宮崎勤まとめ|生い立ちや自宅・家族の現在、本人の描いた絵【画像あり】

今なおドキュメンタリーで取り上げられ、ドラマ化される度に話題になる宮崎勤が引き起こした幼女誘拐殺人事件。この事件は宮崎勤の異常性だけではなく、偏向報道が社会に与えた影響や家族の末路なども話題になりました。このまとめでは宮崎勤に纏わることをまとめていきます。

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目次

  1. 1連続幼女誘拐殺人事件犯人・宮崎勤とは?
  2. 2宮崎勤の生い立ちや経歴
  3. 3連続幼女誘拐殺人事件犯人の詳細
  4. 4宮崎勤の裁判の行方や動機
  5. 5宮崎勤の獄中生活と最後の言葉
  6. 6宮崎勤の家族や関係者の末路
  7. 7宮崎勤が社会に与えた影響
  8. 8宮崎勤を題材にしたドラマについて
  9. 9いろいろな意味で忘れられてはいけない事件

連続幼女誘拐殺人事件犯人・宮崎勤とは?

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宮崎勤と言う名前を聞けば"殺人犯"であり"死刑囚"であり"オタク"が浮かぶ人は多いですが、若い世代で宮崎勤を詳しく知る人は意外なほどに少ないのではないでしょうか?

宮崎勤は1988年から1989年にかけて東京都や埼玉区で次々に幼女を誘拐し、最終的に殺していった「連続幼女誘拐殺人事件」の犯人であり死刑囚です。県を跨いだことから警察庁の公式名称としては「警察庁広域重要指定第117号事件」とも呼ばれています。

この記事では世間を震撼させた「オタク殺人者」の宮崎勤についてまとめていきます。

宮崎勤の生い立ちや経歴

連続幼女誘拐殺人事件を起こした宮崎勤ですが、どんな人物だったのでしょうか?なぜいたいけな幼女をさらって殺す必要があったのか? 幼少期から性癖は倒錯していたのか? 人格形成に疑問が尽きない人は多いと言われています。

この項では宮崎勤の生い立ちや人となりについて、調べていきます。

宮崎勤の出生地や家柄は?

宮崎勤は東京都の西多摩郡五日市町(現在はあきる野市)での家庭で、長男として産まれます。地元で新聞社を経営している裕福な家庭の長男であり、殺人者にありがちな貧困層の育ちではありませんでした。また、2人の兄弟と2人の妹がいます。

両親ともに共働きであ多忙であったため、宮崎勤の世話は住み込みの子守の男性と祖父が行っていたそうです。この祖父も町会議員を務め地元の名士と呼ばれていて、むしろ一般よりもやや家柄が良い家庭であったことが伺えます。

宮崎勤が生まれ持った身体障害とは?

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恵まれた家庭に生まれた宮崎勤でしたが、生まれ持って「両側先天性橈尺骨癒合症」という珍しい身体障害を患っていました。この身体障害は手首を回せずに手のひらを上に向けられないという生活に支障が出るもの。

日本に150人しか存在しなかったこの身体障害は「手術が成功するのは100人中1人」とお医者様が匙を投げるくらいに完治が難しく、両親は宮崎勤に身障者のレッテルが貼られることを恐れ、積極的な治療は受けさせませんでした。

しかし宮崎勤はこの身体障害が原因で幼稚園時代は周囲からはからかわれ、辛い思いをしたことが人格が歪んだ一つの理由とも推測されています。今よりも身障者に対する偏見の目が強い時代でした。

宮崎勤の小学生時代は?

宮崎勤は小学生時代に「怪獣」にのめり込んだと言われています。その結果、クラスでついたあだ名は怪獣博士でした。しかしあだ名でそう呼ばれていたわけで、クラスの核となる存在でも人気者でもありませんでした。

小学校の時は算数と英語が得意で、特に英語は宮崎勤の母親が「うちの子は英語が得意」と自慢するレベルであり、実際に成績もかなり良いものでした。反面、国語と社会は苦手だったと言われています。

宮崎勤の中学生時代は?

引き続き成績は上位をキープしながらも、手の障害を抱えながらも中学1年~2年時は陸上部に所属し、中学3年時は将棋部に所属。勝負事にこだわりがあるというか、かなり負けず嫌いの性格だったらしく、一度負けるた相手には必ず勝つまで勝利に執着する性格でした。

またこの頃に通信教育で空手を習い、空手の型を同級生に披露することもありました。少なくともこの時は手のハンデを抱えながらも、前向きな性格でした。しかし宮崎勤のピークはここまででした。

宮崎勤の高校はどこだったの?

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宮崎勤は1978年に明治大学付属中野高等学校へ進学します。なんと片道2時間もかかる高校であり、手の障害を気にしている宮崎勤の強い希望での進学だったそうです。

しかし両親は「英語教師になるために遠い高校を選んだ」と勘違いしたそうです。余談ですが明治大学付属中野高等学校の偏差値は70でありかなり高め。両親が勘違いするのも仕方ない部分も否めません。

宮崎勤は高校で落ちぶれだす

怪獣博士だったり部活動にせいを出したりと中学まではそれなりに活発だった宮崎勤ですが、高校時代の同級生は「暗く目立たない」と評しており、活発的だった部分はなりを潜めていました。

取り柄だった成績まで下落

またこの頃から成績が落ち始め、クラスでも下から数えたほうが早いレベルとなりました。負けず嫌いだった宮崎勤からすれば、悔しい思いをしたことでしょう。片道2時間という劣悪な環境も、宮崎勤が選んだ高校とは言え影響があったと考えられます。

宮崎勤の出身大学は?

宮崎勤は明治大学を進学希望でしたが、成績が不良であったため希望を果たせず、東京工芸大学短期大学部画像技術化に進学。短大生時代はパズルに熱中し、自作のパズルを専門誌に投稿したり、雑誌にパズル回答者として応募して名前が乗ったりと、宮崎勤なりに短大生活を謳歌していました。

同級生として俳優の川崎麻世さんがいらっしゃいますが、逮捕時のインタビューで「クラスの同級生は殆ど覚えているが覚えていない」と言われるほどに影が薄かったようです。ひたすらパズルをしている短大生時代だったのでしょうか。

宮崎勤の卒業後の迷走

熱中する時はとことん熱中するものの、高校以後は明るい青春時代とは言いづらい宮崎勤。短大卒業後の1983年に趣味を仕事にすることもなく、叔父の紹介で小平市で印刷機オペレーターとして勤務し始めます。

しかし勤務態度も勤務評価も恐ろしく悪かったようで、1986年に依頼退職という形で印刷機オペレーターを解雇。退職理由は神奈川への転勤を断ったことがきっかけでした。

退職後は新聞会社経営の実家に戻りますが、印刷会社を手伝うこともなく暫くは自宅に引きこもっていました。

宮崎勤が本格的にオタク趣味に進出?

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今までオタク傾向がある趣味に没頭することが多かった宮崎勤ですが、この時期にアニメの同人誌を発行します。しかし仲間と折り合いが悪く嫌われてしまったためこの一回だけで同人活動は終了しています。

次にハマったのはビデオ集め。ビデオサークルに加入し、会員が録画したアニメや特撮番組を複製するなどして交換し、ビデオテープを集め続けました。しかし宮崎勤は無理な注文が多かったらしく、やはりサークル仲間からは嫌われていたようです。

宮崎勤の性格は協調性がない

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大学卒業以降は以前の職場含めて仲間内からの評判が非情に悪く、宮崎勤の協調性のなさが目立ってきている状態になっています。

そして退職し引きこもりを始めてから2年経過した1988年、慕っていた祖父が亡くなったことがきっかけで、宮崎勤は凶行に身を染めることとなりました。

連続幼女誘拐殺人事件犯人の詳細

大学卒業からの就職を境に、一気に挫折を味わい引きこもり、趣味だけに没頭する生活となってしまった宮崎勤。しかしこの時はただの協調性がないだけで、一つのものに執着するオタク以外の何物でもありませんでした。

この項では宮崎勤が引き起こした幼女誘拐殺人事件についてまとめていきます。

埼玉県入間市の4歳の女児を殺害

宮崎勤の最初の犯行は1988年8月22日の暑い日。埼玉県入間市にある歩道橋にて「涼しい所に行かない?」と4歳の女の子(以降・Aちゃん)に声をかけ、車で東京都八王子市まで連れていきました。同市内の山林に連れ込んだところでAちゃんは泣き出したため、押し倒して絞殺。

翌日23日にビデオカメラを持ち込み、既に冷たくなったAちゃんに対してわいせつ行為を行い、その様子を撮影するなどの異常行動を取っています。

この時に警察は身代金目的の誘拐と踏んでAちゃんの自宅で待機していましたが、宮崎勤は金銭を求めることは無かったため証拠は掴めず。翌日から公開捜査が始まりましたが、遠く離れた八王子の山中で放置されたAちゃんの遺体は見つかりませんでした。

埼玉県飯能市の7歳の女児を殺害

Aちゃんの殺害から約2ヶ月後。宮崎勤は埼玉県飯能市で7歳の女の子(以降・Bちゃん)に声をかけ、同じような手口で誘拐。東京都八王子市の山林でBちゃんを殺害し、Aちゃんと同じようにわいせつ行為を行いました。

しかしBちゃんはこの時は瀕死ながらに僅かに息があったようで痙攣。それに驚いた宮崎勤はその場から慌てて逃げました。この帰り道で車が脱輪し、宮崎勤は通りがかりの車に救助を求めています。

結果的にこの救助依頼の時の「車種」「ナンバー」が宮崎勤の情報の手がかりとなり、後の立証に繋がっています。

埼玉県川越市の4歳の女児を殺害

Bちゃんの殺害から2ヶ月経過した1988年の12月9日午後4時半。埼玉県川越市にて4歳の女児(以降・Cちゃん)に声をかけ、車に乗せて誘拐。前回のことで懲りたのか場所を変え、埼玉県の名栗村(現・飯能市)の県立少年自然の家までCちゃんを連行します。

その場でCちゃんの衣装を剥いで写真撮影に興じますが、Cちゃんが泣き出したために山林で殺害。殺害後にCちゃんが失禁したため、宮崎勤はCちゃんをそのまま山林に投げ捨てました。

AちゃんBちゃんのことを顧みた埼玉県警は「幼女連続行方不明総合対策本部」を設置し、同一犯の犯行という見方を強めます。

幼女連続殺人・初めての遺体発見へ

AちゃんやBちゃんの遺体と違い、Cちゃんの遺体は事件後すぐに発見されます。12月13日に県立少年自然の家の職員からCちゃんの衣装が発見され、その2日後に警察へと通報。付近を捜査した所、Cちゃんの全裸の遺体が見つかりました。

宮崎勤の一連の犯行でこれが初めての遺体発見となり、幼女誘拐事件は幼女誘拐殺人事件へと姿を変えていくことになります。

遺体の返却と犯行声明文

Cちゃんの父親は「遺体だけでも戻って何より…」とメディアで語っている姿を見た宮崎勤は、何を思ったのか山林で放置していたAちゃんの遺体を回収。

1986年2月6日に頭を野焼きした上で骨片が入ったダンボールをAちゃんの自宅前に置き、同月10日に「今田勇子」名義で朝日新聞東京本社に犯行声明文を送付。同内容の手紙を11日にAちゃんの遺族宅にも送っています。

宮崎勤はBちゃんの遺族にも同様のことをしようとしましたが、遺体を発見できずに断念しています。

宮崎勤が名乗った今田勇子とは?

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この今田勇子という名前は捜査を撹乱するために使われたものだと言われています。不妊で子供が埋めない女性であることを示し、子供欲しさに犯行に及んだことを声明文でアピールしていたのです。

同年3月11日にAちゃんの葬儀があげられると、また宮崎勤は今田勇子名義で「Aちゃんの葬儀をして貰ってありがとうございます」という声明文を送り、遺族感情を逆なでしていきます。

東京都江東区の5歳の女児を殺害

Cちゃんの殺害から半年、最後の声明文から3ヶ月が経過した1989年6月6日。東京都江東区東雲に住む5歳の女の子(以降・Dちゃん)に「写真を撮ってあげる」と声をかけ誘拐。今回は遠くへ行くことはなく、近隣の駐車場に車を停めて、Dちゃんを殺害しました。

宮崎勤は殺害後に遺体を自宅に運び、Dちゃんの遺体に対してわいせつ行為を行い撮影。2日後の8日に遺体を切断し、更に2日後に埼玉県飯能市の宮沢湖霊園や五日市町の山林にバラバラに遺棄しています。

宮崎勤が女児の遺体を食べた!?

バラバラに遺棄されたDちゃんの遺体のうち、宮沢湖霊園に遺棄された首と両手足が切断された胴体は翌日に発見されています。しかし宮崎勤の逮捕後も腕が見つかることはありませんでした。

後に宮崎勤は腕を食べて血を飲んだと言っていますが、これは死刑を免れるために異常性をアピールしただけと言われており、虚偽の証言であると言われています。

この時、頭部は頭髪と歯を全て抜いたという。その間、女児Dの指に醤油をかけて食べたり、ビニールに溜まりに溜まった血を飲んだりなどした。

宮崎勤は犯行失敗で逮捕へ

Dちゃんの事件から約2ヶ月後の7月23日。東京都の八王子市で「写真を撮らせて欲しい」と幼い姉妹に声を掛けるものの、不審に思った姉は逃げるように帰宅して自宅に居た父に報告。父は連れ去った宮崎勤を尾行します。

連れ去った車の中で宮崎勤は妹を全裸にし撮影を試みますが、追いついた父親が宮崎勤の身柄を取り押さえ、通報によって警察が駆けつけ現行犯逮捕となりました。

逮捕後に宮崎勤はここまでおかしてきた殺人を自供し、これまでの幼女の誘拐殺人が発覚します。

宮崎勤の裁判の行方や動機

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常軌を逸脱した行動を取り続け、実に4人もの少女を殺害した宮崎勤。声明文を出したり遺体を被害社宅に送りつけたりと、挑発的な行動も目立っていました。この項では宮崎勤の裁判の行方や動機について触れていきます。

宮崎勤の動機は何だったの?

宮崎勤は裁判中でも要領を得ない供述を繰り返しており、死刑執行の今もはっきりしていないのが現実です。

Aちゃんの殺害事件では「よくわかんない」「急に子供の頃が懐かしくなった」と供述し、Bちゃんの殺害事件では「よく覚えていない」「一番印象がない」「何とも言えぬスリルがあった」と意味不明な供述を繰り返しています。

また「死んだ祖父を復活させるための儀式」とも供述しており、祖父の死が何かしらの影響があったのではとも言われていますが、最後まで宮崎勤の心理ははっきりしないままでした。精神異常者を最後まで装おうとしていたとも言われていますね。

宮崎勤のは小児性愛者だったの?

宮崎勤は小児性愛者や死体姓愛好者ではなく「成人を諦めて幼女を代替物とした」犯行であったという見方が今は強いです。しかし犯行を繰り返す中で性倒錯が変わっていったとの意見もあります。

逮捕から約18年で死刑確定へ

宮崎勤は要領を得ない証言や精神鑑定が長引き、逮捕は1989年であるものの初公判は8年後の1997年、裁判は最高裁まで争い、死刑が確定したのは事件から18年後の2006年の2月1日でした。

ここまでで少し触れましたが「遺体を食べた」などの証言は異常性を見せるための虚偽の発言であると言われており、ここまで裁判を長引かせた「精神鑑定」というものにも批判が集まる形となりました。

宮崎勤の獄中生活と最後の言葉

宮崎勤は死刑が確定した2006年以降は度々、日本の現行の死刑方法に対する批判を雑誌「創」の篠田博行編集長宛に投書を送っています。死刑そのものに対する批判ではなく、絞首刑についての批判が主だったもので、本人は薬物注射を望んでいました。

また宮崎勤は死刑が執行されるまでの間に、2000通もの手紙を知人に送っています。そして2008年6月17日、死刑確定から2年後、事件から20年後に死刑が執行。宮崎勤は冷静に執行を受け入れ、遺体の処置は母親により拘置所に任されました。

「この国の現行の死刑執行方法だと、死刑確定囚の人は、『私は刑執行時は死の恐怖とたたかわねばならなくなるから、反省や謝罪のことなど全く考えられなくなる』」

宮崎勤が描いた絵

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宮崎勤は獄中生活で絵を描いていて、そのいくつかが公開されています。

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NAVER まとめ

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NEVER まとめ

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独創性というか狂気を感じさせるようなタッチですね。最後に紹介しました「ネズミ人間」は宮崎勤が当初を送っていた月刊誌「創」の編集長のリクエストで描いたものでしたが、余りやる気がなかったと言われています。

ただ、メディアは盛り上がり、幼女がネズミ人間に襲われる再現ドラマを放送したりと一時期ブームを巻き起こしました。

宮崎勤の家族や関係者の末路

幼女を狙い続けた凶悪殺人犯である宮崎勤。逮捕後から死刑執行まで遺族への謝罪を口にすることはなく、動機もハッキリしないままに死刑執行となりました。

しかし宮崎勤の関係者は違います。凶悪殺人犯の親兄弟と言うだけでレッテルを貼られ、人間性や子育ての姿勢が疑われ、社会から猛パッシングを受けることになりました。

この項では宮崎勤の家族の末路についてまとめていきます。

宮崎勤の家族が非難を浴びる

注目度が高くマスコミも連夜騒ぎ立てた宮崎勤の一連の事件。宮崎勤の異常性や反省しない態度も、全てが世論に対して筒抜けでした。そしてその世論のの怒りを受けたのは獄中の宮崎勤ではなく、その血縁でした。

逮捕後、宮崎勤の自宅には「お前らも死ね」などの脅迫の手紙が多数届くことになり、社会的な圧力がかかり逃げるように自宅から引っ越しを余儀なくされます。また、家族だけではなく父方の親族や母方の親族にも同様の圧力がかかったそうです。

宮崎勤の父親は自殺

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宮崎勤の父親は宮崎勤から弁護士をつけるように要求されますが、拒否。この行動も結局、税金を使って宮崎勤に国選弁護士が付く形となり、これも批判の対象となりました。

そして逮捕から4年後に自宅を売却し、遺産を親族に分け与えた後に、東京都青梅市の多摩川にかかる神代橋から投身自殺をしてしまいます。父親は関係のない一族までバッシングを受ける苦悩をインタビューで語っていました。

仕事を失う宮崎勤の一族

父親が投身自殺をしたところで非難が止むはずもありませんでした。長女は会社を辞職し、次女は自ら婚約破棄。2人の兄弟も会社を辞職し、妻に名字を捨てさせるために離婚の道を辿りました。

更にに父親の弟は5つの会社で役員を務める大物でしたが、全て辞職。母親の兄の息子2人も会社を辞職し、一族全員が宮崎勤の犯した罪の爪痕に翻弄される形となっています。

宮崎勤が社会に与えた影響

宮崎勤が逮捕された時の家宅捜索で、自宅からアニメのビデオテープや漫画が発掘されたことから、メディアは連日のように宮崎勤を「おたく・ロリコン・ホラー愛好家」として報道したことから、オタクに対しての強い偏見が世間に生まれました。

この項では宮崎勤が世間に与えた影響について見ていきます。

宮崎勤の事件で様々なものが自粛へ

この事件の影響で創作物における性的描写の規制が強くなりました。世間の偏見の目の目を批判を恐れ、少年漫画での女性の乳首描写の規制もこの宮崎勤の事件がきっかけと言われています。一部では連載中止になったやや過激な人気漫画などもありました。

しかし宮崎勤は部屋にある6000本のテープのうち、見ているものは意外なほどに少なく、シリーズを集めるだけで満足していたとも言われています。また、話題性重視の偏向報道もあったようです。

この事件をきっかけに、年端もいかない小児に性衝動を覚えるペドフィリア嗜好の存在が広く知られることとなり、保護者が子供をめぐる性犯罪に対して強い恐怖感を抱くようになった。

マスコミは話題性のために偏向報道?

事件のほとほりがすっかり冷めた2005年に関係者からの暴露がありました。一点だけくり抜いて、世論が燃え上がるように民法は報道していたのです。

この時の報道は、部屋を撮影する時は成人向け雑誌を一般雑誌の一番上に乗せて撮影していて話題性を重視。ビデオなども6000本近くのうち、いかがわしいビデオや幼女趣味なビデオは併せて44本しか無いにもかかわらず、さぞ全てがそうであるように見せていたと関係者は訴えています。

今なお根強い、高年齢層におけるオタク文化への偏見は、この時の宮崎勤の偏向報道が理由であると言われいます。

今になって世間の疑問の声も多く

宮崎勤のことが話題になるたびに、世間でも当時のことが思い返されているようです。

宮崎勤の部屋がスクープ? 何度も入ったことのある友人が「なんであのビデオが写ってないんだ?」って言ってたらしいな

アニメビデオはたしかにあったけどそれ以上に部屋にあった普通の映画のビデオが写ってなかったとか 

最初に取材したのが今の県知事の黒岩達#ntv#平成ニッポンの瞬間映像30
— Yoshitaka Ohta (@yonbili) 2018年12月28日

宮崎勤を題材にしたドラマについて

宮崎勤が起したセンセーショナルなこの事件は今尚、ドキュメンタリーなどで取り上げられるたびに話題になります。またドラマ化もされていていますので、軽くですが紹介させて頂きます。

30年目の真実 ~東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件

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2017年10月にフジテレビで放送された土曜プレミアム枠のドラマです。宮崎勤を演じた坂本真さんの演技力の高さがネットでは話題になりました。また、宮崎勤の肉声がこのドラマでは公開されています。

いろいろな意味で忘れられてはいけない事件

この事件は宮崎勤の猟奇殺人に目が行きがちではありますが、全く関係のない関係者まで社会的に抹殺されてしまったことや、偏向報道によるバッシングも見逃せません。今で言う炎上に近いものですが、それよりも悪質です。

殺人を犯した宮崎勤が責められるのは当たり前ですが、宮崎勤と同じ趣味を持つ愛好家や家族どころか一族もろとも叩かれる流れは恐ろしいと言えます。昔から今の時代まで何も変わっていませんね。

宮崎勤の起した猟奇殺人ではなく、その裏で起こっていた悲劇も語り継いで、過去の教訓とし過剰な身辺叩きを繰り返さないようにしていきたいところです。

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