アンドレイ・チカチーロの虐殺事件まとめ【閲覧注意】息子も殺人鬼?

アンドレイ・チカチーロという、ロシアを震撼させた殺人鬼をご存知でしょうか?彼は52人の女子供を殺害した罪で処刑されています。また、チカチーロの息子であるユーリーもまた、殺人鬼として知られています。息子を含めたチカチーロの一生をご紹介いたします。

アンドレイ・チカチーロの虐殺事件まとめ【閲覧注意】息子も殺人鬼?のイメージ

目次

  1. 1ロシアの殺人鬼【アンドレイ・チカチーロ】が起こした事件とは
  2. 2ロシアの殺人鬼【アンドレイ・チカチーロ】の生い立ち
  3. 3ロシアの殺人鬼【アンドレイ・チカチーロ】のコンプレックス
  4. 4ロシアの殺人鬼【アンドレイ・チカチーロ】の大学受験と就職
  5. 5ロシアの殺人鬼【アンドレイ・チカチーロ】の結婚と転職
  6. 6ロシアの殺人鬼【アンドレイ・チカチーロ】の最初の被害者
  7. 7ロシアの殺人鬼【アンドレイ・チカチーロ】の逮捕
  8. 8ロシアの殺人鬼【アンドレイ・チカチーロ】事件のKGB介入捜査
  9. 9ロシアの殺人鬼【アンドレイ・チカチーロ】の再逮捕
  10. 10ロシアの殺人鬼【アンドレイ・チカチーロ】の裁判から処刑まで
  11. 11ロシアの殺人鬼【アンドレイ・チカチーロ】の関連人物である息子とは

ロシアの殺人鬼【アンドレイ・チカチーロ】が起こした事件とは

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※この記事には暴力的で猟奇的な内容が含まれています。閲覧の際は十分にご注意ください。


アンドレイ・チカチーロは、1978年から1990年のソ連(現在のロシア)において殺人を犯した事件の犯人で、1994年に逮捕されて裁判にかけられ、処刑された人物です。
別名ロシアの殺し屋赤い切り裂き魔ロシアの死神などと呼ばれています。

チカチーロといえば、逮捕後の写真が大変有名です。坊主頭で、斜め上を見上げて不気味な笑顔を浮かべていてる彼の写真を、一度は目にした方もいらっしゃるかもしれませんね。
ですが、初めての公判においての加害者チカチーロの写真は、ふさふさとした白髪交じりの髪に、穏やかそうな表情の男性で、とても残虐な事件を起こした犯人とは思えない容姿だったそうです。

そのような犯人が、なぜ被害者が50人以上にもなる事件を起こし、そして関連人物と見てよい息子までもが殺人事件を起こしたのか。
加害者チカチーロの生い立ちから被害者たちへの犯行、犯人逮捕から裁判とその後、そして関連人物である息子の犯行まで、詳しく紐解いていきたいと思います。

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ロシアの殺人鬼【アンドレイ・チカチーロ】の生い立ち

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加害者であるアンドレイ・チカチーロは、1936年にウクライナに生を受けました。先天性の脳障害を負っており、そのため排尿コントロールが不得意でした。
家庭は貧しく、チカチーロには妹がいたのですが、母親の話によると、チカチーロの上に兄がいたそうで、貧しさゆえに餓死してしまったそうです。幼いチカチーロは、母親からこの兄が餓死後に隣人に食べられてしまったという話をよく聞かされていました。

第二次世界大戦が始まると、加害者チカチーロの父親は徴兵され、母親と寝床を共にしました。先天性の脳障害による夜尿症のため、母親の布団に世界地図を描くたび、彼女にたいそう怒られ殴られていたそうです。
第二次世界大戦の煽りを受け、スターリン政権の支配下による大飢饉がおき、ウクライナ中で餓死者が増え、カニバリズム(食人)が横行したという報告がされました。
1941年にドイツ軍が進軍してきた折には、手足の吹き飛んだ遺体を見て、性的に興奮したと後に語っています。

戦後、ドイツ軍の捕虜となった父親は無事収容所から帰ってきましたが、「裏切り者」「生き恥を晒した」などと言われたそうです。

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ロシアの殺人鬼【アンドレイ・チカチーロ】のコンプレックス

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チカチーロは、勃起不全に悩まされ、性格も人付き合いの苦手な人物へと育ちました。自分の性器をいじる癖がついてしまい、その癖を同級生にからかわれたり、乳首が大きかったために「オカマ」といじめられたりしました。

この頃、パルチザン(ゲリラ)がドイツ兵を拷問する「若き赤軍兵士」という小説に夢中になっており、ドストエフスキーなどのロシア文学に傾倒するようにもなりました。マルクス、エンゲルス、レーニンなどの思想を同級生に演説したこともあるようです。
ドイツの兵士をいたぶる妄想をしながら、自慰行為に耽る少年時代を送りました。

チカチーロは、1954年に妹タチアーナの友人であるターニャという少女と出会います。彼女を一目で気に入ったチカチーロは、彼女を襲うのですが、射精はすれど勃起せず、そのことをターニャにバカにされ、後悔して大変落ち込みました。

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ロシアの殺人鬼【アンドレイ・チカチーロ】の大学受験と就職

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青年へと成長したチカチーロは、モスクワ大学の法学部を受験します。しかし、残念ながら不合格となっていまいますが、このことをチカチーロは「成績は申し分ないのに不合格だったのは、父親がドイツ軍の捕虜となったからだ!」と思い込んだそうです。

翌年専門学校に通って通信工学を学びます。通信技師として働きながら勉強し、通信制大学を卒業して教員資格を得ました。そしてノボシャフチンスクで教師になることを目指します。

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チカチーロ19歳のとき、妹と同名のタチアーナという少女と出会います。
チカチーロはタチアーナと性行為をしようと必死になりますが、相変わらず射精しても勃起はしません。三度目の性行為で勃起することに必死になりますが、その姿にタチアーナはチカチーロへの興味を失ってしまいました。

その後チカチーロは、2年間兵役を経験しました。陸軍において任務を果たした後に、電話工として働くことになりました。
妹のタチアーナはこの頃に結婚するのですが、チカチーロは日に何度も自慰行為をしていました。その自慰行為は仕事の合間でもしていたため、隠れてこっそりしていた自慰行為を同僚に見られ、からかわれることもあったそうです。

チカチーロが自慰行為をする際は、いつも嫌がる女性を弄ぶ妄想をしていました。

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ロシアの殺人鬼【アンドレイ・チカチーロ】の結婚と転職

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当時のソ連(現在のロシア)では、結婚は18歳頃からするのが一般的でしたが、チカチーロは27歳になっても独身でした。そのため、妹のタチアーナはいつも彼を心配していました。

そこで、美容室で知り合ったフェーニャという女性を兄に紹介します。ソ連では酒癖の悪い男性が多く、フェーニャの母親も酒癖の悪い夫に悩まされていたという経験がありました。なので、フェーニャは下戸であるチカチーロを気に入ったそうです。

そして二人は結婚に至り、心配していた性行為はどうにかなされ、1965年にリュドミラという娘が、1969年には関連人物である息子のユーリーが誕生しました。
その後にはソ連共産党へ入党し、青少年教育委員長や地方紙の記者をやったりして、社会的地位も盤石なものへとなっていきました。

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チカチーロは、教員になる夢を忘れられず、再び大学で学び教員資格を取得して小学校へと転職しました。
しかし、極度のあがり症のため適切に子供達を指導できずに上級生のクラスを崩壊させたりしたので、低学年のクラスを担当することになりました。その小学校においても、後に就職した職業訓練校ででも、何度かわいせつ事件を起こしています。

通勤途中に少女にわいせつな行為をしているところを同僚に目撃され、そのことを校長に報告されたので、こちらの小学校は辞めさせられてしまいました。
職業訓練校においても、授業中に自分の性器を触る癖を生徒に目撃されていまい、そのことや夜尿症のための異臭を生徒にからかわれ、馬鹿にされていました。

これ以降、チカチーロは、少年へ興味を持ち始めます。
寮で寝ている少年の部屋へ忍び込み、下着を脱がせて性器を口に含みながら自慰行為をしました。少年が目を覚ますとチカチーロは逃げたのですが、翌日全校生徒に知られてしまい、同僚にも馬鹿にされてしまいました。

また、散歩中のチカチーロを生徒が襲ったこともあったので、これ以降彼はジャックナイフを持ち歩くようになったそうです。そしてこのジャックナイフは、今後の犯行に使われることになります。

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ロシアの殺人鬼【アンドレイ・チカチーロ】の最初の被害者

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1978年、専門学校へと転勤になったチカチーロは、初めての殺人事件を起こします。

被害者はレーナという9歳の少女です。加害者であるチカチーロは、レーナを強姦しようとしましたが、相変わらず勃起はしませんでした。そしてレーナに抵抗されたため、首を絞めて体重をかけました。
動かなくなった被害者の少女を犯そうとすると、少女は驚くことに息を吹き返します。

慌てた加害者であるチカチーロは、被害者少女を殺してしまいます。これが記録上のチカチーロの初めての殺害です。
レーナの体を切り裂いたとき、チカチーロは興奮して射精したそうです。チカチーロは死体を切り裂いたりすると性的に興奮し、果てるということを知りました。

被害者レーナの殺害事件の犯人として、チカチーロではなく別の青年が逮捕されました。
前科のある青年で、彼は裁判においてレーナを殺害したと自供し、処刑されました。これを受けてか、チカチーロはその後の約3年間は鳴りを潜めていました。

1983年6月から9月の間に、チカチーロは4人を殺害しました。被害者は4人のうち3人が女子供でした。
1983年までに6人の遺体が発見され、性犯罪者かつ精神病患者として知られている若者が警察にマークされました。尋問において殺人を自供する者もおり、そのうちの一人は拘留中に自殺したそうです。

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ロシアの殺人鬼【アンドレイ・チカチーロ】の逮捕

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教職を解雇されてから、加害者であるチカチーロは「トルカチ」という技術職につきます。この職業は離職率が高く、多少問題のある人物であっても、相当なことがない限り解雇されることはない職業だそうです。

長期出張が多く、単独で自分の裁量で行う仕事のため、加害者チカチーロの犯行に拍車をかけました。男女問わず襲い、被害者には拷問を加え、両目を抉ったりなどをして殺害し、遺体の一部は食べたり持ち帰ったりしていました。
両目を抉る行為は、ロシアのことわざに「殺された者は、自分を殺した者をその瞳に焼き付ける」というものがあったからだと、チカチーロはその後に語っています。

1984年、チカチーロは少女らに話しかけるなどの不審な行動を取っていたことを警察に見られ、二週間ほど監視されていました。その後警察に同行を求められ、その際に鞄から包丁とロープが発見されたことにより、警察に拘束されました。
しかし、当時のソ連は24時間以上拘束することができない法律となっていたため、勤務先でリノリウムが紛失した事件の容疑者として再逮捕されました。

取調べにより、加害者であるチカチーロの素性が暴かれましたが、殺人の証拠としては不十分でした。しかし、バッテリー盗難事件に関与していることが明らかになり、裁判によって実刑判決を受けることとなりました。
ところが、1日あたり数日の懲役に当たるとされ、数ヶ月の拘留だったので裁判のあと数日で保釈されました。

結局窃盗事件は冤罪だったのですが、横領罪で告発され、解雇されてしまいます。また、加害者のチカチーロは、血液型と体液が一致しない体質だったため、殺人の立件はできませんでした。当時は血液型と体液は一致すると信じられていましたが、100万人に1人の確率で一致しない人物が存在することが現在の医学でわかっています。

また、当時の検査試薬では検出されないタイプの体質だったとされる説もあります。

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ロシアの殺人鬼【アンドレイ・チカチーロ】事件のKGB介入捜査

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1985年のチカチーロによる殺人をきっかけに、KGB(ソ連の国家保安委員会)が犯人逮捕のために動き出し、捜査に介入することになりました。
捜査網は広範囲に張り巡らされ、KGBだけでなく、陸軍まで犯人の捜索に協力しました。

また、これまでは公表されていなかった一連の殺人事件の詳細が一般にも公開されることとなり、チカチーロはこれを受けて1986年から1987年の間、殺人をしていませんでした。
それだけでなく、捜査の協力までしていたと言われています。

しかし、殺人衝動を抑えられなかったのかはわかりませんが、1988年には殺人を再開します。そして1990年11月6日、ついに最後の被害者の女性を殺害します。この被害者女性を殺害の後、加害者であるチカチーロは返り血を拭きもせず、被害者女性を殺害した現場付近をうろついていたところを警察に目撃されます。
もちろん警察はチカチーロをマークしましたが、チカチーロを殺人の加害者として逮捕するだけの証拠がなかったので、ひとまず彼を監視下に置くことにしました。

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ロシアの殺人鬼【アンドレイ・チカチーロ】の再逮捕

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11月20日になり、警察とKGBはチカチーロをこれ以上泳がせておけないと判断し、その日のうちにチカチーロを逮捕しました。この逮捕の瞬間は撮影されたので、テレビで放送されることもあるそうです。

逮捕されたチカチーロの取調べは、犠牲者の中に警察官の子供がいたことにより、報復を避けるためにKGBの拠点で行われました。
チカチーロの指に傷があり、本人は仕事でできた傷だと言いましたが、検察官は噛まれてできた傷だとしました。

警察はチカチーロに、「自白をすれば精神異常で起訴されることはない」と思わせ、チカチーロに自白させることに成功しました。殺人をしたという自白だけでは、逮捕されたチカチーロを殺人罪で起訴するだけの証拠として不十分だったのですが、チカチーロは自ら警察がまだ発見できていない遺体を自供したので、これが十分な証拠となりました。
これにより、50人以上の殺人が明らかになりましたが、裁判において立件できたのは52件だったそうです。

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ロシアの殺人鬼【アンドレイ・チカチーロ】の裁判から処刑まで

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ロシアにおいて、子供を強姦したり殺害したりした犯人は、刑務所内においてリンチを受けたり殺されたりするということがあり、刑務所でのチカチーロは独房へと入れられたそうです。
独房でのチカチーロの生活は、普通であったと言います。

チカチーロが拘留された後も、犯人チカチーロの取調べは続いたそうです。精神鑑定にて「責任能力あり」とされました。
1992年から犯人チカチーロの裁判が行われました。裁判の最中は性器を露出させたり、自慰を始めたりなど、精神に異常ありと思わせるような態度を取っていたそうです。最後に裁判が行われた日、チカチーロはついに裁判所を退場させられてしまいます。その際に妹を犯人チカチーロに殺害された少年が、鉄棒をチカチーロに投げつけるという事件がありました。鉄棒はチカチーロには当たらずに壁に刺さったそうですが、チカチーロは何の発言もしなかったとのことです。

1992年10月14日、犯人チカチーロは死刑を求刑されました。チカチーロはこの判決を不服とし、裁判所の判事に暴言を吐いたそうです。
上告をするのですが、犯人チカチーロは銃殺刑により、52歳でこの世を去りました。

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ロシアの殺人鬼【アンドレイ・チカチーロ】の関連人物である息子とは

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最後に、チカチーロの関連人物として、息子のユーリー・オドナチェヴァをご紹介いたします。
チカチーロの息子ユーリーは1969年に誕生しています。チカチーロが逮捕された際に、KGBの計らいにより、関連人物である息子を含めた家族はみな、姓を変えて新天地で暮らしていました
ですので、チカチーロと関連人物である息子の苗字は違っています。

関連人物であるチカチーロの息子は、2009年にウクライナ東部において、殺人罪で逮捕されました。息子ユーリーの知人男性をナイフで刺した犯人だったそうです。
他にも関連人物である息子のユーリーは、暴力事件を起こしたり、窃盗などもしていました。

関連人物である息子までもが殺人を犯したことをチカチーロが知ったとしたら、どのように思ったのでしょうか。

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この記事のライター
Neroli
まるでダメなオタクです。最近は子供と一緒にプリキュアにハマっています。

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