2021年05月10日公開
2021年05月10日更新
「奴隷船」が怖すぎ…黒人奴隷貿易と反乱の歴史
17世紀~18世紀にいたり、長く続けられた黒人奴隷を商品とした奴隷船の罪深い歴史が今あきらかに。 船内の劣悪な環境から不当な待遇についての黒人たちの反乱、黒人に対する宗教的差別意識、奴隷解放に至るまでの凄惨な恐怖の歴史を皆様に詳しくご紹介します。
目次
最初に
映画「アミスタッド」
「アミスタッド」という映画はご存知でしょうか。
黒人奴隷をあつかった映画であり、あのスティーヴン・スピルバーグが描いた歴史的傑作と名高い映画です。
奴隷とは、人権や自由が認められず人間でありながら他人の所有物として扱われる者のことを指します。
戦争や権力のはざまで奴隷は生まれ、商品として、道具として、その命を消耗させられてきました。
その忌まわしい奴隷という制度に一番被害を受けたのは黒人たちでした。
今回は黒人奴隷と、奴隷船にまつわる話をご紹介していきたいと思います。
奴隷と歴史
売買される奴隷
奴隷という制度はあらゆる時代や歴史に幅広く確認されており、その形態は様々です。
古代ギリシアなどでは紛争に負けた国の成人男性を殺害し、女子供を奴隷にしたとされてます。また中国などでは奴隷を神の生贄にささげる風習もあり、実は日本でも弥生時代には生口と呼ばれる奴隷身分が存在を確認されています。
実は歴史的に見て古代の奴隷制度は中世~近代のものに比べてそこまで悲惨な待遇にはなっておらず中には大切な労働力として「高価な財産」として扱われていることも多かったようです。
ですが歴史が進むにつれて、奴隷の扱いというのはどんどん悪化していき、人間としての人権などを無視した徹底的な差別や迫害が始まりました。
その反面、未開拓地の開拓やプランテーション農業などで奴隷の需要が高まっていき、奴隷狩りなども行われるようになりました。
その煽りをもっとも激しく受けたのがアフリカやアメリカの黒人たちであります。
黒人たちの文明
アフリカン・アメリカン文化
奴隷貿易により多くの黒人が奴隷へと身分を落とされることで、黒人たちの特有の文化は大きく損なわれることになりました。
ですが、彼らは奴隷になっても自らの民族性を忘れない様に様々な抵抗を試みました。その例としては宗教、音楽、踊りに口頭伝承などです。
アフリカで伝わっていた民話の登場人物を横暴な白人と敏い黒人に置き換えたり、即興的に讃美歌やヨーロッパ起源の音楽を元に自分たちの音楽を作り替えたりと様々な手段で自分たちの尊厳を守ろうとしていました。
白人たちの中には、こういった娯楽を取り締まるものもいましたが大抵は労働の気晴らしとして黙認されていました。
ブラジルで有名なサンバの踊りも、元をただせばアフリカ起源のダンスだと言われています。
3つの奴隷制度
奴隷制度には大まかに3つ種類があり、自然奴隷制度、宗教的奴隷制度、そして黒人奴隷制度です。
前者二つは確固とした歴史があり、宗教的奴隷制度にいたっては現在も続いている制度になります。
ですが、それらは奴隷の人権を大幅に無視したものではなく、自然奴隷制度は「戦争」ありきであり、宗教的奴隷制度は「思想」ありきです。
黒人奴隷制度は「奴隷市場」で売り買いされる商品を扱うルールであり、上記二つのように社会的に組み込まれた制度ではなく黒人という人種を不当に貶めるものでありました。
自然奴隷制度
自然奴隷制度
しばしば虐待の対象になることもあったようですが、いくつかの保護法があった時代もあり場合によっては奴隷という身分から解放されることもありました。
古代ギリシア、ローマ帝国や古代アフリカは敗戦国や占領した土地の民を、命を奪わない代わりに農奴や家事手伝い、召使奴隷として採用していました。
ですが、身分としては奴隷であっても待遇はそこまで悪くはなく知識をもった人物であれば高値で取り扱われ好待遇を受けることも多かったようです。
また、知識を持たない奴隷であっても雇い主の意向によって労働内容に沿った教育を受けることが可能であったようです。
宗教的奴隷制度
宗教的奴隷制度
宗教において奴隷の存在が公認されて社会的に取り込んでいるものを宗教的奴隷制度といいます。
ヒンズー教のカースト制度がそれにあたり、カースト制度は厳格な身分制度で構成されています。
上から司祭者、王侯・武人、庶民、奴隷と並んでおりこれらの制度はヒンズー教の思想理念から、輪廻転生観によって基盤が形成されています。
過去の生によって得た罪などの大きさによりどこのカーストにいれられるか決められ、現在の生ではこの境遇を受け入れ次の生につなげるように促されています。
黒人奴隷制度
黒人奴隷制度は、奴隷を「商品」をあつかう上での制度です。
黒人たちは奴隷商人につかまると家畜をあつかうように焼き印を押され、奴隷であるという証を刻まれます。
転売などにかけられた場合は、最初の印とはまた別の印を刻まれていきました。
奴隷商人たちの「商証」を入れられた黒人たちは奴隷市場に出されて競りで落とされて買われていきます。
この制度は奴隷売買を目的として国が行っていたこともあり、世界でも例を見ないほど大きな奴隷制度となり、世界を揺るがすこととなりました。
奴隷への思想
奴隷への思想というのは国どころか個人ごとに違い、その定義は古代から議論の的となっていました。
アリストテレスは「生命のある道具」と呼び、マルクス思想ではスターリンの定義が有名でしょう。
ですが、奴隷というものが大きく形を変えた奴隷貿易の後、奴隷というのは蔑称であり人間性を大きく否定した言葉になりました。
奴隷の解放運動がおこり、奴隷解放宣言が行われた後にもその差別的な思想はいまだ根深く我々の中に染みついています。
人種差別、幼児虐待、様々な暴力と恐怖に密接に関係しているこの制度の残した禍根は今も我々の首を絞め続けています。
黒人への根深い差別
黒人差別
黒人差別は奴隷制からの影響も多々あり、いまだに続く根深い問題です。
人種差別の中でも激しいとされる黒人差別は、たとえ見た目が白人でも親や親せきに一人でも白人がいれば混血とみなして迫害するほどひどいものでした。
学校が黒人の子供の受け入れを許可した数日後に爆弾が学校で爆発したり、人種差別に対して否定的な学生を差別主義者が襲ってリンチを行う、黒人の乗る車を襲い正当化するなど、とてもではありませんがまともでない扱いが黒人に対して当たり前であると考えている人も多かったのです。
黒人に吹く逆風の中、アメリカで初の黒人大統領が生まれた際は暗殺が懸念されるほど一部の白人たちの中で強い反発が生まれるほどその差別感覚は彼らの中で根付いており現在も黒人差別は続いています。
黒人奴隷貿易
黒人奴隷制度は3つの奴隷制度の中で一番大きな規模を誇り、中でも最も規模が大きいとされたのがアフリカとアメリカを繋ぐ奴隷貿易でした。
この奴隷貿易は15世紀~19世紀末まで続き、この400年の歴史の中で送り込まれた黒人奴隷の数は100万を超えると言われています。
少なくとも2万人が年間に奴隷の身分に落とされアフリカからアメリカへと送り込まれていたのです。
では、なぜそもそもアフリカからアメリカまで黒人奴隷は必要とされて運ばれてきたのでしょうか。
アメリカも決して小さな大陸ではありません、先住民をとらえるなどして農作業に従事させるだけの力はヨーロッパにはありました。
ですが、その試みがうまくいかなかったからこそ黒人奴隷は非常にアメリカという新大陸を開発するのに必要な商品だったのです。
ブラック・インディアンとの対立
アメリカにいた先住民、インディアン達はヨーロッパの人々の期待に答えることはしませんでした。
最初に労働力として期待され奴隷の身分に落とされても、インディアン達は抵抗をやめなかったからです。
先住民との争い
インディアンが奴隷に向かなかった理由として彼らの社会的レベルが氏族レベルであったことからそもそも定住による勤労は不向きであり農耕労働は暴力などでの強制を試みても彼らがおとなしく従うことはありませんでした。
黒人への西洋宗教的観念
「隣人を愛せ」とキリスト教は謳いますが、キリスト教は奴隷制度を否定する宗教ではありません。
特に原理に立ち帰れば、キリスト教ほど異教徒に厳しい宗教もなかなかないのではないでしょうか。
キリスト教を国家宗教として挙げている国として、フランスなども5~6万の奴隷を抱えていたとされています。
そんな中、当時の白人を後押ししたものとして「ローマ法王」のお墨付きと創世記「カナンの呪い」にあります。
当時現地の黒人たちはキリスト教を知らず信仰をしませんでした、そのことに対して白人はローマ法王に対し「異教徒は人間であるか」という質問をなげかけたところ「キリスト教を信じないものは人間ではないため奴隷にしてもよい」と答えました。
またこの正当性として「父ハムが神の愛を受けたノアが酔いつぶれて裸になって寝ているところを目撃してしまい、子であるカナンが激怒したノアから兄弟に仕える最も卑しい奴隷であれ、と呪われた」ことがあげられています。
カナンの子孫
カナンの子孫が、黒人であるからこそ彼らは奴隷としての姿が正しいとされたのです。
黒人奴隷の必要性
インディアンが使い物にならないとされる、奴隷としての次の候補に選ばれたのが黒人でした。
力が強く、従順で逞しいが性格が温和であるとされた彼らは、インディアン以上に奴隷として最適であるとみられました。
またアメリカでのインディアンの奴隷化はヨーロッパの人々が持ってきてしまった疫病によりインディアンが激減したことにより頓挫しており、新大陸の開発には至急に大量の人手が必要だったのです。
安定した供給源でありなおかつ合法的に奴隷制が生まれたこと。
そして安定して大量に奴隷を供給できる奴隷市場を得られたことにより黒人奴隷という商品は盤石となったのでした。
インディアン激減
アメリカに白人が乗り込むことによって持ち込まれた病気は天然痘や腸チフスなど、ヨーロッパでも猛威を振るいました。
特に南アメリカに住んでいたインディアンは免疫がなかったため2/3がこの病で亡くなったとされています。
奴隷船の出港
奴隷を得る方法としてはいくつかあり、一番に候補にあがるのが誘拐と拉致でした。
中でも効率的とされていたのが、アフリカの有力な部族に弱小の部族を襲わせ、彼らに連れてこさせることでした。
取引の材料としては銃などが使われていたとされています。
この際に使われていた海岸はギニア湾。
ポルトガルをアフリカ西岸に沿い南下、そして東に回りこんだ場所にありアフリカ内陸から奴隷をかき集めそのまま海岸から船に詰め込んで奴隷船でアメリカまで持っていくのに適した海岸だったとされています。
今でもギニア湾の海岸は地名として「奴隷海岸」とつけられており、他にも黄金や象牙を盗み出して積んだことから「黄金海岸」「象牙海岸」、また「穀物海岸」とも呼ばれているいわくつきの海岸です。
この海岸から集められた悲運の奴隷たちは奴隷船へと乗り込んでいったのです。
貿易商人の黒人に対しての奴隷狩り
奴隷狩りはまるで動物を狩るように行われました。
男女関係なく無差別的に浚(さら)っており、浚われた黒人奴隷たちは奴隷海岸で何日もの間奴隷船が着くのを奴隷貯蔵庫で待たされ続けることとなります。
奴隷狩り
奴隷船に使われていた船
海岸にやってきたガレオン船はけして上等な船とは呼べません。
当時の奴隷貿易に使われた船の中には100トンの船に414人も載せたという記述もあります。
100トンクラスなら全長30m、黒人奴隷たちは男女性別関係なく縄でつながれぎゅうぎゅう詰めに積み込まれていたということです。
棺桶ガレオン船
三角貿易で使われたガレオン船の構造が書かれた船図、いかに黒人奴隷がぎゅうぎゅうに詰められていたかがよくわかります。
船への積み込み
船の積み込みは決して楽なものではありませんでした。
当然ながら自分の人生がかかっている為、抵抗するものも少なくなく、中には海中に身を投げて自殺を図るものもいました。
この時点で自分がどれだけ劣悪な環境に置かれるか、奴隷たちは本能的に理解していたのです。
積み込みに抵抗する
一度の船旅での奴隷の死亡人数
一度の航海で死ぬ黒人は80%を超えていました。
150人乗せて、100人が死んだということもよくあることであったらしく劣悪な環境で生き残る奴隷は多くはなかったようです。
奴隷の死亡率80%
生き残るのは3人に1人、死んだ黒人は全て海に捨てられていきました。
当時の船旅
黒人奴隷にとって船旅はまさしく死の旅路でありました。
前述したように死ぬのは半数以上、当時普通の船旅でも過酷を極めたというのに、奴隷たちを乗せる奴隷船がまともな運航を行うわけもありませんでした。
船の運航
当時の船旅は長距離であり、長機関であったため過酷を極めました。
食事はもちろんのこと衛生面的は水夫や乗客でも気を遣わなければならず、木造の船特有の軋みや水漏れに苦しめられたと言われています。
そのまま一直線にアフリカからアメリカにはいけず、島にこまめに立ち寄りながらの運行になりました。
ですがそれでも船内は悪臭がひどく、鼠が走りまわるなど衛生面は最低だったようです。
ガレオン船の運行
突発的な嵐に対応できずに、大きく流されることも多かったのです。
黒人奴隷貿易を結ぶミドル・パッセージ
ミドルパッセージとは、大西洋間奴隷貿易で黒人を輸送する際に使われたアフリカから南北アメリカ大陸までの道筋です。
アメリカにつけば奴隷たちは売却され、そこでヨーロッパへと搬出するたばこや砂糖、綿花などと交換されました。
三角貿易への道筋
三角貿易の航路
三角貿易は3つの国で成り立っていました。
アメリカ、アフリカ、そしてイギリスを代表としたヨーロッパ諸国です。
イギリスからアフリカへは、銃などの武器、繊維製品、ラム酒などを送ってアフリカの有力な部族を支援していました。
そしてアフリカからアメリカへは黒い積み荷と揶揄された黒人奴隷たちが送られました。
最後にアメリカからイギリスなどに奴隷たちを働かせて作らせたたばこや綿花、砂糖が送られることとなるのです。
3つの国がこうやって手を組み行われた三角貿易は、人命を物と同列にあつかうことで成り立っていました。
黒人奴隷の扱い
三角貿易により、奴隷市場へと連れていかれる奴隷たちの扱いはそれは劣悪なものを極めました。
食事はまともなものが出ず、日々暴力による支配が続く日々で死ぬものも多かったと言います。
三角貿易の一角、ミドルパッセージが目的地につくまでの期間は天候によって左右されますが、おおよそ一か月~6か月。
運が悪ければかなりの間船に揺らされることとなります。
またこの間外に出るのは禁止されており、トイレにもいけず黒人たちの積み込まれている船倉は常に糞尿臭かったといいます。
このころの航海は歴史的に見て、多少ましになったとしても長距離の船旅はいまだ厳しいものがあり、多くの奴隷が奴隷市場のある陸地に着く前に亡くなりました。
船での黒人の処遇
奴隷船の劣悪な処遇
奴隷船に積み込まれる際黒人たちは出来るだけ隙間を小さくするようにすし詰めにされました。
男性の奴隷はお互いにかかとを鎖でつながれ、身動きができない様にされていました。
日中奴隷が歩き回れる自由はなく、船倉でわずかな身動きしか許されない日々が場合によっては半年続くのです。
そんな劣悪な環境のなか、体調を崩す者が出ると船から容赦なく海に奴隷を捨てられていきました。
船での食事
奴隷たちの食事は、貧相なものでした。
どんなに条件のいい奴隷船でも食事はまめやトウモロコシといった程度の食事しか与えられず、毎日食事がでるというわけでもありませんでした。
船に積む食料には限りがあり、奴隷だけが乗っているわけではないからです。
船乗りか奴隷であれば当然ながら船乗りの食事が優先され、場合によっては病気にかかった奴隷には豆一粒も与えないといった奴隷船もありました。
食事問題はたびたび奴隷の反乱の動機になっていましたが、奴隷船が無くなる最後の時までこの食事問題は解決することなく奴隷たちは飢餓状態で奴隷市場に卸されることとなりました。
船に乗る水夫たちと黒人
折檻を受ける奴隷
食事や待遇について不満を示した奴隷は、水夫によって折檻を受けました。
水夫たちや奴隷の関係は決して良いモノではなく、水夫たちは反抗的である、などの理由をつけてよく奴隷たちを虐待していました。
体調を崩したり、精神的に参ってしまった奴隷の場合でも容赦はなく日常的に暴力は振るわれ続けていました。
黒人女性と水夫
黒人奴隷の中にはもちろん、子供や女性がいます。
水夫たちの鬱憤を晴らすのは何も暴力だけではなく女子供に対して強姦や性的な暴行を加えることもありました。
「両方の人種にとって奴隷制度は、特に白人を堕落させる」という言葉があります。
女奴隷は、その美貌と身分の低さから奴隷主の目を盲目にさせるというものでしたが、その中には一時的な預かり先である水夫たちも当てはまります。
彼らは過酷な船旅の鬱憤を女子供に向けることをためらわず、その際に女子供がどれだけ苦痛を強いられるかは考慮しませんでした。
また、黒人女性たちが水夫から辱めを受けたとしても貿易商人たちは彼女たちが奔放であっただけであるとし聞く耳を持ちませんでした。
場合によっては黒人女性たちを激しく折檻することもあったようです。
船の反乱
船での反乱は奴隷船であるのならば一度は発生したことがあります。
食事や待遇への不満、故郷にたいする帰郷の一心で反乱を起こす奴隷たちは命がけでした。
数だけでいえば、水夫たちよりも奴隷たちの方が多いので反乱をいかに素早く抑えるかが肝になります。
首謀者をいち早く見つけ出し、ハッチを閉めて首謀者を銃殺することで反乱を素早く収められることになります。
首謀者の遺体は反乱を企てたという罪で、より残酷な形で処分されることとなり奴隷たちのみせしめに使われました。
船で暴れる黒人奴隷たち
なかには反乱を企てた者はそのものの心臓と肝臓をえぐり出され、他の奴隷に食べさせるということをしていたようです。 反乱を企てられても、損害が最小限に抑えられるように商人たちは奴隷に保険をかけることでもうけを出そうとしていました。
コロンブスと奴隷
コロンブスの足跡
歴史上白人で最初にアメリカという新大陸を発見した英雄コロンブス。
彼がそこで行ったのは決して素晴らしい偉業だけではありませんでした。
三角貿易、奴隷貿易、奴隷市場、これらの始まりにコロンブスは深く関わっており、彼が新大陸を見つけなければこれら3つは始まらなかったかもしれません。
コロンブスは、英雄という顔を持ちながらも奴隷商人という顔を持ち合わせていたのです。
出典: https://amaru.me
船旅の英雄コロンブス
コロンブスは新大陸への上陸を成し遂げたもので有名ですが、彼のその後行ったことというとあまり知られていません。
何故ならコロンブスは、その後アメリカ大陸でなしたことは奴隷商人としてインディアンを虐殺して奴隷化したという残酷な事実があるからです。
コロンブスはインディアンを見て、よい奴隷になると確信し彼ら部族を連れていた部下50人で制圧し奴隷化に成功しました。
コロンブスの貿易
三角貿易の一つ、ヨーロッパからアメリカへの航路を開いたコロンブスの所業はとにかく苛烈を極めました。
残虐にインディアンたちを追い詰め、彼らから人間性を失わせることを目的に虐殺を行いました。
インディアンたちは最初こそ報復をしようとしましたが、疫病とヨーロッパの軍事力に屈してしまいました。
コロンブスの奴隷たち
この後、インディアンたちは隷属の日々を強いられますが彼らが大きく人数を減らした原因としては間違いなくコロンブスたちが行った大虐殺が要因としてあげられるでしょう。
奴隷市場
三角貿易により奴隷貿易はますます発展し、奴隷市場は酷く盛り上がりました。
三角貿易でもたらされる奴隷から得られる砂糖やたばこ、綿花は値段がつけられないほどの黄金としてヨーロッパに搬出され、アフリカの黒人有力部族たちはヨーロッパから得る武器によりますます力を得ることができます。
奴隷貿易での成功
アメリカでの奴隷市場は、三角貿易によって成り立っていたといっても過言ではありません。
奴隷貿易は、複数の商品と引き換えにされるほどとてつもなく儲かったのです。
奴隷という商品
奴隷たちは奴隷市場につくと栄養価のあるものを食べさせられ、体に欠損がないか、体調が崩れていないかどうか確かめられてから奴隷市場に競りにかけられます。
値段はどちらかといえば若く男性の方が高かったようですが、場所や地域によって値段はかなり変わったようです。
奴隷は当時のアメリカを支えるのには必要不可欠な要素でした。
産出物をつくるためのプランテーション農業の運営には奴隷の手がいくつあっても足りませんでした。
大量の安価な奴隷の労働力は、購入に多少のコストがかかっても元がとれるほどアメリカには必要なものだったのです。
奴隷の値段
奴隷の値段は時代によって非常に不安定なものになりました。
1770年ころの奴隷の値段は平均150ドル程度、1780年代に入ると多少高騰して黒人少年奴隷が100~150ドル程度なのに対して女性は400~500ドルの値段。
男性であればそれ以上の値段で売れたといい、熟練した技術をもつ男性であれば1000ドル近くまで値段が跳ね上がったそうです。
1850年後半に入っていくと値段は更に上がっていき、たとえ非熟練者の黒人であっても1000ドルの値段がつけられ、白人との混血の肌の白い奴隷であればさらに高い値段で取引されることもありました。
奴隷と当時の黒人
もっとも、奴隷が高騰するなか奴隷ではない自由な黒人の人口というのもこのとき増え始めていました。
値段が高くつく黒人奴隷よりも、低賃金で雇える黒人の方がよいという風潮が生まれ初め、ここでようやっと奴隷解放への動きが始まりだします。
奴隷の一生
黒人奴隷は朝、昼、夜とプランターの栽培に駆り出されます。
その間の食事は船内よりはましですが、決して豊かではなく主にイモやバナナなどに軽い塩やとうがらしで味を付けたものだけになります。
奴隷が反乱を起こさないよう、普段の素行には厳しく監視の目がつけられ奴隷たちは外に気軽に出歩くことは許されませんでした。
ある程度歳を召していくと、奴隷たちの中でも転売にかけられるものがでてきます。
奴隷の需要が増しているなか必要以上に奴隷を抱え込むよりも金になるため、黒人奴隷の子供や体力の落ちてきた者などを売り飛ばし利益を売るということもあったようです。
また、老年にさしかかった奴隷は場合によっては召使奴隷としてむかえられることもありました。
奴隷の反乱
奴隷の反乱がおきると、初期の段階でうまく対処できない場合かなりの惨事になるようです。
上手くいっても逃亡者には賞金がかけられ、失敗すれば銃殺が待っていました。
奴隷解放宣言
悲惨な道を歩き続けていた奴隷たちですが、奴隷解放宣言を受け、現在は奴隷という身分は法的国家ではなかなかみかけなくなりました。
では、なぜ彼らは解放されることとなったのでしょうか。
サマセット事件
18世紀後半にてイギリスで歴史的な奴隷制度に関する事件が起こります。
ある一人の黒人奴隷が捨てられ、助けてくれた青年の手により自由の身になり職を得るのですが元主人がやってきて、黒人奴隷を捕まえて奴隷市場に売り飛ばそうとしたのです。
これに憤った奴隷を助けた青年は元主人を訴え、元主人は黒人奴隷という財産を奪われたと青年を訴えました。
「奴隷は人間か財産か」というこの問題に、当時は青年の方が不利とみられていたのですが、時の裁判所は青年の方が正しいと審判を下したのです。
この判決により、多くの奴隷たちが奴隷制度から解放されることとなりました。
ヨーロッパの奴隷解放運動
19世紀になり、イギリスで産業革命が本格化すると同時にこの奴隷制度に対して強い批判があつまるようになりました。
結果、1807年にイギリスが、1817年にフランス、1820年にスペインが奴隷制度を廃止することになりました。
決して彼らが自らの行いの罪深さに気付いた、悔い改めたというわけではありません。
産業革命により蒸気機関が発明されたことにより、生産性が飛躍的に向上したことによって生産過多になった商品を売りつける顧客が必要だったのです。
富裕層だけでは消費が追い付かないこともあり、その新たな顧客に選ばれたのは低所得の労働階級でした。
つまり、奴隷を解放することで労働階級者を増やし、上手く経済が回るようにするために奴隷たちは解放されたのです。
金に翻弄され続ける
彼らを縛り続けたのは、奴隷制度だけではなくこういった身勝手な人の悪意だったのでしょう。
アメリカの奴隷解放宣言
リンカーンの奴隷解放宣言
西暦1863年1月1日の時点で、その人民が合衆国に対する反逆状態にあるいずれかの州もしくは州の指定された地域において、奴隷とされている すべての者は、同日をもって、そして永遠に、自由の身となる。陸海軍当局を含む合衆国の行政府は、かかる人々の自由を認め、これを維持する。そして、かかる人々が、あるいはそのうちの誰かが、真の自由を得るために..行ういかなる活動についても、これを弾圧する行為を一切行わない
奴隷制度が根深く染みついていたアメリカは、産業革命がおこってもヨーロッパほど円滑に奴隷解放ができたわけではありません。
奴隷解放を謳い、万民平等の精神を掲げた北部アメリカと、奴隷に頼った生産を行い、白人至上主義を固めた南部アメリカで強い対立が起こり、南北戦争がはじまります。
あのリンカーンが宣言した「奴隷解放宣言」により黒人奴隷の解放が行われるのは、宣言がされたのはこの戦争が始まって2年、しかし実現されたのは、北軍が勝利しこの内戦が収束した後、つまり3年弱。
南部の奴隷たちが解放がされたのは戦争が始まって5年後の事でした。
まとめ
いかがだったでしょうか。
黒人たちの奴隷の歴史から続く差別は、現在もまだ苛烈な形で残っています。
ですが、この現代において、彼らが不当に自由を奪われず拘束されず、幸せになることを認められていることにひどく安堵する想いです。
こういったことを繰り返さないために、我々も2度と奴隷を生じさせない社会を目指すべきなのでしょう。