戦国時代の忍者食「兵糧丸」の味とは?

マンガや映画などの忍者が登場する作品に出てくることの多い戦国時代の忍者食「兵糧丸」。丸い形をした兵糧丸は一般的においしくなさそうなイメージを抱く方もいらっしゃると思います。いったい兵糧丸はどういう味なのでしょうか、そしてどういうものなのでしょうか。

戦国時代の忍者食「兵糧丸」の味とは?のイメージ

目次

  1. 1兵糧丸とは?
  2. 2兵糧丸の作り方
  3. 3兵糧丸の味
  4. 4忍者の食事としての兵糧丸
  5. 5武将・兵士の食事としての兵糧丸
  6. 6三国志の時代に兵糧丸が存在した?
  7. 7兵糧丸は日本のパンの起源?
  8. 8兵糧丸に関連する忍者食
  9. 9お店で売られている兵糧丸
  10. 10兵糧丸・まとめ

兵糧丸とは?

出典: https://ameblo.jp

兵糧丸は忍者食で一般的には画像のような濃い茶色をした丸い形のものをイメージされるかと思います。

兵糧丸は戦国時代に食べられていた球状の携帯食です。

忍者を扱った作品で見ることができ、忍者食というイメージがありますが、武将や兵士も食べていた戦場の食事である陣中食でもあります。

米や餅、きな粉、そば粉、ごまなどに水や蜂蜜などを混ぜたものを丸めて球状にして作ります。

兵糧丸は1個1個が丸いので、携帯性に優れます。

そして様々な栄養素が含まれていて、カロリーを取ることができます。

また、滋養や疲労回復、ストレス軽減などにも効果があったとされます。

そのため携行食や陣中食だけでなく、緊急時の非常食として用いられていたものと思われます。

兵糧丸は現在で言うところの栄養補助食品、健康管理食品でしょう。

兵糧丸の作り方

兵糧丸の作り方は様々なものが存在し、中には秘伝の製法とされているのもあるようです。

一般的には米や餅、きな粉、そば粉などに水、蜂蜜などを混ぜて丸めます。

そしてその丸めたものを蒸したり、また干したりします。

そうして兵糧丸は完成します。
 

兵糧丸は材料を混ぜてお団子を作るイメージです。

この他にも、かつお節や大豆、梅干し、野菜、砂糖、酒などを混ぜることもあります。

兵糧丸は炭水化物やたんぱく質、ビタミンなど様々な栄養素が含まれています。

兵糧丸の作り方を紹介した動画

実際に兵糧丸を作ってみた動画を紹介します。

この動画での兵糧丸の材料は、上新粉、白玉粉、そば粉、黒ごま、小麦粉、グラニュー糖に料理油です。

作り方は材料に水を加えて粘りがなくなるように混ぜてから丸めて、それから蒸します。

蒸したものにきな粉をまぶしてから、天日に干します。

こうして完成になります。

書物に残る兵糧丸の作り方

兵糧丸は主に戦国時代に食べられていましたが、武田家に仕えていた山本勘助という武将が書いたとされる「老談集」には兵糧丸の作り方があります。

出典: http://sengokusuki.seesaa.net

山本勘助

山本勘助は戦国時代に武田家に仕えていた軍師で、兵法に優れていました。彼は片目が見えず、足が不自由だったといわれています。

材料は餅米、うるち米、蓮の実、ヤマイモ、シナモン、鳩麦、朝鮮人参、氷砂糖とあります。

具体的に蓮の実は乾燥させたものを、ヤマイモは乾燥させて根の部分にある山薬を使います。

作り方はまず材料を粉末状にします。次に、水を入れてよく混ぜます。

そして、その混ぜたものを丸めて団子状にしてから、蒸して調理します。

これで完成です。

兵糧丸の味

兵糧丸は一般的に黒い球状のものを想像することが多く、その姿からおいしくないというイメージをされると思います。

老談集にある兵糧丸の材料には、シナモンや朝鮮人参といった生薬成分があるので、食べると苦そうな感じがします。

兵糧丸の材料は製法により様々ですが、中には砂糖類や蜂蜜などもあるので、苦いばかりではないでしょう。

上の動画で兵糧丸を作って食べた人の感想には、蒸したことにより風味は飛んでいたが、噛んでいるとだんだん味が出てきたそうです。

この他にも兵糧丸を作ってみたまた別の人が食べたところ、思っていたより食べられる味だったという感想もあります。

兵糧丸はその製法が様々なので、おいしく食べられることもあれば、それほどおいしく感じられないかも知れません。

米や餅、きな粉といった炭水化物成分や砂糖や蜂蜜などの量を多くすれば、甘く感じられるかも知れません。

朝鮮人参といった生薬成分の多い兵糧丸を食べると、このような顔になるかも知れません。

忍者の食事としての兵糧丸

兵糧丸という言葉から、忍者をイメージされる方もいらっしゃると思います。
 

忍者は隠密や後方攪乱が主な仕事です。「忍者」の名前の通り、もっぱら影働きでした。

兵糧丸は小型で携帯性に優れるため、忍者活動においては持参して食事の時に食べられていました。

兵糧丸は忍者食です。

大きさにもよりますが、兵糧丸はだいたい3個くらいで1食分になるそうです。

忍者はこれを1日に1食から3食食べていて、だいたい1日に9個くらい食べていたようです。

兵糧丸の大きさは地域によって様々で、団子くらいの大きさからおにぎりくらいの大きさまであります。

そのため、大きさによって1日に食べる個数は異なるようです。

忍者は俊敏性が第一なので、カロリーが高くてすぐに空腹を満たせる、どこでも食事を取ることができる携帯性に優れた兵糧丸は最適でした。

その上兵糧丸は滋養、疲労回復、ストレス軽減などにも作用し、危険な任務を行う忍者にとっては欠かせないものでした。

武将・兵士の食事としての兵糧丸

戦国時代は戦乱の時代で、各地で合戦が行われていました。

兵糧丸は忍者だけではなく、武将・兵士も食べていました。

合戦で出陣中に食べる陣中食の一つでした。

「腹が減っては戦はできぬ」というように、兵糧(戦における武将・兵士の食料)は欠かせないものでした。

そのうち兵糧米は主食になるので特に重要でした。

出陣中は将兵には兵糧米が支給され、打違袋(うちがいぶくろ)という袋の中に、おにぎりや干飯(ほしいい:炊いたご飯を乾燥させたもの)などを入れて、鎧の腰の部分に巻いていました。

兵糧米の総量はだいたい出陣する将兵の数に応じて決まりました。

当然合戦が長引けば兵糧米もたくさん必要となります。

兵糧米がなくなってしまうと、とても戦になりません。

出陣中には敵地の兵糧米などを略奪することもあったようです。

このように合戦において兵糧は死活問題でした。

陣中食で食べられていたもののうち主食では、先ほど説明した兵糧米で作られたおにぎりや干飯です。

この他には餅類があります。

副食では味噌や梅干しなどが食べられていました。

この他にも兵糧丸も食べられていて、戦場を駆けるなど合戦を行うのに必要なカロリーを得ていました。

忍者の食事としての兵糧丸のところで説明したように、武将・兵士も体調管理やストレス軽減などのために兵糧丸を食べていたと考えられます。

兵糧攻めと兵糧丸

将兵は陣中食を取って戦に備えました。

戦国時代の合戦には野戦(平原や山地での戦い)と攻城戦(城での戦い)、海戦(海上での戦い)がありました。

合戦は早く終わる場合もあれば、年単位でかかるものもあります。

攻城戦、特に相手の兵糧を絶つ兵糧攻めは特に長い時間がかかります。

その兵糧攻めで有名な武将としては豊臣秀吉が挙げられます。

豊臣秀吉は城攻めが得意だったとされ、備中高松城の水攻め、三木城と鳥取城の兵糧攻めが有名です。2つの城の兵糧攻めは敵側に兵糧が搬入されないように行われました。三木城と鳥取城は城主が降伏して落城しましたが、城内は兵糧米など食料がなくなり、飢餓状態の兵士農民が大勢いて地獄絵図でした。

おそらく秀吉も含めその将兵は、兵糧攻めの最中にも持参した兵糧丸を食事として陣中で食べていたかも知れません。

携帯性に優れ、カロリーが高く腹持ちのいい兵糧丸がもしこのとき敵側にあったとしたら、数のある限りは城内では飢えることはないでしょう。

ただその分戦が長引き、両軍とも共倒れになる可能性もあります。

それでけ攻める方も守る方も兵糧攻めはリスクが大きいのです。

合戦の形態は兵糧攻めだけではありませんが、兵糧丸が双方とも将兵の命をつなぐものであったことは想像に難くないと思われます。

三国志の時代に兵糧丸が存在した?

ここで話を戦国時代から古代中国の三国志の時代に変えます。

兵糧丸は日本の戦国時代に作られたため、当然三国志の時代には存在しないと考えられます。

しかし、兵糧丸と言えるような食べ物を作ったといわれる人が三国志の時代にいます。

その人物は天才軍師として知られる諸葛亮です。

諸葛亮

諸葛亮は字(あざな:別の名前)を孔明と言い、諸葛孔明で有名です。諸葛が姓、亮が名です。

彼は劉備に仕えて活躍し、劉備が蜀を建国した後は丞相(現在の首相)になって、政治家として国を治めました。

その諸葛亮には様々なエピソードがありますが、兵糧丸とも言えるような食べ物を作ったというのがあります。

彼が丞相として仕える蜀は中国の四川省を中心としたところにありました。

当時蜀は南にいる南蛮という民族と戦っていました。

その戦いの帰り、彼は川の氾濫を治めるための生け贄の風習を変えようとします。

諸葛亮は生け贄である人間の首の代わりに、小麦粉で作った皮に豚や羊の肉を入れたものを川に投げ入れました。

そうすると川の氾濫は治まったそうで、これが饅頭(まんとう)の起こりといいます。

中国の饅頭

饅頭(まんとう)は日本で食べられている饅頭(まんじゅう)のルーツといわれます。

饅頭は小麦粉でできた蒸しパンのようなものです。

昔の中国では具材が入っていましたが、現在では中身はありません。

具材が入っているのは包子(パオズ)、日本では中華まんと言います。

これが饅頭(まんとう)です。蒸しパンのような形をしています。

これが包子(パオズ)、日本では中華まんと言います。写真は肉まんです。

饅頭は中国の北部では主食として食べられていて、蒸して調理するものだけでなく、揚げて調理するものもあります。

中国の北宋時代あたりまでは肉や餡といった具材が入っていて、それを饅頭と言っていました。

三国志の時代に諸葛亮が作ったとされる故事が言い伝えられたというわけです。
 

饅頭は三国志の兵糧丸なのか

昔、饅頭は主食として食べられていて、その中に具材が入っていました。

大きさによっては携行性に優れているものもあって、どこでも手軽に食べることができます。

形や味、食感はかなり異なりますが、これはまさに三国志の時代における兵糧丸と言ってもいいのではないでしょうか。

もしかすると、出陣中の食事として食べられていたかも知れません。

兵糧丸は日本のパンの起源?

中国の三国志の時代から再び日本に話を戻します。

中国の饅頭(まんとう)に関連して、日本のパンについて説明します。

日本では16世紀にポルトカルからパンが伝わりましたが、江戸時代の鎖国政策によってパンは製造禁止になってしまいました。

そのため、パンが一般に見られるようになったのは開国後の安政5年(1858)のことでした。

しかしそれ以前の天保13年(1842)に江川英龍という人物が今で言う乾パンのようなものを試作しました。

出典: http://r-ijin.com

江川英龍

江川英龍(太郎左衛門)は江戸時代末期の幕臣、砲術家です。伊豆代官の家に生まれ、自身も代官になりました。西洋砲術を学び、国指定史跡の韮山反射炉の建設などに尽力しました。

同年に清(今の中国)でアヘン戦争が起き、日本の対外政策に大きな影響を与えました。

そこで西洋砲術など積極的に西洋技術を導入するという流れになりました。

英龍はパンに着目し、試作した後、その作り方を広めていきます。

英龍が作ったパンは小型で携帯性に優れたものでした。

その後ペリーが開国を要求した時には、諸藩において保存が利くパンがたくさん作られるようになりました。

そのパンの名前は、薩摩藩では「蒸餅」、長州藩では「備急餅」、水戸藩ではなんと「兵糧丸」と呼ばれていました。

当時のパンは現在と比べて固めでした。しかし弾力性があることから、「餅」の名前が入ったのだと思います。

英龍が作ったパンは小型で携帯性に優れるため、水戸藩で呼ばれたようにまさに「兵糧丸」と言ってもいいでしょう。

後に江川英龍は「パンの祖」と呼ばれるようになります。

そこから日本のパンは今に続きます。

兵糧丸に関連する忍者食

兵糧丸は球形の携帯食のことを指しますが、この他にも兵糧丸に関連する忍者食があります。

飢渇丸

出典: http://kokacity.seesaa.net

飢渇丸(きっきつがん・かっかつがん)は兵糧丸と同じく忍者食です。

飢渇丸の材料は小麦粉や朝鮮人参、野草、ヤマイモ、酒などで、滋養や疲労回復などに効果があるようです。

飢渇丸は薬のような匂いがして、食べるとじわじわ味が出てきます。

熟しきっていないバナナの味に近いそうです。

朝鮮人参なども入っていて、食べると苦味を感じると思います。

水渇丸

出典: https://ameblo.jp

水渇丸(すいきつがん・すいかつがん)は兵糧丸とともに食べられる忍者食で、喉の渇きを抑えるために食べられました。

材料は唾液の分泌を促す梅干しや氷砂糖を中心に、柿の葉やショウガ、酒などです。


 

水渇丸は梅干しが入っているので、とてもすっぱさを感じると同時に、唾液がたくさん分泌されます。

しかし、水渇丸がとてもすっぱいと逆に喉が渇きそうです。

忍術の秘伝書にある飢渇丸と水渇丸

江戸時代の前期に延宝4年(1676)に、伊賀郷士の藤林佐武次(さぶじ)保武という人物によって「万川集海(ばんせんしゅうかい)」という忍術の秘伝書が書かれました。

藤林氏は代々伊賀忍者の家系で、保武は数々の忍術の技能を書物にまとめました。

その中には忍者が食べていた飢渇丸や水渇丸の記述もあります。

お店で売られている兵糧丸

戦国時代の兵糧丸の製法は今に伝わりますが、土産物として店舗などで販売されています。

そこで売られているのは兵糧丸を基にしたお菓子類です。

兵糧丸の丸い形が再現されていますが、味は実際の兵糧丸に比べて、砂糖などの甘味を多くして食べやすくなっています。

真田兵糧丸

出典: https://blogs.yahoo.co.jp

真田兵糧丸

真田兵糧丸は群馬県沼田市を中心に販売しているお菓子です。

戦国時代にここ沼田の地を真田氏が治めていました。

真田氏も兵糧丸を用いていたと考えられます。

沼田市は真田氏の兵糧丸を市のアピールに考え、地元の農産物を使ったお菓子を製菓店と協力して、真田兵糧丸を生み出しました。

伊賀流兵粮(兵糧)丸

出典: https://item.rakuten.co.jp

伊賀流兵粮丸

伊賀流兵粮丸は三重県伊賀市を中心に販売しているお菓子です。インターネットでも販売しています。

地元の製菓店と観光協会が共同で開発して、兵糧丸が和菓子の姿で再現されています。

兵糧丸・まとめ

戦国時代、忍者だけでなく武将や兵士を食べていた兵糧丸。

小さな球状には栄養素やカロリーが詰まっていて、滋養や疲労回復など、出陣や隠密で敵地に赴く者達のまさに命綱だったと考えられます。

兵糧丸には様々な製法があって、材料も様々です。

一般的に兵糧丸は美味しくないイメージがありますが、炭水化物成分の米や小麦粉、砂糖や蜂蜜が入っているので、食べられることができる程度の味でしょう。

朝鮮人参のような生薬成分も入ることがあるので、薬のような匂いがして苦味を感じることもあると思います。

兵糧丸について今回いろいろ調べてきましたが、いつかは作って食べてみたいと思います。

兵糧丸の味から戦国時代に思いをはせることができるかも知れません。

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