パリ人肉事件を徹底解説!佐川一政の生い立ちとその後は?【閲覧注意】
フランス・パリで起きた残忍なパリ人肉事件とはどのような事件なのでしょうか。加害者の男性はなぜ女性を殺害し、食べたのか。そして犯人は現在どうしているのか、パリ人肉事件について解説いたします。この記事には猟奇的な内容が含まれておりますので、閲覧にはご注意ください。
目次
【パリ人肉事件】とは?
※この記事には猟奇的な内容が含まれております。閲覧の際には十分にお気をつけください。
1981(昭和56)年、日本中、いえ、世界中を震撼させる事件が起こりました。後にパリ人肉事件と呼ばれるその事件は、フランスはパリにおいて、日本人留学生である佐川一政という男性が、オランダ人留学生ルネ・ハルデヴェルトさんという女性を殺害し、その遺体を解体した上食べたことにより、パリの警察に逮捕されたという事件です。
パリ人肉事件は、犯人逮捕後にパリで裁判にかけられたのですが、犯人の精神疾患により無罪となっています。
パリ人肉事件がどのようにして起こったのか。パリ人肉事件の犯人である佐川一政の生い立ちから、事件の経緯や逮捕後の犯人について、関連人物についてや裁判で無罪になった経緯などを、順を追って一連の事件を詳しく説明していきたいと思います。
パリ人肉事件の加害者【佐川一政】の生い立ち
1949年4月26日、パリ人肉事件の加害者である佐川一政は、兵庫県神戸市に生まれました。父親の手のひらに乗るほど小さな未熟児でした。医師には20歳まで生きられないだろうと言われ、裕福であった両親は、彼を甘やかして育てたそうです。
現在も存命ではありますが、当時は1歳で腸炎を患ったり、カリウムとカルシウムを静脈注射したりと、とても体が弱かったので、両親の心配はつきなかったでしょう。
パリ人肉事件の加害者【佐川一政】の子供時代
パリ人肉事件の加害者である佐川一政は、虚弱体質ながらも成長し、音楽や文学を愛する少年へと育ちました。ベートーヴェンやヘンデル、シェークスピアを好み、高校時代には白樺派に傾倒していました。小説を書いたり、作家の武者小路実篤に会いに行ったりしたこともあるそうです。
このような文学少年でしたが、この頃から人肉への憧れを抱いていました。叔父から「誘拐した子供を鍋で煮込んで食べる魔法使いの話」を何度も聞かされ、小学生の頃から人肉を食べてみたいと思っていたのです。
パリ人肉事件の加害者【佐川一政】が逮捕されたもう一つの事件
パリ人肉事件が起こる前、大学生であった佐川一政は、ドイツ人女性の家へ無断侵入し、「強姦未遂犯」として逮捕されるという事件を起こしています。白人女性の人肉を食したいという目的があっての進入でしたが、その思いは悟られることはなく、強姦目的ということで逮捕されました。
本人は否定していますが、パリ人肉事件当時の身長は150センチにもならず、体重35キロ未満の自身の体躯にコンプレックスを抱き、豊満な白人女性の体に非常に憧れを抱いていたのではないだろうかと言われています。
実際、パリ人肉事件の加害者佐川一政は、テッド・バンディが逮捕された事件について、「私が彼ほどの容姿なら殺人事件など起こさなかっただろう」とコメントしました。
なおこの事件は、パリ人肉事件の加害者佐川一政の父親が示談金を支払ったことにより、告訴が取り下げられたそうです。
パリ人肉事件の加害者【佐川一政】のフランス留学
さて、文学を愛する佐川青年は、28歳で修士号を取得。その後にパリに留学したいと自ら希望し、息子が文学者になるという希望を抱いた父親がパリ留学を認めました。
パリでは、人肉事件の犯人である佐川一政が欲している「白人女性の肉体」が、彼の食人願望を刺激します。彼は食べたい衝動を、パリの売春婦と交わることで一時的に抑え込むことに成功しました。しかし、パリに住んでいれば、切望していた白人女性を大勢目にします。ですので、積年の願望である「白人女性の人肉を食すること」を完全に抑えきることはできませんでした。
白人女性の人肉を食べてみたいという思いは加速し、それはパリ人肉事件へと繋がるのです。
パリ人肉事件の加害者【佐川一政】と被害者の出会い
パリ人肉事件の犯人である佐川一政がパリへ留学したのは1977年のこと。パリ人肉事件の4年前です。パリ人肉事件が起きる1年前の1980年には一時帰国をし、その際に室蘭の女子大で講師をすることが決まったのですが、大学側から博士課程を修了してほしいとの要望があり、1981年に再びパリへと留学をしました。
同年5月にパリ人肉事件の被害者であるオランダ人女性ルネ・ハルデヴェルトさんと知り合います。彼女とはパリの大学で一緒であり、彼女はパリ人肉事件の加害者である佐川一政に対し、とても親切にしていたと言います。パリ人肉事件の被害者の女性は透き通るような美しい肌と、キレイな目が特徴的な美人で、佐川一政が憧れている白人女性として、とても魅力的だったそうです。
【パリ人肉事件】の経緯
1981年6月。二人が知り合ってから一ヶ月後のこと。
パリ人肉事件の犯人は被害者ルネ・ハルデヴェルトさんを自宅に招きました。ドイツ語の詩の朗読を録音したいと彼女に依頼し、詩を朗読する彼女を背後からライフル銃で撃って殺害しました。これがパリ人肉事件の始まりです。
ルネ・ハルデヴェルトさんを死姦したあと、写真を撮りながら解体し、切り取ったでん部、乳房、太ももをフライパンで焼いて食べました。生で食べた部位もあったそうです。犯人は、何日もかけて、被害者女性の人肉を食べました。
佐川一政はその後の著書で、パリ人肉事件について、詳細に食べた感想を語っています。
佐川一政が被害者女性のルネ・ハルデヴェルトさんを標的にした理由は、加害者が被害者女性へ恋慕し、それを拒否されたからという説がありますが、これは正しくありません。
彼女とは友人関係であり、恋愛感情はなかったとしています。
しかし、新聞で被害者女性が両親に向けて書いた手紙の内容(とても素晴らしい友人に出会えたので、紹介したいという内容)を読み、そのときとてもショックを受けて初めて恋心を抱いたということです。
このとき佐川一政は、彼女に対してどのように思ったのでしょうか。
【パリ人肉事件】の犯人が逮捕されるまで
その後、パリ西部にあるブローニュの森の湖に、被害者女性の遺体の入ったトランク二つを捨てる佐川一政の姿が目撃されます。その姿を目撃した人物が警察に通報し、トランクは警察により引き上げられて、被害者女性の遺体が発見されました。
被害者女性の身元が判明するころには、犯人もその特徴的な風貌からすぐ足がつき、パリ人肉事件の加害者佐川一政は警察に逮捕されたのです。部屋に訪れた刑事たちは、食べ残した被害者女性の人肉にたいそう驚いたそうです。
パリ人肉事件の犯人佐川一政の【関連人物】
パリ人肉事件の加害者佐川一政の関連人物として、共犯者、父親、叔父などが挙げられます。
パリ人肉事件の関連人物「共犯者」は存在したのでしょうか?結論から言うと、関連人物「共犯者」は存在しません。すべて佐川一政が一人でやった犯行です。
佐川一政の関連人物である父親についてですが、かなり収入のある地位についていたので、家庭は裕福だったそうです。そのため、関連人物である父親は、パリ人肉事件の犯人である佐川一政にお金をついやしてパリへ留学させたり、パリ人肉事件のあともたびたびフランスへ訪れては、息子をかばい続けたそうです。
そして関連人物のもう一人である叔父についてですが、前述の通り、幾度も「誘拐した子供を鍋で煮込んで食べる魔法使いの話」を佐川一政に聞かせ、その後の犯人の「人肉を食べることへの憧れ」に繋がることになったので、関連人物として位置づけました。
【パリ人肉事件】の犯人逮捕のその後
佐川一政の父親が、とても有望なフィリップ・ルメールという弁護士を雇ったため、凄惨な事件にも関わらず、彼は裁判において精神薄弱と認められ、無罪となりました。フランスの警察署での取調べにおいて、警察官が「腹膜炎」を「脳膜炎」と誤訳したことが原因とされています。
裁判のあと、精神弱者としてアンリ・コラン精神病院へ入院しましたが、病院では精神疾患が認められず、フランス国民からの反発もあり14ヶ月で退院し、帰国。そして都立松沢病院へと入院しました。こちらの病院もやはり精神疾患が認められず一年ほどで退院し、その後は精神治療は行っていないそうです。
裁判において精神疾患で無罪となったことは、日本の警察でも取り沙汰され、再逮捕して裁判のやり直しをすることも考えられていましたが、フランスの警察側が裁判で無罪になった者の捜査資料は渡せないとし、もう一度裁判にかけられることはありませんでした。
パリ人肉事件の犯人佐川一政の【帰国後】
パリ人肉事件が日本中で有名になったことで、帰国後の犯人の就職活動は大変困難なものとなりました。どの企業からも不採用という結果だったのです。唯一本名で応募するその気概を買って採用とした社長がいたそうなのですが、社内の者達からの反対を受け、最終的には不採用となってしまったのだとか。
しかし、パリ人肉事件の犯人である佐川一政は、文学留学をしていた経験から、著書やコラムなどの執筆をするということで、生計を立てることに成功しました。多いときは月刊誌などで連載を持っていたそうです。
また、成人向けのビデオや映画に出演したり、凶悪事件が起きた際に、パリ人肉事件の犯人としてインタビューやコメンテーターなどの仕事を受けたりなど、生活できるだけの収入を得ることができたのです。
パリ人肉事件の犯人佐川一政の【現在】
2001年ごろになると、収入は仕事が減ってしまったために、借金をして生活をしていました。裕福な両親を頼って仕送りを受けていた時期もあったそうですが、その両親も2005年に相次いで亡くなり、現在は残った遺産で借金を返し、年金と生活保護を受けて生活しています。
2013年に脳梗塞で倒れ、救急搬送されて歩行困難となったことで、弟の介護を受けていますが、2010年くらいには白人女性への幻想は消え、日本人女性、特に沖縄の女性に「食欲を感じる」とインタビューにて答えています。