不敗の牛山のモデル「牛島辰熊」史上最強の鬼の柔道家がスゴすぎる!

不敗の牛山のモデルとは?牛島辰熊って誰?最強の柔道家?ハーフって本当?不敗の牛山よりも多い練習量?試合前にやることとは?最高段位九段って?なんで引退したの?実は牛島辰熊も犯罪者?動画でも見れる?今回は牛島辰熊についてまとめてみました。

不敗の牛山のモデル「牛島辰熊」史上最強の鬼の柔道家がスゴすぎる!のイメージ

目次

  1. 1牛島辰熊の概要
  2. 2鬼の牛島辰熊の伝説その1
  3. 3鬼の牛島辰熊の伝説その2
  4. 4鬼の牛島辰熊伝説その3
  5. 5鬼の牛島辰熊伝説その4
  6. 6鬼の牛島辰熊伝説その4
  7. 7鬼の牛島辰熊伝説その5
  8. 8鬼の牛島辰熊伝説その6
  9. 9鬼の牛島辰熊伝説その7
  10. 10鬼の牛島辰熊伝説その8
  11. 11鬼の牛島辰熊伝説その9
  12. 12牛島辰熊についてまとめ・・・

牛島辰熊の概要

牛島辰熊(うしじまたつくま)とは日本の柔道家です。1904年3月10日生まれ。出生地は熊本県熊本市。段位は講道館柔道九段。大日本武徳会柔道教士。1934年に引退。没年月日は1985年5月26日に81歳でその生涯に幕を閉じています。

元々は剣道を修行していました。15歳の時に長兄の影響で肥後柔術三道場の一つ、扱心流江口道場に入門しました。当時の熊本では今で言う柔道よりも、まだ古流柔術の方が盛んでした。高専柔道の強豪・旧制第六高等学校に入学しの寝技技術を磨きました。その圧倒的な強さと気の荒さから「鬼の牛島」、「不敗の牛島」と称されました。

ゴールデンカムイの不敗の柔道家・牛山辰馬のモデルとなっています。

牛島辰熊:牛山辰馬

名前がそっくりですね。

さらに「不敗の牛山」と言われるのも「不敗の牛島」と言われていたのにも一致しています。

ちなみにその顔立ちから「牛島辰熊はハーフなのではないか」と言われますが、特にハーフといった証拠はありません。

出典: https://ja.wikipedia.org

不敗の牛山のモデルになった牛島辰熊。確かにハーフに見えます。「ロシアとのハーフ」と言われたらしっくり来る気がします。むしろロシア人のほうがいいかもしれません。しかしハーフの情報はありません。

不敗の牛山とは(ゴールデンカムイ)

かつて10年間無敗の柔道家として最強の座を独占した屈強な大男”不敗の牛山”。柔道師範の妻に欲情し、姦通したことが露見し一門の制裁に遭うが、逆に師を殺害し門下生10人に重傷を負わせた咎で服役。

現役時代は毎日10時間を超える鍛錬を欠かさず行い、網走監獄の死人が出るほど過酷と言われた刑務作業に対しても稽古に及ばないと退屈していた。馬やヒグマですら足払いで投げ飛ばす五寸釘も通さぬ硬さの強靭な肉体を持つ。

定期的に性交しないと人事不省に陥りヒトの姿をしている者なら、力に任せて見境無く犯そうとするほどの凄まじい精力の持ち主でもある。

ちなみに「不敗の牛山」もハーフではありません。

出典: http://comic-media.xyz

「不敗の牛山」。ハーフっぽい顔も牛島そっくりですね。

鬼の牛島辰熊の伝説その1

牛島はまだ柔道の全日本選手権がない頃、実質的な日本一決定戦だった明治神宮大会を1925年から3連覇しました。また日本柔道選士権大会ができてからも第一回こそ東京府予選の決勝で負けてしまいますが、第2回(1931年)・第3回(1932年)大会では連覇を達成しました。先の明治神宮大会と合わせ、現在で言えば全日本柔道選手権を5度制した事になります。まさしくこの時代を代表する最強の柔道家でした。

この記録は後に抜かれることになるのですが、その記録を作った人物、木村政彦は牛島辰熊の弟子というのがまた驚きです。

出典: https://ja.wikipedia.org

第2回全日本選士権を制し優勝旗を持つ牛島辰熊(1931年)

出典: https://ja.wikipedia.org

牛島辰熊と木村政彦

鬼の牛島辰熊の伝説その2

朝は60kgあるローラーを牽きながら走り込み、夜は裸で大石を抱え上げて筋肉を鍛えました。さらに茶の葉を噛んで自身を奮い立たせ、大木に体当たりを繰り返していたようです。そして仕上げはその大木に帯を縛り付けて背負い投げ千本の打ち込みをしました。

出典: http://blog.esuteru.com

出典: http://www.honda.co.jp

鬼の牛島辰熊伝説その3

あちこちに出稽古に回り、1日最低でも40本の乱取りをこなしていました。稽古後は消耗して階段も昇れず、食事は粥しか喉を通らないといった程です。朝起きると手の指が固く縮こまって開かなかったので、湯につけて暖めながら少しずつ伸ばすといったエピソードもあります。

出典: http://blog.livedoor.jp

出典: http://r.gnavi.co.jp

鬼の牛島辰熊伝説その4

試合前夜にはスッポンの血を飲み、当日はマムシの粉を口に含んで試合場に上がっていました。

開始の合図と同時に突進して相手に襲い掛かり、徹頭徹尾、攻めて攻めて攻め続けるスタイルでした。この攻撃精神が牛島柔道の信条で、愛弟子の木村政彦にも受け継がれています。

出典: http://www.suppon-aiwa.co.jp

愛弟子・木村の動画。あの「グレイシー」を子ども扱いしている動画です。ちなみに牛島の動画は恐らく存在しないと思います。日本でのテレビの出現は1939年です。

鬼の牛島辰熊伝説その4

1934年の大会では試合前から肝吸虫に体を冒され、体重が9kgも減って歩く事すらままならない状態でしたが、精神力でカバーするために洞窟に籠もって1カ月間そこで坐禅し、宮本武蔵の『五輪書』を朗唱して試合に備えました。体が動かぬのを精神で補おうという決意でしたが、予選リーグで敗退しました。この病気さえなければ間違いなく優勝は彼だったとも言われています。

出典: https://www.komazawa-u.ac.jp

鬼の牛島辰熊伝説その5

普通なら来年雪辱を果たすと思うかもしれません。

しかし、牛島の原点である肥後柔術は「参った」や、腰に短い木刀を差して試合をやり、投げて組み伏せ、最後は木刀で相手の首を掻き斬る動作をして一本勝ちとなるルールというものでした。

「負けは死と同義」と即引退します。

また弟子の木村政彦が講道館の紅白試合で8人抜きし技量抜群で5段に昇段した際に、喜び勇んで牛島にこれを報告すると「試合は武士の真剣勝負と同じだ。貴様は戦場で8人倒し、9人目で殺されたのだ」と怒鳴りつけ、木村に鉄拳制裁を加える程でした。

出典: http://www.daitouryu.com

出典: http://www.zenssr.com

鬼の牛島辰熊伝説その6

極めて極右思想を持っている人物でした。

時の総理大臣、東條英機は皇居での首相任命の際、天皇から対米戦争回避に力を尽くすように直接指示されました。それにも関わらずアメリカやイギリスに宣戦布告しました。石原莞爾ら反東条派の将校らと親交がありました。反東条派の戦争不拡大理論と牛島辰熊の「力と身体を伸ばし切っての攻撃は必ず敗れる」という牛島の柔道の理論や極右思想が一致します。

牛島らは東條英機暗殺計画を企てます。茶瓶という爆弾を使用することにします。50メートル四方に青酸ガスがばら撒かれるというものです。当然使用者も巻き込まれ死んでしまうでしょう。

これに立候補したのが最強の柔道家牛島辰熊です。

暗殺決行日を1944年7月25日に決めます。ところが7月18日に内閣総辞職が起きます。最終的に暗殺計画は未遂に終わります。

出典: http://blog.livedoor.jp

鬼の牛島辰熊伝説その7

非常に弟子思いです。

後に最強の名を受け継いだ木村政彦の師として有名ですが、木村を見つけると拓殖大学予科に引っぱり自宅で衣食住の面倒をみながら激しい稽古をつけ、不世出の柔道王を育てたました。

1940年の第3回天覧試合に向けて、木村は毎日10時間をこえる稽古を繰り返ました。そして牛島も木村の優勝を願って毎夜滝行をしていました。その甲斐あってか、木村は天覧試合を制覇しました。

また“昭和の巌流島”と呼ばれた木村と力道山との戦いでは、木村が敗れると真っ先にリングに駆け上がっていきました。会場を去る木村に寄り添う牛島の映像も残されています。妻や娘に「なぜあの時リングに上がったのですか」と聞かれ、「木村の骨を拾えるのは俺しかいない」と目を潤ませながら語ったというエピソードがあります。

出典: https://www.kinokuniya.co.jp

この動画の1分30秒頃に牛島が映っています。活躍していたのは昭和初期までで動画があまりありません。動いている牛島を捉えたこの動画は貴重なのではないでしょうか。やはり動画で見てもハーフっぽく見えますね・・・

鬼の牛島辰熊伝説その8

プロ柔道旗揚げをした人物です。

太平洋戦争後、柔道はGHQによって日本の民主化推進及び軍国主義払拭との観点から禁止となりました。学校教育からも排除されるといった状況にでした。講道館はそうした状況に対し、1949年5月に全日本柔道連盟を設立します。同年10月には日本体育協会に加盟して国民体育大会に参加し、プロ柔道とアマ柔道の区別を明確に規定し、柔道の体育化、スポーツ化を志向して学校教育復帰の道をめざしました。1950年(昭和25年)には新制中学校の選択科目に柔道が採用されるようになりました。

しかし、こうした動きとは逆に武道としての柔道の復興、及び、生活に困窮していた柔道家の生活基盤を構築することを志向する柔道家の牛島辰熊は柔道の興行化、プロ化を企画し、国際柔道協会を設立しました。

プロ柔道は「見せるための柔道」として、従来の柔道では禁じ手となっていた、指、足首、手首、肩、膝などの関節を決めるのを認め、引き分け判定を無くし、柔道着に赤い3本の線を入れる、などの工夫がなされたものでした。


 

出典: http://shinhakken-blog.seesaa.net

出典: http://www.yowakai.org

鬼の牛島辰熊伝説その9

50歳を超えてもその実力は衰えなかったと言われています。寝業の出稽古で明治大学に赴いた際も、同大学のエース的存在であった神永昭夫を子供扱いしたというエピソードもあります。

また段位は九段となっています。これは亡くなる前年の1984年に講道館100周年を記念して九段に昇段しましたが、日本柔道界における実績、影響を考えれば、実質的な最高段位である十段でもおかしくなかったと言われています。

出典: http://kodokanjudoinstitute.org

出典: http://www.kuukinage.com

柔道の九段、十段は赤帯です

牛島辰熊についてまとめ・・・

元祖・最強の柔道家牛島辰熊についてはいかがでしたか?「不敗の牛山」よりも練習しているように感じます。やはり最強の名を手にするにはこれだけ練習しなければいけないのかもしれません。現代ではより効率的なトレーニングが出てきているのでこのような熱い男はもう出てきそうもないのが残念ですね。

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