2021年05月10日公開
2021年05月10日更新
江戸時代の処刑「市中引き回しの上、打ち首獄門」がエグい…【磔獄門】
江戸時代の死刑執行は、公開で行われ、市中引き回しの上、打ち首(磔:張り付け)獄門が一般的なものでした。しかし、現代を生きる私たちは、この「市中引き回しの上、打ち首(磔:張り付け)獄門」の内容をほとんど知りません。実際どのようなことが行われたのでしょうか?
目次
- 1「市中引き回しの上、打ち首(磔:張り付け)獄門」はいつから始まったのか?
- 2「市中引き回しの上、打ち首(磔:張り付け)獄門」の目的は罪人の減少?!
- 3市中引き回しとは?-「市中引き回しの上、打ち首(磔:張り付け)獄門」考①
- 4打ち首とは? ー「市中引き回しの上、打ち首(磔:張り付け)獄門」考②
- 5磔とは? -「市中引き回しの上、打ち首(磔:張り付け)獄門」考③
- 6磔はどこかでみたような? -「市中引き回しの上、打ち首(磔:張り付け)獄門」考④
- 7獄門とは? -「市中引き回しの上、打ち首(磔:張り付け)獄門」考⑤
- 8公事方御定書と江戸時代の刑罰
- 9「市中引き回しの上、打ち首(磔:張り付け)獄門」の写真はあるか?
- 10新撰組局長 近藤 勇 も斬首、獄門?
- 11まとめ
「市中引き回しの上、打ち首(磔:張り付け)獄門」はいつから始まったのか?
市中引き回しの図
市中引き回しの刑での罪人及び役人一行
獄門台(レプリカ) 明治大学博物館
東京御茶ノ水の明治大学駿河台校舎アカデミーコモンに併設されている明治大学博物館には江戸時代の罪人の処罰に使用された器具等(いずれもレプリカ)を多く展示し、その内容について詳しく知ることが出来ます。
時代劇では良く奉行所のお白洲で、「市中引き回しの上、打ち首獄門申し付ける!」とお奉行から御沙汰を言い渡されるお定まりのシーンがあります。罪人は顔をしかめ、うなだれる。こうして現代でいう死刑執行に至る一連の流れの始まりが、市中引き回しの刑となる訳です。
この市中引き回し刑は、今を遡る中世鎌倉末期にはもう行われていたようです。江戸時代は、これに打ち首や鋸挽き(のこぎりびき:罪人の体を首まで埋めて往来の者に対して首にノコギリを挽かす)、磔(はりつけ)、獄門といった内容が罪状によって加わりました。これらは明治2年(1869年)7月に明治政府が廃止令を出すまで実施されていました。
「市中引き回しの上、打ち首(磔:張り付け)獄門」の目的は罪人の減少?!
罪人の刺青(額)
当時罪人は、額や腕に刺青を入れられ一般人との識別を明確にしていました。
仕置きの図
当時は、現行犯と容疑者の捕縛、そして自白が決めてでした。自白を引き出すために凄まじい拷問が行われました。拷問に耐えかね自白し、市中引き回しの刑・磔獄門となった無罪の者もいたのではないでしょうか。
市中を引き回した上で、首を斬りおとしたり、磔にして獄門などと恐ろしいこと此の上もない仕置きは江戸時代の人達にとって恐怖であった事は言うまでもありません。
この恐ろしいパフォーマンスは、当然「罪を犯せばこのようになるのだぞ!」という犯罪に対する抑止力としては重要なものだったのですが、犯罪に対する抑止力はこれ即ち、江戸時代における徳川幕府の安泰につながったのです。
封建制度の根幹を成す忠義や孝行という社会秩序の崩壊を恐れるが故に、それに繋がるものを徹底的に潰す事が、「市中引き回しの上、打ち首(磔:張り付け)獄門」の目的だったのです。
市中引き回しとは?-「市中引き回しの上、打ち首(磔:張り付け)獄門」考①
江戸での市中引き回しの刑が辿るルート
市中引き回しの刑は、江戸市中をかなりの広範囲にわたって罪人を引き回した事が知られています。ほぼ1日をかけて行われた後に、打ち首 磔獄門の処刑が執行されます。
市中引き回しの刑に見入る人々
引き回しの刑一行に、多くの眼差しが注がれています。SNSなどない江戸時代でさえこれらを見聞きしたことは多くの人に伝達され大きなニュースとして江戸の町を駆け巡ったことでしょう。
引き回し(引廻し)とは、死刑が決定したものを菰(コモ)を敷いた馬の鞍に縛って乗せ、定められた地域を晒し者にしながら引きまわしたとされています。
この市中引き回しの刑は、人々の生活圏で、多くの人の目に晒されるのが効果的だったのは言うまでもありません。引き回しの刑も距離も罪状によって異なっていたようです。
打ち首とは? ー「市中引き回しの上、打ち首(磔:張り付け)獄門」考②
公開の斬首
刀の試し切り位置図
市中引き回しの刑、磔獄門となって処刑された罪人の体は刀の試し切りに使われます。処刑された罪人の体は試し切りを行う者が手に入れます。切断箇所それぞれの部位が細かく表示され名称が決められていました。
裁断銘のある刀の茎(なかご)
試斬りの刀が入った部位と重ねた胴体「三胴」が読み取れる。
打ち首とは、斬首(首を切り落とす)のことで、斬首の刑のことを挿す一般的な名称です。これにも、下手人(下手人とは、犯罪者の意味と刑そのものを指す意味があります)や死罪、斬罪等首を切り落とされた後の処遇が異なり、死罪は、体を試し斬りに使用されました。
死してなお罪人としての苦悩を背負わされたということになります。このような死体を使い、切れ味を試した刀は「三ツ胴」「四ツ胴」と罪人の体を重ねて斬れた証拠として茎(ナカゴ:刀の柄に隠れた部分)に刻まれた物が裕福な武家層に好まれました。
磔とは? -「市中引き回しの上、打ち首(磔:張り付け)獄門」考③
磔られた罪人
磔獄門といわれますが、先ず磔とはどのような事が行われるのでしょうか?
磔(はりつけ)は、罪人の両手足を木組で作られた架柱に縛りつけ、槍で突き殺すもので江戸時代では、主(あるじ)殺しや関所破り等の重大犯罪に適用されました。磔も古く中世平安末期から使われた死刑で、江戸市中では、浅草と品川が磔場所とされていました。
その方法は、脇から肩先に槍を突き通して捻り抜き、その後罪人のわき腹を複数回突いた後に「止めの槍」を喉に入れるという凄惨なものでした。死体はその状態で二夜三日晒されました。
磔はどこかでみたような? -「市中引き回しの上、打ち首(磔:張り付け)獄門」考④
十字架に磔られたキリスト
三代将軍家光の時代に江戸で行われたキリシタンの処刑の図
キリシタンに対する処刑は、磔(張り付け)獄門を用いたようです。徳川幕府成立初期の天草四郎の乱等は厳しい弾圧が容赦なく行われました。
磔(はりつけ)は、中世からあったようですが戦国時代以降のものはキリスト教徒迫害の方法として西洋で定着していたものが日本に影響を与えたといわれています。
聖書に出てくるような十字架刑は本来、十字に組んだ木材に罪人を釘等で罪人の体を打ちつけて、鞭打ちを行う放置刑でしたが、日本では、罪人を縛りつけ槍で突く刑となりました。戦国時代、貿易や布教のために日本に入った西洋人によってもたらされたのでしょう。
ちなみに、放火罪に使われた「火あぶりの刑」も、魔女狩りを参考にした西洋伝来の死刑といわれています。
獄門とは? -「市中引き回しの上、打ち首(磔:張り付け)獄門」考⑤
切腹における人員の配置
ここで同じ首を斬り落とすものでも「斬首と介錯」の違いがあることについて考えてみようと思います。
ともすれば混同され易いこの2つの行為の最大の違いは、「切腹」が有るか無いかということです。罪人として扱われる場合、「切腹」はありません。
「切腹」は、江戸時代武士が自害する手段として用いられたもので、不手際や落ち度で本人若しくは属する組織のプライドが著しく汚されたと感じたときに行うもので、家の家格によって大きく方法が異なるものでした。
江戸時代は、家臣が主の命なくして「切腹」はありえないものでした。実際「斬首(打ち首)」ではあっても自刃の形をとることで名誉を最大限尊重したものとして、死刑の中でも最も軽いものと位置付けられていました。
斬首は、明治14年(1881年)までおこなわれたのです。
公事方御定書と江戸時代の刑罰
東京大学が所蔵する公事方御定書
多くの場合過去の判例に基づいて行われていた磔獄門等の極刑に、マニュアルとして内容を明らかにした公事方御定書。
八代将軍 徳川吉宗
徳川御三家の紀州藩主から第八代将軍となり、質素倹約を旗印に財政の立て直しと、各法令等の整備をおこない享保の改革を断行しました。
日本史の授業で「公事方御定書」という言葉を聴いた記憶がある方も多いと思いますが、江戸時代の刑罰は、徳川幕府の八代将軍吉宗の時代に犯罪と刑罰の形体が整備されました。
犯罪に対する厳しい刑罰は、時代によって弱冠の違いはあっても基本的に変わりはありません。当時、幕府が最も恐れたのは内乱であり百姓一揆等はその首謀者を極刑(死刑)に処しました。また主(あるじ)や親に対して刃傷沙汰を起こした場合、「公事方御定書」では重大な犯罪と位置付けられ主殺しは、二日晒一日引廻鋸挽之上磔(二日さらし、一日市中引き回し、鋸挽きの上はりつけ)とし、親殺しは、引廻之上磔(市中引き回しの上はりつけ)とされました。
主人、親に切りかかったその行為だけで死刑が科せられたのです。
「市中引き回しの上、打ち首(磔:張り付け)獄門」の写真はあるか?
名古屋城(明治初期)
江戸の町並み
武家屋敷の向こうに広がる町並みには、当時すでに100万人が住む大都市でした。
獄門の写真(明治初期)
磔獄門の写真は、かなり多く現存しています。
リチャードソンの写真
川崎大師観光に行くため騎乗していたリチャードソン一行は、島津久光公の行列と遭遇しトラブルとなり斬りつけられ命を落としました。この事件は、薩英戦争の発端となりました。
幕末は、西洋文明の最先端を多く日本にもたらしました。1840年以降に急激に広まった写真技術もその一つです。日本を訪れた写真士達は、多くの制約をものともせず撮影をおこない、幕末明治の日本が写真で現存しています。
彼等の撮影対象は、多岐に及び風景、風俗、風習など謎に包まれた東洋の国、日本の全てを夢中で被写体として写真に収めました。その中に、死刑を執行され磔獄門となった罪人の写真も幕末明治初期の写真として残されました。これらの写真は、当時における刑罰の実態を捉えた貴重な資料となったのです。また、生麦事件で死亡したリチャードソンの写真などは報道性の高いものとされています。
新撰組局長 近藤 勇 も斬首、獄門?
新撰組 局長 近藤 勇
近藤 勇 獄門の図
現在の三条河原
現在は、観光客でにぎわう三条大橋周辺ですが、古くから処刑や獄門(晒し首)が多く行われた場所でもありました。盗賊として名高い石川五右衛門は、釜茹での刑に、豊臣秀次とその家族は処刑され、徳川家康と関ヶ原で戦った石田三成もここで晒し首にされています。また足利三代木像梟首事件もこの三条河原でした。
近藤 勇は、京都守護職会津藩 松平容保配下として池田屋事件で名声をあげ、幕末の京都で泣く子も黙る新撰組局長として活躍しました。
彼は、浪士組のリーダーから幕臣となり幕閣級にまで上り詰めていきます。
しかし、幕府の力は急激に衰退し、新撰組も鳥羽・伏見の戦いに敗れます。新政府軍の攻勢はとどまるところを知らず、江戸近郊まで進出してきました。
当時「大久保大和」と変名していた近藤は、出頭を命じられ政府軍本営に出向きます。ここで近藤勇であることが見破られて捕らわれます。
板橋宿へ連行され取調べを受けた際、坂本龍馬暗殺の主犯と断定する土佐藩 谷干城と薩摩藩の新政府軍内部での近藤の処遇で紛糾の末に板橋刑場で斬首されます。
首は、塩漬けにされ京都に戻され、三条河原に晒されました。近藤は、官軍から罪人として裁かれ斬首、獄門となりました。
まとめ
以上 市中引き回し・打ち首・獄門・磔について書いてみました。当然ですが現代ではこのような刑罰が行われることはありません。ただし、異常集団や犯罪者がおこす行為の中に類似した行為が見受けられることに驚きを禁じえません。
市中引き回し・打ち首・獄門・磔が刑罰として行われていた江戸時代から約150年が過ぎ、当時の誰もが想像もできないほど、文明は進み社会生活は情報に満ちあふれていますが、いつの時代も凶悪犯罪は発生し、多くの人々を恐怖に落し入れています。
そんな世の中を生きる私達も現代と比較して、昔の人たちが、罪人をどう裁き対処してきたのかを知る事も、不要な事ではないと思います。