殺人ピエロ『ジョン・ゲイシー』の殺人事件まとめ【6年間で33人殺害】
1970年代のアメリカで、ジョン・ゲイシーという実業家が少年ら33名を殺害するという事件が起こりました。ジョン・ゲイシーはボランティアでピエロに扮することもあったので、殺人ピエロと呼ばれました。彼の生い立ちから、事件のその後までを解説していきたいと思います。
目次
- 1アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】とは
- 2アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】の生い立ち
- 3アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】の少年時代
- 4アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】の社会人生活
- 5アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】の同性愛への目覚め
- 6アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】二度の逮捕
- 7アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】の最初の殺人
- 8アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】の手口
- 9アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】の事件発覚
- 10アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】の関連人物
- 11アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】の裁判
- 12アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】が処刑されるまで
アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】とは
※この記事は暴力的で猟奇的な内容が含まれております。閲覧の際には十分ご注意ください。
スティーブン・キングの小説が原作の、映画「IT」をご存知でしょうか?1990年にアメリカで製作され、2017年にはリメイクもされている、キラークラウン(殺人ピエロ)「ペニーワイズ」の映画です。
その「IT」のモデルとなっているのが、1972年から1978年の間にアメリカで33人もの少年たちを殺害し、逮捕された後に裁判で処刑判決がでた事件の犯人、ジョン・ゲイシーという実業家です。
加害者であるジョン・ゲイシーは、同性愛者であり、被害者の少年たちを強姦したのちに殺害をし、逮捕されて裁判にかけられ、1994年に処刑されました。加害者であるジョン・ゲイシーは、実業家というだけでなく、ボランティアで「ポゴ」という名のピエロに扮し、老人慰問をしたり、イベントで子供達を楽しませていたりしました。
その裏で6年もの間殺人事件を繰り返していたにも関わらず、表の顔が有力者でボランティア活動もする好印象だったため、被害者の少年たちを殺害した事件の犯人が、加害者であるジョン・ゲイシーだとは思われていませんでした。
しかし、最終的には被害者の少年たちの遺体が加害者ジョン・ゲイシーの自宅から発見され、加害者ジョン・ゲイシーは逮捕されて裁判にかけられ、処刑されました。
こちらの記事では、被害者の少年たち33名を殺害し、処刑された事件の犯人「ジョン・ゲイシー」について、生い立ち、事件の始まりから事件発覚と犯人逮捕、そして裁判から加害者が処刑されるまでのことを、詳しく解説していきたいと思います。
アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】の生い立ち
事件の加害者であるジョン・ゲイシーは、1942年3月17日に、後述する関連人物であるイリノイ州のポーランド系移民、ジョン・スタンリー・ゲイシーの長男として、大変な期待を受けながら生まれました。
ジョン・ゲイシーの関連人物であるスタンリーは貧しい家庭で育ったので、「人には負けない、弱みを見せてはいけない」という信念を持っており、息子である加害者のジョン・ゲイシーにもその信念を強要しました。ですが、加害者のジョン・ゲイシーの心臓に疾患があると判明すると、ジョン・ゲイシーの関連人物であるスタンリーは期待を裏切られたと感じ、彼を見限ってしまったそうです。
また、スタンリーは脳疾患を持っている関係から癇癪持ちだったそうで、体の弱い息子を「オカマ」や「お前はホモになる」などと言って、精神的にも肉体的にも虐待を行っていました。
加害者であるジョン・ゲイシーは、父親からの虐待により心因性のストレスを抱え、5歳頃には失神をするようにまでなってしまいました。
それさえも、父親からは「仮病」として疎まれていました。
ジョン・ゲイシーが4歳のとき、父親のスタンリーは車の修理をしていました。そのときジョン・ゲイシーは車の部品で遊んでいたのですが、スタンリーがそのせいで組み立てる順番を間違えたと責め立て、殴りました。
この頃に近所の年上の女性に性的なイタズラをされたのですが、それを知ったスタンリーはまたジョン・ゲイシーを殴ります。理由は「黙ってやられてまぬけ」だったからです。
6歳頃には関連人物である父親のスタンリーのペンキ塗りを手伝い、失敗してジョン・ゲイシーのせいにされ、やはり殴られています。
アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】の少年時代
事件の犯人であるジョン・ゲイシーは、6歳ごろから万引きを繰り返すようになりました。初めての万引きは、母親であるマリオンに見つかり、お店へ行き謝って品物を返すよう言われ、その通りにしました。
しかし、帰宅後に関連人物のスタンリーに「泥棒は痛い目にあう」と言われ、挙句殴られてしまいました。
その後は見つからないよう、手口が巧妙になり、何度も万引きを繰り返すようになったのです。
ジョン・ゲイシーの幼年のころからずっと、関連人物スタンリーは気に入らないことがあると、事件の犯人であるジョン・ゲイシーをたびたび罵倒し、暴力を振るいました。
処刑されたジョン・ゲイシーが11歳のときに、父親のスタンリーは毎年恒例で二週間ほど出かけている釣りに、初めて彼を連れて行きました。
釣果が思うようにあがらず、イライラしていたスタンリーは、そのことをジョン・ゲイシーのせいにしました。
二週間もの間ずっと、スタンリーはジョン・ゲイシーを罵り、怒鳴るので、ジョン・ゲイシーはただただ泣きながら謝るしかできませんでした。
また、心臓肥大であったジョン・ゲイシーは、前述の通りストレスからよく失神をしていました。病院へ行っても原因不明で、再発性の失神症とされていました。
それに加え、脳障害による発作も起きており、病院に搬送されるのも珍しくありませんでした。入院も経験し、高校へは通いきれなかったので、職業訓練校に通っていました。
アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】の社会人生活
職業訓練校においてとても優秀だった加害者ジョン・ゲイシーは、教員からスカウトされて助手として働いたり、民主党議員を支援したりしていました。
その頃のアメリカではまだ兵役制度が存在しており、事件の犯人であるジョン・ゲイシーは病気のため兵役を免除されたのですが、それを知った関連人物のスタンリーは、彼を幼い頃同様オカマ呼ばわりしたそうです。
また、18歳のときにできたガールフレンドと行為に及ぼうとした際には、気を失ってしまって何もできず、気がついたときにはガールフレンドは帰ってしまい、そのことにジョン・ゲイシーはとてもショックを受けました。
1962年に、加害者であるジョン・ゲイシーは、関連人物であるスタンリーと口論の末、家出をします。そしてネバダ州にあるラスベガスの葬儀屋で働くことになりました。
アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】の同性愛への目覚め
葬儀屋では、昼間に死体への防腐処理を行い、夜は遺体を安置している部屋の隣で寝泊りをしていました。
事件の犯人ジョン・ゲイシーは、若者、特に少年の遺体に大変興奮したと言われています。本人は否定していますが、気に入った少年の遺体が安置されると、棺に入り、遺体に添い寝をしていたそうです。
葬儀屋では三ヶ月働き、母親のマリオンが迎えに来たので、葬儀屋を退職して実家へと帰りました。
シカゴへと帰ったあと、ビジネスの専門学校を経て、靴販売店のセールスマンとして働きました。非常に優秀な業績を残したため、若くしてエリアマネージャーに抜擢されました。
また、青年会議所の会員にも所属し、そこでも優秀な成績で活動したとして、第一部長となっています。
そんな充実した日々の中、1964年に犯人であるジョン・ゲイシーは22歳で結婚をするのですが、その数ヶ月前にふとしたことから男性と一夜を共にします。
幼い頃より、関連人物である父親スタンリーから言われていた言葉が現実になってしまったと、恐怖を抱いたそうです。
しかし、結婚相手の父親が経営する店のマネージャーに就任したり、青年会議所の次期会長候補とされたり、地元のボランティア活動に精力を出したりと、生活面ではメキメキと有力者としての頭角を現していました。
多忙を極める中、精力的に活動を続けたのは、もしかしたら父親に認められたい願望の現われだったのかもしれないとのことです。
アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】二度の逮捕
1967年、結婚から3年たったある日、ヴァリューズという青年会議所の息子を自宅へ誘い、地下室で性行為に及びました。そして犯人であるジョン・ゲイシーがヴァリューズへお金を支払ったため、ヴァリューズはたびたびお金をせびり、そのたびに犯人であるジョン・ゲイシーがお金を払って性行為をするという関係となりました。
しかし、半年後にヴァリューズが処刑されたジョン・ゲイシーにお金を求めたときに、犯人ジョン・ゲイシーはこれを拒否したため、ジョン・ゲイシーはヴァリューズに訴えられました。
警察に逮捕されて、裁判にかけられた犯人ジョン・ゲイシー。裁判において、彼のお店で働くヴァリューズの友人リンチが「ナイフで脅されて鎖で縛られ、無理矢理犯された」と証言したため、ジョン・ゲイシーは少年たちの罠だと主張するも、裁判の判決で実刑を受けることとなりました。
この逮捕されて裁判にかけられるという事件は、ジョン・ゲイシーの結婚生活に終止符を打ちました。
刑務所において、犯人であるジョン・ゲイシーは模範囚だったため、裁判において10年の実刑判決が出たにも関わらず、わずか16ヶ月で出所することとなりました。
しかし、出所して半年後、再び少年への暴行容疑で逮捕され、裁判へかけらてしまいます。この裁判は、被害者である原告が出廷することはなかったので、不起訴処分とされました。
アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】の最初の殺人
裁判において不起訴処分となった事件のあった秋頃から、加害者であるジョン・ゲイシーはパーティーなどで少年たちをあさるようになります。
そして最初の殺人の被害者である少年は、1972年の1月に殺害されました。加害者であるジョン・ゲイシーは少年と関係を持し、そのまま就寝しました。少年は加害者であるジョン・ゲイシーのために、サンドイッチを作り、その際にナイフを持ったままジョン・ゲイシーを起こしにいってしまい、刺されると勘違いした加害者ジョン・ゲイシーに殺されてしまったのです。
これが加害者ジョン・ゲイシーの最初の殺人です。
被害者である少年を殺してしまったことでパニックになり、加害者ジョン・ゲイシーは被害者の少年の遺体を床下へと隠しました。
これ以降、ジョン・ゲイシーは、被害者である少年たちを強姦の後殺すようになりました。
加害者ジョン・ゲイシーは、シカゴに家を建て、そこから建築業の会社を立ち上げて、自宅を拠点としました。元々まじめな性格で、ビジネスの才能もあったジョン・ゲイシーの会社は成功し、高校の同級生と再婚することとなりました。
その頃も相変わらずピエロのポゴとしてボランティア活動をしていました。精力的にボランティア活動をするジョン・ゲイシーは、地域のみんなから愛され、民主党へと参加しました。
余談ですが、民主党のパーティで、当時の大統領夫人と握手をかわすジョン・ゲイシーの写真が現存しているそうです。
アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】の手口
1974年には、ジョン・ゲイシーは5人の少年を強姦殺人しています。そのときの手口は、以下の通りです。
まず被害者の少年たちを「ポルノを観よう」と自宅の地下室に誘い込み、手錠を使ったマジックを披露します。そして被害者の少年たちにも同じように手錠を使ったマジックをするフリをして、手錠で相手の自由を奪って強姦をします。
その後ロープと棒を駆使して首を絞めたり、緩めたりを繰り返し、被害者の少年たちが苦しむ姿を見て楽しむのです。
そして最後は遺体を自宅の床下へと隠します。遺体は腐敗し、自宅はものすごい臭いだったそうです。
妻が臭いについてジョン・ゲイシーに聞くこともあったので、地下にセメントを敷いたのですが、とても隠せるような臭いではありませんでした。
後にこの妻とは離婚し、その後の殺人に拍車がかかるようになります。
また、この頃のジョン・ゲイシーは麻薬などの常習犯で、こちらも妻がいなくなってからドラッグの使用も増えたそうです。
被害者の少年たちは、ほとんどが春を売る男性でしたが、一部ジョン・ゲイシーの元で働く少年たちでした。
アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】の事件発覚
そんなジョン・ゲイシーにも、逮捕の瞬間がやってきます。1978年、ロバートという少年がジョン・ゲイシーの会社の面接へ行ったあとに行方不明となり、捜索が出されます。
警察がジョン・ゲイシーの元に訪れ、ロバートという少年が面接に来ていないか彼に聞くと、ジョン・ゲイシーは「面接に来たが帰った」と嘘をつきます。
このとき警官はゲイシー家の異臭に気づきました。また、その際に部屋にあった遺留品や、ゲイポルノやグッズなどを発見し、ジョン・ゲイシーが怪しいと睨みました。
ですが、地域の有力者としての権力を笠に着て、今まで追及されていた警察による捜索などをかわしており、今回も逃げられてしまいます。
しかし、ジョン・ゲイシーがマリファナを所持しているという情報をつかんだ警官は、麻薬の不法所持として逮捕することになりました。
観念したジョン・ゲイシーは自供し、家宅捜索にて床下から被害者の少年ら29人の遺体が発見されました。残りの4人は床下に入りきらず、近所の川に遺棄したとの自供により、ロバートを含む4人の遺体はそこから発見されました。
腐敗が進み状態の悪い遺体が9体あり、彼らの身元はわかりませんでした。
ジョン・ゲイシー家の家宅捜索は、大変な異臭と遺体から発生したメタンガスにより、警官たちはめまいや吐き気に苦しめられました。命に関わる物質も発見されたため、捜索は大変危険なものとなりましたが、ジョン・ゲイシーは逮捕されました。
逮捕後、ジョン・ゲイシーは精神鑑定にかけられました。
アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】の関連人物
前述している処刑されたジョン・ゲイシーの父親スタンリーは、この事件の関連人物といってよいでしょう。ジョン・ゲイシーは幼年の頃より、虐待を受けて育ちました。関連人物である父親に気に入られようと、社会的地位の高い存在とまでなりました。
ジョン・ゲイシーの人生は、関連人物である父親のスタンリーの影響を大きく受けていると見られます。
アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】の裁判
1980年に裁判が始まりました。精神病院による精神鑑定において、ジョン・ゲイシーは多重人格を装いました。裁判においても、多重人格なので無罪だと主張しましたが、検察側は嘘を見抜いて死刑を求刑しました。
IQも高いものであり、心理状況はひどいものでしたが、脳障害は見られなかったという報告がありました。
「ジョン・ゲイシーは異常ではあるが、33人もの少年たちを殺した理由にならない」とし、有罪判決が下されました。12回の死刑と21回の終身刑という判決でした。
この判決を不服としたジョン・ゲイシーは、再審の請求をしました。
アメリカの殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】が処刑されるまで
ジョン・ゲイシーは処刑される前、刑務所内においても殺人未遂を犯します。ジョン・ゲイシーは面会に来た彼のファンと看守抜きで会うことができました。本来規則違反ではあるのですが、模範囚でしたので特別に会うことができたのです。
しかし、殺人衝動に駆られ、監視カメラの死角でファンの首を絞め、偶然看守が通りかかったのでファンは助かりましたが、これによって再審請求は取り下げられました。
1994年、ジョン・ゲイシーの処刑が執行されました。薬の注射による処刑だったのですが、通常7分程度で死に至る刑にもかかわらず、ジョン・ゲイシーは20分の間もがき苦しみながら死んでいきました。
検事はこのことに対し「被害者が受けた苦痛に比べれば、ジョン・ゲイシーの苦痛など大したことはない」とコメントしたそうです。