2021年05月20日公開
2021年05月20日更新
岩手県「普代村」は津波被害ゼロ!村長の強い意志で作られた水門とは?
未曾有の甚大な地震、津波、原発事故被害を出した東日本大震災、その中で大津波の直撃を受けたにも関わらず浸水被害が全くなかった村が存在します。それが岩手県「普代村」です。今回はこの岩手県「普代村」を津波から守った防潮堤、普代水門についてご紹介します!
目次
東日本による甚大な被害
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2011年3月11日に起こった東北地方を始めとする東日本で起こった未曾有の大災害である東日本大震災は、死者1万5000人以上、現在でも行方不明者が2000人以上おり、建物の倒壊、半倒壊は4万戸を超えています。直接的な被害総額は16~23兆円と計算されており、これは自然災害による被害総額の中では世界一の記録だそうです。
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そんな甚大な被害を受けた東日本大震災の中でも特に地震や津波による被害を受けた岩手県の中にあって、津波被害をゼロに抑えた村が存在します。それが岩手県の普代村です。この普代村を津波被害から救ったのは防潮堤、普代水門でした。今回は普代村を津波被害から救った防潮堤と普代水門についてご紹介します。
岩手県普代村とは
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岩手県普代村とは、岩手県の太平洋側に面した村で、2015年現在で人口約2,800人の小さな村です。村が太平洋に面しており普代川を中心として地形が形成されているため、漁港が6つもあり漁業が盛んです。
普代村を救った普代水門
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東日本大震災では、普代村に設置されていた普代水門および防潮堤の効果で、2011年3月30日時点で死亡者はゼロ、行方不明者が1人、また建物への浸水被害も報告されなかったと言います。普代村は普代川を中心に地形が形成されており、過去明治時代に起こった大津波では、死亡者と行方不明者を合わせて1000人以上の被害が出たのだそうです。
大きな津波被害後に普代村に水門を設置
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普代村では、明治時代に起こった大きな津波被害の教訓を受けて1984年に普代水門を設置しました。水門の高さは15.5m、長さは200mにも及んだため、当時非常に高額な資金をかけて設置されたそうです。津波が押し寄せてきた際は、あまりの高さだったため、水門を超えてしまったそうなのですが、水門を超えた後200mほど川を逆流して津波は停止、川にかかっていた橋が被害を受けましたが、民家などには影響はでなかったそうです。
防潮堤も水門の設置前に設置されていた
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また、普代村の太田名部という地区では防潮堤が津波に対して大きな効果を発揮したと言います。この防潮堤は高さが水門と同様の15.5m、長さは約130mです。普代水門が設置される1984年よりも前の1970年に設置されていました。太田名部を襲った津波の高さは14mだったため、防潮堤を超えることなく、集落が被害を受けることもありませんでした。
普代村の漁業設備には甚大な被害
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防潮堤や水門によって集落への被害が抑えられた一方で、防潮堤や水門の前に設置されていた水産加工場など漁業施設や設備は大きな被害を免れることができませんでした。また、行方不明とされている村の1人の方は、所有する船の被害を心配して海岸へ確認をしに行った際に被害に巻き込まれた可能性があるとされています。
地震直後に普代村の水門に向かったヒーロー
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普代村を救った普代水門は、実は地震直後に自動開閉装置が故障を起こしていました。そのため、消防士の立臼さんが手動で水門を閉めなければ被害はもっと大きなものになっていたのです。
立臼さんは、消防署の分署に勤務している副分署長で、当時のことを「水門がもう少し低ければ被害はもっと大きくなっていただろう」と語っています。
普代村の水門を手動で閉鎖
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東日本大震災の地震が起こった直後、立臼さんは水門ゲートの自動開閉のための装置が故障したことを知り、普代水門までの600mを消防車で走らせました。自動開閉装置が故障してしまうと、普代水門に設置されている手動ボタンで水門を閉鎖させなければいけないからです。勿論津波への危機感からの行動でしたが、ここまで大きな津波になることは予想していなかったようです。
普代村は間一髪で津波を回避
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普代水門に到着した立臼さんは無事に水門を閉鎖させることに成功しました。安心した立臼さんは消防車に戻り避難しようとしました。その時、後ろから何かが大きく割れるような音がたくさん聞こえました。それは、津波が防潮林をなぎ倒しながら普代川を逆流してくる音でした。立臼さんは消防車のアクセルを大きく踏み込み、何とか被害から逃れることができたそうです。
他の地域での防潮堤は機能不全に
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宮古市田老地区やその他の地区でも太平洋に面している地域では10mにも及ぶ防潮堤が設置されていました。しかし10mの防潮堤を始め各地の水防施設や設備を津波は超えてしまい、破損したことによって機能不全に追い込まれて甚大な被害が発生しました。その中で普代水門や太田名部防潮堤はその機能を発揮することのできた数少ない水防施設でした。
ただ、今回の津波よりも高い津波や津波が押し寄せる時間がもっと長ければ耐えられずに甚大な被害が出ていた可能性もあったと指摘されています。
村を救った普代村の村長の働き
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この東北一の高さを誇る水門と防潮堤は、以前村長を務めていた和村幸得さんが計画した事業によって作られたものでした。和村さんは、昭和22年から40年もの長い間村長を務め上げ、自身が津波による被害を経験していたことにより、防災に対する意識が非常に高い人物だったといいます。
普代村の村長和村幸得とは
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和村幸得さんは、1909年生まれで岩手県普代村の出身です。
慶應義塾大学に進学するほど聡明な方でしたが、体を壊してしまい、大学を中途退学して普代村に戻ってきたそうです。和村さんは1933年に犠牲者が約600人にも上る昭和三陸地震を経験しています。和村村長が回想録として発表した文書には「被害が出た後に大人たちが死体を掘り出している姿を見て言葉も出なかった」と語っています。
普代村の村長に
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写真はイメージです。
普代村に戻ってきた和村さんは普代村の役場に勤め、1947年には村長を決める選挙で当選し村長となりました。村長としては、水門や防潮堤工事の事業を起こした他にも、三陸鉄道の開通祝いとして『おれの北緯四十度』という曲の製作を企画しています。和村さんは村長の任期を40年という長期間勤め上げた後1987年に退任、1997年に88歳で亡くなっています。
過去を教訓に水門と防潮堤を建設
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普代村では、始めにも述べているように、和村村長が被害を経験した昭和三陸地震よりも40年近く前に明治三陸地震の津波被害により死者と行方不明者を合わせて1000人以上の被害者が出ています。和村村長は、これら二度の津波被害を二度と出さないようにと、対策として防潮堤と水門の建設を進めました。
水門と防潮堤の建設の費用は36億円
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和村村長が建設しようとした防潮堤と水門は現在でも東北で一番の高さを誇っています。しかし、その高さ故に建設の費用も防潮堤が約6000万、水門が約35億6000万、合わせて36億円を超える巨額の費用がかかってしまいました。都市部での計画ならいざ知らず、人口が数千人の村にとってこの費用ととても大きな額でした。
危機意識の高さから水門等の高さを設定
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巨額の費用がかかる防潮堤と水門の建設には当然、反対する人が出てきたそうです。「建設費用は別の目的に使うべき」「こんな高さは本当に必要なのか?」「もっと高さを低くして建設してもいいのでは?」など様々な意見が出ました。
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しかし、和村村長は絶対に15.5mという高さを譲らなかったと言います。それは、「村には明治の地震で津波が15m来たと、昔から言い伝えられていたから」だそうです。もう一度15mの津波が来ればまた被害が出てしまう、という震災経験者ならではの危機感があったのではないでしょうか。
水門と防潮堤は東日本大震災でその効果を発揮
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土地を提供する地主の中にはどうやっても説得できない人もいましたが、和村村長は「二度あることは三度あってはいかん」と15.5mの高さを絶対に譲らず、県などを説得して土地収用を利用し事業を強行させました。土地収用とは、公共の利益になるような施設を建設する際に、土地を提供する地主に補償を与えることで、土地を提供してもらうことができる法律のことです。
そして建設された防潮堤と水門の効果は東日本大震災で発揮され、日本のみならず海外メディアでも取り上げられるほどの注目を集めることとなりました。
二人のヒーローが村を救った
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和村村長は、村長退任のあいさつで「確信を持って始めた仕事は反対があっても説得してやり遂げてください。最後には理解してもらえます。」と言ったそうです。普代村は二人のヒーローの手によって救われました。その二人のヒーローである立臼さんと和村村長は、二人ともが自然災害に対して高い危機意識を持っていたことで村を救うことができました。
小さな地震や津波に慣れていると、どうせ次も大したことはないだろうと人間は考えてしまいます。しかし、二人の様に常に危機意識を持ち、災害に備えることで未来は大きく変わっていくのかもしれません。