『ピューリッツァー賞』受賞写真集!ベトナム戦争を写した日本人写真家も。

ピューリッツァー賞って賞の名前を聞いた事がありますか? 優秀な報道、文学、作曲などに贈られる賞で 日本では、写真の受賞作品が紹介される事が多いです。 ここではピューリッツァー賞受賞作品の有名な写真や日本人受賞者等を調べて見たいと思います。

『ピューリッツァー賞』受賞写真集!ベトナム戦争を写した日本人写真家も。のイメージ

目次

  1. 1ピューリッツァー賞の成り立ちとジョセフ・ピューリッツァー
  2. 2ピューリッツァー賞は写真だけじゃ無かった!!文学や作曲も!!
  3. 3日本人初のピューリッツァー賞は?受賞作品といわく!!
  4. 4ベトナム戦争と日本人ジャーナリスト
  5. 5ピューリッツァー賞特集写真部門第1号受賞者となった日本人ジャーナリスト
  6. 6ピューリッツァー賞受賞写真『ハゲワシと少女』といわく
  7. 7ピューリッツァー賞文学部門
  8. 8ピューリッツァー賞と東日本大震災
  9. 9写真を通して見た東日本大震災
  10. 10東日本大震災はピューリッツァー賞に選ばれる要素はあったのか?
  11. 112011年のピューリッツァー賞受賞作品はハイチ大地震だった!!
  12. 12写真に見る戦争の二次被害
  13. 13撮影された写真がピューリッツァー賞を受賞した日本人ジャーナリスト
  14. 14写真を通して見た日本と文学
  15. 15日本の未来のピューリッツァー賞写真部門受賞候補
  16. 16『ピューリッツァー賞』受賞写真集!ベトナム戦争を写した日本人写真家も。のまとめ
  17. 17もっとピューリッツァー賞について知りたいあなたへ

ピューリッツァー賞の成り立ちとジョセフ・ピューリッツァー

出典: http://kurokiyorikage.doorblog.jp


ジョセフ・ピューリッツァー
アメリカのジャーナリスト、新聞社社長、実業家、元下院議員。
ピューリッツァー氏の遺志によりピューリッツァー賞が設立された。
ジャーナリストで新聞社社長、アメリカの下院議員も務めた実業家
『ジョセフ・ピューリッツァー』氏の遺言により設立された賞です。
出来た当初は、色々な部門があったみたいですが、
報道、文学、作曲の部門で優秀な媒体を表彰します。

ピューリッツァー賞は写真だけじゃ無かった!!文学や作曲も!!


ピューリッツァー賞は、一般の日本人にしたら、報道写真の賞だと思う人が多いと思いますが…
実は、文学や作曲にも賞が与えられます。


ピューリッツァー賞が出来たのが1917年。ロシア革命の年です。
日本では大正時代です。

ピューリッツァー賞の歴史は古いですが、写真部門が出来たのは実に25年後の1942年
第二次世界大戦、太平洋戦争真っ只中です。

報道写真家が危険も顧みず、戦地に向かいました。
戦地の写真は高く売れるからです。

戦場カメラマンと呼ばれる人達が現れたのもこの頃らしいです。
ロバート・キャパなどが有名です。

朝鮮戦争にも、かなりの戦場カメラマンが渡って行きました。

更に1968年には写真部門が特集写真部門とニュース速報に分かれています。

ベトナム戦争の頃ですね。
この頃に色々なベトナム戦争の写真がピューリッツァー賞を受賞しています。


報道以外では、詩やノンフィクション、小説等の文学、作曲等にも賞が贈られるので
アメリカでは、日本とは認識が違う様です。

今回は作曲の方は書かずに写真と文学に絞って書いて行こうと思います。

出典: http://getnews.jp


崩れ落ちる兵士
戦争カメラマンロバート・キャパのピューリッツァー賞受賞作品。
本名はフリードマン・エンドレ・エルネー。
ロバート・キャパは恋人のゲルダ・タローが付けたと言われている。
色んないわく付きの作品でもある。

日本人初のピューリッツァー賞は?受賞作品といわく!!

日本人初のピューリッツァー賞受賞は刺殺事件だった!?


社会党書記長浅沼稲次郎暗殺事件
学生服姿の男が、安保法案の演説会で社会党書記長浅沼稲次郎を刺す。
17歳の青年の犯行だった。
日本人初のピューリッツァー賞は、1961年の事で、ジャーナリストの長尾靖です。

1960年過激な右翼や左翼、過激派や学生運動も始まりの頃になりますか…
日米安保条約は今でも色々ありますが、1960年代~1970年代は色々な事件がありました。

中でも人が多勢入ってる党首演説会での暗殺事件はショッキングでした。

写真は世界中に衝撃を与えました。

浅沼稲次郎社会党書記長を公衆の面前で顔出しで刺したなら刺殺事件の方がしっくり来そうですね。

実行犯とその結末

出典: http://webronza.asahi.com


社会党書記長浅沼稲次郎暗殺事件実行犯山口二矢(おとや)
浅沼稲次郎暗殺後、拘置中に自殺。
享年17歳。
右翼団体に身を投じていた17歳の子供が学生服姿で社会党書記長浅沼稲次郎を刺殺する…
それは相当の覚悟だったと思います。

長尾靖の撮影成功は、それこそ奇跡でした。

長尾氏はいい写真を撮ろうと人混みをかき分け前列で12枚撮りのフィルムを
セットし、色々なショットを11枚撮って、演説を聞いていたその時!!

浅沼稲次郎が刺されたのです。

他の記者は距離を取って撮影していたので、前列にいた長尾氏が撮影する事が出来たと言うわけです。

浅沼稲次郎氏は病院搬送中に死亡。

実行犯の山口二矢(おとや)は拘置中に歯磨き粉で

『天皇陛下万歳!!』

と書き残し自殺しています。

ベトナム戦争と日本人ジャーナリスト


ベトナム戦争は、1955年11月1日~1975年4月30日まで続いた戦争です。

この間に戦場カメラマンがベトナムに渡りました。

この中に日本人も多勢いました。

ベトナム戦争で命を落としたカメラマンも多いです。

そんな中で日本人がピューリッツァー賞を受賞しています。

沢田教一とその作品

出典: http://pin.it


沢田教一
ベトナム戦争やカンボジア内戦で活躍した戦場カメラマン。
安全への逃避でピューリッツァー賞受賞。
カンボジア内戦で銃弾に倒れる。
沢田教一氏は、戦争カメラマンでベトナム戦争やカンボジア内戦で活躍しました。
代表作
『安全への逃避』でピューリッツァー賞を受賞。
日本人2人目の快挙でした。
ピューリッツァー賞受賞後も戦地や紛争地に奔走。
カンボジア内戦で銃弾に倒れました。


安全への逃避
沢田教一氏のピューリッツァー賞受賞作品。
爆撃弾降り注ぐ川を子供達を守りながら逃げる親子の姿。
ベトナム北部で撮影。

ピューリッツァー賞特集写真部門第1号受賞者となった日本人ジャーナリスト

出典: https://showa-g.org


酒井淑夫
戦場カメラマン。第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)に志願してカメラマンとして活躍。
酒井淑夫氏は、自ら志願して、当時第二次インドシナ戦争と言われていたベトナム戦争のカメラマンとしてベトナムホーチミン市に赴きます。
第二次インドシナ戦争を駆け回り、1967年
写真集『より良きころの夢』
を出版し、1968年写真部門から分かれた特集写真部門の第1号受賞者となります。
世界初の快挙でした。
中の代表作の『静かな雨静かな時』
は特に休息する戦士の様子を写し出した傑作と言う評価を受けています。


静かな雨静かな時
酒井淑夫氏の代表作と言われている作品。雨の中静かに身体を休めている。
こんな時しか休めない兵士…
ほの悲しさも感じる作品。

ピューリッツァー賞受賞写真『ハゲワシと少女』といわく

ケビン・カーターとその作品

出典: http://pin.it


ケビン・カーター
南アフリカ共和国のヨハネスブルグの白人地区出身の写真家『ハゲワシと少女』でピューリッツァー賞受賞。
1960年南アフリカのアパルトヘイトの時代にイギリスから移住して来た父母との間に産まれます。
1976年カトリック系の寄宿学校を卒業後薬剤師を目指しますが挫折。
南アフリカ防衛隊に入隊。
食堂で働く黒人の扱いに同僚と喧嘩して1980年防衛隊を除隊。
ラジオDJになりましたが、鬱を発症し、服薬自殺をはかりますが一命を取り留めます。

1983年もう1度軍に戻ったカーターは反アパルトヘイト団体の爆破事故に巻き込まれます。

それをきっかけに軍を再び辞めジャーナリストの道へ歩み出します。
色んな新聞社を渡り歩き1990年反アパルトヘイト系のウィークリーメールの記者となります。

『ハゲワシと少女』の栄光と批判

出典: http://photo.kaza.jp


ハゲワシと少女
ケビン・カーターのピューリッツァー賞受賞作品。
この写真を巡っての栄光と挫折が待っていた。
ウイークリーメールでは
グレーク・マリノヴィッチ
ケン・オーステルプルーク
ジョン・シルバ
と組んで仕事をしていました。

1993年2月、カーターは、ウイークリーメールから休暇を貰い、シルバと共に1983年から続く内戦と干ばつと子供達の飢餓が深刻なスーダンに渡ります。


そこで運命の出会いがありました。

それがうずくまる少女とそれをじっと見ているハゲワシでした。

同行したシルバによると、カーターはそれを撮影した後
ハゲワシを追い払い、少女はそれを見てフラフラと立ち上がり、国連の食料緇衣センターに行ったそうです。

写真は、世界中にショッキングに伝えられ、
1994年ピューリッツァー賞を受賞します。

『ハゲワシと少女』への批判と最悪の結末


ピューリッツァー賞は時に辛辣な批判に晒される事もあります。

カーターはこの写真を撮った時に、すさんだ感じでたばこを吹かしてしばらく泣き続けたと同行したシルバは言ってます。

助けたくなかったわけではなかったのです。

でも『ハゲワシと少女』は大バッシングを浴びる事となりました。
1993年…ニューヨーク・タイムス掲載時は読者からたくさんの批判の投書が来ています。

1994年5月、ピューリッツァー賞受賞式。
カーターは希望に燃えて、自信を持って受賞式に出ました。

ピューリッツァー賞でもかなりの批判を浴びます。
『ハゲワシと少女』ほど批判の的になった作品も無かったのではと思います。

出典: http://www.gekiyaku.com


ケビン・カーター
『ハゲワシと少女』はカーターに何を与えたのだろうか?
ピューリッツァー賞受賞から2ヶ月後排ガス自殺。
享年33歳。
カーターは念願のフリーになり、ロイターと契約、有名な写真エージェントとも契約。
批判だけじゃなく喝采も浴びる。『ハゲワシと少女』はカーターに名誉も与えたのです。
多分授賞式が彼の最も輝いた最後の瞬間だったと思います。

批判と喝采の中…仲間のオーステルブルークが殉職、マリノヴィッチが大怪我で重傷。

カーターは麻薬にのめり込みます。そして取材の飛行機に乗り遅れる、フィルムを
忘れる等の失態が続きクライアントに迷惑をかけ失望させてしまいました。
そして鬱病の再発…

1994年7月28日車に排ガスを引き込んで自殺。
享年33歳。

ピューリッツァー賞に翻弄された晩年だったように思います。
『ハゲワシと少女』は彼に一体何を与えたのだろうか?
 

ピューリッツァー賞文学部門


ピューリッツァー賞文学作品部門に日本人の受賞はいません。
アメリカの媒体で書くのが条件になってるので。
日本人にも、翻訳した秀作はある筈なんですが、どうしてもアメリカ人が受賞する事が多いようです。
ピューリッツァー賞の文学作品部門はフィクション作品部門とノンフィクション作品部門に分かれています。
ピューリッツァー賞作家で、日本をテーマに書いているノンフィクション作家がいます。

ジョン・トーランドとその作品

出典: http://blog.livedoor.jp


ジョン・トーランド
第二次世界大戦関連の著者が多く、日本を題材にした大日本帝国の興亡で ピューリッツァー賞を受賞する。 ノンフィクション作家。哲学者。 妻は日本人。


大日本帝国の興亡
5巻からなるトーランドの著書。 ピューリッツァー賞ノンフィクション作品部門を受賞。
大日本帝国の興亡は5巻からなるノンフィクション作品で
1.暁のZ作戦
2.昇る太陽
3.死の島々
4.神風吹かず
5.平和への道
の5冊が毎日新聞社から1971年にハヤカワ文庫NFから1984年、新装版が2015年に出ています。
1971年にピューリッツァー賞一般ノンフィクション作品部門をこの作品で受賞しています。
日本擁護の部分があると批判は受けましたが、概ねアメリカでも受け入れられ、
日本でも翻訳されて今でも読まれているノンフィクション作品です。

ジョン・トーランドのその他の作品


ジョン・トーランドは、日本を取材し、日本の太平洋戦争に関するノンフィクションの文学作品を書いています。
トーランド氏は、アドルフ・ヒトラーの我が闘争の英訳も手がけています。
第二次世界大戦についてのノンフィクションが文学として認められたのが
大日本帝国の興亡なのではないでしょうか。


真珠湾攻撃
ジョン・トーランドが真珠湾攻撃について書いたノンフィクション文学


占領
日本の敗戦後のGHQやマッカーサー元帥等の戦犯裁判等を書いたノンフィクション文学

ピューリッツァー賞と東日本大震災


千葉も相当な被害だったのは感じて欲しい。


東日本大震災1
津波で車や家が流されて来ます。
車移動はマジで駄目だったらしいです。
渋滞で流された人が多かったって聞きました。


東日本大震災2
当時通ってた小学校の屋上が避難場所になってて、屋上から
こんな光景が見えたそうです。
地獄絵図って言葉を意識したって友人が申しておりました。

東日本大震災はピューリッツァー賞受賞せず


東日本大震災関連の画像や映像はピューリッツァー賞を受賞していません。
無論書籍類もです。
でもそれでいいんだと思います。
1作品が次点になってますが、ピューリッツァー賞を取っても嬉しいもんじゃ無いし、見世物でもないのです。
ただこの事を忘れてはいけないそう思ってます。

写真を通して見た東日本大震災


東日本大震災3
津波の満ち干きの狭間で出来た渦。
実際避難した友人に聞いたが、わけがわからないまま来たみたいである。
関東に引っ越しててよかったねって本気で言われて何と言っていいか…
(被災地区出身だと書きづらい結構)


東日本大震災4
あっという間に津波が来て逃げるのも命懸けだったみたいです。
津波ってこんなすごいとは…
当時、友人に泣きながら電話をかけまくった事は一生忘れない。


津波の脅威に、なす術もなく、日本人はのまれていきました…
東日本大震災は、私の故郷に与えた打撃は相当なものだったのです。
幼馴染みや幼稚園~中学時代の友人ものみこまれていきました…


東日本大震災の事を考えると胸が痛いです。
よく遊んだ海もよく遊んだ仙台空港周辺…
私に出来た事は、募金をする事と物資を送る手伝いをするだけでした。
この題材を選んだのは、東日本大震災の自分を意見も書きたかったって事があります。
写真は語ります。
写真はどの場面も声なき声を語ります。
今はYouTube等で映像も個人で撮れますが、写真には悲しみや祈りが切り取られていると思います。

東日本大震災はピューリッツァー賞に選ばれる要素はあったのか?


絶叫する少女
AP通信のマスード・ホセイニ氏がアブ・ファズル・モスクの自爆テロの現場で撮した写真。2012年ピューリッツァー賞受賞


「緑の服の少女」はタラネハ・アクバリさん(「メロディ、旋律」という意味の名前だそうだ)。 「やっと立ち上がってみると、周りの人たちはみんな地面に倒れていて、血まみれでした。とてもこわかったです」と彼女は語っている。AFPが報道しているが、彼女は今でもあの日のことを夢に見てうなされる。あの日、血に濡れたあの緑色の服はもう着ていない。 あの日、カブールのAbul Fazel Shrineで起きた自爆攻撃によって、70人以上が殺された。(※ノルウェーのオスロ爆弾・ウトヤ島銃撃事件の犠牲者数が、最終確定で77人です。ピュリッツァー賞発表と同じ日に始まったブレイヴィク被告の裁判で示されている数値が77人。) この写真を撮影したホセイニさんはイランで育ったが(※アフガニスタンからは、難民としてイランに移った人が多くいる)、アフガニスタンでの戦争を撮影するためにアフガニスタンに戻った。 「自分ではもうあの写真を見ることはありません。見ると動悸がして、あの日の感覚がよみがえるからです。この写真を見れば撮影者のことを思うでしょうが、どうか、アフガニスタンの人々が日々の生活の中でさらされる苦難について、忘れずにいていただきたいと思います」


これはピューリッツァー賞納得だな…

2011年のピューリッツァー賞受賞作品はハイチ大地震だった!!


2012年のピューリッツァー賞受賞作品は、絶叫する少女だったが、2011年はどうだったか…
前年に発生したハイチ大地震の写真作品が受賞していました。
多分…
2年連続地震の作品を選ぶのは流石に無かったのではと思います。
ただし、2011年に起こった東日本大震災との比較は頻繁に行われています。

どちらも人の命の問題です。
較べるべくも無く命なのです。

報道の自由ってありますが、命の重さは平等だと思います。

較べようがない話です。


ハイチ大地震の絶望と深い悲しみ
2011年ピューリッツァー賞受賞作品。2010年に発生。 2011年に東日本大震災が発生した。


上の写真と比較された東日本大震災の写真
瓦礫の中で座り込む少女。
隣に血塗れの腕があるのが悲惨さを物語っている。

写真に見る戦争の二次被害


イラクから帰国した退役兵がPTSDで苦闘
イラク戦争の悲惨さが垣間見える写真。 PTSD(心的外傷後ストレス障害)を起こすほど悲惨な現場だったんだと思える作品。 2012年ピューリッツァー賞特集写真部門受賞。
上の写真は、イラク戦争に従軍して退役した元兵士がPDSD(心的外傷後ストレス障害)と苦闘している姿です。
戦争はそんな二次被害を出します。
多分、太平洋戦争から帰還した日本人にもPTSDがあったと思ってます。
イラク戦争が原因で自殺した退役兵はかなりいるようです。
そう言う内面も切り取れるのが写真かなって思います。

撮影された写真がピューリッツァー賞を受賞した日本人ジャーナリスト

残酷だが残していきたい写真を撮影した男


アドリース・ラティーフ
ロイター通信記者。 2008年ピューリッツァー賞写真賞ニュース速報部門受賞。 ミャンマー・サイゴンで銃殺され殉職した長井健司氏の写真を撮影。


ミャンマーで射殺された長井健司
アドリース・ラディーフが撮影した写真。 日本人ジャーナリスト長井健司氏がミャンマーのヤンゴンで兵士により射殺。 撮影していたビデオにに映ってはいけない映像が映っていたとも言われている。

長井健司のビデオカメラは何を写したのか?写真の謎?


日本人ジャーナリスト長井健司氏がミャンマーのヤンゴンで近距離から射殺されました。
死んでもビデオカメラを離さなかったと言われていますが、ミャンマー軍事政府が遺品を返還せず。
ミャンマーのトップシークレットが撮影されてたと言われていますが、何が映っていたのかは謎です。

ラティーフ氏は、長井氏射殺の瞬間を写真に収め、2008年ピューリッツァー賞写真賞ニュース速報部門を受賞しました。

数年後一部の遺品が返還されましたがメモは、破られている箇所があり、隠蔽工作をしたと言われています。

民主主義を手に入れたミャンマー…
是非長井氏の真実を調べて欲しいものです。

写真を通して見た日本と文学

出典: http://karapaia.com


アーネスト・ヘミングウェイ
1953年に『老人と海』でピューリッツァー賞フィクション作品部門(当時は小説部門)
を受賞。
この作品は日本でも、中学生等の読書感想文の題材にしたりと日本でも読み継がれている。


『老人と海』新潮文庫版
『老人と海』は色々な日本の出版社で、ハードカバーから文庫本まで出版されている。 日本でもヘミングウェイ氏は人気作家である。

日本でも『老人と海』のオマージュのノンフィクション映像作品があった


与那国島でカジキ漁を生業とする老人の様子をドキュメントした映画。
ヘミングウェイの老人と海に似ているが、本当の海人のノンフィクション作品。
外国も日本も伝統の漁のやり方は変わらない。

日本の未来のピューリッツァー賞写真部門受賞候補

出典: http://meigen.keiziban-jp.com


渡部陽一
バラエティー番組に出てる印象があるがれっきとした戦場を駆け抜けるジャーナリスト。戦場写真や戦場の子供達の写真集を出版している。
渡部陽一の作品を見ると、戦地でも必死で生きている子供達の表情が印象的で…
バラエティーの渡部陽一とは違う真剣に写真と向き合う姿勢が感じられます。
バラエティー面だけじゃなくてジャーナリスト面も注目してみて下さい

『ピューリッツァー賞』受賞写真集!ベトナム戦争を写した日本人写真家も。のまとめ


ピューリッツァー賞は、人間の見せたくない部分や、喜怒哀楽を切り取り続ける鏡である、写真や文学等に贈られるアメリカのマスコミの最高峰の賞です。

ですが、戦場や内情不安国に行く写真部門は、巻き込まれて死んだり、自死を選んだり、常に死と向き合わねばなりません。

でも戦場や内情不安国の様子を伝えてくれるのも、ジャーナリストなんだと思うと頭が下がります。

渡部陽一が本当に次代のピューリッツァー賞候補になれるかはわからないけど、今後の各部門の今後も見ていきたいと思います。

文学等でも日本人の小説等が受賞してもいいと思うのだけど…
村上春樹とかは世界で翻訳されてるのだし。

災害も世界に伝えて欲しいし、福島の農産物は、全て検査してるので1番安全かも知れませんよ。

そんな様子も写真で切り取って下さい。

そう思います。

ベトナム戦争や内戦で亡くなったり、PTSD(心的外傷後ストレス障害)や鬱病を抱えて亡くなったジャーナリスト達にある人の言葉を捧げます。
 

ジャーナリスト達へ


ジャーナリストは強がらなくちゃ出来ないのかもね。


真実が最高の写真なんだ。 それは最高のプロパガンダである。


ロバート・キャパの名言を捧げます。

もっとピューリッツァー賞について知りたいあなたへ

【残酷】ベトナム戦争写真集。ピューリッツァー賞から沢田教一の作品画像まで | xtreeem[エクストリーム]

関連するまとめ

編集部
この記事のライター
Cherish編集部

人気の記事

人気のあるまとめランキング

新着一覧

最近公開されたまとめ