三毛別羆事件の概要とその後は?日本史上最も悲惨なクマ事件の真相に迫る
ある日小さな村が1匹のとてつもない大きさの熊に襲撃され、日本歴史上最悪な獣害とされている六線沢で起こった三毛別羆事件。死者は7人・重傷者は3人となりその惨劇に村中が恐怖しました。今回はそんな六線沢で起こった三毛別羆事件の概要や詳細をお話ししたいと思います。
目次
三毛別羆事件とは?北海道開拓民を襲った黒い悪魔
※この記事には猟奇的な内容や表現が含まれていますので、閲覧には十分ご注意ください※
三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)とは、北海道の現在は苫前町三渓になっている苫前郡苫前村という場所で1915年12月9日から5日間にわたり村の開拓民がとてつもない大きさの袈裟懸け模様を持つヒグマに襲撃され女子供を含む7人が殺害され、3人が重傷を負った日本歴史上最悪の獣害となってしまった恐ろしい事件です。
この六線沢でヒグマの襲撃事件が起こった翌日に生き残りの人や北海道庁により討伐隊が結成され、袈裟懸けヒグマが村を襲撃して5日後にマタギにより村を襲撃したヒグマが射殺されこの三毛別羆事件は終焉を迎えました。しかしそのヒグマが襲撃した三毛別羆事件はあまりにも無残で被害者家族だけではなく六線沢の生き残りの村人の心にも大きな傷を残してしまったのです。
それではこの日本歴史上最悪の獣害だと言われている六線沢という場所で起こった三毛別羆事件の概要や袈裟懸け模様を持つヒグマの襲撃の詳細、討伐隊のことやそのヒグマが射殺されたその後、そのヒグマを射殺したマタギ『山本兵吉』のことやこの三毛別羆事件の生き残りのその後、『袈裟懸け模様のヒグマ』とはどういうことなのか、またこの三毛別羆事件の後に三毛別羆事件の生き残りにより六線沢に復元された三毛別羆事件復元現地について詳しくお話していきたいと思います。
三毛別羆事件の発生した場所
袈裟懸けヒグマが村を襲撃した三毛別羆事件が起こった場所は【北海道苫前郡苫前村大字力昼村三毛別六線沢】という場所で現在は【北海道苫前郡苫前町古丹別三渓】となっています。この六線沢という場所があるのは日本海の沿岸より30km程内陸に入ったところでアイヌ語で「川下へ流しだす川」という意味のある「サンケ・ペツ」が由来となり『三毛別六線沢』という地名が付きました。
六線沢には元々住民はおらず、東北などからの移民により開拓されていた土地でした。
三毛別羆事件の概要・詳細
この六線沢という場所で起こった三毛別羆事件では袈裟懸けヒグマが起こした襲撃は一度だけではなく数回あり、このヒグマが襲撃する前には予兆もありました。それではその予兆の詳細や三毛別羆事件がどのようにして起こってしまったのか、また六線沢の開拓民を襲撃したこのヒグマはマタギ「山本兵吉」という人物により、どのように射殺されたのかなどを詳しくお話していきたいと思います。
事件の前兆
1915年の11月の初め辺りのある日の明け方、六線沢という場所にある民家の飼い馬が厩舎で暴れていたのでその家の主人である池田富蔵さんが様子を見に行くと、厩舎のそばのぬかるみに見たこともない大きさのヒグマの足跡を発見しました。六線沢は開拓が始まったばかりの土地だったため野生の動物が村に降りてくるのも珍しくはなかったのですが、そのヒグマの足跡はあまりの大きさだったため富蔵さんは一抹の不安を覚えました。
それからしばらくした11月20日、ヒグマが再び六線沢に現れました。池田富蔵さんは飼い馬を食べられないようにと六線沢のマタギと隣の村のマタギを呼び、3人でヒグマを待ち構え退治しようとしました。11月30日にまたヒグマが現れたため猟銃を撃ちましたが、射殺することは出来ませんでした。その時に、このヒグマが一連の悲劇を起こした例の袈裟懸けヒグマだということがわかりました。
その夜、家族を家に残し18歳の次男を含めた4人でこのヒグマを追いかけ山に入りました。件のヒグマの血の跡を辿りながら追いましたが、吹雪がひどくなったためにその日はそのヒグマの追跡を諦め帰宅しました。
最初の襲撃
袈裟懸ヒグマが初めて三毛別羆事件の現場となる六線沢という場所を襲撃したのは、1915年12月9日でした。この時期は収穫できた農作物を出荷するための作業に追われていました。しかし三毛別のような僻地では人の手を借りなければ作業がままならないため、男性のほとんどが出払っていました。
この日の朝、三毛別に住んでいる太田家でも太田家に下宿している要吉(当時59歳)さんが一番に仕事に出掛け、そのあとすぐに太田家の主人・三郎(当時42歳)も出掛け、家には三郎の内縁の妻・マユ(当時34歳)さんとこの家に預けられていた6歳の幹雄君が残り、出荷するために小豆の選別をしていました。
昼頃に下宿人の要吉さんが昼食のために帰宅すると、6歳の幹雄君が囲炉裏の端に静かに座っていました。わざと寝たふりをしていると思った要吉は大きな声で幹雄に話しかけながら近付き、幹雄君の肩に手をポンと置き顔を覗き込みました。
その時、要吉さんが見たのは何かに切り裂かれ抉られた喉とその下に溜まった血だまりでした。そして幹雄君は頭にも親指ほどの太さの穴が開いておりすでに息絶えていたのです。あまりの出来事に驚き恐怖を抱いた要吉さんはマユさんを呼びましたがマユさんからの返事はありませんでした。
しかし家の奥にある薄暗い居間から嗅いだこともないような臭いが漂っており、これはただ事ではないと感じた要吉さんは男たちがいる下流の架け橋現場へと走りました。これが三毛別羆事件の始まりでした。
要吉さんから事の次第を聞き太田家に駆け付けた三毛別の男性たちは、玄関の反対側にあるトウモロコシを干していた窓が破られており、そこから土間までまっすぐに進むヒグマの足跡を発見し、これはヒグマの襲撃だと知ったのです。
部屋の隅にはおびただしい量の鮮血があり、その周りには血が付いた柄の折れた鉞やまだ火がくすぶっている薪やヒグマの足跡などが散乱しており、マユさんがトウモロコシを食べようとして窓に近づいたヒグマに驚き悲鳴を上げたためにそれがヒグマを刺激してしまい、マユさんと幹雄君は襲撃され幹雄は殺され、必死に抵抗したが捕まってしまいマユさんは重傷を負いながらヒグマに引きずられながら連れ去られたものと思われました。ヒグマが出たと思われる窓には、マユさんのものと思われる髪の毛が絡みついていました。
この日の朝10時30分過ぎくらいに、三毛別に住む人物が太田家の窓の近くを通った際に窓から山へと続く道に何かを引きずった跡と血痕を発見しているのですが、マタギが獲物を持って太田家を訪れ休憩しているのだろうと思い、大して気にもしていなかったのです。それ以前には何かを引きずったような跡は無かったため、ヒグマの襲撃は午前10時30分頃に起こったと推測されました。
ヒグマの襲撃の事を聞いた村人は騒然となりました。太田家を襲撃したヒグマの討伐やマユさんの捜索に出ようと思うものの、12月は三毛別では日没も早く、幹雄君の遺体を安置した頃には午後15時を過ぎておりその日はどうすることも出来ませんでした。三毛別の男性達は太田家より下流にある安太郎(当時40歳)さんの自宅に集まり、これからの事を話し合いました。ヒグマの討伐やマユさんの捜索は明け方から開始するにしても、役場と駐在所と幹雄の実家には急いで連絡をしなければならず、電話もないため誰かが伝えに行かなければなりませんでした。
この三毛別羆事件の連絡係に選ばれたのは太田家の近所に住む男性でしたが、この男性が拒否したため石五郎(当時42歳)さんが行くこととなりました。太田家より上流に家がある石五郎さんはヒグマの襲撃を避けるために身重の妻と6歳と3歳の息子を安太郎さんの自宅へと避難させ、要吉さんが用心棒として一緒に宿泊することとなりました。
ヒグマが民家を襲撃した翌日の12月10日、役場と駐在所と幹雄君の実家に報告をすべく石五郎さんは朝早く出掛けて行きました。他の男性達はヒグマの退治とマユさんを捜索するために約30人ほどの捜索隊を結成し、昨日のヒグマの足跡と血痕を追って山に入ると、150メートル程進んだところでとてつもない大きさの袈裟懸け模様のヒグマが発見されました。ヒグマは捜索隊を襲撃しようとしましたが、捜索隊の一人が撃った猟銃の音に驚き逃げたため捜索隊への被害はありませんでした。
ヒグマの襲撃に怯えながら周辺を捜索するとヒグマが保存食を隠すための痕跡が見つかり、そこを探すと襲撃された時にマユさんが着用していた足袋を履いた膝下の足と一部しか残っていないマユさんの頭部が見つかりました。その日の夜、太田家ではマユさんと幹雄君の通夜が執り行われましたが、村人はヒグマの襲撃に怯えてしまい、参列者は幹雄君の両親とその知人と太田家の主人の三郎さんを含めて9人しかいませんでした。
午後20時30分頃、幹雄君の母親が参列者にお酌をしている時のことです。突如大きな音と共に居間の壁が崩れ落ち、とてつもない大きさの袈裟懸け模様を持つヒグマが居間へ入ってきました。マユさんと幹雄君の遺体が安置された棺が倒され2人の遺体が散らばってしまい、恐怖にかられた参列者は高いところに登ったり隠れたりしました。
この騒動の中襲ってきたヒグマを追い払おうと勇気を振り絞り灯油缶を打ち鳴らした男性に勇気付けられ、猟銃を持ち込んでいた男性がヒグマを撃とうとしました。その頃太田家から300メートル程離れた場所で食事をしていた男性達がただならぬ悲鳴を聞き付けて駆け込みますが、その時にはその場所にはヒグマはおらず、被害者が出なかったことに安堵しながらもここは危ないと下流にある安太郎さんの自宅へみんなで避難することにしました。
その頃、安太郎さんの自宅には安太郎さんの妻ヤヨさんと10歳の長男の力蔵君・8歳の次男の勇次郎君・6歳の長女のヒサノちゃん・3歳の三男の金蔵君・1歳の四男の梅吉君・役場や駐在所に報告をするために出掛けた石五郎さんの妻で身重のタケさん・石五郎さんの三男で6歳の厳君・石五郎さんの四男で3歳の春義君と用心棒として一緒にいた要吉さんの10人(タケさんのお腹の子を含めると11人)がいました。
この時安太郎さんは用事で出掛けており、安太郎さんの自宅を護衛していた男性達は近所へ食事に出掛けたり太田家が再び例の袈裟懸け模様のヒグマの襲撃に遭ったという報告を受けそちらへ出払っていたため、残っていた男性は要吉さんだけでした。再び太田家にヒグマが現れてから20分程経った頃、梅吉君をおんぶしながら捜索隊の夜食を用意していたヤヨさんは地響きと共に窓からとてつもない大きさの黒い塊が入ってくるのを目撃しました。
ヤヨさんは「誰が何したぁ!」と叫び呼び掛けるものの、その黒い塊からは返事はなくよく見ると見たこともない大きさの袈裟懸け模様のヒグマでした。そのヒグマにカボチャを煮ていた大鍋がひっくり返され炎は消え、大混乱に陥ったためランプも倒れ火が消えてしまい家の中は暗闇になってしまいました。
ヤヨさんは外へ逃げようとしましたが、足にすがり付いてきた次男の勇次郎君に躓いてしまいました。そこをヒグマは襲いかかり、おんぶされていた梅吉君に噛みつき、ヤヨさん・勇次郎君・梅吉君の三人を手元にたぐり寄せ、ヤヨさんの頭に噛み付きました。その時外へ逃げようとした要吉さんにヒグマが気を取られた隙をついて、ヤヨさんは勇次郎君と梅吉君を連れて逃げました。
ヒグマに追いかけられた要吉さんは物陰に隠れようとしましたが間に合わず、腰に噛み付かれてしまいました。要吉さんの悲鳴を聞きながら標的を居間に残る人間に変えたヒグマは、春義君と金蔵君を殺しました。その時隠れていた身重のタケさんが顔を出してしまったため、ヒグマに見つかり居間へと引きずり出されてしまいます。タケさんは「腹は破らんでくれ!喉を噛み切って殺して!」とお腹の子を守ろうとしましたが、その願いは叶わず生きたまま上半身から食べられてしまいました。
安太郎さんの自宅へ向かっていた太田家にいた村人は、ただならぬ悲鳴と物音を聞き付けて急いで向かいました。そこへ傷を追ったヤヨさんと勇次郎君と梅吉君が辿り着き、安太郎さんの自宅にヒグマが現れたと知りました。途中で腰に噛み付かれた要吉さんを保護して安太郎さんの自宅へ到着するも、中は暗闇のため迂闊に突入は出来ず立ち往生してしまいました。その間にも中からはタケさんのものと思われる女性の呻き声やヒグマが肉や骨を噛み砕くような音が聞こえていました。
家に放火しようという案や一斉射撃しようという案も出ましたが、もしかしたら子ども達が生きているかもしれないから辞めてくれとヤヨにさん哀願され断念しました。男性達は猟銃を持ち二手に別れ、10人近くは入り口に、他の男性は裏口に回り、裏口で空砲を発砲すると驚いたヒグマは入り口から出てきました。
先頭にいた男性が発砲しようとしましたが、手入れが行き届いておらず不発に終わってしまいます。他の男性が撃とうとしますが、隙を見てヒグマは逃げてしまいました。松明の明かりを頼りに安太郎さんの自宅へ踏み込んだ男性達の目には見るも無惨な状態が映りました。天井まで飛び散ってる血飛沫、食い散らかされた春義君と金蔵君とタケさんの遺体でした。
身重だったタケさんの遺体は腹が切り裂かれお腹の子が引きずり出されていましたが、ヒグマがお腹の子に手を掛けた様子はなくまだ発見された頃にはかすかに動いていました。すぐに処置が施されましたが、その甲斐虚しく一時間後に亡くなってしまいました。
力蔵君は隠れていたため被害に遭わず、ヒサノちゃんも失神した状態で居間に横たわっていましたが、ヒグマの襲撃には遭いませんでした。急いでヒサノちゃんと力蔵君を保護し、無惨な遺体を収容して安太郎さんの自宅を後にしようとした時、家の中から男の子の声が聞こえました。男性の一人が中へ入り捜索すると、タケさんにより隠されていた重症を追った巌君を発見しました。
巌君はヒグマに肩や胸を噛まれ、左大腿部から臀部にかけて肉を食われており骨だけになっていました。重症を追った巌君は母親のタケさんが食い殺されたのを知る由もなく、しきりに水分を求めながら『おっかぁ、クマとってけれ!』とうわ言を言いながら20分後に亡くなってしまいました。
ヒグマの襲撃を受けた三毛別の村人は、後に三渓小学校となる三毛別分教場へ避難を余儀なくされました。ヒグマの襲撃を避けるべく火を灯し厳重に戸締まりをしたが不安は拭えず、この小さな村の住民だけではどうすることも出来ないため、三毛別の区長や長老・駐在所の巡査や分教場長は話し合い、袈裟懸けヒグマの討伐を警察や行政にお願いすることに決めました。
一方、役場や警察に報告をするために出掛けていた石五郎さんは家族がヒグマに襲われたことは知るよしもなく、報告を終えて帰途を急いでいました。翌日の昼過ぎに三毛別に到着した石五郎さんは、家族の惨劇を知らされ雪の上に倒れ伏しただただ嘆くしかありませんでした。
討伐隊が結成
12月10日、六線沢という場所で起こった三毛別羆事件の報告を受けた北海道庁は討伐隊を結成し、討伐隊の本部は三毛別にある大川家に置かれることとなりました。一方で被害に遭い亡くなってしまった人の検死をすべく一足先に三毛別に来ていた医師は道の途中でヒグマの糞を発見し、検分したところ糞の中から人間のものと思われる骨や髪の毛・消化されていない肉片を発見し、その惨劇に立ちすくみました。
討伐隊を指揮することとなった北海道庁の菅警部は近隣の青年会や消防団・志願した若者やアイヌ達にも強力をお願いし、討伐隊を山へと差し向けました。しかし日が落ちる頃まで袈裟懸けヒグマの捜索が続くも、発見には至らず討伐隊は検討を重ねました。ヒグマは奪われた自分の獲物を取り返す習性があるので、それを利用するという案も出ましたが、その獲物とは被害に遭ってしまった人達の遺体のことを指すため、討伐隊本部の中で意見が割れてしまいました。
しかし討伐隊のリーダーである菅警部はヒグマを退治するためにはこの方法しかないと、この案を採用し罵倒されることを覚悟し被害者遺族と村人にこの案を話しましたが、予想とは違い異議を唱える人は誰もいませんでした。それだけ切迫した状況なのだと察知した菅警部は、被害者達の無念を張らすべく袈裟懸けヒグマを退治するために被害者の遺体をばらまき袈裟懸けヒグマをおびき寄せるという作戦を開始したのです。
この作戦には銃の扱いになれた7名が加わり一人を交代要員にし6人が、居間にタケさんのお腹の子を含めた6人の遺体が置かれ死臭が漂う中で補強した天井の柱に隠れてヒグマを待ち構えていました。
すると思惑通りヒグマが現れ討伐隊はタイミングを計っていましたが、こちらの動きに気づいたのかヒグマは家の前で立ち止まり、警戒して家の周りを数回廻ると山へと帰ってしまい、その後太田家に再び袈裟懸け模様のヒグマが現れるように仕向けますがヒグマは現れず、討伐隊は翌朝まで待ち構えましたが作戦は失敗に終わってしまいました。
12月13日、この三毛別羆事件の事態を収拾するために旭川の陸軍の歩兵隊30名が出動することとなりました。その頃袈裟懸け模様のヒグマは村人が居なくなった三毛別の民家の飼われていた鶏を食べたり、保存食を食べたり衣類や寝具をずたずたにするなどして荒らしていました。
そんな中不可解だったのは、このヒグマが女性が使用していた枕や衣類などばかりを荒らしていることでした。そして袈裟懸けヒグマは獲物が見つけられないことに苛ついていたのか、行動範囲を上流から下流に広げ警戒心も薄れていたため、討伐隊はチャンスかもしれないと撃ち手を下流に配置しました。
そしてその日の夜、警備に当たっていた一人が対岸の切り株がいつもより一本多く、かすかに動いていることに気付き報告を受けた菅警部が「人か熊か!」と大きい声で問いましたが返事はなく、菅警部の命令で撃ち手が発砲すると闇夜に姿を消したのでした。ヒグマを退治することは出来なかったものの、やはり姿を現したと手応えを感じていたのでした。
12月14日【山本兵吉】がヒグマを討伐
翌日の12月14日の明け方、対岸を捜索した討伐隊はヒグマの足跡と血痕を発見しました。被弾していれば動きは鈍くなるため、この機を逃すまいと急いで討伐隊を山へと差し向けることにしました。この討伐隊とは別に10日の深夜に袈裟懸け模様のヒグマの襲撃を聞き付け三毛別に来ていた山本兵吉さんというたくさんの熊を殺してきたマタギが討伐に加わることとなりました。
山本兵吉さんは討伐隊と別行動をし一人で山へ入りました。例のヒグマは頂上付近にある木に登り体を休めていて、意識は山を登っている討伐隊に向けられていたため背後にいる山本兵吉さんには気付いていませんでした。山本兵吉さんは音を立てないように近付くと近くの木に隠れ銃を構えました。
山本兵吉さんが袈裟懸けヒグマに向かって発砲すると、一発目はヒグマの心臓辺りを撃ち抜きました。しかしヒグマは山本兵吉にさん向かって立ち上がり睨み付けてきました。山本兵吉さんはすぐに次の弾を補填し二発目を発砲しました。
山本兵吉さんが発砲した二発目はヒグマの頭部を撃ち抜き、ようやく袈裟懸け模様のヒグマの退治は成功しました。銃声を聞き付け駆け付けた討伐隊はとてつもない大きさのヒグマの死体を見ると「やっと被害者の無念を張らせた」と胸を撫で下ろしたのでした。
討伐のその後
射殺された袈裟懸け模様を持つヒグマを見た討伐隊の男性達は怒りや憎しみを抑えきれず、棒で殴ったり踏みつけたり蹴ったりしました。そのうち誰からともなく万歳を叫びだし、討伐隊およそ200人の万歳三唱の声が山にこだましました。この討伐劇では討伐隊はのべ600人、アイヌ犬は10頭以上、銃は60丁が導入された前代未聞の討伐となりました。
このヒグマの死骸は討伐隊の男性達が山から引きずり下ろし農道から馬ぞりに積もうとしましたが、ヒグマの大きさに馬が驚き暴れてしまったため人がそりを引き始めました。するとこの事件が起きて三日間は晴天だった空が急に曇り始め雪が降り始め、次第に吹雪に変わりました。三毛別に伝わる言い伝えでは「熊を殺すと空が荒れる」とされていて、この現象を村人は『熊風』と呼び語り継がれていたのです。
猛吹雪の中、みんなで力を合わせてヒグマの死骸を1時間半かけて三毛別青年会館へ運び、解剖が始まりました。被害者の遺体を収拾すべくこのヒグマの胃を開くと、中からは赤い布や肉色の脚半やマユが着用していたブドウ色の脚半が髪の毛と一緒に出てきました。村人はわかってはいたもののやはり目の当たりにすると、悲しみを隠すことが出来ませんでした。
被害者の供養のためにヒグマの肉は煮て食べられたのですが、その肉は筋が多く硬く美味しくなかったそうです。ヒグマの皮は乾燥させるために板張りにし長期間さらされ、その後肝などと一緒に売却されその売り上げの50円は討伐隊から被害者に渡されました。
三毛別羆事件のヒグマを打ち取った【山本兵吉】
ここまではこの三毛別羆事件の予兆や経緯などをお話してきましたが、ここからは三毛別羆事件の袈裟懸け模様のヒグマを射殺した山本兵吉さんというマタギは一体どういう人物なのかや三毛別羆事件の生き残りのことなどを詳しくお話ししたいと思います。
【サバサキの兄ぃ】と呼ばれていた
現在は留萌群小平町鬼鹿田代になっている鬼鹿村温根という場所に住んでいた当時57歳だったマタギの山本兵吉さんは、若い時に遭遇したヒグマを持っていた鯖裂き包丁で刺し殺した経歴を持っており「サバサキの兄ぃ」という異名を持っていました。
山本兵吉さんが46歳の時に日露戦争が勃発し、山本兵吉さんも徴兵されました。その時に戦利品として持ち帰った軍帽とロシア製のライフル銃が山本兵吉さんのトレードマークとなっており、そのライフル銃で山本兵吉さんはおよそ300頭のクマを討伐しており、天塩国では非常に評判の良いマタギでした。
三毛別羆事件が収束し、山本兵吉が袈裟懸け模様のヒグマを射殺した夜に三毛別の男性たちは山本兵吉さんを囲んで酒を酌み交わしていました。その時に区長が村人から集めた謝礼金を山本兵吉さんに渡そうとしましたが、酒に酔っていた山本兵吉さんは「こんなはした金なんか受けとれるか!」と憤慨しトレードマークのライフル銃を屋根に向け発砲したそうです。
三毛別羆事件後、山本兵吉さんは家族を呼び寄せて三毛別に家を構え2~3年住んでいたそうです。山本兵吉さんは酒癖が悪く酒を呑んでは村人と喧嘩したり、妻に暴力をふるったりしていたものの酒を呑んでいないときは非常に面倒見がよく優しい人だったそうです。
事件の生き残り【大川春義】を弟子に
三毛別羆事件の生き残りで区長の息子・大川春義さんは三毛別羆事件で袈裟懸けヒグマを射殺した山本兵吉さんに弟子入りし、マタギの道へ進みます。山本兵吉さんにしっかり仕込まれた三毛別羆事件の生き残りの大川春義さんはその後ヒグマ撃ちの名手となりました。
これは三毛別羆事件の後に自分の中で「被害者一人につき10頭のヒグマを仕留める」という誓いを立てており、三毛別羆事件の生き残りの大川春義さんは生涯をかけて102頭を退治したのでした。マタギを引退した後は三渓神社に三毛別羆事件のために亡くなってしまった被害者たちの魂を鎮めるために、『熊害慰霊碑』を建てました。
三毛別羆事件のヒグマ【袈裟懸け】
三毛別羆事件で現れた袈裟懸けヒグマの『袈裟懸け』とはどういったものなのでしょうか?それは黒または茶褐色の体の一部に白斑模様があるヒグマの事で、この三毛別羆事件のヒグマも胸から背中にかけて白斑があったので『三毛別羆事件の袈裟懸けヒグマ』と言われています。
巨大・特異なヒグマ
三毛別羆事件で現れたヒグマは『袈裟懸けヒグマ』の中でもなかなか見ない大きさのオスのヒグマで推定年齢は7歳から8歳、体長は2.7メートルもあり体重は何と340kgもありました。その巨体のヒグマの手ももちろん見たこともない大きさで手の平の幅は20cm、後ろ足は幅30cmもあったそうです。そしてこのヒグマは立ち上がると3.5メートルもあったのだそうです。
冬眠を逃し凶暴な【穴持たず】とも
通常であればヒグマはこの三毛別羆事件が起こった冬の時期は冬眠しているはずなのですが、この三毛別羆事件のヒグマは何らかの原因により冬眠することが出来ず、またその巨体から寝床となる穴に入ることが出来なかった『穴持たず』ではないかと言われています。また『穴持たず』のヒグマは寒い冬では餌が取れず空腹になるため、凶暴化すると言われています。三毛別羆事件のヒグマもこの状態であったため普段は行くことのない人間がいる場所に現れ、三毛別羆事件が起こってしまったのではないかと考えられています。
人の味を覚え各地で人を襲い食べていた
この三毛別羆事件のヒグマが人間を捕食したのは、三毛別羆事件が初めてではないと言われています。六線沢という場所で三毛別羆事件が起こる数日前に雨竜群という場所で女性がヒグマに捕食されており、雨竜群から来たアイヌの夫婦は『このヒグマはあの時のヒグマに違いない。その証拠に腹から女性が来ていた赤い衣服が出てくるはず』と述べました。その他にも旭川という場所で女性がヒグマに捕食されており旭川から来たマタギは『このヒグマがあの時のヒグマならば腹から肉色の脚半が出てくるはず』といい、山本兵吉も『天塩という場所で女性を捕食したヒグマに違いない』と述べました。
実際にこの袈裟懸けヒグマの解剖で、赤い布や肉色の脚半なども出てきたことからこのヒグマは三毛別羆事件の前にも他の場所で女性を捕食していたことが判明しました。
三毛別羆事件後の六線沢
三毛別羆事件は山本兵吉が袈裟懸けヒグマを射殺したことにより収束しましたが、とてつもない大きさのヒグマの襲撃を目の当たりにした生き残りの村人たちの心や体に消えることのない傷を残しました。
それでは三毛別羆事件の後に六線沢の生き残りの村人達はどうなったのか、また三毛別羆事件の後に生き残りの村人達によって三毛別羆事件が復元された【三毛別羆事件復元現地】のことについて詳しくお話ししたいと思います。
無人となった村
袈裟懸けヒグマの射殺により三毛別羆事件は終わったものの、同じ村の仲間がヒグマに襲撃されるところを目の当たりにした生き残りの村人たちは心に深い傷を負ってしまい、何日も眠れぬ夜を過ごしました。
村の外に頼れる親族などがいる生き残りの村人達は早々に村を離れましたが、頼れる親族などがいない生き残りの村人達はヒグマに壊された家を修繕し、ズタズタにされた寝具や衣服はどうしようもなく、火に当たるなどして寒い冬を何とか越しました。
しかし春になっても生き残りの村人達は気力を取り戻すことはできず、家族をヒグマに殺されてしまった三郎さんはヒグマの襲撃にあった自宅を焼き払い村を出ました。その後も村人達は次々と村を去り、最終的には下流の辻家を除き六線沢は無人の村となりました。
【三毛別羆事件復元現地】が作られる
1990年に実際に三毛別羆事件のあった場所に町民の手によって復元された【三毛別羆事件復元現地】というのがあります。木が生い茂る森の中にひっそりと復元された【三毛別羆事件復元現地】は、三毛別羆事件があった当時の家屋や生活を復元したもの・とてつもない大きさの袈裟懸け模様のヒグマが太田家を襲撃した時の復元・事件の詳細が記載されている看板・被害者の慰霊碑などが復元されています。
この三毛別羆事件を復元した【三毛別羆事件復元現地】がある場所は当時を忠実に復元しているため、周囲に民家もなく実際にヒグマも出没することがありますので【三毛別羆事件復元現地】に行くときには十分な注意が必要です。
史上最悪の害獣事件
この見たこともない大きさの袈裟懸けヒグマが民家を襲撃した三毛別羆事件は日本で起こった害獣の中で史上最悪の害獣事件と言われています。日本で記録されている限りではこの前にも後にもこんな大きさのヒグマによる害獣は報告されていません。
筆者はこの三毛別羆事件で被害者となってしまった方々のご冥福を祈るとともに、もうこのような害獣事件が起こらないことを祈っています。