2021年09月24日公開
2021年09月24日更新
世界7位の大富豪だった麻薬王パブロ・エスコバルが「英雄」と呼ばれる理由
皆さんはかつて世界7位の大富豪となった麻薬王パブロ・エスコバルのことをご存知でしょうか?今回は10代から犯罪に手を染め犯罪組織メデジン・カルテルを作り麻薬王となったパブロ・エスコバルの生涯や名言、英雄と呼ばれた理由、メデジン・カルテルについてご紹介します!
目次
大富豪となった麻薬王パブロ・エスコバルという男
パブロ・エスコバル
逮捕時の写真、これから刑務所に入るのにこの笑顔
皆さんは1989年アメリカの経済雑誌「フォーブス」で世界7位の大富豪となった麻薬王パブロ・エスコバルをご存知でしょうか?
パブロ・エスコバルは10代から犯罪に手を染め、自ら麻薬犯罪組織メデジン・カルテルを作り上げ巨万の富を築いて大富豪となりました。
今回は「エスコバル 楽園の掟」などの映画の題材にもなっている麻薬王パブロ・エスコバルの生涯や名言、英雄と呼ばれた理由などについてご紹介したいと思います!
麻薬王パブロ・エスコバルとメデジン・カルテル
メデジン
麻薬王パブロ・エスコバルは、コロンビアの第二の都市メデジンで生まれ育ちました。パブロ・エスコバルは父親が畜産業を営み母親が教師をしていたため、暮らしには困らないような生活をしており、パブロ・エスコバル自身も利発で家族思いの少年だったと言います
しかし、パブロ・エスコバルは10代の頃墓地にあった墓石を窃盗し、墓石に刻まれていた名前を消して転売したことから犯罪に目覚めてしまいます。高校を中退したパブロ・エスコバルは一気に、自動車の窃盗、強盗や誘拐、更には殺人罪まで犯し、やがてコカインの売買が大きな利益を生むことを知り麻薬犯罪組織「メデジン・カルテル」を立ち上げました。
パブロ・エスコバルはメデジン・カルテルを拡大し政府と対立
麻薬犯罪組織「メデジン・カルテル」はパブロ・エスコバルが1970年代に作った組織でしたが、1980年代には販売ルートをコロンビア国外に拡大しはじめます。メデジン・カルテルは質のいいコカインをペルーやボリビアなどから密輸しメキシコやプエルトリコへ販売、そこから更にルートを拡大して南北のアメリカ大陸の他一部のアジアなどにもコカインを販売するようになりました。これによりパブロ・エスコバルはコロンビア政府やアメリカ政府と対立するようになります。
大富豪となり麻薬王と呼ばれたパブロ・エスコバル
最盛期のパブロ・エスコバルはアメリカに密輸されるコカインの約84~90%、世界で見ても80%ものコカインを供給していたと言われています。パブロ・エスコバルが得ていたコカインの利益は1日約60億、1年で2兆2000億にも上ります。
そのため、札束を束ねるための輪ゴム代だけで月に約10万円もかかっていたそうです。このお金は倉庫や地中に埋めて隠されていたため、毎月利益の10%(年間約2200億)近くがねずみに齧られたり、水の影響を受けて使えなくなっていたそうです。
娘のために2億円を燃やした麻薬王パブロ・エスコバル
フォーブス
パブロ・エスコバルは世界7位の大富豪となりました
またパブロ・エスコバルの名言・伝説として残っているもので、寒いと言う自分の娘のために2億円分の札束を燃やして暖を取っていたという話もあります。そして1989年にフォーブスに掲載されたことにより麻薬王パブロ・エスコバルは世界7位の大富豪として世界中に名前が知られるようになりました。
麻薬王パブロ・エスコバルの英雄としての一面
私設軍隊
※画像はイメージです
私設軍隊を作れるほど大富豪として巨万の富を得ていた一方で、コロンビア政府やアメリカ政府、敵対麻薬組織「カリ・カルテル」など多くの人を敵に回し、カリ・カルテルや政府関係者などを含めて約3500人を殺害(その内の500人はコロンビアの都市メデジンの警官と言われています)している麻薬王パブロ・エスコバルですが、意外な一面も持ち合わせていました。それが慈善事業への取り組みです。
麻薬王パブロ・エスコバルは慈善事業に熱心だったことでも有名で、貧困層のために住宅を建てたり、サッカースタジアムを建設してサッカークラブのオーナーとしてコロンビアのサッカー文化の発展に貢献したり、動物園をオープンさせたりと、幅広く活躍していました。
地元で根強い人気を誇る麻薬王パブロ・エスコバル
麻薬王パブロ・エスコバルのシールブック
名言なども載っているのでしょうか・・・かっこいいシールブックです
そのため、貧困層を中心としたメデジンの一部の市民には麻薬王パブロ・エスコバルは英雄として扱われていました。現在でもメデジンの市街地にはパブロ・エスコバルの写真を至るところで見ることができます。また、2012年にも麻薬王パブロ・エスコバルを題材にしたシールブックが発売され子供たちの間で大ヒットしているというニュースもありパブロ・エスコバルの人気は健在のようです。
激化する麻薬王パブロ・エスコバルvs政府
1980年も後半になると、アメリカ政府は国内へのコカインの流入に頭を悩ませるようになり、コロンビア政府と「麻薬王パブロ・エスコバルの引き渡し及びアメリカ国内での裁判」を条件として協定を結びました。パブロ・エスコバルはこの協定に対して激しく抵抗します。
パブロ・エスコバルは「plata o plomo(銀か鉛か)」という名言を残しています
麻薬王パブロ・エスコバルは協定に抵抗するため、政府関係者への賄賂などを活発化させた一方でパブロ・エスコバルに抵抗する者に対しては暗殺やテロ行為で報復しました。パブロ・エスコバルは政府関係者へ賄賂を提供する際に「plata o plomo」という名言を残したと言われています。この「plata o plomo」という名言は直訳すると「銀か鉛か」、つまり意訳すると「お金か銃の弾か選べ」という脅し文句になります。
メデジン・カルテルvsカリ・カルテルの抗争も激化
また麻薬王パブロ・エスコバルはその他にも大統領候補の暗殺や航空機やビルの爆破などのテロ行為を行い、その頃メデジン・カルテルとカリ・カルテルの抗争も激化していたことから、当時のメデジンは無政府状態だったと言います。
刑務所へ収容された麻薬王パブロ・エスコバル
パブロ・エスコバルが入っていた刑務所
やがて政府との抗争やメデジン・カルテルvsカリ・カルテルの抗争に疲れてしまったパブロ・エスコバルは1991年に5年の服役とアメリカへの引き渡しをしないという条件でコロンビア政府と合意を取り付け刑務所へ収容されました。
刑務所の見張りはメデジン・カルテル
パブロ・エスコバルの居室
しかしこの刑務所は元々麻薬王パブロ・エスコバルの寄付金で建てられた刑務所であり、「ホテル・エスコバル」と呼ばれるほど麻薬王パブロ・エスコバル個人のための豪華な設備が整っていました。
また刑務所の見張りは手下であるメデジン・カルテルが行っていたため市内への買い物なども自由にできたそうです。
舞い戻った麻薬王パブロ・エスコバル
刑務所内で快適な生活を送っていたパブロ・エスコバルでしたが、1992年に刑務所内2件の殺人事件を起こし(被害者の内の一人はパブロ・エスコバルの幼馴染だった)、事件が表面化したことによって世間が騒ぎ立て、別の刑務所へと移管されることになりました。そして移管の当日、麻薬王パブロ・エスコバルは刑務所を出てそのまま市内へと行方をくらませました。
大打撃を受けるメデジン・カルテル
メデジン市街地
脱獄したパブロ・エスコバルは市内へと潜伏しましたが、コロンビア政府やアメリカ政府、カリ・カルテル以外にも麻薬王パブロ・エスコバルを狙う組織が存在しました。それが闇の組織「Los Pepes(パブロ・エスコバルに虐待された人々)」です。
この「Los Pepes」はパブロ・エスコバルの家族やメデジン・カルテルのメンバーを300人以上殺害しメデジン・カルテルに大きなダメージを与えました。
後にこの「Los Pepes」はカリ・カルテルによって組織されたグループだということが明らかになり当時の人々に衝撃を与えたそうです。しかしこの組織に関しては不明な点も多く現在でも謎に包まれた部分が存在しています。
麻薬王パブロ・エスコバルの殺害とその後のメデジン・カルテル
警察部隊とパブロ・エスコバルの死体
その後コロンビア政府に居場所を特定されたパブロ・エスコバルは屋根の上でコロンビア警察部隊から射殺されました。しかしパブロ・エスコバルの信者の中には自殺したと信じる者や未だに生きていると信じている人などもおり、パブロ・エスコバルの死後も英雄と讃えている信者が多く存在しているそうです。
メデジン・カルテルも消滅
パブロ・エスコバルの死後メデジン・カルテルも分断され主要メンバーも殺害か逮捕されているのですが、生き残ったメンバーは現在でも麻薬界で活躍しているそうです。また、メデジンカルテル同様カリ・カルテルも現在は消滅しているようです。
麻薬王パブロ・エスコバルとメデジン・カルテルまとめ
パブロ・エスコバル
麻薬王パブロ・エスコバルについて調べてみたところ、犯罪組織メデジン・カルテルを作り上げ、麻薬王として世界7位の富を築き上げ、様々な慈善事業に取り組み名言や伝説を作り一部の貧困層から英雄扱いされていると同時に、コカインを大量に密輸し3500人もの人間を殺害させた凶悪犯であることが分かりました。
多くの人の恨みを買い殺害されたパブロ・エスコバルですが、地元では現在でも英雄として讃えられているそうです。