使っていた呼び名であるクバナスカンから、キューバという名で知られるようになりました。
そして、スペインは鉱山開発やプランテーションの経営をはじめました。1511年にスペイン軍はベラスケスを派遣し征服し、植民地にしました。
もともとキューバにいた先住民は、過酷な強制労働やスペイン人が持ち込んだ疫病により、わずか100年ほどでほぼ絶滅したため、入植者たちは鉱山やプランテーションの経営のために、アフリカ人奴隷の労働力を頼るるようになりました。

キューバ革命以前の歴史 ハイチの独立により影響が

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植民地になったいきさつがわかったところで、革命につながる歴史を簡単にわかりやすく説明しましょう。

キューバのとなりの島でアフリカから連れてこられた黒人奴隷たちが革命を起こし、1804年1月1日に、黒人共和国ハイチが建国されます。
ハイチでサトウキビ生産をしていた白人のプランテーション経営者たちはキューバに上陸して、黒人奴隷をつかいサトウキビの生産経営を行います。
キューバは19世紀半ばまでには世界一のサトウキビ産地となり、このことを砂糖革命といいます。さらにスペインの植民地だったキューバは、タバコの生産も盛んになり、発展していきます。

キューバ革命以前の歴史 アメリカの保護国として独立

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 キューバは、独立できましたがまだまだ、平穏とは言えません。そこのいきさつを簡単にわかりやすく説明しましょう。

1868年にスペインからの独立戦争が起こり、10年続き、アメリカ資本が導入され黒人奴隷は解放されました。でもスペイン軍に鎮圧され、まだスペインからは独立できませんでした。
1895年にホセ・マルティが立ち上がり2度目の独立戦争が始まります。1898年にアメリカ軍も参戦し、1902年にキューバ共和国として独立を果たすこととなります。
しかし、自由を獲得することは、簡単にはできませんでした。スペインの支配がアメリカの支配に代っただけでした。

キューバ革命以前の歴史 アメリカの保護国の時代

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自由を簡単に手に入れることができないキューバは、いよいよ、革命へと、突入していきます。
カストロやゲバラが登場せざるを得なかった歴史を簡単にわかりやすく説明します。

スペインから独立したキューバが1901年に作った憲法のプラット修正条項には、米国の内政干渉権として、グアンタナモ、バイア・オンダの二箇所に米国の軍事基地を置くなどが盛り込まれていた。
特にグアンタナモ海軍基地は、現在に至るまでアメリカ海軍の基地として租借されることになってしまった。
そして、アメリカ資本が数多く投入され、精糖産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配した。
また、政治家の不正が度重なって生じたことで、キューバの現状に対する国民の不満はより深刻化していった。
そして、多くのクーデターが続き1930年代まで政治的な不安定期が続いた。

キューバ革命の英雄革命家『チェ・ゲバラ』『フィデル・カストロ』

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チェ・ゲバラ(左)と、フィデル・カストロ

キューバ革命においては、カストロとゲバラの存在は、はずせません。
二人は、まったく違う人生を歩んでいて、特にチェ・ゲバラはキューバにも、革命にも関係のない人物でした。
カストロとゲバラはどのような生い立ちで、どのように出会い、革命家となっていったのでしょうか。
調べてみましたので、簡単にわかりやすく説明します。

キューバ革命の英雄『チェ・ゲバラ』

出典: http://www.huffingtonpost.jp

キューバ革命の英雄であるチェ・ゲバラは、簡単にわかりやすく言うと革命家として知られています。
髭面で軍の象徴であるベレー帽をかぶった写真を見ると、ゲバラは屈強な軍人であるかのように思いがちですが、少し違います。
でも、とにかく姿かたちだけでなく生き方もかっこよく日本人にとっては、坂本竜馬が歴史上のナンバーワンアイドルですが、世界レベルだとチェ・ゲバラがナンバーワンとも言えます。

そして、ゲバラは同じ革命家として、なんと坂本龍馬を大変尊敬したそうです。
何か親近感を覚えませんか。

ジョン・レノンも認めるカッコよさ『チェ・ゲバラ』

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ジョン・レノン

ビートルズのジョン・レノンも「あの頃、世界で一番かっこいいのがチェだった」と語っています。
そして、もちろんキューバでは、今でもチェは生きているという意味の「CHE VIVE」という看板や、壁や塀にチェを讃える言葉が跡を絶たないという程の、英雄です。
また、ゲバラの顔写真入りのTシャツを着た若者の姿をキューバではよく目にします。

では、チェ・ゲバラの生い立ちから、革命家になるまでを簡単にわかりやすく説明します。

キューバ革命の英雄『チェ・ゲバラ』の少年時代

チェ・ゲバラは、1928年6月14日にアルゼンチンの第二の都市ロサリオで裕福な家庭に生まれました。
本名は、エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナです。『チェ』は、簡単にわかりやすく言うとニックネームです。
チェ・ゲバラが母国のアルゼンチンのスペイン語方言でよく使われる「やぁ」とか「君」といったくだけた話し方をするときに使う『チェ』という単語をよく使っていたことから付けられたニックネームのようです。

キューバ生まれではなかった『チェ・ゲバラ』

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チェ・ゲバラの生家は、経済的には恵まれた家庭であり、両親はカトリック国であるアルゼンチンの保守的な慣習にとらわれない比較的リベラルな思想の持ち主だったそうです。
では、何故キューバの革命家になったのでしょうか簡単にわかりやすく順を追って見ていきましょう。

少年時代は喘息に悩まされた『チェ・ゲバラ』

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若い頃の、チェ・ゲバラ

『チェ・ゲバラ』はわかりやすく言えば未熟児で身体が弱かったそうです。
2歳の時に当時住んでいたブエノスアイレスで、最初の喘息発作を起こします。そして、4歳の時に 重い喘息のため、一家でコルドバの避暑地アルタ・グラシアに転居します。

その後、喘息の治療に良い環境を求めて数回転居しています。幼い頃は痙攣を伴う喘息の発作で生命の危機に陥ることがあり、その度に酸素吸入器を使用して回復するという状態でした。

キューバ革命の英雄『チェ・ゲバラ』の青年時代

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でも、若きチェ・ゲバラは学問にもスポーツにも意欲的に取り組み、1948年 ブエノスアイレス大学医学部に入学、アレルギーの研究を志します。
簡単に言えば、自分の喘息を研究したかったようです。

スポーツの面では、在学中の1950年 北部アルゼンチンをモペッドで単独走破します。1951年に年上の友人のアルベルト・グラナードとともにオートバイで南アメリカをまわる放浪旅行にでかけます。
旅の途中で、チリの最下層の鉱山労働者やペルーのハンセン病患者らとの出会いなど、当時比較的裕福であったアルゼンチン以外の南米各地の状況を見聞して、それまであまり触れたことのなかった「弱者」の現実を知り、革命家として歩むきっかけになりました。

医師として中南米で活躍する『チェ・ゲバラ』

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イケメンとも呼ばれるゲバラ

チェ・ゲバラは、アルゼンチンで医師免許は取ったものの、当時のアルゼンチンは政情不安定な状態が続いていたため、国内で医業に携わる気にはならなかったようです。

その後、いろいろな中南米の国を訪れ、ボリビアやグアテマラで社会主義や農地改革の問題点と直面し、「アメリカ合衆国の影響から脱出しなければならない」と考えるようになりました。
27歳のときにグアテマラに亡命していた女性活動家のイルダ・ガデアと出会い、共鳴して社会主義に目覚め、彼女と最初の結婚をし、翌年に娘が生まれました。

アメリカの支配から人民を救うことを願う『チェ・ゲバラ』

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グアテマラに於ける、スペイン植民地時代から続く構造化された収奪や、長きに渡る腐敗した独裁政権による社会の荒廃を止めるべく改革を進めていたグアテマラのアルベンス政権が、軍部の裏切りにより、CIAに後押しされた反抗勢力のカスティージョ・アルマスに倒されると、ゲバラが「ラテンアメリカで最も自由で民主的な国」と評したグアテマラの革命政権は崩壊してしまいました。

この出来事が直接のきっかけとなり、ゲバラは武力によるラテンアメリカ革命を本気で志すようになりました。
その後、アルマス新政権によってゲバラの暗殺指令が出されたため、妻のガデアとともに、失意と怒りを抱いてメキシコに移りました。

もう一人のキューバ革命の英雄『フィデル・カストロ』

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キューバ革命の革命家カストロ ゲバラのもう一人フィデル・カストロは、革命後チェ・ゲバラとは、まったく違った生き方をしました。

フィデル・カストロは、革命を成功させた後、論争好きの指導者として、キューバ共和国の首相、大統領を務めました。
世界で最も長く君臨した政治指導者の1人となったカストロは、アメリカをはじめとする世界中の政治的大国に立ち向かった社会主義者の英雄としてもてはやされましたが、一方では国民に対して数々の人権侵害を犯し、100万人以上のキューバ人を難民にした無慈悲な独裁者としても知られています。

キューバ革命の英雄 フィデル・カストロの少年時代

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フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルスは1926年8月13日、マヤリ近郊のビランにて、スペインのガリシア人移民で裕福なサトウキビ農場主の息子として生まれました。

当初は公立のグラマースクールに入りましたが、その後ハバナの私立小学校コレヒオ・ベレンを始めとするイエズス会の学校で教育を受け、野球に熱中しました。1944年には最優秀高校スポーツ選手に選ばれました。

優秀だったが乱暴な少年だった『フィデル・カストロ』

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フィデル・カストロは、勉強もスポーツもできた生徒でしたが、一方では乱暴な生徒でした。
高校では無謀な振舞いをすることから、変人を意味する「エル・ロコ」と呼ばれていたといいます。

学生時代は変人と呼ばれていた『フィデル・カストロ』

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カストロの兄弟

このニックネームは、1945年にハバナ大学で法律を学び始めてからも付いてまわっていました。

キューバ革命の英雄『フィデル・カストロ』の青年時代

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フィデル・カストロはハバナ大学では法律を学びました。
しかし、当時ハバナ大学では政治活動が盛んで、カストロも政治活動に興味を持つようになりました。そして、革命反乱同盟 (UTR) に加入し、学生運動の指導者となります。

キューバ革命の英雄『フィデル・カストロ』は学生運動の指導者に

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1948年にラテンアメリカの学生運動の連合のためコロンビアを訪れたましたが、会談予定だった次期大統領候補の自由党指導者ホルヘ・エリエセル・ガイタンが暗殺されました。
コロンビアはボゴタ暴動に突入し、フィデル・カストロもボゴタ暴動に参加し、政府軍との衝突に加わりました。
学生時代は政治活動にかかわり、1950年に大学を卒業しました。

キューバ革命の英雄 『フィデル・カストロ』は弁護士に

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フィデル・カストロは大学卒業後、1950年から2年間に弁護士として貧困者のために活動しました。
その後フィデル・カストロは保守党から1952年の議会選挙に立候補しますが、将軍フルヘンシオ・バティスタが率いたクーデターによって選挙の結果は無効となってしまいました。
その後、フィデル・カストロは憲法裁判所にバティスタを告発しましたが、請願は拒絶され、フィデルは裁判所を糾弾しました。

キューバ革命の英雄 『フィデル・カストロ』の弟も革命家に

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フィデル・カストロは7人兄弟ですがうち3人が男子です。そして、弟のラウル・カストロも同じ軍人で革命家です。ラウル・カストロは、兄フィデル・カストロよりも先に共産主義に傾倒していったそうです。そして、フィデル・カストロ引退後国家評議会議長になっています。

キューバ革命の英雄『フィデル・カストロ』は数回結婚

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フィデル・カストロは1948年に同窓のミルタ・ディアス・バラルトと1回目の結婚をします。
しかし、1950年代にフィデル・カストロが不倫したため、ミルタは4男を出産した後に離婚届を役所に提出しました。
また、1980年には、ダリア・ソト・デル・バジュと不倫の末に結婚しました。

キューバ革命の英雄『フィデル・カストロ』は革命家となっていく

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バティスタ大統領(右)

クーデターを起こしたバティスタは独裁者となり、次第に暴君なっていき、バティスタ政権は汚職が蔓延しました。
フィデロ・カストロは彼の弟のラウルと100人以上の反政府勢力とともにバティスタ政権に対して蜂起しました。そして、1953年7月26日キューバ革命の始まりとされるキューバ国内最大の軍駐屯地の一つであるモンカダ兵営攻撃を行いました。この攻撃は失敗に終わり、何十人もの反乱分子が捕らえられ、拷問を受け、その後処刑されました。
フィデロ・カストロとラウル・カストロ兄弟も捕らえられ懲役15年の刑を受けました。

キューバ革命の英雄『チェ・ゲバラ』と『フィデル・カストロ』の出会い

1953年に懲役15年の刑を受けたフィデル・カストロですが、2年後の1955年5月に選挙で勝利したバティスタの恩赦により、モンカダ兵営襲撃犯を含む政治犯をすべてが解放されました。
その後、フィデル・カストロとラウル・カストロは、仲間とともにメキシコに亡命します。
その地で出会ったのがアルゼンチンから逃げてきていた、熱く革命を語る青年医師チェ・ゲバラでした。

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『フィデル・カストロ』M26を革命軍として組織

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革命家カストロとゲバラが出会い、その運命が大きく動き始めました。
フィデル・カストロがこの時組織した革命軍はモンカダ襲撃の日を取って「7月26日運動」=「M26」と呼ばれるようになります。
M26は同じ境遇の追放キューバ人を糾合し、再度バティスタを倒すために戦う準備をメキシコ潜伏中に行いました。

『チェ・ゲバラ』は『フィデル・カストロ』に共感!

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1955年7月、M26運動に共感したチェ・ゲバラは、この時一夜にして簡単に反バティスタ武装ゲリラ闘争への参加を決意したと言われています。
革命家カストロ ゲバラの誕生です。
こうしてスペイン内戦の共和派の生き残りだったアルベルト・バーヨ中佐による本格的な軍事訓練を受けて、キューバ上陸への準備が着々と進んでいきました。

『チェ・ゲバラ』と『フィデル・カストロ』のキューバ革命

出典: https://ameblo.jp

ここで、詳しい話に入る前に簡単に概略だけをわかりやすく書いておきましょう。

キューバ革命とは、第二次大戦後の1952年に軍事クーデターによって政権に復帰したフルヘンシオ・バティスタは、これまでの政権同様に親米政策をとり、アメリカからの援助をうけつつ独裁体制の強化を図っていた。

これに対して革命家『カストロ ゲバラ』つまりフィデル・カストロとラウル・カストロの兄弟や、アルゼンチン生まれの医者チェ・ゲバラらが中心になって武装闘争を起こした。
そして遂に、1959年1月1日にバチスタ政権を打倒しました。
これが、キューバ革命です。

『チェ・ゲバラ』と『フィデル・カストロ』キューバに向かう

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カストロ ゲバラは、1956年11月にM26の男性82人の革命家を集め、【グランマ号】に乗船し、トゥスパン(メキシコベラクルス州)から出港した。

グランマ号は本来1943年頃に製造された定員12名のディーゼルエンジン駆動の60フィートのプレジャーヨットでした。
革命家となっていたフィデル・カストロはアメリカ海軍のカタリナ飛行艇か航空機救難艇を購入しようと試みましたが、資金不足のため約15,000$で中古のヨットとして売られグランマ号を買うのがやっとでした。

『チェ・ゲバラ』と『フィデル・カストロ』キューバ上陸

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カストロ ゲバラは、革命家の同志82名とともに、マンサニヨ(キューバグランマ州)へ1956年12月2日に上陸します。
カストロ ゲバラを含む革命家たちはバティスタ政府軍と、ゲリラ戦を始めることになります。しかし日中の上陸であったためにキューバ空軍により攻撃され、激しい戦闘で当初の82人のうちの18人だけが生き残りマエストラ山脈へ逃げ込み、バティスタ政府とのゲリラ戦を再開しました。

生存者の中には、カストロ他に革命後に閣僚となるチェ・ゲバラ、ラウル、またカミーロ・シエンフエゴスも含まれていました

『チェ・ゲバラ』と『フィデル・カストロ』 革命成功

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カストロ ゲバラの同志は12名を残して全てが上陸時の戦闘で殺されるか捕らえられるかしてしまった。
捕らえられたゲリラのうちの数人は特別裁判の後処刑されました。その後 カストロ ゲバラは 山岳地帯で、ゲリラ戦術を繰り返し農民の支持を得て、同志を増やしていきました。
1958年5月24日、バティスタ政府はカストロ ゲバラ軍に対して17の大隊を送り出したが、バティスタ政府軍兵士の多くが、カストロ ゲバラ軍の革命の意志に賛同し寝返ったため、最後は革命軍が勝利を得ることになりました。
そして、上陸した場所の付近は当時オリエンテ州の一部でしたが、後に「グランマ州」と名づけられました

『チェ・ゲバラ』と『フィデル・カストロ』ハバナ革命広場へ

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カストロ ゲバラはついに1958年12月29日に軍300人を率いてバティスタ政府軍6000人が迎え撃つキューバ第2の都市サンタ・クララに突入します。
そこで、カストロ ゲバラの革命軍を支援する多数の市民の加勢もありバティスタ政府軍の武器と兵士を乗せた装甲列車を転覆させ、激戦の末にバティスタ政府軍を制圧し、キューバの首都ハバナ革命広場への道筋を開きました。

バティスタ亡命

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1958年の12月31日夜、バティスタはコロンビア兵営で催された新年祝賀パーティーの席上で突如として辞任演説を始めました。

簡単にわかりやすく言えばここで、カストロ ゲバラの勝利が決定的になります。バティスタは1959年の元日、クバーナ航空機でキューバを脱出し、独裁者のラファエル・トルヒーヨ率いるドミニカ共和国へ亡命しました。
そして、名実ともに革命は成功したのでした。

キューバ革命でのチェ・ゲバラ

出典: http://eritokyo.jp

医者のチェ・ゲバラは軍医として戦闘に参加していました。
そして、戦闘が終わると自軍だけでなく、負傷した敵兵にまで必ず治療を施していました。
こうした話はキューバ全土にすぐに広まり、政府軍の中からもカストロ ゲバラ軍に加わる者が出るほどでした。
そして、軍医としてだけでなく キューバでは政府軍との戦闘の中でその忍耐強さ、誠実さ、状況分析力、人の気持ちをつかむ才能を遺憾なく発揮し、次第に反乱軍のリーダーの一人として認められるようになっていきました。
革命広場での演説では、常にフィデル・カストロの横にいました。

『フィデル・カストロ』ハバナ革命広場へ

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バティスタ亡命数時間後には、キューバ政府軍の将軍カンティーヨが「臨時政府」の成立を宣言したが、フィデル・カストロは認めずカミーロ・シエンフエゴスにハバナ突入を命じました。

そして間もなくハバナはカストロ ゲバラ革命軍によって制圧され、8日にはフィデル・カストロがハバナ入りし、フィデル・カストロ ゲバラ カミーロ・シエンフエゴスは革命広場に立ちました。
その後、国民にわかりやすく革命の成功をアピールしました。

革命後の『カストロ ゲバラ』

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フィデル・カストロは2月半ばに首相に就任し、事あるごとに革命広場に立って演説をして、わかりやすく国民に話しかけました。

新体制は発足後数週間のうちに、軍事法廷でかつてのバティスタ関係者を裁き、およそ550人が処刑されました。
チェ・ゲバラは闘争中の功績と献身的な働きによりキューバの市民権を与えられ、キューバ新政府の国立銀行総裁に就任するにりました。

キューバ革命後のチェ・ゲバラ

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1965年4月、チェ・ゲバラは革命広場で演説をするフィデル・カストロに訣別の手紙を残して突然キューバから姿を消しました。
チェ・ゲバラは「ゲリラ戦争による世界革命」を夢見てアフリカに渡りました。
しかし冷戦下の複雑なコンゴ動乱の政治対立にいやけがさしたのか、キューバに戻り、カストロとの関係も修復し、南米の革命根拠地作りのため、ボリビアに向かいました。

結局、キューバ革命における二人の革命家が求めていたものは、フィデル・カストロが安住の地であると見ていたのに対して、チェ・ゲバラが求めていたものは、正義で、革命でした。

ボリビアでの『チェ・ゲバラ』

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ボリビア政府軍によって捕らえられたゲバラ

当時のボリビアはバリエントス軍事政権がアメリカのCIAの支援の下で錫鉱山などの富を全て支配していました。チェ・ゲバラはボリビアに潜行したゲリラ部隊を組織し、反政府活動を展開し、ボリビアのベトナム化をめざしましたが、11ヶ月戦闘の後、政府軍によって捕らえられ、1967年、ボリビアの大統領命令で銃殺されてしまいました。チェ・ゲバラのボリビアでの彼がつけていた日記が密かにキューバにもたらされ、『ゲバラ日記』として公刊されました享年39才でした。

革命後の『フィデル・カストロ』

出典: http://historical39.com

多くの人々から国民的英雄だとみなされたカストロは、1959年2月にキューバの首相に就任しました。
そして革命広場でことあるごとに演説を繰り返し、時にはキューバ革命についてわかりやすく、数十万人の国民で埋め尽くされた広場で、数時間に及ぶ長い熱弁をふるうこともあり、そのたびにキューバ国民はフィデル・カストロの熱烈な支持を表明しました。

晩年の『フィデル・カストロ』

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2000年代に入り高齢になり体力が衰え、革命広場での長時間の演説も徐々に短くなり、
2008年2月19日、フィデル・カストロは革命広場の演説ではなく共産党の機関紙グランマにおいて、国家評議会議長と軍最高司令官を引退する意向を示し、2月24日、ハバナの国際会議場で開催された人民権力全国会議においてフィデルは国家評議会議長兼閣僚評議会議長を退任しました。

後継には一緒にキューバ革命に参加した、弟のラウル・カストロが就任しました。
そして、2016年11月25日、これも革命広場の演説ではなく弟のラウル・カストロが国営テレビを通じてキューバ革命の最高司令官の死去を発表しました。享年90歳でした。

革命後のキューバ

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度々映画にも登場した国家評議会議長フィデル・カストロの演説の場として知られている革命広場は、普段は閑散としています。
それがいざイベントごとが行われると、数十万人の人で埋め尽くされるのです。
そして、2009年に設置された情報通信省の壁には、カミーロ・シェンフエゴスの肖像が描かれ、内務省の壁には、チェ・ゲバラの肖像が描かれています。そして、国立図書館の建物には大きなフィデル・カストロの写真が掲げられております。

そして今でも、広場を三人が見守っています。

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内務省の壁にはチェ・ゲバラの肖像が

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情報通信省の壁には、カミーロ・シェンフエゴスの肖像が

出典: http://sekainodokokade.com

国立図書館の建物に大きなフィデル・カストロの写真が

映画になったキューバ革命の英雄『チェ・ゲバラ』『フィデル・カストロ』

出典: https://twitter.com

日本とキューバ合作映画【エルにスト】は記憶に新しいと思いますが、それまでも、何度もキューバ革命カストロ ゲバラを題材にした映画は作られています。

出典: https://search.yahoo.co.jp

・1作目の映画はスティーヴン・ソダーバーグ監督がチェ・ゲバラの半生を描いた映画。2部作で2008年公開された映画【28歳の革命】&【39歳別れの手紙】です。

・2作目の映画はオリバー・ストーン監督が、フィデル・カストロに迫ったドキュメンタリー映画。2003年公開された映画【コマンダンテ】です。

・3作目の映画はガエル・ガルシア・ベルナルがゲバラを演じているキューバ革命を描いた映画。2002年公開された映画【チェ・ゲバラ&カストロ】です。

・4作目の映画はリチャード・フライシャー監督、ゲバラ役にオマー・シャリフ、カストロ役にアカデミー助演男優賞受賞のジャック・パランスが出演。キューバ革命の英雄、チェ・ゲバラの半生を描いた映画で、1969年公開された映画【革命戦士ゲバラ! 】です。

どの映画もDVDが出ています。

まとめ

あまりなじみのなかったキューバ革命が映画『エルネスト』で紹介され、従来より分かりやすく身近な物になりました。
今の日本では、あまりなじみのない『革命』と言う言葉に、映画の中で描かれた人々が、広場で熱狂する姿が目に焼き付きます。
日本では、昔から演説をしても広場が人で埋め尽くされるということは、余り無かったように思います。

映画から、史実を顧み日本の平和に感謝しつつ、広場で熱狂する人々に平和の願いをこめたいですね。

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