三代目山口組組長「田岡一雄」とは?ヤクザを超えた伝説の親分
三代目山口組組長「田岡一雄」、ヤクザを越えた伝説の親分として名高い山口組きっての雄をその人生を振り返りながらご紹介。 あの国民的スター美空ひばりを育て、プロレス協会副会長を務めながらも三代目山口組組長として駆け抜けた田岡一雄の華々しい任侠道を知ろう。
目次
山口組について
ヤクザといえば何を思い浮かべるでしょうか。
乱暴者、犯罪者…いわゆる無法者の犯罪者集団というものを想像するでしょうか。
またそれとは逆に、アウトローでありながらも義理人情に厚く、独自のルールを貫き通す暴力団を想像するでしょうか。
前者も後者も、あまり間違った想像ではありません。
少なくとも、ヤクザとは表社会においては暴力を背景に犯罪に従事している者をさします。
ですが、そんな恐ろしい集団の中にも傑物と呼ばれるような男がいます。
山口組三代目組長、田岡一雄。
彼は山口組を全国区に広げ、堅気にもヤクザにも慕われる大親分でありました。
出典: http://www.akb48matomemory.com
任侠
任侠とはヤクザとよく混同されがちですが、任侠とは本来仁義を貫き助けを求める人のために体を張って救済に身を投じる自己犠牲的な精神やその人の性質を指すものです。 理念であり生き方の理想であります。 現代的には右翼、ヤクザと重複する面は薄く信念を違えています。
出典: http://www.christiantoday.co.jp
山口組
兵庫県神戸市に本部を置く日本最大規模の指定暴力団。
44都道府県に系列の組織を置いており、その中でも住吉組、神戸山口組、稲川会が国家公安委員会から主要暴力団の指定をうけています。
アメリカ経済紙「フォーラム」からは世界屈指の犯罪組織でありその総収入は66億ドル、この経済力はロシアンマフィアに次ぐ勢いで、イタリアマフィア最大組織力を凌ぎます。
現在では神戸山口から任侠山口組が分裂してしまったことにより山口組は現状三組に分かれることになりました。
出典: http://kokusaipress.jp
山口組組織図
二つに割れた山口組ですが、更にここから神戸山口組から任侠山口組が分裂することになります。
山口組三代目田岡一雄とは
山口組三代目組長、田岡一雄。
不出生(これ以上の親分はもういない)の親分とまで言われ現在でも慕われている伝説の親分で、現在山口組が最大規模の勢力となったのは彼のおかげでもあります。
三代目に襲名した際にはたった30名だった山口組をおおよそ一万名、傘下の組織500団体以上にまで急成長させた山口組中興の祖とまで謳われた男であり、その人生は多くの動画や映画などの題材になりました。
田岡一雄の自伝
田岡一雄は自らの人生を自伝として書籍に残しており、昭和のヤクザの在り方や彼の人となりを知るような作品として名書籍として人々の目に残り続けています。
書籍を出すきっかけは、当時彼の事を書いた評伝に対して「事実と違うことが多すぎる」と不満を持ったことでした。
自ら「アサヒ芸能」で書いていた文章をまとめ、現役のヤクザの親分が自伝を発表、即時映画化したことで世間を非常に賑わせました。
出典: http://yakuza-manga.seesaa.net
田岡一雄のプロフィール
出典: http://blog.livedoor.jp
田岡一雄の身長について
田岡一雄の自伝では身長は168㎝と書かれていますが、実は152㎝ほどしかなく子供が非常に苦手だったとあります。
地元では「クマ」と呼ばれるほど恐れられていた田岡一雄ですが、本の方が本当であるとするならば当時にすればそれなりに大きな方であったと予想されます。
田岡一雄はヤクザの親分としてはやや範疇に収まり切れないほど、行動力が旺盛で活動範囲もまた、広大な人でありました。
ヤクザといえば、常に目つきが鋭くいかにも乱暴そうなイメージを持たれる方も多いと思われますが、田岡一雄はそれは気のいい御仁であり、ヤクザという職業について一石投げ続けていた方でありました。
「私は常日頃、『仕事を持て』『商売をしろ』と言い続けてきた、山口組組員は世に言う暴力団であってはならない」
という任侠精神を掲げており麻薬撲滅同盟を組むなど当時のヤクザにしては潔癖な性格だったようです。
山口組というものを一つの悪の受け皿として、浄化機関として運用しようと尽力し続けていた方でありますが、現在大きく肥大化した山口組の末端にまで届かなくなってしまいました。
山口組の三代姐
田岡一雄が結婚したのは昭和11年11月のことでした。
深山文子、結婚し田岡文子なる女性が妻として、田岡一雄の破天荒な人生を支え続けることとなります。
山口組三代目組長の補佐を生涯し続け、田岡一雄が倒れて亡くなってから四代目が決まるまでの長い間三代目姐として山口組を切り盛りし続けました
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田岡一雄が山口組に入るまで
1913年、その男は生を受けました。
徳島県の貧しい小作農家の三女二男の内、次男として生まれた田岡一雄は、父を病気で亡くし母の手一人で育てられました。
1919年に過労によって母が死亡し、兵庫県に引っ越し。
そこで彼は兵庫尋常高等小学校高等科へ進学し、彼の運命の転換点である山口組二代目組長、山口登の弟秀雄と知り合うことになるのです。
田岡一雄の複雑な育ち
貰い子として貰われた田岡一雄と、叔父たちとの間はあまりよろしいものではありませんでした。
酒飲みだった叔父からは常に暴力を受け、叔母からは貰い子ということで冷遇され続けていました。
学校を卒業したのち、彼は地元の造船所に就職しましたが職場で上司とトラブルになり、上司を殴ったことで退職することになりました。
造船所をやめた彼は、他に就職のあてもなくぶらぶらと彷徨い歩き、そこで同級生だった二代目組長の弟である山口秀雄と再び再会することとなるのです。
出典: https://andohiroyuki.com
酒飲みの叔父、冷たい叔母、うまくいかない職場
時代は世界経済恐慌真っ只中、日本でも失業者が続出する中田岡一雄はその混沌とした時代の波に身を投じることになります。
造船所を辞め、山口組の二代目組長の弟である秀雄の誘いにより田岡は山口組の寄宿舎に住みこむようになりました。
これが田岡の極道、ヤクザとしての第一歩となり、三代目になるための道筋としての第一歩となりました。
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夜警とクスボリ
二代目山口組の寄宿舎に世話になる一方、小遣い稼ぎの一環として田岡は夜警の仕事に従事するようになりました。
その中で彼はクスボリといううだつの上がらない不良の集団に組みするようになり、目を指で突くという喧嘩殺法により仲間内から「クマ」という異名で恐れられるようになります。
自警団発足し三代目襲名に推される
こうして夜警とクスボリとの間を行き来しながら山口組の寄宿舎で寝泊まりする毎日を送っていた田岡ですが、彼が山口組に認められたきっかけとなる事件は1930年に置きました。
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港座事件
二代目組長山口登の手腕に置いて山口組は港湾事業から相撲、浪曲界にまで幅を利かせるようになります。
そのひとつである山口組が用心棒をしている芝居小屋で、田岡は小屋主の態度に腹を立て芝居中にも関わらず土足で花道に乱入するという事件を起こしました。
このことで田岡は山口登の舎弟である古川松太郎に預けられ、ヤクザ見習いとして極道修行に励むことになったのです。
また、1937年2月神戸港で労働者たちの待遇改善について起こった海員争議では海員組合本部に田岡が乗り込み、組員幹部を持っていたドスで切りつけ傷害罪で逮捕。
懲役1年で実刑判決を受けたのち、服役後に山口組二代目組長山口登の盃を受けて正式に山口組入りを果たしました。
出典: http://parupuntenobu.hatenablog.jp
田岡の犯した殺人事件
山口組に正式に組員入りした田岡でありましたが、1937年2月に彼は初めて殺人事件を起こしてしまいます。
同じ組員だった大長八郎が山口組事務所に乗り込んできたのです。
彼の兄である大長政吉が山口組が用心棒をしているはずの店の売り上げを支配人を殴って奪い取ったとして山口組からの制裁を受けて大けがをしたことに立腹しての行動でした。
田岡は彼を日本刀で切り付け、殺してしまうのです。
田岡は同日に出頭しており、懲役八年の実刑判決を受けました。
三代目山口組組長襲名
田岡が服役している最中に、二代目組長山口登は極同組織籠寅組の襲撃により負傷し、1942年10月にこの世を去りました。
このことにより、山口組は一時解散状態に陥ります。
当時若頭だった澄田実が山口組から去ったため、山口組の再建は不可能かと思われましたが、田岡が「皇紀2600年」の恩赦で2年減刑されたことにより、田岡の元に元組員たちが集まり、田岡をリーダーとした「山口組兄弟会」を発足。
これ以降三代目として山口組の再建と運営に田岡は生涯を費やすこととなりました。
当時の三代目率いる山口組の規模
当時の山口組は離散状態であり、田岡の元に集まった組員は33名。
二代目山口組組長が率いた組員の数が50名以上だったことを考えると大部分が山口組に見切りをつけたと言えます。
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襲名式
正式に三代目を襲名するのは翌年の7月の山口組舎弟会で、二代目組長の舎弟であった組の長老たちがそろって田岡を推薦したからでした。
襲名式には組員33名だけの出席となり、伝説の親分の襲名式としては少し寂しい幕開けとなりました。
三代目として山口組の勢力拡大
三代目としての活動は多岐にわたり、特に港湾業務に対して精力的に力を注ぎました。
神戸港の荷役業者15人と共に「港洞会」を発足、船内荷役業「甲陽会」を設立し、1956年には全国の港湾荷役業者を集めた全国港湾荷役振興協会を設立しました。
設立目的として、港湾で働く人々の生活の向上と団結を掲げ、田岡はそこで副会長兼神戸支部長に就任することとなります。
その傍ら、芸能、相撲、プロレスなどを興業分野をあつかった山口組興業部門は一本化し神戸芸能会社として立ち上げ、この港湾荷役事業と芸能会社は山口組の大きな収入源になりました。
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芸能プロダクション神戸芸能社社長田岡一雄
興業部門を一本化したことで設立した芸能プロダクション神戸芸能社ですが、1958年にはプロレスラー力道山の人気に沸いたプロレス協会の副会長として、そしてあの希代の歌姫美空ひばりの所属する「ひばりプロ」の社長として、興業ビジネス部門を大きく大きくさせていきました。
出典: http://diamond.jp
プロ野球への貢献
戦後の混迷期にあった野球は、地回りの興業組織の機嫌を伺わなければ開催できませんでした。
プロ野球を愛していた田岡が「野球は国民的娯楽である」と言い、山口組が全国進出したのち野球団体が興業組織に機嫌取りをしなくていいよう手を尽くしました。
美空ひばりとの関係
大スターと名高い美空ひばりが、「神戸のおじさん」と呼んだのが田岡一雄でした。
当時の芸能界の興業にはヤクザという存在が大きく幅を利かせていました。特に地方の巡業にはヤクザの庇護がなければ難しく、庇護のない状態で地方回りをしようとすると地元ヤクザからの酷い嫌がらせがあり、公演もままならないことがありました。
出典: http://densetsunavi.com
家族ぐるみの仲
華やかなスター街道を歩んでいた美空ひばりですが、彼女の美しい歌声の裏には必ず山口組の影がありました。 美空ひばりの熱狂的なファンからの塩酸攻撃、過激な報道、そして不肖の弟の存在、彼女が大スターとしてある中で数々の事件が起こりました。 そんな中、彼女を支え続け守っていたのが、皮肉にも山口組でした。 中でも田岡は美空ひばりの才能を愛し、家族ぐるみで彼女と彼女の弟を可愛がり続けました。 その仲は決して険悪なものではなく、田岡の当時幼い息子が美空ひばりを姉と慕うほど親密なものだったといいます。
吉本興業社長とのレコード会社乗っ取り容疑
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レコード会社の乗っ取りは、吉本興業社長林正之助が主導で起きた出来事でした。
経営不振であったレコード会社「マーキュリーレコード」を山口組の威を借りて林が起こした恐喝事件で、いかに当時吉本と山口組が親密な関係であったかを指します。
山口組の改革
山口組が大きく勢力を伸ばす一端として、組員達に合法的な収入を得ることを勧めたことにあるでしょう。
それまでヤクザ達の中で合法事業や収入を得るものは少なかったのですが、田岡は舎弟や若衆に積極的にこれを勧め、合法事業や収入を得るものには非合法的な仕事には一切つかせませんでした。
田岡は、山口組を堅気の人からも好かれるような組織へと変えようとしていたのです。
出典: http://www.zenkyo.biz
ボランティアヤクザ
実は山口組は積極的にボランティアを行っています。
イメージ戦略などが主に目的でしょうが、このことにより地元などの繋がりを厚くする狙いもあるようです。
現代でも熊本地震や東北大震災などで、山口組は積極的に支援をし続けています。
三代目の先見の明
公営競技———競馬や競艇など———の盛り上がりにより、ヤクザの収入源として賭場はあまり振るわなくなりました。
そのため、主要の収入を芸能社や港湾事業に置き換えた田岡の先見の明により山口組はに美空ひばりや力道山などの数々のスター、そして港湾荷役業者たちによって合法な手段で莫大な収入を得ることができたのです。
出典: http://newvista-og.hatenadiary.jp
賭場
ヤクザの主要な収入といえば、麻雀や花札などの対人の賭場でありましたが競馬や競輪、競艇などが始まるようになり、公営競技によって衰退しました。
出典: http://www.tokyo-toyopet.co.jp
ハロウィン
ボランティアのほかに、山口組は地元とのふれあいの一環としてハロウィンには子供にお菓子を配るようになりました。
山口組総本部はもともと高級住宅街が近く外国領事館員や駐在員の子供がハロウィンに山口組を訪れ、お菓子をねだることから最初こそ小遣いをやっていたそうですが、田岡がハロウィンについて調べさせ、その行事を知った以降お菓子を配るようになったのがはじめです。
三代目組長田岡一雄の合法的な力と非合法な力
こうやって田岡は山口組を大きくするために、様々な会社を建設することで合法的に莫大な収入を得ることに成功しました。
また、この裏では様々な抗争があり、「別府抗争事件」「小松島事件」「明友会事件」などで山口組の戦闘力を見せつけ、戦後混乱期に勢力を増大させた在日朝鮮人などの外人勢力を壊滅させるなどその非常識なまでの資金力、組織力、戦闘力を見せつけました。
出典: http://jirocigar.com
三代目としての意識
抗争と勢力拡大を繰り返し、妻に時に心配をかけながらも田岡はとうとう山口組を全国へと知らしめることができました。
出身である兵庫で、幼いころ何度も苦しい想いを抱きながら暴力に耐え、組の為に手を汚すこともためらわなかった田岡にとって汚れのない金、というものはいかに価値があるものなのか、ヤクザでありながら潔癖ともいえるほど合法、非合法の二面を分けたのはそこにあるのかもしれません。
出典: https://thepage.jp
田岡の名言
「稼いで、使う。人生それだけのことやろ。がんばりや」
田岡一雄、麻薬追放国土浄化同盟の発足
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麻薬
向精神薬や幻覚剤の事を指し、本来なら医者が処方する薬の一つですが、ここでは依存性や致死性を無視して非合法に扱われる薬の事を指します。
また大麻や覚せい剤なども含める総称でもあり、これらの使用は犯罪に値します。
1963年、田岡は麻薬の撲滅に身を乗り出します。
右翼の一人であった田中清玄との出会いをきっかけに、田岡は麻薬への考えを更に厳しくすることを決意しました。
当時、組織内、そして芸能人にも麻薬依存者は存在していたことが動機であったと言われ、田岡自身もそのことについては肯定しています。
立教大学教授松下正寿をリーダーとして「麻薬追放国土浄化同盟」を立ち上げた田岡は岸信介を筆頭とした大物政治家をはじめとした芸能人、財界人、スポーツ選手から文化人まで多彩な人脈を集って麻薬の追放に尽力しました。
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田岡の麻薬に対する名言
「マフィアのボスでも心あるものは麻薬を禁じとる。麻薬は人間を破滅させる。
組の中には親分のいう事をきかんやつもおる。絶滅は難しいかもしれん。
でもわしが禁止言えば手を出す奴も少しは減るやろう。それでええんや」
警察と山口組との第一次頂上作戦
こうして着々と表社会、裏社会ともに地位を上げていった田岡でありましたが、彼にも苦難の時というのはありました。
代表されるのは「第一次頂上作戦」とよばれる警察との対立です。
組員一万を超し、日本最大の暴力団となった山口組を危険視するものが増え、警察は山口組に集中的に取り締まりを行うことを決定しました。
警察は山口組集中取締本部を設置し、山口組の壊滅を目指したのです。
その作戦は1965年から翌年にかけ、山口組最高幹部が次々と逮捕され田岡自身、日本プロレス教会副会長の座を退いたことをきっかけに開始されました。
出典: http://www.city.kobe.lg.jp
港湾事業へのメス
資金源のかなめであった港湾事業へ警察のメスが入り込み、傘下の甲陽運輸にも司法の業務監査が始まりました。
このことから山口組は完全に港湾事業から手を引かざる負えなくなり、田岡自身も甲陽運輸の社長を辞任せざる負えませんでした。
またそのまま雪崩れるように、全国港湾荷役振興協会の解散、国税庁の家宅捜索から甲陽運輸の脱税疑惑まで持ち上がり、田岡はこのことを「一番つらい時期だった」と自伝で語っています。
田岡はこののち、全国港湾荷役振興協会の問題による心労で、上京中に体調を崩して倒れてしまい入院することになりました。
兵庫県尼崎市の関西労災病院にて闘病生活を送る中、警察の激しい追及は止まらず、田岡が回復しきったのは倒れてからの7年後でした。
出典: http://www.hirobe-kouki.co.jp
三代目率いる山口組と警察との因縁
ヤクザと警察の関係は、最初からもともと悪化していたわけではありません。
意外なことに手と手を取り合い、戦後混迷期の際は朝鮮や韓国などの強盗や略奪から日本人を守るということで利害が一致していた時期もあり、今では考えられないことですが、それなりに良好な仲を築いていた時代もありました。
ですが、田岡の山口組を全国区へと至らしめた手腕や、その勢力の大きさ、そして何より日本が混迷期から抜けて平和になっていったことから警察にとって取るに足らないチンピラの集いから山口組は脅威的な犯罪組織へと変わっていったのです。
出典: http://koberun.blog56.fc2.com
一日署長
実は田岡は、一日署長として神戸水上署で働いたことがあります。
ヤクザの大親分である田岡ですが、その反面神戸の港湾事業を担う社長として社会的に評価されており、人柄も礼儀正しく紳士的な人であったと証言が残るほどの好人物であったため、それなりに歓待を受けて勤めに従事したそうです。
山口組傘下佐々木組の起こした抗争により負傷
出典: https://www.houdoukyoku.jp
警察からの激しい取り調べ、主要収入源からの撤退など様々な艱難辛苦にあった田岡ですが、それでも山口組の勢力拡大は止めることがありませんでした。
ですが、1978年7月11日に京都のクラブ「ベラミ」で傘下の佐々木組と対立していた大日本正義団の組員に撃たれ、田岡が負傷したことにより対立が泥沼化してしまい、第三次大阪戦争と呼ばれる拳銃の乱射事件が勃発。
この戦争は11月まで続き、山口組が終結の会見を開くまで世間を騒がせ続けることとなります。
山口組三代目組長田岡一雄の死
1981年に、田岡は急性心不全で亡くなりました。
享年68歳、葬儀には多くの著名人が名を連ね、今では考えられないほどのヤクザと芸能界の繋がりを見せました。
西郷秀樹、郷ひろみ、小林幸子、ジュディ・オング、石野真子。
俳優女優からトップアイドル、大物歌手まで醜聞を恐れずこぞって集まり、死を悼んだ大親分田岡一雄。
彼に世話にならなかった芸能人はいないというほど愛され、芸能界だけではなく大物政治家や神戸市の市長まで挨拶にきたというほど人望の厚かった昭和のヤクザの親分の人生は、最後まで人が絶えずに終わることとなりました。
出典: https://www.gojyokuru.net
田岡一雄の墓
田岡家の墓は神戸市灘区にある長峰霊園にあります。
最初こそ伝説の親分ということで特別な墓を作ろうという動きが山口組にもあったようですが、近隣住民の反対もありいたって普通の墓に収められています。
現在でも田岡の眠るこの墓をお参りに行くことには重大な意味があるとされており、山口組が分裂した今非常に注目されているスポットの一つです。
三代目組長の後を継ぐもの
四代目の跡目であった若頭山本健一が死亡したことで、跡目争いが過熱化し、しばらくの間組長不在の時期が続きます。
この期間の間、田岡の妻田岡文子が三代姐として君臨し山口組を切り盛りしていました。
結局跡目争いは田岡の死後3年続き、四代目組長竹中正久に決まってなお、その遺恨は続きました。
出典: https://nyuyoku-kyoukai.com
田岡一雄の遺族
田岡の妻文子こそ、ヤクザの妻として山口組を切り盛りしていましたが、田岡の息子田岡満は芸能社で後述する映画のプロデュースを行い、成功する傍ら父の跡を継ぎ甲陽運輸の社長として経営に励みました。
また異母妹である田岡の娘由伎は、事業家として成功し、兄を助けるように甲陽運輸の監査役として勤めています。
由伎には一人息子の龍之介という子がおり、田岡一雄にとっては孫に値します。
当時には最大八人の妾がいたとされる田岡一雄ですが、家族からは愛され、尊敬される父親だったと子供たちからは語られています。
三代目組長田岡一雄を題材とした作品
出典: http://blog.livedoor.jp
任侠の精神を持ちながらも警察との軋轢やままならぬ組織経営に苦しみ、激しい生涯を駆け抜けた刺青のない親分。
いまだなおカリスマ性を謳われる田岡一雄は様々な映画や動画の題材とされました。
その中での代表作は彼の息子がプロデュースした作品「山口組三代目」、そしてその続編である「三代目襲名」は大ヒットし、主演高倉健もこれで大きく俳優道を邁進することとなります。
長らくヤクザが手がけたとしてDVD化しなかったこの両作品ですが2016年に東映の英断によりDVD化が実現しました。
2014年に死去した高倉健、2015年には山口組分裂と狙ったかのようなタイミングですが、元々追悼企画としてDVD化が決定したのであり、本来は予定がなかったことがあげられています。
出典: http://www.jprime.jp
高倉健と田岡一雄
田岡一雄は「山口組三代目」「三代目襲名」とどちらの撮影現場にも出入りしており、当然ながら主演の高倉健とも面識がありました。
高倉健と江利チエミとの結婚式にも招待されるほどの仲であったらしく、田岡が危篤時の時も面会謝絶であったにもかかわらず高倉健は彼を見舞いに行っています。
田岡一雄とは
いかがでしたでしょうか。
義理人情に厚く、波乱万丈な生き方をした田岡一雄。今の秩序のないヤクザ達を見たら彼は今一体どういう事をおっしゃるでしょうか。
ヤクザというものの弾圧が強まり、彼の愛した山口組も変わりつつある中、昭和の愛されたヤクザのドンにそれでも色濃くその人生に夢見るものは耐えません。
「日本が新しく生まれかわったと同時に、極道も生き方を変えていくべきではないのか。それには各自が正業を持つことである。魚屋でもいい、喫茶店でもいい、駄菓子屋だっていいではないか。一応生活の安定があれば悪事に走るものは少ないはずだ」
そういった彼の言葉は、今の日本にどう響くのでしょう。